Light & Darkness
Sequel 7−1
数時間前のガイデル城は、帰還したワイバーンたちのざわめきで騒がしかったが、今は静寂を漂わせ、ひっそりと月明かりに照らされている。ガイデル城からは城下を染める無数の明かりだけが見え、町の喧騒は届いてこない。 その静寂と夜の闇を楽しむように、城の西側最高位置にある一室では、窓辺に立った男が外の世界を眺めていた。闇に塗れれば漆黒色に変わる髪も、ささやかな光を浴びてわずかに紫の艶を帯びる。そして、彼の暗い紫の視線は、遠い西の地を見つめていた。 「遅くなりました」 静かだった広い室内にノックの音が響き、次いで姿を現したのは、赤い巻き毛の女と鼻の頭に傷を持つ若い男。二人は肩を並べて入室し、真っ直ぐに立って主(あるじ)の言葉を待った。 「ご苦労様。ロネッサ、ジン」 振り向いて瞳を細めた主に、傷の男――ジンはやる気のない欠伸を返したが、女は深く頭を垂れた。 折った腰を正しながら、女――ロネッサは、部屋の片隅に置かれたベッドに人影を見つけて瞳を凝らした。 横たえられているのは、触れるのもためらうほど儚げな娘。寝息も立てずに静かに眠る娘は、わずかに上下する胸元だけで生きているのか死んでいるのか判断するしかない。 「……よろしいのですか?」 主の部屋に女がいるだけで気に入らないのか、ロネッサが「繋がなくてもいいのか」という意味を込めていぶかしげに問いかけた。 だが、返って来たのは薄い笑みだった。 「所詮は飛べない鳥。そんなに気にする事もないでしょう」 片翼しか持たない鳥は、空を飛んで逃げる事などできないのだから、繋ごうが閉じ込めようが関係ない。 鼻で軽く笑いながら、カイザーは窓辺から移動し、中央に置かれたソファに横たわった。 「ところで、頼んでいた物は手に入れてきたのですか?」 ダークパープルの瞳が、二人の顔をちらと見上げる。 ロネッサは思い当たらないと隣に立つジンに視線を向けるが、当の本人は至って呑気に欠伸をひとつ。 「ジン」 「も、もちろんだよ」 低く、威嚇するように名を呼ぶと、ジンは焦って我に返った。怒られるとでも思ったのだろう。 幾分怪しがっているのか、カイザーが眉をひそめた。 「では渡してください」 入手するよう頼んでおいた魔猟銃の設計図を受け取ろうと、カイザーが手を出したが、渡されたのは紙でも書籍でもなく、細長い鍵だった。 どういう事かと見上げると、しまりのない笑顔が返って来た。 「地下に繋いでおいた」 「は?」 「だから、設計図を地下に繋いで来たの」 カイザーは額に手を当て、深い溜め息を吐いた。 この男は、何というか、非常に考えが幼い。ゆえに時々意味不明な発言をするのだ。馬鹿にされているのかと思うが、本人は至って真面目らしい。 「ジン、訳のわからないことを言うのはおよし。それは、技師を繋いできたって意味でしょう?」 呆れ果てた主を気遣い、ロネッサが代わりに問い正した。彼女は腕組みをし、相当イラついている様子。あまり困らせるなと言いたいのだ。 「あ、そう。技師も繋いで来たの」 「「も?」」 ふたつの声が重なり、鋭い視線がジンを凝視する。 怒った顔をふたつも向けられ、ジンは怖がって後退りした。 「だって……設計したのは自分だっていうから、連れてきたんだよ」 「「だから、誰を!」」 「女王様だよー」 その答えにカイザーはぴたりと動きを止めた。見開かれた瞳には、驚愕という感情が浮かんでいた。 聞き違ったのだと思い、もう一度答えを要求したが、期待したような言葉は返って来なかった。 「だからね、アスライーゼの女王様を連れてきて、地下に繋いでおいたの!」 乗り出しかけた身をソファに深く預け、カイザーは再び額に手を当てると、瞼を閉じた。 なぜ、なぜ連れて来た? もう会わないと、あの夜に誓ったのに。 そのまましばらく無言で、身動きひとつ取らない主に、ジンとロネッサはお怒りを買ったのかと不安感を抱いていた。 「一応聞きますが、何故連れて来たのですか? 危害を加えるなとは言いましたが、連れて来いとは言ってません」 額に手を当てたまま、瞳を閉じたまま、カイザーが問いかけた。表情が見えないから、怒っているのか、呆れているのか、声色だけでは判断できない。 魔猟銃の設計をしたのは自分だからと、技師の代わりに自分を連れて行くよう願ったのは、他でもない女王自身だと。そしてオルフィスの秘宝【アペイロン】の在り処も知っていると言っていたから連れて来た、とジンは嘘偽りなく説明した。というよりも、彼には“嘘を吐く”という技術が備わっていないだけだが。 「あの人オモシロイよね。俺、ああいう女が好み」 アスライーゼ城でのやり取りを思い出して楽しげに言った途端に鋭く睨まれ、ジンは大慌てで口を塞いだ。睨んだのは、暗い紫の瞳。 カイザーは身体を起こし、肘掛にもたれて足を組んだ。 「わかりました。連れて来てしまったものは仕方ない。けれど繋いである地下牢には近づかないで下さい。いいですね?」 ぎろりと睨まれ、ジンとロネッサはぎくりとする。彼がああいう瞳をする時は本気だ。もし近づこうものならば、例え信頼した部下でも、容赦ないはず。 二人は心拍音を上げつつ、無言で頷くと、そそくさと室内から立ち去った。 室内にひとり残されたカイザーは、ベッドに横たわる娘に視線だけを向けた。 魔法をかけられてすやすやと眠る姫君の、目覚めの時間はまだ遠い。 ガイデル城の地下牢は、さめざめとしたカビ臭い空気が滞っており、どこからともなく響いてくる水滴の音が、不気味な雰囲気を漂わす。 一体どれだけの数の人間が、この場所で最期の時を迎えたのか。どんな最期を迎えたのか。所詮見ていた者はいないし、知っている者もいない。 そんな寂しい地下牢に、麗しの女王が繋がれていた。 両手首と首に、鎖でつながれた枷(かせ)を施され、灰色をした冷たい壁際に拘束されている。足は自由。腕は肘が折れるのでそんなに疲れないが、ほんのわずかな範囲しか前後できず、すぐに鎖が突っ張ってしまう。 一国の女王に対し、なんともひどい扱いだが、彼女はドラゴーネの竜。変身されたら容易い拘束など全く意味がない。首に枷をされているのは、そういった理由なのだろう。 「……さて、どうしたものかね」 囚われのフェリーシアは、何の危機感も持たずにひとりごちた。声色は呑気だ。 連れて来られたのは、南方の国・ガイデル。どうやらダークネスのパトロンはこの国らしい。確か国王は五十代くらいで、気も器も小さそうな男だったような。 フェリーシアは、かつて会った事があるのか無いのか、微妙な記憶を辿ってみたが、結局思い出せなかった。あの男の誘いに乗るような王だ。所詮大した相手でもなかろう。 潜入に成功はしたものの、ここからどう動こうか。手械だけなら何とでもなったが、首にまでされるとさすがに竜にはなれない。変身した途端に首が絞まって窒息死だ。 けれども、そう呑気に囚われているわけにもいかない。危害が加わる前にレインを探さなくては。 そんなこんなで、誰もいない寂しい牢獄でひとりごちたのである。 しかし特に良い案が浮かばなかったので、フェリーシアはとりあえず体力の温存を理由に寝る事を決め、静かに瞳をつぶっていた。 それから間もなく、シンとしていた地下牢内に足音が響いた。遠く聞こえていた音は徐々に近づいてくる。 瞳を閉じたまま、フェリーシアはじっと耳をそばだて、足音の主の到着を待った。 やがて鈍い音と共に牢の扉が開かれ、野太い男の声が響く。 「ほう、アスライーゼの王は小生意気で勝気だと聞き及んでどんな小娘かと思っていたが……なかなか良い女ではないか」 聞き覚えのある声を期待したのだが、全く違ったのでフェリーシアは不満を抱きながらも瞼を上げた。 目前に立っていたのは黒い出で立ちの男ではなく、がっかりするような中年小太りの男――この男がガイデル王だ。 フェリーシアは思わず顔をしかめたが、ガイデル王は薄ら笑いを浮かべて近づいてきた。女性であれば不快感を抱くような卑しい笑みだ。 「国王がこのように簡単に囚われるようでは、最強と呼ばれるアスライーゼの兵力も高が知れたものだ」 フェリーシアの前で行ったり来たりを繰り返しながら、ガイデル王が嫌味を放つ。が、視線は定まらず、どこか焦った様子でそわそわと落ち着きが無く、明らかに挙動不審。口にした嫌味も上の空といった風だ。 「無駄に怪我人を出したくないので、手を出すなと命じたまで。ウチの兵達は忠実なのでね」 フェリーシアは鼻で笑った。 囚われの身にも関わらず、彼女は余裕の態度を崩さない。こういう時、気持ちで押されたら負けであるが、彼女の場合は本当に余裕なのだろう。 ガイデル王は何か反撃しようと立ち止まり、フェリーシアに面と向かった。が、その場で立ち尽くし、息を呑んだ。 余裕を浮かべるエメラルドの眼差し、挑戦的な笑み、堂々とした態度、そして人間離れした美しさ。白き竜の幻影が背後に浮かび上がるような、強くたくましい美。 艶のある白い肌だけでも吸い寄せられる魅力を発しているのに、加えてその美しい女が枷を施されて繋がれているというのは、何とも言い難い興奮を誘う。 内に芽生えた欲を抑え切れなくなったのか、生唾を呑み込み、理性も威厳も誇りも投げ捨て、中年王は女の身体に絡みついた。 「いまだ独身だというではないか。ならば私の愛人にならぬか?」 背に回された手が妙な手つきで腰を撫で、荒い息遣いが首筋を掠める。 まとわりついてくる暑苦しさに嫌悪感を抱くと共に、フェリーシアの頭には一気に血が昇った。 ――ふざけんな!! 不自由の身だからといって、やりたい放題させてやるほどお人好しでもなければ、か弱い乙女でもなく、また諦めの良い人間でもない。このまま暑苦しさに身を委ねて事に及ぶなんていうのは真っ平ゴメンだ。 【ドラゴーネ】は元来好戦的な種族――つまりはどの獣人族よりも血の気が多い。ゆえに興奮すると怒りが頂点まで達するスピードが早い。 フェリーシアは瞳を赤く染め、息を荒げてまとわりつく勘違い中年王に食いついてやろうと、首元に向けて牙を剥いた。相手が一国の王だとか、このまま行けば食い殺すかも、などという考えは、もはや彼女には存在しなかった。 その時だった。 「一体誰の許可を得て、そのような行為に及んでいるのですか?」 低く暗い声が、二人きりだったはずの牢に響き渡る。途端にガイデル王は身を強張らせ、そして恐る恐る振り返ると、恐怖という名の感情を宿した瞳は、天井に足をつけて蝙蝠(こうもり)のように逆さまにぶら下がる男の姿を映し出した。 折りたたんだ漆黒の翼の合間から、ダークパープルの瞳が凝視していた。まるで竜の口から吐き出されるアイスブレスのごとく、一瞬にして全身を凝固させる、怒りと蔑みと脅しを込めて。 「あなたには本当に失望させられました。後できついお仕置きを与えねばなりませんね」 ぎろりと睨まれ、ガイデル王は小さな悲鳴を上げて腰を抜かした。地べたに尻をついたまま、カタカタを身を震わせる様は、何とも情けない。 「その方に触れる事は誰であろうと許しません。……行きなさい」 吐き捨てるような威嚇に後押しされ、中年王は一目散に逃げ去っていった。が、暗い紫の瞳は、逃げてゆく男に見向きもしない。 天井にぶら下がっていたカイザーは、くるりと優雅に宙で回転してから地に足を付いた。 俯いていた顔がゆっくりと前を向き、ダークパープルの瞳が、薄暗い地下牢の中でもはっきりと浮かび上がる鮮やかなエメラルドを捉える。 何者も邪魔できない沈黙と、真っ直ぐに向け合った眼差し。 数歩進めば手が触れる程度の距離も、三年という歳月を経て再会した二人にとっては近いのか、あるいは遠いのかもしれない。靴底が床を鳴らし、一歩、また一歩と黒い男が近づく。 気付けば闇ばかりを映してきた瞳が、今も変わらず色あせぬ美しさを見つめる。何者にも惑わされない、屈する事のない強い心を映す瞳は、あの頃のように、まるで自分の言葉を、想いを試すように、心を見透かすように凝視する。 ――貴女に手をかけるくらいなら、この身を滅してしまえばいい。 そうやって、何度心に言い聞かせてきたか。 目前で立ち止まったカイザーは、静かにフェリーシアの足元にひざまずき、薄いドレスの裾を手に取り口付けた。女王に忠誠を誓う騎士のように、美しき女神を崇めるように。 「……もう会うことはないと思っていたのに」 項垂れるダークパープルの頭を、フェリーシアが見下ろした。 「カイザー」 己の名を呼ぶ懐かしき声に、俯いた漆黒の男は満たされて微笑んだ。 ――貴女に呼ばれる名は、どの声よりも心地良い。 「お前に聞きたいことがある」 フェリーシアの視線が下から上へと移る。 ひざまずいていた男は立ち上がり、その瞳が麗しの女王を見下ろしていた。 カイザーは黄金の巻き髪を手に取り、唇を寄せた。 「貴女のためならば、どんな事でもお答えしましょう」 嘘偽りなく、と付け加え、ダークパープルの瞳が上目遣いで見上げてくると、フェリーシアは一呼吸置いて口を開き、そして問うた。 なぜ、ドラゴーネを滅ぼしたのか、と。 レインをさらい、ブリューナクを奪った理由は、聞かなくても十分理解しているし、そのついでにアスライーゼが襲撃されたという事もわかっている。 ただ彼女は知りたかった。カイザーは、なぜドラゴーネを丸ごと潰す気になったのか、ずっと知りたいと思っていた。 ゆっくりと折った腰を正し、カイザーは言葉を返した。 「……貴女が、それを問うのですか?」 表情は寂しげであった。 |