× このお話は本編とは切り離してお楽しみください ×




 ある日のこと。
 チョビヒゲ……もとい国王陛下に呼び出されたイグネアは、陛下の執務室にやって来ていた。何でも、ひいきにしている行商人から珍しい菓子を買ったとのことで、それをくれるというのだ。
「見よイグネア、これが珍しい菓子だ。美味そうだろう」
 テーブルには蓋を開けた小箱が置かれていた。中にはちんまりと茶色のものが陳列している。
「なんですか、これ?」
「“チョコレート”という西の菓子らしいぞ。しかもな、これには不思議な魔術が施されておって、食した者はたちまち異性に恋をしてしまうらしい」
「は?」
 思い切り渋い顔で見上げると、案の定チョビヒゲはものすごく楽しそうな顔で瞳を輝かせていた。何でこう、この人はこういう不思議系に弱いのだろうか。そんな馬鹿な話があるわけないだろうが。
「ということで、さあ食べようではないか」
「ええっ? なぜ私も食べねばならないのですか?」
「ひとりで食べるのは怖いではないか」
 チョビヒゲはほんのり恥ずかしそうに俯いた。だったらそんなもの買うんじゃない。というか、イイ歳してなんだその乙女みたいな表情は。
「まあまあ、これは国王命令だ。食べなさい」
「くっ……」
 ここぞとばかりに権力を振りかざしおって、とイグネアはチョビヒゲを恨めし気に見たが、やつは一向に気にしていない。こちらは居候の身だし、命令されたからには仕方がない。イグネアは小箱からチョコレートを一粒つまみ、チョビヒゲと同時に口に運んだ。
「うっ……あ、甘い」
 喉が焼け付くように甘く、濃厚な味と香が口内に広がった。濃い味の食べ物が苦手なイグネアは、遠慮もせずに表情をゆがめた。一方のチョビヒゲは何も感じないのか、満足そうに美味そうに食っているが。
 ふと、そこで考えた。どうせ嘘だとは思うが、もしもこのチョコレート? に魔術が施されていて、たちまち異性に恋をしてしまうとしたら……?
 ぎくりとしてイグネアは顔をあげた。テーブルを挟んだ向こう側で、チョビヒゲがぴたりと動きを止め、じっとこちらを見ているではないか!
 まずい。このままでは、互いが食してから初めて顔を会わせる異性になってしまう。いくらなんでも、おっさんに恋するのだけは勘弁して欲しい。
 ……というイグネアの心配をよそに。
「うーむ、別になんともないな」
「そ、そうですね」
 というか、元々そんな馬鹿な話があるわけないのだが。
 数分経っても何の異変も起こらず、チョビヒゲは大変がっかりした表情で落ち込んでいた。一体何を期待していたのだろうか、このおっさんは。

 しかし。
 チョコレートの魔術(?)は、すぐに脅威を発揮したのだ。




 一仕事終えて自室へと戻る途中、陛下の執務室付近に見慣れた人物の後姿を見つけ、ヒュドールは瞳を疑った。ここはこいつがふらふらと出歩くような場所ではない。また迷ったのか、仕方のない小娘だ……などと若干不満げな表情を浮かべて歩み寄る。
「おい、こんな所で何してる」
 肩を掴むと、ゆるゆると歩いていたイグネアは立ち止まり、そしてゆっくりと振り返った。そこまではいつもと何ら変わらない表情だったのだが……異変はすぐさま起きた。
 ほんの少し見つめていたかと思ったら、眼鏡の奥で真紅の瞳がぱちりと瞬き、かと思ったらふっと力なく、しかも妙に切なげに細められた。
「……ヒュドール、おぬしは本当に麗しいな」
「はあっ?!」
 いきなり何を言い出すかと思えば。絶対に有り得ないだろう言葉を吐かれ、ヒュドールは頓狂な声を上げた。だが言葉だけに留まらず、イグネアはヒュドールの顔をまじまじと見つめて指を組み合わせ、ほうっと憂いの溜め息まで吐いた。心なしか頬まで赤い。まるで、いつもその辺をうろついている娘共が向けてくるような視線である。
(わし)は、おぬしのことが好きだ」
「なっ……!」
 ヒュドールがとんでもなく驚いたのは言うまでもない。青碧の瞳を見開き、口を開けたまま一瞬固まっていた。
「ちょ、ちょっと待て。いきなり何を言ってる」
 ヒュドールはかなり動揺していた。意図せず声が上ずっている。今までどんなにそんな雰囲気になっても気づきもしなかったくせに、なんでこんな事を言っているのだろうかコイツは。熱でもあるんじゃないか? と疑ったが、そういえばこいつは病気知らずだと思い出した。
(わし)はこんなに好きなのに、おぬしは私のことが嫌いなのか?」
「うっ」
 いつになくヒュドールは怯んだ。嫌いなわけないだろう、というか好きだと言われてむしろ嬉しいはずだ。が、これまでそんな素振りを微塵も見せず、長期戦覚悟で挑んでいたのだから、いきなりこういう展開になるとかえって焦る。
 今にも泣き出しそうな目でじっと見つめてくるため、どうしていいかわからずにヒュドールは後退りしたが、それでもイグネアは諦めない。捨てられた子犬のそれに似た、切なげな視線を向けてくるではないか。
 ああ、もう自棄だ。
「す、好きに決まってるだろう」
「本当か? 嬉しい!」
「…………!!」
 ぱあっと明るい表情を浮かべ、イグネアはなんと抱きついてきた。あっさりと胸に飛び込まれ、ヒュドールはあまりの展開に硬直する事しか出来なかった。なんだこのバカップルみたいな状況は。というか、こいつのこの変貌振りは一体どういう事なんだ。何かがおかしい。
 こっそりうかがってみると、イグネアは大変嬉しそうにしがみ付いている。なんというか……別に嫌な感じはしない。いやいや、むしろちょっと嬉しいかも知れない。困惑しながらも、所在なさげに上げっぱなしにしていた腕を、そっとイグネアの背に回そうとした時だった。
「公共の場で何をしておる」
 不愉快気で威圧的な声が響くと、ヒュドールは声の主をかえりみた。青碧の視線の先には、声に乗せた感情をそのままそっくり表情に出したリーフが立っていた。リーフはヒュドールとイグネアを交互に見遣りながら、至極不機嫌そうな顔をしている。
 それまで上機嫌にヒュドールに抱きついていたイグネアは、リーフと視線が合うと、再びあのうっとり表情を浮かべ、なんと今度はリーフに歩み寄っていった。
「……リーフ、おぬしはいつ見ても愛らしくて賢そうだな。(わし)はおぬしのことが好きだ」
 いきなりの告白に、リーフは最初言葉もなく驚いていた。が、すぐにあのいつもの不敵な表情を浮かべ、イグネアを壁際まで追いやっていた。
「お主もようやく(わし)の魅力に気付いたか。全く世話の焼ける女だ」
 ふっと意地悪げに笑ったかと思うと、深緑の瞳には熱っぽい、魅惑の光が宿った。
「そんなに儂のことが好きか?」
「ああ、大好きだ!」
「そうか、ならば仕方が無い。お主の気持ちに応えてやろう」
 イグネアの細い顎に手を添え、リーフはそっと顔を近づけた。

 が。

「ちょっと待て!」
 怒声が響き、リーフはぴたりと動きを止めた。やれやれと息を吐いて振り返る。
「何だ、お主まだ居たのか」
 ヒュドールがムカッとしたらしいのは、表情を見れば明らかだった。青碧と深緑の瞳が互いに忌々しげな視線を向け、見えない火花が激しく散りまくっていた。
 と、それはどうでもいいとして。
 ヒュドールはイグネアに向き直り、イラッとした視線で見下ろした。当の本人は何のことやらという感じで小首を傾げてへらっと笑っている。
「おい、アンタは俺のことが好きなんだろう?」
「ああ、大好きだぞ」
「ではコイツは何なんだ?」
 指差した途端、リーフが思い切り不愉快気な顔をしたが、無視だ。
「リーフも大好きだ」
「……それはおかしいだろう」
「なぜだ? 二人とも大好きだ。それではダメなのか?」
 不満げに首をかしげたイグネアを見て、これはどうも様子がおかしいと改めて気付き、ヒュドールとリーフは顔を見合わせた。
 これまでの経緯をさらってみると、どうもイグネアは顔を見た相手、不特定多数に「好きだ」と言っているように思える。その証拠に、先程衛兵が通りかかった際同じように「大好きだ」と言って困惑させていたからだ。本気にされるとまずいため、ヒュドールが一睨みしてやると恐れを成して逃げて行ったが。
「お前もおかしいと思うか?」
「明らかにな。第一、この女がこのように軽々しい事を言うはずなかろう」
「確かに……」
「また何かやらかしたに違いないのう」
 リーフが呆れ返った溜め息を吐くと、イグネアはそんな姿も眩しいとばかりにうっとりと魅入っていた。改めて見ると、違和感があってどうも変な感じだ。
 そんなイグネアの姿を見ているうち、ヒュドールははっと気付いて声を上げた。何事かと隣に立つリーフが見上げる。
「どうかしたのか?」
「……この状態で絶対に会わせたくない奴がいた」
 “あいつ”の前で「好きだ」なんて言わせたら、それこそどうなるか分かったもんじゃない。これは早急に対処しなければ危険だ。誰と言わずともリーフも同じことを考えたようで、珍しく二人は頷き合っていた。


 外をうろつかせると誰に何を言うかわかったものではなく、非常に危険だ。ヒュドールは自分の部屋までイグネアを連れて帰り、絶対に外に出るなと強く言い聞かせていた。彼女の部屋に置いておくと、これまた誰が来るかわからないからだ。
「いいか、俺以外の奴が来ても絶対に扉を開けるなよ」
「なぜだ?」
「いいから言う事を聞け。俺が戻ってくるまで大人しく待っていろ」
「……おぬしがそう言うなら」
 しゅんとして俯いてしまったイグネアを見て、ヒュドールはうっと怯んだ。先程から調子が狂いっ放しだ。優しくすると嬉しそうな顔をするし、強く言うとこうしてしおれてしまう。もう少し普通の娘のように出来ないだろうかと思っていたが、実際に普通になるとどうにもこうにもやり辛くて困る。
 と、そんな事を考えている場合ではない。さっさとこの変貌の原因を突き止めなくては。ヒュドールは何も言わずに立ち去ろうとしたが、イグネアが服の袖を掴んで引きとめたため、踏み出した足を止めて振り返った。
「早く戻ってきておくれ」
「くっ……!」
 これだから“惚れた弱み”って奴は!
 上目遣いで願われ、ヒュドールは大いにたじろいだ。そうして「ちょっとこのままでもいいかもなあ」などという馬鹿げた気持ちを抱きつつ、しかし元に戻さないとおかしくなりそうだという現実的な考えも抱きつつ、その狭間で格闘しながら部屋を出て行った。



 「陛下から珍しい菓子をもらった」というイグネアの言葉を受け、ヒュドールとリーフがチョビヒゲの元へと詰め寄っている頃。
 一人取り残されてしょぼんとしているイグネアの元へ、二人が最も危険視していた男がやって来てしまっていた。絶対に開けるなと言われたにも関わらず、イグネアはそんなこともすっかり忘れて扉を開けてしまったのだ。
「あれ、何で君がここにいるの?」
 扉の向こうに立っていたのはリヒトだった。どうやらヒュドールに用があったらしいのだが、代わりにイグネアがいる事を不思議に思ったようである。
 そして案の定。イグネアはリヒトの顔をじっと見上げ、うっとりして瞬きを繰り返していた。
「ん? 俺の顔に何かついてる? それともあんまり素敵だから見惚れちゃったかな?」
 さすがは誰もが認めるナルシスト、どんなに見つめられても怯みもしない。それどころかいつものように都合よく勘違いしている。
「はい、あなたは本当に素敵ですね。私、あなたのことが大好きです」
 イグネアの言葉にリヒトは驚くでもなく、ただじっと見つめ返していた。
「本当に?」
「はい」
 イグネアが素直に頷くと、リヒトは彼女の両手を取ってそっと握った。手を握られて嬉しいのか、イグネアはほんのり頬を染めて恥らっている。
「君のそんな表情が見られるなんて思ってなかったよ。ねえ、その言葉信じていい?」
 握った手を口元へ運び、唇が触れそうな距離でささやく。言葉と共にもれた小さな吐息が指をかすめた。イグネアが困惑しつつも頷くと、黄金の瞳には甘く切なく優しい光が灯った。
「……嬉しいよ」
 指先に軽く唇を触れてにっこりと笑うと、リヒトはゆっくりと身を屈め、今度はイグネアの唇にキスしようとした。

 が。

「「そこまでだ!!」」
 けたたましい音と共に扉が開かれ、何事かと振り返ると、大急ぎでやって来たらしいヒュドールとリーフがいた。双方珍しく息を切らせ、二つの視線はしっかりと握られた手を睨みつけている。
「その手を離せ、リヒト。そいつの言っている事は全て“嘘”だ」
「ええ? 何でそんな事がお前にわかるのさ」
 いきなりやって来てイイ雰囲気を邪魔された挙句、嘘だとは何事か。リヒトは不満げな顔をして、それでもイグネアの手を離そうとしなかった。
「本当だよ。さっき陛下に聞いたんだけど、イグネアってば変なもの食べさせられたみたいでさ。どうやらそれでちょっとおかしくなったみたい。その証拠に……」
 言いながらリーフはイグネアに歩み寄り、目の前でにっこりと笑った。
「ねえイグネア、僕のこと好きだよね?」
「はい」
「ついでに、ヒュドール、“さん”のことも好きだよね?」
 オマケ的につけられた“さん”と“ついで”という言葉に、ヒュドールが思い切り不愉快気な顔をしたが、無視だ。
「はい」
 何を言っても嬉しそうにうんうん頷いているイグネアを見て、リヒトは唖然としていた。なるほど、こういう事か。
「なんだ、てっきり俺に本気になったのかと思ったのに」
 至極残念そうに溜め息を吐き、リヒトは疲れたように肩を落とした。
「でもさ、なんでこんな事になってるわけ?」
「これだ」
 ヒュドールが手にしていた小箱を広げて見せると、リヒトは興味深そうにのぞき見た。
「チョビヒゲが行商人から手に入れたモノらしい。こいつを一緒に食ったと言っていた」
「お菓子のせい? ってことは、陛下も同じようになったの?」
「あっちは普通だったよ。原因はたぶんお酒だね」
 チョコレートには有り得ないくらい度数の高い酒が使用されていたらしく、どうやらイグネアは酔ってしまったようだ。確かに人は酔うと何らかの突飛な言動を取ったり、大胆で行動的になったりするものだが……恋の魔術とは良く言ったもんだ。
「ねえねえ、もう一つ食べさせたらどうなるかな?」
「は?」
 ヒュドールとリヒトがかえりみた時には、リーフはすでにチョコレートを一つつまみ、イグネアの口元まで運んでいた。大好きな(?)リーフにされるがまま、イグネアはチョコレートを口に入れてしまった。
「うっ……あ、甘い」
 再び口内を襲った焼け付くような甘さに、イグネアは遠慮もせず渋い顔をした。吐き出したい衝動を抑えて何とか飲み込み、皆が見守るなかでしばし時が経つ。
 あまりの甘さに俯いて口を押さえていたイグネアが再び顔を上げた時、男共は揃って顔を引きつらせた。
 今度は完全に瞳が据わっていたのだ。
「……貴様等、何をジロジロと見ている」
 真紅の瞳に妖しい光を宿し、呆然とする三つの顔を見据えたイグネアは、全身で苛々を表現するかのようにぎろりと睨みつけた。が、口元だけは笑っていて相当に怖かった。
「この下衆共が! さっさと立ち去らぬと、炎の魔術で焼き払ってやるぞ!」
「す、すみませんでしたー!」
 あまりの気迫に声を重ねつつ、三人は大慌てで部屋を出て行った。ヒュドールに至っては、なんで自分の部屋から追い出されなければならないのだろうかという疑問が生じていた。というか、これは一種の酒乱だろう。なんとタチの悪い酔い方をする女なのだろうか。色々な意味で心底迷惑だ。

 このひと騒動以来、三人の間には「イグネアに絶対酒を与えるな」という暗黙の了解が生まれたらしい。



 END


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