ゆるやかな風が夜空に浮かんだ雲をゆったりと流してゆく。美しい三日月が雲の陰に隠れては顔を出し、白い月明かりがローデン城の見張棟にうごめく人影を照らしている。ローデン城では、今宵も多数の武装兵がそこかしこで瞳を光らせ、各々武器を手に敵の襲撃に備えている。
 ――なんでこんな事に……。
 数多の兵士達が忙しなく働く中、ひとり場違いな人間が大きな溜め息を吐いた。栗色のおさげに真紅の瞳、時折ずれ落ちる眼鏡を正しつつ屋上の隅っこで膝を抱えて座っているのは小柄な少女。彼女の名はイグネア=カルブンクルス。地味な風貌に似合わず、古の大戦で滅んだとされる【炎の魔術師】を生業とする、スペリオル王国が(勝手に)誇る魔術師である。
 普段はスペリオル王宮でまったりのんびり地味に暮らしているイグネアだが、数日前よりこのローデン王国に入国し、今では王宮に厄介になっている。
 ローデンは今、度々現れる魔物に悩まされており、夜にも関わらず多数の武装兵が警護にあたっているのはそのせいだ。しかし見たこともない魔物の出現に、ローデンの兵士だけでは事足りず、討伐に力を貸して欲しいとスペリオルに応援要請が入ったため、こうして無関係なイグネアがローデンに厄介になっているのである。ローデン国王とチョビヒゲ……もといスペリオル国王は親交が深いらしいが、とりあえずどうでもいい情報だ。
 いまここにイグネアがいるのは例外中の例外。普段は戦線に参加することがなく、本来この場に居るべきはあの勘違い騎士と冷徹魔術師のコンビなわけだが、偶然なのか必然なのか、スペリオル国内でも魔物出現が多発し、他国に行っている暇などないといった感じで、代わりに役立つのか立たないのか不明であるにも関わらず、イグネアが派遣されたのだ。
 そんなわけで、こうして見張棟の隅っこで極力兵士さんたちの邪魔にならぬよう、小さな身体をもっと小さくして時が経つのを待っているのである。面倒だから魔物なんか現れなければいいなーなどと、派遣魔術師のくせに呑気に願っていたイグネアだが……
「出たぞ! 魔物の群だ!」
 誰ともなしに上げた声に、その場が騒然とする。誰もが武器を握り締め、空を見上げ……そして空を覆った漆黒の群に絶句する。ギャーギャーと耳障りな鳴き声を発しつつ、バタバタと両翼を羽ばたかせているのは、【ワイバーン】と呼ばれる、前足のない小型の竜である。
 竜とは、なんと珍しい。ローデンどころか、現代でその姿を見る機会は滅多にない。それがどうしてこんなに飛んでいるのか不明だが、立ち上がってそれを眺めていたイグネアはある異変に気付き、我に返った。
「ちょ、ちょ、ちょっと皆さん、何してらっしゃるんですか?」
 焦りつつ振り向くと、屈強そうな兵士達がみな、イグネアの背後に隠れるようにして彼女を前面に押し出しているではないか。
「こ、ここはぜひ魔術師様のお力で、あの魔物どもをやっつけてください!」
「はあ?!」
 大の男が揃いも揃って何やってるんだ、という突っ込みを入れたかった。どうやら見たこともない魔物の姿にもれなく怯えているらしい。
 そうしているうちにワイバーンの群れは徐々に近づいてくる。ギャーギャー鳴きながら一匹、二匹と威嚇するように群から離れ、あちこちで兵士達を襲い始めた。
 まずい、このままでは食われてしまう……イグネアは意を決し、近場にいた兵士が偶然持っていた松明を奪い取り、細指で炎に触れて印を切った。

来たれ、炎の蝶よ(ライ・フラム・ファルファラ)!」

 少女の真紅の瞳がぎらりと妖しく輝くと、無数の小さな炎が夜空に浮かび、蝶の形を取って羽ばたき始めた。兵士を襲おうとして大口を開けていたワイバーンは、炎の蝶たちに取り囲まれ、全身を焼かれて悲鳴を上げる。その幻想的で美しい光景に拍手が起こり、みな我を忘れて魅入ったほどだ。
「ちょっとちょっと、何やってるんですか。早く退治してくださいよ!」
 と催促してようやく我に返った兵士達に、イグネアが疲れた溜め息を洩らす。まったくこっちは命がけで魔術を使っているんだから、しっかり働けよという言葉は虚しくも声にはならなかったが。

「おや? 今宵は、随分と面白い事をして下さるお嬢さんがいるようですね」

 ふいに聞こえた声は、闇夜のように静かで穏やか。真紅の瞳が見上げた空には、広がる夜空よりも色濃い闇をまとった青年がいた。背には漆黒の竜の翼、身にまとう衣服も同色。やや痩せ型だが瞳を見張るほど整った顔立ちをしており、緩やかな夜風に暗紫の髪がなびく。理知的な風貌は縁なしの眼鏡のおかげで一層際立ち、硝子越しのダークパープルの瞳は楽しげに細められていた。
 数多のワイバーン達を従えて優雅に降り立った青年を、イグネアは驚きの表情で見ていた。背中に翼が生えてる人間を見たのは初めてだ。というか、人間かどうかすら疑わしい。
「あ、あなたは?」
「これは失礼。名乗る前にお声をかけるなんて、紳士として恥ずべき行為でした」
 青年が丁寧に腰を折って詫びると、イグネアはものすごく渋い表情をした。こいつは間違いなく、あの勘違い騎士リヒトと同系統の男だ。自分で紳士とか言っちゃう辺りがそれっぽい。
「私はカイザー=シュラウゼン。【ダークネス】と呼ばれております。とある場所では割と有名なのですが、ご存知ありませんか?」
 縁なし眼鏡を押し上げつつカイザーがにっこりと笑って問うと、イグネアは無言でうんうん頷いた。その勢いでサイズの合わない眼鏡がまたしてもずれ落ちる。
 カイザー=シュラウゼン――通称【ダークネス】。冷徹・冷酷・残忍・非情と悪名高い、【ドラゴーネ】の黒翼竜である……と説明した所で、イグネアどころか誰にもわからないのだが。
「貴女のお名前を聞いても宜しいですか?」
「うっ……イ、イグネア=カルブンクルスです。一応【炎の魔術師】とか呼ばれてます」
 美麗で隙のない笑顔を向けられて一瞬怯んだが、何でか無意味な対抗心を出しつつもイグネアは自己紹介をした。すると、カイザーは納得したように頷いていた。
「炎の魔術師。なるほど、先程の蝶の群はその力ですか。実に美しかったですよ。お見事です」
「そ、それはどうも……。と、ところで、えーとダークネスさん?」
「はい、何でしょう」
「あなた、なんでこんなに竜を引き連れてお城を襲うんですか?」
 問いかけにカイザーは一瞬きょとんとしたが、すぐに笑顔を浮かべた。
「単なる暇潰しです」
 その場の誰もが唖然とした。暇潰しってアンタ、そんな理由でか! と突っ込みたくなったものの、それでもこの魔物騒動は負傷者を出すほどの惨事となっている。よく考えれば、そんな単純な理由で城を襲えるほど、何かがおかしい人物と言えなくもない。
 結果この漆黒の青年を危険人物と判断した兵士達は、我が城を護るべく武器を握り締め、奮い立った。それにつられてか、一応イグネアも手にした松明を掲げて形ばかりの戦闘体勢を取った。
 その光景を冷ややかに眺め、カイザーは口端を吊り上げて笑った。
「いいでしょう。その気ならばお相手いたしますよ。その代わり、ひとつだけ忠告しておきます。私は半端なく強い。多勢に無勢は無意味です。逃げるなら今のうちですよ」
 逃げ出すような情けない者は後でまとめて始末すればいいのだ。カイザーは腰に佩いていた剣を引き抜いた。まるで今しがた切ってきたかのようにその刀身は赤く染まっている。
 虚勢ではないと思い知らせるかのように、すっと笑顔を消し、冷徹な表情に射殺すような眼差しを浮かべ、カイザーが一歩踏み出す。冷ややかな空気に誰もが恐れを抱き、カイザーが一歩進むたびに一歩後退りする。
「あれっ?!」
 気付けば兵士達はすでにかなーり後方へと後退しており、残されていたのはイグネアだけであった。愚鈍な彼女は周囲の動向に全く気付きもせず、馬鹿正直にカイザーの話に耳を傾けていたのだ。
「逃げ出さずに立ち向かう勇気は褒めて差し上げましょう。けれど邪魔するならば、女性といえど容赦はしません」
 剣を振りかぶられ、イグネアは大いに焦った。
「ちょ、ちょっとお待ちを……」
「この私に出会ったのが運の尽きです。さようなら、炎の魔術師さん」
 美麗な笑顔とは裏腹に。眼鏡の奥の瞳は、全く笑っていなかった。
 ――すごい怖いんですけど!
 このままでは殺される――今さら魔術を使っても間に合わないだろう、と後退した兵士達を恨みつつ、イグネアは半ば覚悟を決めていた。

 が、しかし。

来たれ、氷の盾(ライ・ジェロ・アスピス)!」

 聞き慣れた声がどこかで聞いたような文句を口にした途端、イグネアの瞳の前に氷の盾が出来上がり、振り下ろされたカイザーの剣を防いでいた。
 カイザーの眉がぴくりと動く。忌々しげに視線を向けると、イグネアの後方に白銀の輝きをまとう青年が立っており、魔術を使用したばかりの青碧の瞳は、ぎらりと妖しい輝きを帯びつつこちらを凝視していた。次いでダークパープルの瞳はすぐさま脇へと逸らされ、突き出された剣をさらりと交わし、体勢を整えて切りかかった。
「女の子に剣を振るうなんて……剣士としてあるまじき行為だなあ」
 ぶつかり合う金属音が夜空に響く。真っ赤な刀身を抑えつつ呑気な口調で話すのは、黄金の輝き眩しい自称“スペリオル一の美形騎士”リヒト=アルマースだ。リヒトはイグネアを庇うようにして立ちはだかり、カイザーと対峙していた。
 あっ! とイグネアが声を上げると、リヒトは軽く首を捻って片目をつぶってみせた。普段ならばむず痒くなるようなさわやかウィンクも、今は甘んじて受けようではないか。
 しかし、なんで彼らがここにいるのだろうか? という疑問は否めない。ローデンより応援要請があった時、二人は魔物討伐に出ており、人員不足で仕方無くイグネアが派遣されたというのに。
「城に戻った途端、アンタを助けに行けと……あのチョビヒゲがまた下らない命令をして来やがったんだ」
「く、くだらなっ?!」
 いつの間にか隣に並んでいた、自称“スペリオル一の水使い”ヒュドールがもの凄く不機嫌そうに舌打ちした。相変わらず飢えているのか、青碧の瞳が忌々しげにイグネアを見下ろしている。
 というか、下らないとはなんと失礼な言い分か。こちらは危うく殺されかけたというのに、全くもって不愉快である。が、結果的に命を救われたのだから、とりあえず感謝しておこう。

 そんなこんなでイグネアとヒュドールが会話を交わしている間も、カイザーとリヒトの一騎打ちは続いていた。さすがはスペリオルが誇る騎士、流れるような剣さばきは一流っぽい。
「この私を相手に一歩も引かないとは……なかなかやりますね」
「はは、ずいぶんと自意識過剰な発言をする人だな」
「意識過剰だなんてとんでもない。私はいつでも本気ですよ」
 口端を吊り上げて笑うと、カイザーは不意に剣を引き、かと思ったらくるりと身を回転させ、その勢いに任せて左足を振り下ろした。
「わっ!」
 思いがけない攻撃に声を上げたものの、間一髪、リヒトは直撃寸前で蹴りを交わした。が、直後に黄金の瞳を思い切り見開いた。カイザーの強烈な蹴りが、あろうことか堅固な床石を打ち砕いていたのだ。
 さすがにこれにはイグネアもヒュドールも驚愕していた。なんという破壊力か。あんなので蹴られたら、頭蓋骨も砕かれてしまいそうだ。
「……あんた、何者?」
 リヒトが不審げな眼差しを向けると、カイザーはにやりと笑った。
「私は【ダークネス】」
 前方から飛んできた複数の氷の矢を、黒革の手が余す事無く宙で捕らえる。しっかりと掴まれた氷の矢は、黒革の手袋に描かれた“発熱”の陣で一瞬にして気化し、消滅した。
「獣人界の最強種【ドラゴーネ】の黒翼竜です。今からその姿を披露して差し上げましょう」
 ダークパープルの瞳がみるみるうちに闇色を広げ……耳を覆いたくなるような咆哮が夜を震わせたかと思うと、カイザーはあれよという間に巨大な黒翼竜へと変化していた。
「「う、嘘でしょー?!」」
 素っ頓狂な悲鳴が多数重なった。人間が竜に変身するなんて聞いたこともない。驚き慌てふためく人間達をよそに、カイザー(黒竜型)の大きく裂けた口からは真っ黒な炎が洩れ始め……そして一気に吐き出して来た。
「逃げろっ!」
 さすがのリヒトも巨大な竜相手ではどうにも手の出しようがなく、格好悪いなあと思いながらも逃げざるを得なかった。
 竜と化したカイザーには先程までの紳士的思考が微塵も存在しないらしく、手当たり次第に破壊しては炎で焼き尽くそうとしている。このままでは皆の命が危ない……逃げ惑う人々の喧騒のなか、イグネアは立ち止まり、そして振り返った。
 見上げれば、そこには巨大な飛竜。こんなの倒せる自信はないが、だからと言ってただ逃げるばかりでは何の解決にもならない。
「リヒト、ヒュドール!」
 唐突に名を呼ばれ、美形コンビが何事かと足を止めた。
「ほんの数秒でいい。あの人の気を逸らせてください!」
 真摯な眼差しに突き動かされ、二人は返答もなくすぐさま行動に移った。
 が。
「くそっ! 何でこの俺があの小娘の命令に従わなきゃならないんだ!」
 と、ヒュドールは不機嫌で。
「いやあ、初めて名前で呼ばれちゃったよ」
 と、リヒトはご機嫌である。
 この男は……! と、こんな非常時にも平静さを失わぬ相棒に疲れつつ、ヒュドールは二本の指で印を切った。

来たれ、氷の槍(ライ・ジェロ・ランツェ)!」

 鋭利な槍のごとく突き出た氷の錐体が黒竜の固い鱗を掠めた。次いでリヒトが衛兵から奪い取った矢で攻撃する。
 漆黒の瞳が怒りに燃え、そして再び黒炎が吐き出された時。

来たれ、炎の龍よ(ライ・フラム・ドラコー)!」

 真紅の瞳がぎらりと光る。黒竜の口から吐き出された炎は呪文によって操られ、まるで大海を遊泳する龍のごとき姿に変化した。
 黒龍は唸りを上げて黒竜に絡みつき、焼き尽くしてしまえとばかりに燃え上がる。黒竜の悲鳴が夜を震わせ、耐え切れずに誰もが耳を塞いでいた。





 それで、どうなったかというと。

「吐き出した炎を操るとは……お見事でした」
 人型に戻ったカイザーは、ひどく感心した様子でイグネアに微笑みかけていた。さっきまでの暴れっぷりが嘘のようである。しかもこちらは必死だったにも関わらず、無傷な辺りが心底憎い。
「貴女に免じて、この国からは退散することにしましょう」
「そ、そうですか。それはどうも」
 どうにか納得してくれたカイザーに、イグネアはほっと安堵の溜め息を吐いたのだが……
「いつかまた、お会いできる事を楽しみにしております」
「うひゃああ!」
 カイザーに手を取られたかと思ったら、すかさず口付けられ、イグネアは素っ頓狂な悲鳴を上げた。そしてお約束通り眼鏡がずれ落ち、クスクスと笑われた。
「ぎゃー、何してるんですかっ!」
「ご挨拶ですよ。この程度で照れるなんて可愛らしい方ですね。炎の魔術といい、貴女は実に興味深い。やはり気が変わりました。どうでしょう、今夜一晩お相手願えませんか?」
「ひいいいい!」
 聞いたこともないような口説き文句に、背中がかゆくて堪らない。こいつはリヒト以上のフェミニストだ……と、イグネアはカイザーの手から逃れようと必死になっていた。
 しかし、その背後でとてつもなく面白くなさそうにしていた二人組がいた事に、彼女は全く気付いていない。




 END




ぴよさん運営サイト「Secret Garden」4周年のお祝いに書かせて頂きました!
日記に書いた【カイザーvsイグネア、眼鏡キャラ対決(リヒト&ヒュドール援護付き)】というネタに反応して下さいました(笑)。私自身、とても楽しんで書くことができました。ありがとうございます!

<登場人物たちの住処>
イグネア、ヒュドール、リヒト → 【FIRE×BRAND
カイザー → 【Light&Darkness



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