甘い花の香に誘われて瞳を覚ますと、眩しい光が辺りを包んでいた。ゆっくりと瞼をこすって瞬きを繰り返し、ふっと息を吐いてから身体を起こす。室内には“朝”が広がっていた。
 ベッドから起き上がり、全身が映る鏡台の前に立ってみる。ヒラヒラと白いフリルで縁取られた寝衣は、緩やかに波打つ少女の黄金の髪にとても合っているが、少女自身は勿体ないと思うばかりである。
 ふっとまた甘い香が鼻をつき、少女――ネフェルティティは周囲を見回した。室内の所々に庭園で摘んだ薔薇が飾られており、とても綺麗だった。
 女王として夢のような場所にやって来たのは、つい昨日のこと。孤児院にいた時とは全てが違う生活になってしまい、正直に戸惑っていた。寝衣とはいえ、こんなに綺麗な洋服を着たのも初めてだった。
 そんな風にぼんやりと鏡の前で立ち尽くしていると、扉がノックされた。次いで声が聞こえる。
「おはようございます。ティティ様、起きてらっしゃいますか?」
「あっ、はい! 起きてます!」
 我に返って慌てて返事をすると、ゆっくり扉が開き、双子の片割れが顔をのぞかせた。声だけだと判断できないが、髪形を見ればすぐにどちらかわかる。薄紫の長い髪を“二つに”分けているのは、妹のローズマリーだ。
 ローズマリーは寝衣姿でいるネフェルティティを見て、何やら非常に嬉しそうに瞳を輝かせていた。
「ああっ、やっぱり女の子はフリルとかレースが似合いますよね! とっても可愛らしいです! ティティ様のためにと作った甲斐があります!」
 そんなに喜んでもらえるのは嬉しいが、指を組み合わせてうっとりとするローズマリーに何と言っていいかわからず、ネフェルティティは困惑していた。
「お着替え、お手伝いしましょうか」
「えっ? そ、そんな大丈夫です! ひとりでできます!」
「そうですか……?」
 ローズマリーは今度は非常に落胆した様子を見せた。そうしてネフェルティティはまた困惑する。着替えを手伝ってもらうなんて、そんな大それたことはできない。
 ちなみにローズマリーは、昨晩は一緒に寝ると言って聞かなかったのだが、イーナに怒られて渋々引き下がったのだ。可愛いもの好きもここまで来ると変態ね、などと嫌味を言われていたが。
「では着替えが済んだらいらしてくださいね。朝食の用意をしておきますので」
「はい、ありがとうございます」
 丁寧にお礼を言うと、ローズマリーはにっこりと笑って出て行った。

 身支度を終えて部屋を出ると、甘い花の香とは違う、香ばしい匂いが流れてきた。誘われるようにして歩いていくと、居間のテーブルには美味しそうな食事が並べられていた。
「おはようございます、ティティ様。さあ座って、温かいうちにどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
 椅子を引いてくれたのは、姉のイーナだ。昨日の闘いぶりが嘘のように、イーナはエプロンをして次々に食事を運んでくる。全ての支度を終えると、彼女はネフェルティティの隣に座った。向かい側には不満そうなローズマリーがいる。
「なんでイーナが隣なの?」
「あなたが隣に座ったら、ティティ様は落ち着いて食事ができないでしょう?」
「うっ……」
 図星をさされたのか、ローズマリーは何も言えずに視線をそらせた。一体何をする気だったのか。
「さ、ティティ様。遠慮なく召し上がれ」
「あ、はい。いただきます」
 両手を合わせてきちんと礼をし、ネフェルティティは温かな湯気を立ち昇らせるスープに手をつけた。
「……とても美味しいです」
「本当ですか? それ、私が作ったんですよ。ティティ様に喜んでもらえて嬉しいです」
 向かい側でローズマリーが嬉しそうに微笑んでいた。次いで焼きたてのパンに果実のジャムを塗って口に運ぶ。こちらもとても美味しい。パンもジャムもスープも、ちょっと懐かしい、手作り感に溢れていた。
「あの、もしかして……すべてお二人が作ってくださったのですか?」
「はい、そうですよ」
 朝からこれだけの料理を、たった二人で作るなんてすごいと思った。しかも、売っているものよりもはるかに美味しいのだ。羨望の眼差しで双子を見ていたネフェルティティだが、ある事に気付いて突然慌てた。
「わ、わたし、何もお手伝いしなくて……すみません」
 双子がきょとんとして見ていた。
「何を仰るんですか。これは私達の仕事なのですから、ティティ様が手伝いをする必要はないのですよ」
「そうそう。何も心配しないでください。掃除も洗濯も、全部私達がやりますから」
 そう言われても、ここに置いてもらっている以上何かしないと……とネフェルティティが訴えても、双子は納得してくれなかった。彼女達は仕事をこなしているのだから、苦になっているわけでも大変な思いをしているわけでもない。
「では、わたしにも何かできることはありませんか?」
「そこまで仰るなら……そうですね、では、庭園の見回りなどいかがでしょう」
「見回り、ですか?」
「はい。ティティ様のお好きな時に、外に出て薔薇の様子を見ていただくのです。庭園は広いですから毎日少しずつで構いませんし、お一人で不安でしたら私達もお供いたしますので。気分転換にもなりますし、どうでしょう」
「は、はい。がんばります!」
 イーナの話に耳を傾けていたネフェルティティは、薔薇色の瞳を輝かせて身を乗り出した。なにもできないのだから、せめてそれくらいは頑張らないと……と思ってのことだったが、双子にはクスクスと笑われてしまったのだった。



 朝食を終えた後、ネフェルティティはさっそく庭園に出て見回りを始めた。イーナとローズマリーは屋敷の掃除を始めたため、お仕事の邪魔をしては悪いと思い、一人で薔薇に囲まれた石畳を歩く。
 結構な広さだと言っていたが、実際に庭園は広い。薔薇の壁を越えた遠くには、温室のようなものも見える。慣れてきたらあちらにも足を運んでみよう。
 可愛らしいワンピースに、綺麗に整えられた髪。周囲を見回せば美しく豪華な薔薇が咲き乱れ、住んでいるのは大きなお屋敷だ。イーナとローズマリーは何でもできるし、まるで物語のお姫様になったかのような気分になってしまう。着ているこの服だってローズマリーが作ってくれたと言うし、髪はイーナが結ってくれた。本当にすごいと尊敬してしまう。それにしても、何もできない自分がここで何不自由なく暮らしていていいのだろうか。
 あれこれと考えながら歩いていると、ふっと我に返り、ネフェルティティは慌てた。
「……あ、あれ?」
 そんなに歩いて来たつもりもなかったのだが、背伸びして薔薇の壁からのぞき見てみれば、屋敷からはずいぶんと離れてしまっていた。いきなり離れてしまうのもいけないだろうと思い、今日はもう引き返そうとした時、周囲の薔薇たちがざわめきだした。まるで、何かに怯えて悲鳴を上げるように。
「な、なに……?」
 薔薇色の瞳が不安に怯える。薔薇たちのざわめきは治まらない。
 急いで戻った方がいいと直感したネフェルティティは、もつれそうになる足を踏み出したが……ガサガサと薔薇の壁を掻き分けて真っ黒な物体が現れ、彼女の前に立ち塞がってしまった。
 昨日初めて見た邪悪な【悪魔(イヴル)】は、コウモリに似た翼を忙しなく羽ばたかせて瞳をぎらつかせ、鋭い牙をむき出して悲鳴を上げていた。
「ひっ……」
 今はイーナもローズマリーもいない。助けを求めようと思っても屋敷は遠くて間に合わない。逃げ出したくても足が震えて動かない。怯えるネフェルティティを弱者だと判断したのか、悪魔は一声鳴いて容赦なく飛び掛ってきた。
「きゃああっ!」
 ネフェルティティはうずくまって頭を抱えた。恐ろしくて瞳も開けていられなかった。このまま食べられてしまうのだろうか……と不安に駆られていたが、次瞬聞こえてきたのは昨日と同じような悪魔の悲鳴だった。
「キエエエエエーーーーッ!」
 耳に痛い悲鳴に驚いて顔を上げると、目の前には【深紅(あか)】が広がっていた。緑色が占める庭園の中で、その【深紅】はまるで大輪の薔薇のように鮮やかで、美しい。それが人の背でひるがえるマントだと気付くのに、時間は必要なかった。
 深紅のマントをひるがえし、“男”は真っ黒な悪魔に突き刺した剣を一度引き抜き、すぐさま横に薙いだ。銀の残像が宙を彩ると同時、悪魔の首は吹っ飛び、身体と頭が別々に炎に焼かれて消滅していった。
 またしても薔薇たちがざわめいた。けれど今度は怯えているのではなく、まるで勝利を祝福するかのように歓喜に溢れていた。
 石畳に座り込んだまま、ネフェルティティは呆然としていた。何が起こったのかわからなかった。
 すると、それまで背を向けていた人が振り返った。その顔を見て、ネフェルティティははっとする。とても綺麗な顔をした男性だった。夜のような艶を帯びた漆黒の短い髪と同じ色の瞳、マントと同じように深紅の衣を身にまとっている。男性は剣を振って汚れを飛ばし、ゆっくりと鞘に収めていた。視線は、ずっとネフェルティティを見たままだ。しかも、無表情で。
「あ、あの……」
 見上げたまま恐る恐る声をかけるが、男性はそれでも表情を変えず、無言だ。お礼を言おうにも、怖くて言葉が出てこない。どうしようと困惑していると、男性の後ろから声が聞こえて来た。
「……女王が怯えていますよ、アスター様」
 騒ぎを聞きつけてやって来たのだろう、姿を見せたのはイーナとローズマリーだった。双方、無表情の男性を見つめて困った顔をしている。知り合いだろうか。
「初対面なんですから、とりあえず名乗っておかないと」
「……そうか」
 ここで初めて聞いた男性の声は、見た目のように重く低く、少し冷たいものだった。
 ローズマリーの提案を受け、男性はネフェルティティの前でひざまずき、小さな手を取った。
「……【薔薇の騎士(クリムゾン・デューク)】、アストリド・グレーフィン・フォン・ハルデンベルク」
 本当に言われたまま名前だけ名乗り、アスターは女王に忠誠を誓う騎士そのままに、小さな手に口付けを落とした。
「……!!」
 ネフェルティティが真っ赤になって固まったのは言うまでもない。その様にローズマリーは大変喜んでいたが、イーナは額に手を当てて溜め息を吐いていた。この人は素でこういうことをするから困るのだ。このままでは我等が女王が茹で上がってしまう。
「ご挨拶はもうよろしいでしょう。ティティ様、大丈夫ですか?」
 さっと魔手(?)から救い出してイーナが労わると、真っ赤になって口を開けていたネフェルティティははっと我に返った。何度も瞬きを繰り返し、自分を取り戻す。
「あ、は、はは、はい……」
「この方は先日お話した【薔薇の騎士(クリムゾン・デューク)】のお一人です。少々お名前が長ので、アスター様とお呼びしています。ティティ様と庭園をお護りする騎士様ですよ」
「見たとおり男前なんですけど、口数も少ないし感情をほとんど表に出さない方なので、ちょっと何考えてるか不明なんですよね。善い人なのは確かですが」
 双子がこっそり教えてくれ、薔薇色の瞳が視線を向けると、アスターの無表情がこちらを向き、漆黒の瞳がじっと見つめ返してきた。ネフェルティティはまたしても茹で上がって顔を赤くしてしまっていた。それでもアスターは飽きずに見つめていたが。
 その様子に、なぜか闘志を燃やしているのはローズマリーだった。
「くっ、ライバル登場だわ」
「……何の?」
 何だか変な展開になって来たような気がするな。赤くなって固まるネフェルティティと、ひざまずいたままじっと見つめるアスター(多分何も考えていない)と、異様な闘志を燃やす妹を見遣り、イーナは深い溜め息を吐いていた。
 女王と庭園の守護者【薔薇の騎士(クリムゾン・デューク)】は個性派ばかりという話は、伏せて置いた方が良さそうだ。



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