いつものように穏やかで爽やかな朝がやってきた。ネフェルティティは寝衣を脱いで身支度を整え、部屋を出る。これまたいつものようにパンを焼く香りが廊下中に広がっており、すぐさまお腹の虫がきゅうと鳴き声を上げた。
「おはようございます、ティティ様」
「おはようございます」
 いち早く姿を見つけたイーナが微笑みかけてくる。ネフェルティティはぺこりと頭を下げて挨拶をし、食卓へと近寄った。今日も朝から豪華な食事が並んでいる。
「ティティ様っ、私の隣に座って下さい!」
 日々隣席を取られて悔しがっているローズマリーが、今日こそは! とかなり意気込んでネフェルティティの背中を押した。イーナは怪訝そうな顔をしていたが、全く気付いていないらしい。
「さ、どうぞ」
 ようやく隣に座れる、とご満悦なローズマリーが椅子を引いてくれ、ネフェルティティは苦笑しながらも促されるままに席についた。美味しい朝食に賑やかな姉妹、全くいつもと変わらぬ光景だ。……と思ったのだが。
 ダイニングから続くリビングに男性がいたのだ。真紅の衣を身にまとったその人は、長い足を組んで深くソファに腰掛けている。片手にティーカップ、片手には新聞。髪と同じ漆黒の瞳は、読んでいるのかいないのか知らないが、ものすごく真剣に紙面を眺めていた。
 途端、ネフェルティティの頬に熱が昇った。昨日の衝撃的な出会いを思い出し、思わず口付けられた手の甲をそっと押さえる。
「ティティ様……お顔が紅いですよ?」
「えっ?!」
 ローズマリーがものすごくがっかりしたような声色で言うと、ネフェルティティはさらに紅くなった。今度は慌てて両手を頬に添える。
「ああ……私のティティ様が……」
「えっ、えっ?」
 何のことやらわからずに慌てふためくネフェルティティの隣で、ローズマリーは落胆の溜め息を吐いていた。やはり大人の男には敵わないわね……などとブツブツ言っている。
 そんな騒ぎも聞いちゃいないのか、彼――アスターは、それでも真剣に新聞を読んでいた。




 午後になると、ネフェルティティは仕事である庭園の見回りに出かけた。(半ば強引に)時間を作ってくれたローズマリーが案内してくれるというので、彼女と手を繋いで散策に出かける。
「今日は、温室にご案内しますね」
「温室?」
「はい、あそこに見える建物ですよ」
 ローズマリーが指差した先には、ガラス張りの小さな建物が見えた。
 温室では、希少な種や繊細な種の薔薇が栽培されている。あまりお目にかかれない、とても珍しいものもあると聞いて、ネフェルティティは瞳を輝かせた。そんな彼女を見て、ローズマリーは一人でデレデレしていたが。
 温室は小ぢんまりしていて可愛らしかった。足を踏み入れると同時、程好い薔薇の香が迎えてくれる。屋外の庭では見られない、珍しい色や形の薔薇がたくさんあり、ネフェルティティはあちこちと目移りしていた。
 ふと。パチンという音が聞こえ、ネフェルティティは立ち止まった。そうしていると、またパチンと音がする。どうやら温室の奥から聞こえて来るようだ。
「なんでしょうか?」
 不思議そうに首を傾げていると、ローズマリーがやって来た。
「ああ、きっとアンヌ様ですよ」
「アンヌ……さま?」
「はい、ご紹介しますね」
 ローズマリーに手を取られ、ネフェルティティは後をついていく。道なりに進んで行くと、パチンパチンという音が鮮明になってゆく。それがハサミを使う音だと気付いたのは、目の前に女性の姿を見つけてからだった。
「アンヌ様」
 ローズマリーが名を呼ぶと、アンヌと呼ばれた女性は動きを止め、ゆっくりと振り返った。
 光を受けて輝く黄金色の長い髪が、彼女の動きに合わせてふわりと揺れる。じっとこちらを見つめる青い瞳は、まるで晴天の空のよう。穏やかに微笑んだその人は、まさに聖女と呼ぶに相応しい、とても美しい人だった。胸に抱えた薔薇でさえ、彼女の引き立て役かと思うほどだ。
 ネフェルティティは薔薇色の瞳を大きく見開いた。こんなに綺麗な人を見たのは、生まれて初めてだった。
「こんにちは、ローズマリー。今日も元気そうね」
 透き通る声が響く。その美しい顔に合わせたように、清楚な響きを持つ声だ。
 ネフェルティティが惚けていると、アンヌは手にしていたハサミを置いて歩み寄ってきた。目前までやってくると優しく微笑み、そして“深紅”のスカートをつまんで軽く腰を屈めた。
「初めまして、我が王。私はアンヌ・マリード・モンラヴェル。【薔薇の騎士(クリムゾン・デューク)】の一人でございます」
 アンヌの自己紹介を聞いて、ネフェルティティはさらに瞳を見開いた。
「騎士……?」
「はい。あなたをお護りするのが私の役目です」
 否定するでもなく、アンヌはにっこりと笑った。アスターならば疑う余地もなく成る程と思うが、こんなに綺麗で細い女性が騎士だなんて……聞いただけではにわかに信じがたい。けれどアスターのように深紅の服を着ているし、まさか冗談を言うはずもないし、本当なのだろう。驚いた。
「いつもここにいらっしゃるのですか?」
 問いかけると、アンヌは静かに頷いた。
「この温室の薔薇たちは特に繊細なの。気をつけてあげないと、すぐに病気にかかってしまうわ。この子たちの敵は、悪魔(イヴル)だけではないのよ」
 穏やかに諭され、ネフェルティティは素直に頷いた。
「薔薇は繊細で、寂しがり屋。大切にしてあげればそれだけ綺麗に咲いてくれるけれど、放っておくとすぐに拗ねてしまうの。覚えておいてね」
「はいっ」
 薔薇色の瞳を輝かせてネフェルティティが返事をすると、アンヌはにっこりと笑ってくれた。

 綺麗で穏やかなアンヌは、すぐにネフェルティティの憧れとなった。アンヌの後姿を見つめ、何度も溜め息を吐いたほどだ。
 せっかくだからみんなでお茶にしましょう、というローズマリーの提案を受け、三人は温室を出ようとしたいたのだが。扉の所にのそっと立っている人物がいて、揃って視線を向けたのだった。
「あらアスター。そんな所で何をしているの?」
「…………」
「もう、黙っていてはわからないわよ? まったく相変わらず無愛想ね。せっかくいい男なんだから、口下手なんて勿体ないわよ」
 と、あの何を考えているかわからないアスターに向かって、一方的に口撃をしている。言われっ放しのアスターはというと、変わらず無表情である。話も聞いているのかいないのか不明だ。ちなみに彼はこっそりネフェルティティの護衛として来ていたのだが、本人が言うでもなく、また誰も気にしていないため明るみにはならなかった。
 その様子をぼんやりと見ていたネフェルティティに、ローズマリーが何やらこそっと耳打ちしてきた。
「アンヌ様って美人で清楚でいかにも聖女って雰囲気の方ですが、【薔薇の騎士(クリムゾン・デューク)】のリーダーなんですよ。だから皆さまには恐れられているらしいです」
「えっ?!」
 思わず声を出してしまい、ネフェルティティは慌てて口を押さえた。リーダーというと、誰より強いとか頼りになるとか、そういう事になるのだろうか。アスターのように剣を持って闘うのだろうか。まるで想像できない。一体どんな人なのだろうか。

 それにしても、アスターといいアンヌといい……【薔薇の騎士(クリムゾン・デューク)】の人たちは不思議だ、とネフェルティティは改めて思ったのだった。



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