個性溢れる住人達のおかげで、いつもは慌ただしい薔薇の庭園。
 だが、その日は珍しくとても静かだった。
 日が西に傾きかけ、庭園が橙色に染まった頃、ネフェルティティはひとり温室へと足を運んだ。いつもならばローズマリーがべったり、もしくはアスターがこっそり護衛につくのだが、双子の姉妹は家事で忙しく、また騎士達は揃って不在のため、今日はひとりなのだ。
 アンヌが大切にしている温室は、とても綺麗だ。愛情を一心に受けた薔薇たちは、生き生きと花をつけ、我こそ一番と言わんばかりに咲き誇っている。ここは、ネフェルティティのお気に入りの場所になっていた。
 珍しい形や色の薔薇をひとつひとつ、興味深げに眺めながら温室を歩いていると、ふいに人の気配を感じ、ネフェルティティは立ち止まった。危険があれば、薔薇たちがざわめくはず。もしかしたらアンヌかも知れない……そう思いながら温室の奥へと駆けてゆく。そうしていつも彼女がいるであろう場所にやって来ると、その見事な薔薇色の瞳を見開いた。
 少女の足音に気付いて振り返ったのは、聖女のごとき美しさを持つ騎士ではなく、幼い少年だった。少年はネフェルティティの姿に気づくと、柔らかな笑みを向けて来た。
 思わず頬が熱くなった。柔らかく笑んだ少年は……そう、とてもとても綺麗だったのだ。緩やかに波打つ髪は月の色を思わせる銀、それに合わせたかのように見事映える瞳の色は、青だ。物陰で微笑んでいた少年が一歩進めば、それはあっという間に夕陽の色に染まって、眩しかった。
「こんにちは」
「あっ、こ、こんにちは……」
 唐突に声をかけられて、ネフェルティティは慌てて挨拶を返す。やけに緊張してしまっていた。
 俯きながら盗み見るように少年に視線を向ける。見た感じ、歳はそう変わらないだろう。薔薇たちが大人しいから怪しい子ではないと思うけれど……どこから来たのだろうか、誰なんだろうか。そんな事を考えていると。
「ねえ、きみの名前は?」
「えっ? あ、あの……ネフェルティティ、よ」
「素敵な名前だね。ネフェルティティ……ティティって呼んでもいい?」
「う、うん……」
 どうしていいか分からずにネフェルティティは俯いた。何というか、その微笑には無言で従わせてしまう不思議な力があるのだ。それに素敵な名前なんて言われたのは初めてで、何と答えたらいいのか困ってしまう。
「あの、あなたは……」
 誰?
 そう問いかけようとしたネフェルティティは、ぴたりと動きを止めた。いつの間に近付いていたのか、少年に両手を握られていた。
 驚いて顔を上げると、青い瞳がじっと見つめていた。
「綺麗な色……歴代の王でも、そこまで見事な薔薇の色は持っていなかったそうだよ」
 “禁断の薔薇”の色は、そういえば青だと聞いたことがある。その青が、吸い込まれるように近づいてくる。
 何が何だかわからずネフェルティティは硬直し、アスターの時(例のアレ)以上に顔を真っ赤にしていた。
「あのね、お願いがあるんだ」
「な、なあに?」
「僕がここにいたこと、内緒にしてくれる?」
 懇願するように見つめられ、ネフェルティティは言葉もなくうんうんと頷いた。
「よかった、二人だけの秘密ね」
 ぱっと変化した笑顔と、二人だけの“秘密”は、誰の心をも射抜くだろう甘美さに溢れていた。まるで砂糖菓子のようなふわふわとした魅力を持つ少年に、ネフェルティティが思わず見惚れていると……
「また明日、ここで待ってるね」
 言葉と共に甘い微笑みを残し、少年はどこかへ行ってしまった。

 屋敷に戻ってからのネフェルティティの様子は、誰の目にも明らかにおかしかった。何をしていてもぼんやりとした表情で、食事もろくに手つかず状態。終いには思いつめたように溜め息を吐くものだから、不思議に思われても仕方がなかった。
「あ、あのティティ様……? お食事、お口に合いませんか?」
 向かい側のローズマリーが遠慮がちに問いかけると、ネフェルティティははっと我に返った。
「えっ、あの、いえ、そんなことないです! とっても美味しいですよ、このスープ!」
「それはチキンよ?」
 脇からアンヌに突っ込まれ、ネフェルティティは大いに焦る。手にした皿をよく見てみれば、確かにそこにはこんがりと焼けたチキンが乗っているではないか。
「ティティ様、どうかされましたか? お身体の具合が悪いのでしたら、別の食事をご用意しますが」
「いえっ、違います、大丈夫です! いただきます!」
 イーナにも心配そうな顔をされ、ネフェルティティは慌てて食事に手をつけ始めた。
 普段は大人しいからこそ、この慌てぶりが逆に怪しい。誰もがそう思ったようだ。ぼんやりとして、時々溜め息を零して、物思いにふけって……それは、それはまさに。
「まさか、恋わずらいじゃないだろうなあ」
 がはは、と豪快な笑いを上げつつ、冗談交じりでクラウが言った途端。
 ガシャン! と派手な音を立てて、ローズマリーが食器を取り落とした。
「ティティ様……そ、そうなんですか?!」
「こ、こ……? ち、ちがいます、ちがいます」
 若干青ざめつつ身を乗り出してきたローズマリーに対し、ネフェルティティは激しく首を振った。その慌てぶりがむしろ怪しい。
「やはり、相手は、その……」
 ローズマリーの言葉と共に皆が一斉に視線を向けた先には、リビングのソファで居眠りをしているアスターの姿があった。
 その後違うという弁解をしたものの、どうにもネフェルティティの言葉は信憑性が薄かったらしい。皆には完全に勘違いをされてしまったのだった。

 翌日の夕方。同じように、ネフェルティティは温室へと足を運んだ。
 あの少年のことは二人だけの“秘密”である。ゆえに皆が忙しくしている隙を見て、こっそりひとりでやって来た次第である。
 きょろきょろと辺りを見回し、誰も着いて来ていないことを確認してから、ネフェルティティは温室に踏み入った。扉を閉じ、ふうと一息吐けば、ようやく高鳴る鼓動に気づく。人目を忍んでいることがそうさせていた。
 皆が言っていたように、これはその、恋……なのだろうか。でもあの少年が誰なのかも知らないし、もしかしたら夢……だったのかも知れない。そんな風に考えていると。
「ティティ」
 名を呼ばれてはっと顔を上げると、昨日の少年が立っていた。
「来てくれないかと思ってた。よかった」
「う、うん……ごめんね」
 なぜか謝ってしまった。皆があんなことを言うから、少年の顔をまともに見られなくなってしまっていた。俯き、どうしようかとおろおろしているネフェルティティは、少年の瞳にはとても不思議に映ったようで。
「どうかしたの? 何かあった? もしかして、みんなに叱られた?」
「そ、そうじゃないの……なんでもない」
 俯きながら首を振ると、ふいに頬に触れられた。驚いて顔を上げると、青い瞳が間近で見つめていた。
「安心して。僕が君を護ってあげるから」
 あまりにもじっと見つめられ、身動きが取れなくなる。両の頬に手を添えられ、“禁断の薔薇”の青が近づく。触れられた頬は、熟れた林檎のように赤くなっているに違いない。
 どうしよう……そう思って、ぎゅっと瞳を閉じた時。

「はいはい、そこまでな」
 声にはっとして目を開けると、瞳の前に少年の姿はなく、代わりにクラウの豪快な笑顔があった。
「このマセガキめ。そういう事はあと十年経ってからやるんだな」
「ちょっと何するのさ! 痛いから離してよっ!」
 クラウに首根っこを掴まれた少年は、強靭な力から逃れようと手足をばたつかせていたが、びくともしない。
「またお勉強をさぼって何処へ行ったのかと思ったら……こんなところに逃げ込んでいたのね」
 脇から入って来た声に振り向けば、そこにはアンヌの姿が。
 突然のことに呆然としていると、肩にそっと手を置かれた。ネフェルティティが顔を上げると、困ったように微笑むイーナとローズマリーがいた。
「ティティ様の恋わずらいの原因は、ルイ様だったのですね……」
「ルイ……さま?」
 ローズマリーの言葉に首を傾げていると、イーナが答える。
「ルイ・ドゥ・フューネ様。あの方も【薔薇の騎士(クリムゾン・デューク)】のお一人ですよ」
「えっ……」
 双子と、アンヌと、クラウと……そして少年の顔を交互に見やり、口をぱくぱくさせる。
「ええええええっ?!」
 さすがのネフェルティティも、これには盛大に驚いた。

 【薔薇の騎士(クリムゾン・デューク)】最年少のルイは、一応お子様という事実もあることから、普段は騎士としての仕事よりもむしろ勉学に重点を置いている。仲間達から代わる代わる文学や剣術を教わっているのだが、遊びたい年頃ゆえか逃げ出す事が多々あるらしい。その逃亡中に運良くか悪くか出くわしたのが、ネフェルティティというわけだ。
 屋敷に戻ったネフェルティティは、イーナが淹れてくれたお茶を飲みながらがっくりと肩を落としていた。色々衝撃があって疲れてしまったのは気のせいではない。
 あんな、自分と同じ年頃の少年が騎士だなんて驚きだ。彼も皆のように深紅の服を着て闘うのだろうか。あの甘い風貌からは想像もつかない。
「せっかくいい感じだったのに……」
 一方のルイは、頬を膨らませながらダイニングで勉強させられていた。
「夕御飯前に、今日やるはずだった場所は終わらせなきゃダメよ」
 向かい側に座るアンヌが、聖女の微笑みと共に絶対服従的な威圧を与えている。皆から恐れられるリーダーの素質は、こういうところで発揮されるようだ。
「おうおう、そこ間違ってるじゃねえか」
「うるさいなあ」
 脇から茶茶を入れるクラウを、青い瞳が恨めしげに睨む。
「全く、口ばっかり達者だよなあお前は。早くデカくなれよ。ここにはお前よりも有力な候補がいるんだからよ」
 ぽんぽんとルイの頭を撫でるクラウの視線の先には、またしてもソファで居眠りしているアスターの姿が。
 途端、ルイがむっとして立ち上がった。そうしてネフェルティティの元まで吹っ飛んで来て、がしっとしがみ付いた。
「ティティのことは僕が護ってあげるって約束したんだよ。ねっ?」
「あ、あのっ……」
「安心して。こう見えて僕、剣のほうは結構いけるんだ」
 ちなみに、その結構いける剣の方は主にアスターから習ったものなのだが。
「……僕以外の男に気を取られちゃダメだよ?」
 砂糖菓子のような甘い風貌で言われた一言に、ネフェルティティが真っ赤になってあたふたしたのは言うまでもない。
 そして、誰もがルイに対して“天性の素質”を見出したのは言うまでもない。

 そんな愛らしい女王と騎士のやり取りを、イーナは微笑ましげに眺めていたが。
「……完敗だわ」
 あの方間違いなく将来有望だし……と完全に勝機を失ったローズマリーはがっくりと肩を落としていた。
 何に闘志を燃やしているのかは知らないが、完敗してくれてよかったと、イーナは考えたが。
「でもこれはこれで、ある意味面白い展開よね! ティティ様は、アスター様とルイ様、どちらを選ぶのかしら?」
 また今度は違う方向へ何かを燃やし始めたローズマリーにかける言葉が見つからず、イーナは額に手を当てて思い溜め息を零したのだった。



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