「はあ、はあ……!」
 盗人が一人、夕闇の森を失踪していた。日が暮れて薄暗くなった森は不安感と恐怖感をあおり、複雑に絡み合った木の根に時折足を取られそうになりながらも、何とか体勢を整え、脇目も振らずに走り続けた。
 盗人は、迷い込んだ森の奥で建物を見つけた。鬱葱と茂る樹々に囲まれた灰色の屋敷だった。しばらく見張ってみても人の気配がなかったため、忍び込んで金目の物を探した。屋敷内は非常に豪華な造りで、高価そうな骨董品や家財でいっぱいだった。その中で盗人が目をつけたのは、小さな、赤い宝石だった。まるで血のような赤をしたその石に一目で魅了され、気付けば手に握り締めて走り出していた。人気はなく、追っ手などないはずなのに、何故か心が急いたのだ。
 屋敷からずいぶん離れた場所まで走り、盗人は立ち止まって息を整えた。そばに茂る巨木にもたれ、荒々しく肩で息をしながら後方を見遣るが、追手はない。それなのに、どうしてあんなに急いで逃げてきたのか理解できなかった。
 手を広げ、盗んだ宝石に視線を落とす。血の色をした小さな宝石は、光もないのに妖しい輝きを放っている。食い入るように見つめていると、赤い宝石が凝視する瞳のように見えてきて、盗人は瞳を擦った。そんなはずがない――何度か瞬いて、もう一度視線を落とすと。
 手のひらの中、ギロリと睨みつけた真っ赤な眼球がひとつ。
「ぎゃああああ!」
 盗人は悲鳴を上げ、宝石を投げ捨てた。手に触れていた事実におぞましさを覚え、何度も手を振り回す。青ざめて後退りすると、巨木の幹に突き当たった。
「……ヒトの家からモノを盗むなんて……なんて悪いコ」
 突然に聞こえて来た女の声に、盗人はどきりとしてすくみ上がった。間違いなく、背を当てている巨木の幹から聞こえた声だった。
 心臓が口から飛び出すのではないかと思うほど。全身に響く鼓動で指先を震わせながら、盗人は意を決して振り返った。けれど、そこには表皮が剥がれ落ちた、古い樹の幹しかなかった。
「私はここよ」
 血相を変えて振り返ると、背後に女が立っていた。恐ろしさの中でもはっきりと自覚できるほど美しい女だ。じっと見つめる瞳も、腰まで伸ばした長い髪も、胸の大きく開いたロングドレスも、羽織った外套も全て黒。その中で、異様なほど白い肌と妖しげに微笑む深い薔薇色の唇が瞳を引いた。
「アナタが盗んだモノ……これはとても大切なモノなの」
 いつの間に拾い上げたのか、女は手のひらに乗せた赤い宝石を盗人に差し出して見せた。白い手の中で赤がひどく目立つ。そしてその赤が、妖しい光を灯してこちらを睨んでいた。
 もはや盗人は悲鳴も上げる事すら出来ず、ただただ恐ろしさのあまり身を震わせていた。逃げる事もできない。指先を動かすという些細いな動きさえ赤い瞳の凝視で封じられ、震えることしか出来なかった。
 女が一歩近づいた。逃げようにも背後の巨木に縛り付けられたように動けない。
「そんなに怖がらないで」
 女が手を伸ばし、盗人の頬に触れた。しなやかな指先はとても冷たい。
「まだ若いわね。少し、夢を見たいと思わない?」
 愛でるように頬を撫でながら、女は盗人に身体を寄せ、耳元でささやいた。
 冷たい指先の感触に反し、その声はあまりにも扇情的で。女の指が肌を這う度に恐怖とは違う感情が湧き上がる。
「でも……許せないの。ごめんなさいね」
 誘うような目つきで甘くささやいて後、薔薇色の唇が盗人の唇を塞いだ。恋人同士のように濃厚な口付けは、心も身体も上気させ、熱を増すほどに理性を溶かしてゆく。
 その甘い熱に完全に犯されそうになった時、身体の奥でひどい渇きを感じて、盗人は溶けて無くなりそうになっていた意識を取り戻し、瞳を見開いた。逃れようとしても尋常でない力で喉を押さえつけられていて出来ない。喉の奥で必死に呻いてもがいていると、女はようやく唇を離した。
 その瞬間。
「あ、ああ、あうっ……!」
 心臓が鷲掴みされたように。盗人は言葉に出来ないほどの激痛を胸に覚え、悲鳴を上げた。全身から脱力し、手足がだらりと投げ出される。喉を掴む女の指が力を増すほどに、盗人の身体から精気が抜けたように枯れて行く。
 女は満足げな笑みを浮かべていた。肩に絡まった長い黒髪を払うもう一方の手の指に、禍々しい髑髏(ドクロ)の指輪がはめられていたという事に、果たして盗人が気付いたかどうか……死んでしまった今では確かめようがない。
 干からびて絶命した盗人の口から白い気体が抜け出した。吐き出した煙草の煙のようなそれは、悲鳴にも聞こえる奇怪な声を上げ、あっという間に髑髏(ドクロ)の口に吸い込まれていった。
 手を離すと、盗人の死体が重たい男を立てて崩れ落ちた。薔薇色の唇に触れながら、女は妖艶な笑みを浮かべる。そして指にはめた髑髏(ドクロ)を撫でながら、足元の死体に語りかけた。
「……アナタが盗んだモノはね、死神の目玉よ。この瞳には誰もが魅入られてしまう。どうしても一度だけ、と手に入れたくなってしまうの。けれど、手にした代償はとても大きいわ」
 生ある者が出会う事のない“死神”の一部に触れることは、すなわち死を意味する。
「私? 私は死神と契約をしているの。だから大丈夫。けれどアナタみたいな悪いコは、すぐ“彼”に目を付けられてしまうのよ。残念ね」
 さして興味もなさげに足元の死体に一瞥をくれ、女は静かな笑みを湛えて踵を返した。


「……またそんな悪趣味な事を」
 振り向いた先には少女がひとり立っており、女は軽く眉を上げて息を吐いた。
「死ぬ前に夢を見させてあげているのよ」
「わざと盗ませて、追い詰めて、遊んでいるだけでしょう。それを悪趣味と言うのですよ、メイフェイア様」
 女と同じく漆黒の服に身を包んだ少女は、肩に流れる長い金の髪を払いながら、青の瞳を細めた。女の悪行を咎めるように。
「死神に魅入られた時点で生きる価値を失くした人間だもの。どう扱おうと私の自由なのよ、アリス」
 女は妖艶に笑って、そしてふっと姿を消した。
 主の悪行に疲れたように。少女――アリスは深い溜め息を吐き、屋敷へ向けて引き返して行った。


 END


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