雪の姫





 王宮より西方角に広がるフォルナ領へ馬を走らせると、真っ先に目に飛び込んでくるのは丘の上に建つ大きな屋敷だ。緑の丘にそびえる真っ白な屋敷はその美しさを讃えられ、時に“城”と呼ばれることもある。
 丘の上の屋敷からは広大な領地が一望でき、特に冬の時期は見渡す限りの銀世界という、絶景を瞳に映すことができるだろう。

 屋敷のメイド長・ムディーラは、洗い立ての洗濯物を籠一杯に抱え、屋敷の最上階である三階の一室を目指していた。少し太めの体系など気にならないとばかり、階段を昇る足取りは軽く、鼻歌が小気味良く響く。
 目的の部屋までやって来ると、ムディーラは軽く扉を叩いてから開け放った。室内からの応答はないとわかっているから、気休めだ。
 抱えた洗濯籠を手近にあったテーブルに置き、閉め切られていたカーテンを広げる。薄く張った雲の合間から金色の太陽が顔をのぞかせ、室内には光が射し込んだ。
 この丘の上の屋敷からは、薄っすらと雪の降り積もった白い大地が一望出来る。朝陽を受けた雪の大地はきらきらと輝き、とても美しい。
「奥様、今日は太陽が顔を出していますよ。晴れ空は何日ぶりかしら。何かいい事が起こるかもしれませんよ」
 声高に語りかけながら、ムディーラは振り向いた。視線の先には、ベッドで半身を起こし、背筋を真っ直ぐに伸ばして座る女性がいた。
 色白の首にかかる長い髪は、色素が薄いために白く見える。その色合いが老人の持つ髪にも見えるが、よく見れば女性の年齢は非常に若い。美しい顔立ちは微笑むだけで太陽のように輝くだろうが、残念な事に彼女が笑みを失ってから二年が経つ。ぼんやりとした青の瞳は何を思っているのか。虚空を見つめ、時の流れを映し出しはしない。痩せて細くなった指先は力なくシーツの上に置かれているだけだ。
 ムディーラは軽く息を吐いて微笑んだ。彼女が応えないとわかっていても、こうして話しかけるだけで何かが変わるかも知れない、失われた時が戻って来るかも知れないという淡い期待を抱いて止まない。たとえ笑みを失ったとしても、言葉を忘れているとしても、彼女はこうして生きている。いつでも時を取り戻すことが出来るのだから、そのきっかけになればと思う。
「さ、少しお掃除しますからね」
 間近で言葉をかけても、視線は虚空を見つめたまま。それでもめげず、ムディーラはいつものように笑顔を絶やさずに室内の掃除を始めた。





 王宮より西、フォルナの丘にそびえる城には【雪の姫】と呼ばれる姫君がいるそうだ。心清く、その内面を映し出したかのように見目麗しい。長く伸ばした髪は、光を受けた雪のように輝く銀色。平和を願って遠くを見つめる瞳は、深い海のような青だという。
 しかし、雪の姫が人前に姿を見せることはない。身体が弱く、外気に触れるとたちまちに病を患ってしまうそうだ。それゆえ雪の姫は日夜白い城の中で過ごし、硝子を扱うように大切に護られている――。
 王宮内では、日を問わずこんな噂が流れている。宮仕えの騎士達は、姫の美しさを想像して「我が物にできぬものか」との野心を抱き、女官達は温室の花さながらに暮らす姫に憧れを抱く。雪のように白く、まっさらな心を持つ美しき深窓の姫君――人々の【雪の姫】に対する理想はこうであるらしい。
 しかしそれは偽り。真実は時に捻じ曲げられて伝えられるものだ。

「集合!」
 王宮内に広がる騎馬隊の訓練場に、一際大きな号令が響いた。それまで散り散りになって訓練に励んでいた騎士達は速やかに集合し、規則正しく馬を並べて上官の言葉を待つ。
「今日の訓練はここまで。解散!」
 上官の号令で、整列していた騎馬はぞろぞろと馬舎へと向かって行く。その最後尾に、金の髪と琥珀の瞳を持つ青年がいた。
「なあ、君はたしかフォルナの出身だったよな?」
 その青年に、同僚の騎士が問いかけた。同僚と言っても顔を合わせたのは数回程度、互いに名も良く知らぬ関係だ。
「ああ」
「ならば、【雪の姫】に会った事はあるか?」
 その言葉に青年はわずかに表情を曇らせた。が、相手の騎士は話に夢中になっているのか全く気付いていない。
「ないよ」
「そうか、残念だな。とても美しい姫だと聞いたから、一度会ってみたいと思ったんだが」
 心底残念そうに苦笑しつつ、彼は一足先に馬を走らせて行った。
 その背中を、青年――ブラートは沈んだ表情で見送っていた。

 ブラート=カロンは、騎士団の一員として王宮に仕えている。二十歳になった昨年、ようやく騎士の称号を賜り、濃紺の騎士服と黄金に輝く階級章を身につける事が許された。
 騎士の世界は華やかに描かれがちだが、実際は違う。特に歳の若い騎士は上官の命に従って日々忙しく働かねばならないし、王宮内に勤務しているゆえに気苦労も絶えない。戦が起きれば最前線で闘わなければならないし、命を懸けなければならない時もある。そのための鍛錬は終わらない。しかしこれも自ら望んで飛び込んだ世界。どんな苦労を強いられようとも、逃げ出そうとは思わなかった。
 十五の頃に一般兵として軍に入隊して以来、騎士は憧れの地位だった。剣を持つ者として、男として上を目指したいという気持ちもあったが、何より四つ上の兄に追い付きたかったからだ。
 ブラートの兄・テリオスは、二年前まで同じようにこの王宮に仕えていた。若いながらも実力は上級で、幼い頃から備えていた多才ぶりを発揮し、ついには騎士団を従える将軍へと登り詰めた。誰もが彼を称え、憧れの対象としていた。そんな兄はブラートにとって尊敬に値する人物であった。兄に対する不満や怒りなど抱いた事はなかった。二年前――彼が戦場で死するまでは。

「午後から休暇に入るそうだな」
 言葉をかけられ、ブラートははっと我に返った。無意識の内に考えにふけっていたらしい。顔を上げると、デスクを挟んだ向こう側で上官がこちらを見ていた。上官の前で考え事をするなど、軍人としてあるまじき行為だったと深く反省をする。
「はい。戻りは明日の夕刻になります。ご迷惑をおかけします」
 改めて姿勢を正し、ブラートは落ち着いた口調で答えた。
 一日休暇を貰い、ブラートは生家のあるフォルナ領へ戻る予定でいた。日々忙しく働く身分であるため、生家に戻れるのはせいぜい年に一度くらい。しかも滞在できるのは良くて二日が限度だが、フォルナは王宮から近いため、これでもましな方だ。戦の最中では無理だが、落ち着いている時期にはこうした帰省も許される。
 かつてこの王宮の騎士団を率いていた将軍を思い出してか、上官はわずかに目を細めた。顔の造りはやや異なるが、同じ髪に瞳―――似ていると思わせる要素はいくつもあった。
「お前は年々、兄上に似てくるな」
「……そうでしょうか? 自分では解りかねます」
 兄弟であるから似ているのは当然だが、それにしても近頃は同じような事をよく言われる。歳を重ね、騎士として位を上げるにつれ、恐らくこの言葉が多くなるのだろうなと考えて、ブラートは複雑な想いを抱いた。嫌なわけではない。でも好ましいとも言えない。
「たまに実家に戻るのも息抜きになるだろう。ゆっくりして来るといい」
「有難うございます。失礼致します」
 深々と頭を垂れて謝礼を述べると、ブラートは上官の執務室を後にした。



 自室に戻ったブラートは、忙しなく外出の支度を整えていた。必要な物だけが揃った殺風景な室内は不在の間にずいぶんと温度が下がっていたが、すぐに出かけるためさほど気にならなかった。
 室内を慌ただしく見回していた琥珀の瞳は、ふいにデスク上に飾られた写真たてに視線を留めた。写真の中では同じ髪と瞳の色を持つ男性が二人、女性が一人、穏やかな笑みを浮かべている。
 男性の一人は自分、もう一人は実の兄テリオス。そして長い金の髪を柔らかに結い、青の瞳を細めて兄に寄り添う女性は――今は【雪の姫】と呼ばれる兄の妻・リーリアだ。
 一つ年上のリーリアは幼馴染みだった。子供の頃から三人は仲が良く、何をするにも一緒だった。リーリアは優しく、ブラートの面倒もよく見てくれていた。
 しかし、年頃になればその均衡は脆くも崩れた。いつ頃からか、ブラートはリーリアに対して密かな恋心を抱いていた。その心をやがて形にしたいと願うようになり、彼は騎士となったあかつきに、リーリアに求婚しようと考えていた。
 フォルナの領主であるカロン家は、代々王宮の騎士として仕えている。その伝統を引き継ぐため、リーリアとの結婚のため、ブラートは死に物狂いで騎士を目指した得た。非凡であった兄とは違い、彼には特別な資質などなかったからだ。
 そうして夢を実現させるために努力していたと言うのに……。無情にも三年前、兄とリーリアは結婚してしまったのだ。
 その時になって初めて知った兄の心に、ブラートは愕然とした。リーリアを想っていたのは自分だけだと思い込んでいた。そう周りが見えなくなるほどに、ブラートは彼女を愛していた。だが、同じ時を過ごして来たにも関わらず、リーリアはテリオスの愛を受け入れた。自分ではなく、兄を選んだのだ。

 ――兄上、私は……あなたをとても恨んでいるのだ。

 琥珀の瞳が、写真の中だけの存在になってしまった兄を睨む。あの時ほど兄を妬んだ事はなかった。羨んだ事はなかった。けれど決して恨んでいたわけではない。
 国のために戦い、その若き命を散らした兄は誇りだ。実兄を失った悲しみは計り知れないし、今でも心から尊敬している。騎士となった今は、彼の代わりに尽力しようと思っている。
 兄を恨んだのは、彼が死した後だった。天国へと旅立った兄は、リーリアの心まで連れて行ってしまったのだ。それが、彼女が【雪の姫】と呼ばれる理由となっていた。
 ブラートは軽く溜め息を吐き、写真たてを伏せた。そして漆黒の外套を羽織り、足早に部屋を出て行った。








 馬を走らせ、ブラートはフォルナへと向かった。あと一月もすれば春へと季節は変わるため、大地を覆う雪も大分減り、馬も走りやすくなっている。とはいえ、まだまだ気温は低い。厚手の外套に身を包んでも、身体が強張るほどだ。
 平原を抜けると、やがて丘の上の我が家が視界に飛び込んでくる。ブラートは一心に丘を目指した。
 緩やかな丘を登ると、すぐに屋敷に到着する。馬の背から飛び降り、労わりの心を持って身体を撫でてやると、愛馬はブルルと唸って真っ白な息を吐き出した。
 寒さで落ち着きのない愛馬をつないでいると、屋敷から誰かが出てきた。急ぎ足でこちらに近づいてくるのは、老年の執事とメイド長だった。
「ブラート様! お帰りになるなら前もって一言、お知らせを下されば良かったのに」
 長年屋敷で執事として働くバリーが眉をひそめる。白髪交じりの口ひげが相変わらず頑固そうだ。
「急に休暇の許可が下りたから、知らせる間もなかったんだよ」
「しかし……」
「まあまあ、いいじゃありませんか。お帰りなさいませ、ブラート様。外はお寒うございましょう。すぐに温かい飲物を用意しますから」
「有難う、ムディーナ」
 メイド長のムディーナが、豊かな身体を震わせて帰省を喜んでくれた。彼女が向けてくれる笑顔はいつも温かで、心が休まる。
 屋敷一の古株である彼らは夫婦で、ブラートが幼少の頃から面倒を見てくれている。子供に恵まれなかった二人は、ブラートとテリオスの兄弟を本当の子供のようにとても可愛がってくれた。それは成人した今でも変わらないらしく、帰省の時は亡くなった両親に代わって迎え入れてくれるのだ。特に近年は兄がいなくなって寂しいのだろう、バリーの口うるささは酷くなり、ムディーナの優しさはこれまで以上になった。
 それでも我が家に戻って来ると一時の安堵を得る。子供の頃から変わらない空気が心地よい。兄と、そして“彼女”がいない事を除けば――変わりはない。
 もうひとつ変わった事といえば、ブラート自身が騎士となった事だ。濃紺の騎士服と黄金の階級章に屋敷の者はみな溜め息を洩らし、賞賛の言葉を浴びせた。カロン家の男子にとって、騎士という階級は何よりも誉れ高いのだ。

「……姉上の様子は?」
 テーブルに出されたカップを手に取りながら、ブラートは傍らに立つムディーナに問いかけた。そのままカップを口に運ぶと、立ち上がる湯気に乗せて甘い香が鼻腔をくすぐる。淹れたての茶は温かく、ほのかに甘く、冷えた身体が芯から温まった。
 ブラートの問いに、ムディーナは苦笑するだけだった。
「お変わりありませんよ」
「そうか……」
 自然と溜め息を吐いていた。そうして初めて、淡い期待を抱いていたのだとブラートは気付いた。
「苦労をかけて、すまない」
 思いがけず謝罪され、ムディーナは表情をゆがめた。
「どうしてブラート様がそのように……。奥様のお世話をするのは当然の事です」
「でも、もう兄上はいない」
「何を仰るのですか。テリオス様がお亡くなりになったからと言って、奥様のお世話を止める理由にはなりませんよ。その……奥様と呼ぶのは、癖になってしまっていますが」
 昔からこの屋敷で働いているムディーナは、リーリアのことも良く知っている。兄弟同様子供のように可愛がっていたから、居た堪れなくて放って置けないのだろう。彼女だけではない。この屋敷で働く者は皆同じ気持ちに違いない。

 束の間の休息を終え、ブラートは三階の一室へと向かった。階段を昇る足取りは無意識に重い。そこにいる人が待っているのは、自分ではないからだ。
 そうとわかっていながらも。自分の力ではどうにもならないと頭では理解しているのに、彼女の笑顔を、言葉を求めてしまう。それが虚しかった。
 ようやく階段を昇り切り、扉の前に立ち、取っ手に手をかけて暫し止まる。彼女に最後に会ったのは一年以上も前、まだ騎士になる以前だった。それからまた痩せた、と先ほどムディーナが話していたが、それを思うと心が痛む。深く溜め息を吐いて気持ちを落ち着かせ、ブラートは扉を開け放った。
 室内は静かだった。部屋の主はいるはずなのに、空気の動きがない。少し懐かしみながら室内を見回すと、リーリアは窓辺に置かれた揺り椅子に座っていた。今日は久しぶりの晴れ空だから、とムディーナが外の景色を見せるために座らせたのだろう。彼女自身が望んで動く事はない。その証拠に、揺り椅子は一切動いていない。そばのテーブルには白い花と、自分のものと同じ写真が飾られていた。
 ブラートは静かに歩み寄り、リーリアの前に跪いて彼女を見上げた。
「姉上、お久しぶりです」
 穏やかに言葉をかけるが、青の瞳はぼんやりとして視点が合わない。ブラートは苦笑しながら膝の上に置かれたリーリアの手をそっと握り、そしてすぐに表情を歪めた。リーリアの手は、やはり痩せ細っていた。
「姉上、見てください。私は騎士になったのです。兄上と同じ、騎士に」
 濃紺の騎士服と黄金の階級章は、かつてテリオスが身にまとっていた物と全く同じだ。立ち上がって晴れ姿を披露するが、やはりリーリアは何の反応も示さない。わずかに伏せた眼差しは、じっと一点を見つめたままで動かない。騎士になるために必死になっていたブラートを励ましてくれていたリーリアは、もしも正気だったら、きっと喜んでくれるはずなのに。
 ブラートは拳を握り締めた。この声は彼女には届かない。深い悲しみで閉ざされた心は元に戻せない。彼女を救えるのはたった一人……その歯痒さで握った拳が震えた。気付けば手を伸ばし、痩せ細ったリーリアの身体を抱えていた。
「なぜ……なぜ私を見てくれない? なぜこの声を聞いてはくれない? 兄上はもういない。姉上、貴女がどんなに望んで待ち続けても、兄上は戻って来ないのに!」
 声を荒げても、突然に抱きしめられても、リーリアの瞳は伏せられたまま。
 【雪の姫】の噂を耳に留めるたび、心が闇を広げるような思いでいた。リーリアの白い髪は輝く銀髪などではない。美しかった金の髪が、兄を亡くしたショックで色を失っただけだ。青の瞳は平和を願って外を見つめているのではなく、この世には存在しない人を想って遠い遠い空を見ているだけ。彼女が外に出ないのは病弱だからではない。愛しい人のいない世界で、心を失って壊れただけ……。
 口々にささやかれる噂は何一つ真実ではない。【雪の姫】はただの幻想。彼女は愛する者に先立たれ、若くして生きる道を見失った哀れな娘でしかない。
「どうすればいい? どうすれば君を取り戻せる? 私は今でも君を想っている。だから、どうか私を見てくれ……リーリア」
 細く脆い身体を優しく抱き、ブラートはささやいた。
 高揚した想いが自然と懐かしい呼び方を口にさせる。ずっと兄の妻としてしか接する事が出来なかった。傍にいるためにはそうするしかなかった。自分の気持ちを封印するために「姉上」と呼び続けていた。その度に彼女が寂しそうに微笑んでいた事も、勿論知っていながら。
 けれど今は違う。心を取り戻して欲しかった。もう一度笑ってくれるなら、兄の代わりでもなんでも出来る。
「リーリア、お願いだ」
 自分を見てくれなくてもいい、兄を愛していてもいい。ただもう一度笑って、名を呼んで欲しかった。

 ふいに、吐息が洩れた。それは気を付けなければすぐに消えてしまうほど小さなものだったが、ブラートの耳には確かに届いていた。自分のものではないそれに、琥珀の瞳が瞬く。
 不思議に思っていると、今度は膝に置かれていた細い手がぴくりと動いた。そして――じっと一点を見つめていた青い瞳が、たしかに揺れ動いたのをブラートは見逃さなかった。
「リーリア?」
 もう一度しっかりと名を呼ぶと、それまで擦り硝子のように曇っていた青い瞳が、空を映し出す水面の輝きを取り戻してゆく。伏せられていた視線はゆっくりと上げられ、間違いなく視線がぶつかった。
「……っ……」
 言葉を忘れていた唇がもどかしげに動いた。何を言おうとしているのか微かな唇の動きだけではわからなかったが、青い瞳はゆっくりと瞬き、自分を見つめている。それは、見知らぬ者を前にした恐怖でも、疑問でもない。確かに記憶にある人間だと、理解している表情だった。
「リーリア……私がわかるのか?」
 長く忘れていたせいで、すぐに言葉が出てこないのだろう。リーリアは苦しげな表情を浮かべ、頷いただけだった。その歯痒さをどうにか伝えたいのか、細い指先がそっと添えられ、ゆっくりと頬を撫でる。
 そうして、もう一度唇が動いた。ゆっくりとした動きを一つ一つ読んで……それが自分の名だとわかって、居た堪れなくなった。
 ブラートはリーリアの手を優しく握った。奇跡が起こったのかと思う。二年間どんな言葉をかけても応えなかったリーリアが、こうして自らの意思で動いているのだ。
「良かった。もう二度と“君”に会えないかと、思っていたから……」
 細い身体を抱いていた腕が緩み、ブラートは力なく膝を折って床に座り込んだ。そうしてリーリアの膝に顔を埋め、声を殺して泣いていた。
 本当はもう疲れていた。リーリアの心を連れて行ってしまった兄を憎む事にも、兄を待ち続けるリーリアを想う事にも。
 声が聞こえなくとも、もう一度名を呼ばれた時に全てが許され、終わったような気持ちになった。だから、たとえ心を取り戻した彼女が自分を見てくれなくてもいいと思った。



 リーリアが普通の生活が出来るようになるまで、半年近くの時間を要した。空白だった二年を取り戻すのは決して楽なことではなかったが、今ではずいぶんと落ち着いた。体力はまだ万全ではないが、以前のようにしっかりと言葉も話せるようになった。
「夢を見ていたの」
 窓辺に立ったリーリアは、ゆっくりと振り返りながら呟いた。
「ずっと、白い世界にいたの。誰もいない、あの人もいない世界に。けれど、ずっと誰かに呼ばれているような気がしていたの。でも、その人は“私”を呼んではくれなかったから……」
 だから戻って来られなかったのだ、と。
 幼馴染で仲の良かったカロン兄弟とリーリア。その均衡が崩れ、テリオスと結婚してから、ブラートは一度としてリーリアの名を呼んだ事がなかった。あれほど仲が良かったのに……避けられているような気がして、リーリアはずっと寂しい思いをしていた。どうかもう一度名前で呼んで欲しい。そう強く願うほどに。
 寂しげな表情を向けられたブラートは、揺り椅子から立ち上がり、リーリアに近づいた。手を伸ばしてそっと髪に触れる。色素が抜けて白くなってしまった髪は、少しだけ金の色を取り戻していた。
「あなたにまた会えて嬉しかった。私……本当は、あなたの事を想っていたから」
 思いがけぬ告白に、琥珀の瞳が見開かれた。
「そんな。だって、君は兄上を……」
 愛していたから、彼を選んだのではなかったのか。
 だが、リーリアはゆっくりと首を振った。幼い頃から年上のテリオスは優しく強く、本当の妹のように可愛がってくれた。だから大好きだった。けれどブラートの事も好きだった。兄のテリオスと違って不器用な性格だけど、彼はいつでも同じ目線で物事を見ていた。同じ事で笑い、同じ事を悲しみ……そうしていつ頃からか、彼の横顔がとても輝かしく見えるようになった。リーリアは兄弟よりも先に、幼馴染を“異性”として見ていたのだ。
「テリオスの事は大好きだったけれど、それは“愛している”ではなかったの」
 その想いは、むしろ兄に憧れるようなものだった。テリオスが自分を特別に見ていたのだとリーリアが知ったのは、求婚された時だ。あの時は本当に戸惑った。彼が抱いている想いと、自分が抱いている想いには明らかな違いがあったから。
 本当に結婚するならば――そう思うものの、十八だったリーリアにはまだ強い決断力が養われていなかった。将軍の地位を持つテリオスならば、カロン家の当主としても相応しい――両親の強い勧めに促されるまま、リーリアはテリオスとの結婚を承知したのだ。
 時を同じくして、ブラートの態度が急変した。結婚してからは“姉上”としか呼んでくれなくなり、話しかけても笑ってくれず、避けるように冷たい雰囲気をまとい、近寄る事を拒まれていたようだった。
 どうして避けるのだろう。どうして名前で呼んでくれないのだろう。どうして笑ってくれないのだろう。常に心を支配するのはそんな想いばかり。また笑って欲しい、また名前で呼んで欲しい――そしてリーリアは気付いた。やはり心から想っているのは、ブラートなのだと。
「もう一度……」
 呟かれた言葉に、ブラートは顔を上げる。琥珀の瞳が、青の瞳をじっと見つめた。
「私に夢を見させて下さいませんか?」
 誰もいない世界に放り出される寂しい夢ではなく、手を伸ばせばすぐに触れられる、温かで幸せな夢を。
 どうか、どうかもう一度。



 辛く寂しかった冬が終われば、また暖かな春がやって来る。
 口々にささやかれた【雪の姫】の噂は、幾度かの冬を越え、いつかの春がやって来る頃にはどこかへ消えてしまったという。
 まるで、雪解けのように。





 END







Copyright(C)2008 Coo Minaduki All Rights Reserved.