灰色の世界
空は灰色に染まり、どんよりとした厚い雲が垂れ込めていた。身を切るような冷たい風が容赦なく吹き付ける。剥き出しの手と足は凍え、すでに感覚すらない。路地裏の突き当たり、比較的寒さをしのぎやすい場所、それが彼等の住処だった。 「お……兄ちゃん」 レーベンは肌本来の色を失い、紫に変色した小さな手を懸命に擦っている。白い息を吐きかけ、少しでも暖めようとしていた。だが、今にも消えてしまいそうな、掠れたか細い声を辛うじてとらえると、声の主に視線を落とす。凍えた大地に横たわるのは、彼の妹アンジュだ。 「お兄ちゃん、どこ? どこにいるの?」 蝋のように白い顔が不安に彩られている。大きな瞳が忙しなく左右に動く。彼女の瞳はもう何も映さない。それが病によるものなのか、十二になったばかりのレーベンには知りようもなかった。まだ十にも満たない幼い妹アンジュが、天に召されようとしている。それだけは何故かはっきりとわかった。彼の胸にじわじわと恐怖が込み上げる。それは喪失への恐怖。そしてこの灰色の世界に取り残される恐怖。 「……アンジュ。俺はここにいるよ。こうやってアンジュの手をしっかり握っているよ」 レーベンはぎゅっとアンジュの手を包み込むと、優しく上下に揺する。枯れ枝のようにやせ細ったアンジュの腕は、力を込めると簡単に折れてしまいそうだ。力なく地面に横たわる妹を、レーベンはただ見守ることしかできないでいた。 「……うん」 アンジュは儚く微笑むと、安心したように瞳を閉じた。ついさっきまで苦しそうに荒い呼吸を繰り返していたのだが、それが嘘のように穏やかな息遣いへと変化している。それが余計レーベンの中の恐怖をあおる。 「なぁ、アンジュ。俺……俺、食べられるものがないか探してくるよ」 そっとアンジュの手を彼女の胸元へ置くと、彼はふらふらと歩き出す。 「だ……め。お……兄ちゃん。こ……こに……いて」 弱々しく紡がれる言葉を振り切るように、レーベンは駆け出した。 怖かったのだ。目の前でアンジュが息絶えてしまうのが。 ◇ ◇ ◇ まだ薄暗い部屋の中、レーベンはゆっくりとまぶたを持ち上げる。夏でもないのにシャツが濡れるほどぐっしょりと汗をかいていた。 「また、か」 ベッドに身を横たえたまま、右腕を上げると力を込めて目を覆う。 いつも見る悪夢だった。悪夢――いや過去にあった現実なのだ。 レーベンは大きく息を吐いた。あの後、アンジュの声を振り切り、何のあてもなくさまよった。冷たい風に吹かれ身も心も麻痺した頃、アンジュのもとへと戻った彼は、その亡骸と対面したのだ。たったひとりで息を引き取ったアンジュ。その目尻にはうっすらと涙が光っていた。 どんなに後悔したか。ひとりで逝かせてしまったアンジュ。かわいそうなアンジュ。いくら悔いても、涙を流しても、その想いが彼女に届くことはもうない。アンジュは彼の手を離れ、遠い場所へと旅立ってしまったのだから。 それからレーベンは心を閉ざした。彼の心はあの日――アンジュが死んだ日――の空のように、灰色一色で塗りつぶされてしまったのだ。 喜びも悲しみも痛みも、もう何も感じない。心臓が動いている。肺が呼吸をしている。腹が減るから食べる。食べるためには金がいる。だから金を得るためには何でもした。善悪など関係なかった。 「……アンジュ」 きっと妹は恨んでいるのだろう。死にゆく自分を見捨てた薄情な兄を。 「お兄ちゃん?」 レーベンの顔が自嘲に歪む。アンジュの声が聞こえたような気がしたのだ。 「すごくうなされていたから、心配しちゃった。悪い夢でも見たの?」 幻聴にしてはいやにはっきりとした声だ。レーベンは目を覆っていた右腕をのけ、天上を見上げた。 「あ、やっと目を開けてくれた!」 はしゃいだ声と共に、視界いっぱいに奇妙なモノが映る。 「幻覚に幻聴、か」 ふっ、と口元を歪める。体がどんなに生きようとしていても、とうとう心が限界に達したのだろう。 (このまま狂い死ぬのも悪くない) レーベンは、くつくつと笑う。 彼の視界に映るのは、手のひらにすっぽりと隠れてしまうくらいの大きさをしたモノだ。それは人のようなカタチをしており、しかも彼の妹アンジュにそっくりの顔を持っていた。ただその背には、温かな光を放つ翼のようなものが付いている。背中の翼をひらひらと動かせて、アンジュのカタチをしたモノはふわふわと左右に飛ぶ。翼が動くと、小さな光の粒がほろほろと舞い落ちる。 「やだ、お兄ちゃん。幻覚なんかじゃないよ。わたしアンジュだよ」 ひらひらと舞いながら、小さな生き物は頬を軽く膨らませると不満げに主張する。 「幻覚でないのなら夢、だな」 「だから、現実だって」 小さな生き物はレーベンの右頬を両手でつかむと、力一杯引っ張った。 「ね、痛いでしょ? 夢なんかじゃないんだからね」 腰に手を当てて満足げに微笑む。 「いや……痛くなどない」 あっさりそう言われて、小さな生き物はがっくりと肩を落とす。 「もう、お兄ちゃんの頑固者! こうしてやっと会いに来たっていうのに。わたし、すっごく頑張って、天使さまにお許しもらったんだからね」 ぷりぷりと怒るアンジュの姿を真似た生き物を前にして、レーベンの頭が考えることを放棄する。 (天使? アンジュ? 会いに来た? わけがわからん) 「で、お前は何だ?」 これが夢ならそのうち覚めるだろう、と思い直したのか、レーベンはこの小さな生き物と話を合わせることにした。 「お前じゃなくて、アンジュだってば。わたし今は天使見習いの身分なの。やっとお許しが出て、お兄ちゃんを迎えに来たんだよ」 アンジュだと頑なに主張する天使見習いは、にっこり笑ってさきほどと同様意味不明なことを喋る。 「迎えだと? 俺をどこへ連れて行く気だ」 「天国」 簡潔なひと言。相変わらず光の翼をひらひらと動かしながら、天使見習いは更ににっこりと微笑んだ。 (……意味不明だ。まぁ、夢に文句を言っても仕方ないがな) 「俺は死ぬのか?」 もっともな問いを口にしながらも、レーベンは顔色ひとつ変えない。 「え?」 思いがけない問いかけに、天使見習いは驚いて瞳を見開いた 「それとももう死んだのか? それにしても俺が天国へなどと……何かの間違いだろう」 意地の悪い笑みを浮かべると、レーベンはじっと天使見習いを見つめた。 「どうして間違いだなんていうの」 アンジュそっくりの顔が、ひどく悲しげな表情を浮かべる。今にも泣き出しそうな、そんな顔を見てレーベンは落ち着かない気分になる。 「俺が天国に行けるわけがないだろう? 生きるため、食うためには何だってやったさ。それでもここが、痛むことなどなかった。俺には地獄がお似合いさ」 そう言って、親指を強く自分の胸に突き付けた。口元は不敵な笑みが浮かぶ。しかし、瞳は真剣そのものだった。 天使見習いはしばらく悲しげな瞳でレーベンを見つめていた。そしてひらひらと蝶のように舞いながら、レーベンの頬に張り付く。 「ごめんね」 ぽつりと囁かれた言葉に、彼女を振り払おうとして持ち上げた右手が動きを止める。 「何を……」 「わたしのせいだね。わたしのせいで、お兄ちゃんのここは死んじゃったんだよね」 またひらひらと舞いながら、今度はレーベンの胸の辺りにしがみつく。天使見習いは小刻みに翼を震わせる。小さな光の粒子がきらきらと瞬きながら、すうっと宙にとけていく。それは夢のように儚く美しい光景だった。 「ごめんね、お兄ちゃん。アンジュ、恨んでなんかないよ」 胸元から見上げてくる真摯な瞳に、レーベンは言葉を失う。まるで死んだアンジュが、本当にそこにいるような錯覚に陥ってしまう。 「まったく変な夢だな」 不思議な感覚をごまかすように苦笑すると、胸元にしがみつく天使見習いを握り潰さないように注意してつかみ、手のひらに乗せる。 「夢だと思うならそれでもいい。でも聞いて! アンジュは恨んでなんかないよ。ちゃんとわかっていたよ、お兄ちゃんの気持ち。アンジュも同じだよ。とっても怖かった。ひとりぼっちになるの。本当はね、アンジュを見送って欲しかった。でもね、恨んでなんかないよ。お兄ちゃんがいてくれて、アンジュは幸せだったよ」 天使見習いはレーベンの手のひらの上にぺたりと座り込んで、小さな両手をしっかり組み、大切な想いを伝えようと一生懸命だ。小さな体からほとばしるとてつもなく大きな温かい波動に触れて、レーベンは知らず優しい表情になる。 「もういい、わかった。これが夢だとしたら、今までで一番いい夢だな」 もう行けよ、と言ってレーベンは天使見習いを宙に解き放つ。ふわり、と彼女は舞い上がる。きらめく光の粒を零しながら。 それを優しい気持ちで眺めながら、レーベンは再び眠りに落ちた。 瞳に眩い光を感じて、レーベンは小さく呻いた。カーテンの隙間から差し込む日の光は既に真昼のものだ。 「……変な夢だったな」 レーベンはベッドから身を起こすと、小さな天使見習いの姿を思い浮かべる。アンジュそっくりのその姿を。 (でも、いい夢だった) そう心の中で呟くと、素早く身支度を始める。今日もこれから仕事があるのだ。またひとつ罪が増える。決して消すことのできない罪が。 アンジュは天国へ行けたのだろうか。ふと、レーベンは思う。願わくはそうであって欲しい。 レーベンは上着を手に取ると肩に引っ掛けた。そのまま大またで歩き扉を開く。 真昼の日光が彼の瞳を射る。空は雲ひとつなく晴れ渡っていた。遥か空高く、光り輝く天使の翼を見たような気がして、レーベンはふと笑みを浮かべる。重く暗い灰色の雲に覆われた心に一筋の光が射す。 賑やかな音の洪水に包まれながら、レーベンは人ごみへと身を躍らせた。 |
「Secret Garden」のぴよさんから、二周年のお祝いに頂きましたv 「天国をテーマに」という何とも微妙なリクエストに、こんな素敵な作品で応えてくださいました。とても嬉しいです。 ぴよさん、ありがとうございました! |