ビオレータと偉大な魔法使い
〜再会は笑顔に満ちて〜
東の方角から眩しい太陽が顔をのぞかせ、その恵みの光が、昨夜のうちに草木を濡らした露を宝石に変えてキラキラと輝かせる。朝日は緑の草原と、丘の上に建った赤い屋根の家を優しく照らしている。 家の窓はわずかに開いており、そこからほんのり水の香りを含んだ柔らかな風が入り込んだ。風に揺らされたレースのカーテン、その影から真っ白な、すらりとした猫が姿を見せた。朝の穏やかな静寂を壊さぬよう、窓辺で背伸びをしたり、あくびをしたり。散歩を気持ちよく終えたからか、表情はすこやかだ。 白い毛並みに良く合った薄い青の瞳は、まだベッドの中で眠っている少女に向けられた。ぐっすりと眠っているから、まだまだ起きそうにない。 大きな溜め息をひとつ吐き、窓辺から降り立った白猫は、無造作に本が散らばった床を軽やかな足取りで歩き、眠る少女の枕元へ飛び乗った。 「ビオレータ、そろそろ起きなよ」 声をかけられても、少女は幸せそうな寝顔を崩さない。白猫・ミュゲはもう一度溜め息を吐き、少し声を張った。 「今日は【エスタシオン】に行く日だよ? 置いて行っちゃってもいいの?」 【エスタシオン】という言葉に力を入れると、閉じられていたまぶたがパチッと開き、青紫の瞳があらわれた。そして、今まで深い眠りに陥っていたのが嘘のように跳ね起きると、少女――ビオレータはベッドから飛び降りた。 「ミュゲくん、いま何時!?」 パジャマを脱ぎ捨て、黒いローブを着終えたビオレータは、鏡の前で寝ぐせと格闘しながら問いかけた。さっき朝の鐘が鳴り終えた、とミュゲが答えると、「やっちゃった」という風な表情が鏡越しに見えた。 王宮から届く朝の鐘が鳴り始める頃に出発する予定だったが、案の定ビオレータは寝坊したのだ。だから夕べ、早く寝るようにと念を押して言ったのに。 「あと三分だけ待ってあげる」 「えーっ、三分!?」 「それ以上は待てないよ」 「えーん、だって寝ぐせが取れないんだもん。ミュゲくん、キッチンからお水の入ったスプレー取ってきて!」 またか、と心の中で呟きつつも、仕方無くミュゲは渋々キッチンへと走っていった。 三分を少々過ぎた頃、ようやく支度を終えたビオレータと、ミュゲが並んで立っていた。今の彼は白猫ではなく、真っ白なローブを着た青年の姿をしている。瞳とお揃いの薄青の髪が、春のそよ風に吹かれて軽やかになびく。 彼らの足元には不思議な形の魔方陣が描かれていた。これは異世界へ移動するためのものである。 「じゃあ、行くよ」 「は、はい」 至って冷静なミュゲとは裏腹に、ビオレータは緊張の面持ちであった。そんな彼女にミュゲが問いかける。 「ビオレータ、何か忘れていないかい?」 「えっ?」 思い当たらないと言いたげにビオレータが首を傾げた。 「【シュヴァルツ】はそのままの姿では入れないよ」 「あっ、そうだった!」 ビオレータは大慌てで変身し、今度は彼女が猫の姿になった。黒い毛並みの、青紫の瞳の子猫だ。首には彼女の髪の色である薄紫のリボンを巻いている。 小さくなったビオレータを抱え上げ、魔方陣の中心に立つと、ミュゲは呪文を唱え始めた。 「イトゥス・エト・レディトゥス、ムンド」 詠唱が終わると、足元の魔方陣は光を放ち、白いローブの青年と黒い子猫の姿をかき消した。 【エスタシオン】――それは、人間界の四季を管理する異界の地である。“季節”を操る魔法使い達が住んでおり、春・夏・秋・冬――世界中の四季は、エスタシオンで管理されているのだ。 主に管理しているのは、白いローブを着た【ヴァイス・マージ】と呼ばれるトップクラスの魔法使いで、ひとつの国ごとに四人のヴァイスたちが専属で管理職に就いている。 魔法使いには三階級あり、上から【ヴァイス・マージ】【グラウ・マージ】【シュヴァルツ・マージ】という名がついている。ヴァイスは白、グラウは灰色、シュヴァルツは黒のローブが目印。それぞれ昇級試験が存在し、実力を認められて晴れて違う色のローブを着ることができる。 エスタシオンに人の姿で入れるのはヴァイスとグラウのみ。シュヴァルツは猫の姿でのみ入ることができる。 ちなみにビオレータは“春の魔法使い”の見習い――つまりはシュヴァルツである。春は花や芽吹きの魔法を、夏は緑や雨の魔法を、秋は実りや紅葉の魔法を、冬は雪や冷気の魔法を主に扱う。 シュヴァルツは人間の世界で季節を学ぶのがきまり。そして昇級してグラウになって初めて、エスタシオンでの修行が始まるのだ。 ◇ ◇ ◇ エスタシオン内部、“管理課”と呼ばれる建物にミュゲと黒猫ビオレータはやって来た。ここは、実際に世界の四季を管理しているヴァイスたちの仕事場である。行き交う魔法使い達は、忙しいのか揃って緊張の面持ちだ。 白いローブを着ていることからわかるように、ミュゲはヴァイスである。しかも、一般的にはひとつの季節を扱うのだが、彼はまれに見る逸材で、春と夏、両方の魔法を学んだ、非常に優秀な魔法使いなのだ。本来ならば、どこかの国の季節管理職に就いていてもおかしくないが、ビオレータのために共に人間界へと降りている。しかし、ヴァイスとグラウは人間の世界では猫の姿でいなければならない。上級者は、その存在だけで季節に影響を与えてしまうことがあるからだ。 明るい光の差し込む通路を歩いていると、向こうからやって来たヴァイスがミュゲに声をかけてきた。 「やあミュゲじゃないか、久しぶり」 そう言ってにっこり笑ったヴァイスの青年。眼鏡の彼はクラベールと言って、ミュゲと同期の春の魔法使い。暖かな日差しのような笑顔が印象的だ。 「君もやっと管理職に就く気になったのかい?」 「それはまだ先の話だね」 クラベールがからかい口調で尋ねると、ミュゲは抱えた黒猫に視線を落としながら答えた。それを追うように、クラベールも視線を落とす。 「はは、その子が噂の妹分か。こんにちは」 「こ、こんにちは」 言葉を返すと、クラベールはにっこり微笑んで長い指先で喉を撫でてくれたが、ビオレータはとても緊張していた。ミュゲ以外のヴァイスと言葉を交わすのは初めてではないが、管理職と会話するのは初めてだった。管理職は常にピリピリした空気を背負っているため、話しかけるのにも気を使うという話を聞いたことがある。 クラベールが管理職であるのは胸元の特別なエンブレムで一目瞭然。けれど彼は物腰柔らかで、とても接しやすい人だとビオレータは感じた。 ミュゲとクラベールが通路で話し合っていると、今度は別のヴァイスが通りかかり、クラベールが声をかけていた。クルクルと髪を巻いた、かなりの美人さんである。 「やあ、アーチェロ。今期はずいぶん忙しいみたいだね」 「全くよ! 新人が夏期間を間違ったおかげで、こっちは大忙しで秋をお届けしなくちゃならないんだから!」 アーチェロと呼ばれたヴァイスは、眉を吊り上げたいそうご立腹の様子だ。どうやら夏の管理職が失敗をしたらしく、そのせいで現在大忙しだと二人に愚痴っていた。ちなみにアーチェロも同期で、彼女は秋の魔法使いである。 そんな時、ビオレータは、怒っていても美人だなあと呑気に考えていた。長いまつげなんか、お人形のようである。 「で? ミュゲはやっと管理職に就く気になったの?」 「違うよ。定期更新」 定期更新とは、簡単に言えば、免許を書き換える作業だ。ミュゲはすでに管理職免許を持っており、期限が切れる前にこうして定期的に管理課を訪れ、更新作業をしている。いずれ管理職に就く場合に非常に重要な役割を果たすからだ。 「あんたがウチの国の春と夏を管理してくれれば、私ももっと楽できるのに」 アーチェロは残念そうに溜め息を吐いた。彼女の視線が自分に向けられていると気付いて、ビオレータはばつが悪そうに俯いた。 「ま、可愛い妹がいるんじゃ仕方ないよね」 苦笑しながら、アーチェロはしなやかな指先でミュゲが抱えた黒い子猫の頭を撫でた。それがとても優しくて、見た目気が強そうな彼女の本当の心を表しているようだった。 忙しいクラベールとアーチェロに別れを告げたミュゲは、定期更新のために更新室にやって来た。しかし中に入れるのはミュゲだけなので、黒猫ビオレータは扉の前にちょこんと座って大人しく待っていた。 しばらくそうしていると、一匹の黒猫がビオレータに近寄ってきた。 「あら、ビオレータじゃないの」 ちょっぴり高飛車な口調で声をかけてきたのは、冬の魔法使いのブリーナである。黒猫の姿からシュヴァルツであるのがわかるが、彼女は首に水色のリボンを巻いている。彼女の髪の色だ。 「久しぶりねえ。その様子じゃあなた、まだシュヴァルツからは抜けられなさそうだけれど」 「そ、そんなこと言って、ブリーナだって黒いローブじゃない」 ビオレータが指摘した途端、ブリーナが(猫なりに)余裕たっぷりの表情を見せた。 「ふふ、聞いて驚きなさいなビオレータ。私は来月、昇級試験を受ける事になったのよ!」 「ええーっ!」 お約束どおり、ビオレータはわざとらしいほどに驚いた。いや、驚いたのはわざとではなく、本心からだった。 昇級試験を受ける――つまり合格すればブリーナはグラウになるのだ。ビオレータよりも上級者になるのだ。そうなれば、エスタシオンを人の姿で歩けるし、管理職見習いとして働くこともできるようになる。 ビオレータとブリーナは同期で、いわゆるライバルというやつだ。師匠を持つ前に行っていた学校では、一緒に行動する事が多かった。だから何をするにも比べられたし、お互いにライバル意識を燃やしていた。ブリーナは冬の魔法使いであるため、違う師の下で修行中だが、季節が違うとはいえ、まさか先を超されるなんて。 「そういうことだから、あなたもせいぜい頑張ってね」 がっくりと項垂れたビオレータの前を、フフンと鼻を鳴らしながらブリーナが通り過ぎた。が、しばらくして彼女は振り返り、一言残していった。 「あっ! それからくれぐれもミュゲさまの足を引っ張るような事をするんじゃないわよ!」 ちなみにブリーナは、熱狂的なミュゲファンである。そんな彼女の夢は、彼と共に同じ国の季節を管理する事らしい。 免許の更新作業を終えて室外に出たミュゲは、ビオレータの姿を探して辺りを見回した。すると、黒い子猫は扉から少し離れた所で丸くなっていた。 「お待たせビオレータ。そろそろ帰ろうか」 近づいて声をかけたが、ビオレータは丸くなったまま身動きしなかった。眠っているのではないというのは雰囲気で分かる。おそらくふてくされているか、落ち込んでいるのだろう。その証拠に、抱えられてもビオレータは丸くなったまま顔を上げようとしなかった。 「なにをふてくされているの?」 黒い毛並みを優しく撫でながら、ミュゲが問いかけた。 「……ブリーナが来月昇級試験を受けるんだって」 「ブリーナ……ああ、ネージュ様のところのシュヴァルツね。それで「私はなんでダメなんだろう」って落ち込んでたの?」 「うん……だって、私、失敗ばかりするし、ミュゲくんだって本当は管理職になってるはずなのに……」 耳を垂らし、ビオレータはますます落ち込んでしまった。ブリーナの言葉や、ヴァイスたちがミュゲに管理職になって欲しがっていることなど、彼女なりに気にしているようだ。 けれど、ミュゲは自分の意思で彼女について人間界へ行っているのだ。管理職に就いてしまうと色々と面倒な事が多いし、何よりビオレータは危なっかしくて放っておけないからと、自ら望んでそうしている。だから気にすることなどないのに。 それからずっと無言で、ビオレータは丸くなったままだった。春の魔法使いのクセに、落ち込むと冬のようだと思いながら、ミュゲはひとつ提案をしてみた。 「ビオレータ、帰る前におばあさまに会って行こうか」 その言葉に黒い耳がピクッと動き、そして青紫の瞳が恐る恐る見上げてきた。 「いいの?」 「うん」 先ほどまでの落ち込みようはどこへやら、ビオレータは満面の笑みを浮かべ、途端にウキウキし始めた。 管理課を離れた二人は、そこから北にある大きな屋敷へとやってきた。ブルーメの王宮くらいある屋敷で、庭園だって引けを取らない。 屋敷の玄関でベルを鳴らすと、ふくよかなおばさんのお手伝いさんが迎え入れてくれた。彼女に導かれた部屋にはほっそりとした老婆がいた。本棚に囲まれた立派なデスクに座り、ずれた老眼鏡をただしながら、老婆は笑顔で二人を迎えてくれた。 「あらあら、まあまあ、ビオレータにミュゲ。いらっしゃいな」 「おばあさま!」 ビオレータはミュゲの腕から降り立ち、素早く移動して老婆に飛びつくと、とても嬉しそうにゴロゴロと甘えていた。 「まあまあ、ここでは猫じゃなくてもいいのよ」 「あっ、そうだった」 気付いたビオレータは人の姿に戻り、改めて老婆に抱きついた。愛しい孫娘を受け入れながら、老婆は白いローブの青年に視線を向けた。 「ミュゲもご苦労様。今日は更新かしらね?」 「はい、そうです」 「いつもこの子がお世話になっているわね。面倒かけていないか、いつも心配しているのよ」 数々の失敗談を仕舞いこんでいるが、ミュゲは曖昧に笑って返しただけだった。重大な失敗であれば報告しなければならないが、見習いなのだから小さな失敗がいくつもあって当然だ。 しかし。 「この間、無理して試した【アペルティオ・フローリス】を失敗していましたよ」 「あーっ、内緒にしてくれるって言ったのに!」 「お師匠様には内緒にしておくって言ったけど、おばあさまにも、とは言ってないよ」 ぷーっとふくれたビオレータを見て、ミュゲと老婆は笑っていた。 この老婆はビオレータの祖母で、なんとエスタシオンで最高地位にいる【グラン・マージ】なのだ。 普通ならば、たとえ上級管理職であるヴァイスであっても滅多に会う事はできない。けれどビオレータとミュゲは、こうして何度かこっそり会いに来ていたりする。 ――わたし、大きくなったら、おばあさまみたいな魔法使いになりたいの! 幼い頃に聞かされた可愛い孫娘の夢。 その言葉を思い出しながら老婆は薄紫の髪を優しくなでた。 「頑張ってね、ビオレータ」 いつの日か、白いローブの孫娘を見られる時が来ますように、と願いながら。 ブルーメに戻った時には、ブリーナのことなどすっかり忘れているのか、ビオレータは元気を取り戻していた。 すでに夜も更け、そろそろ寝ようかとベッドに横たわった彼女に、白猫ミュゲが一言。 「そういえばビオレータ。明日は大丈夫だよね?」 「えっ?」 「明日は、町はずれの木に花を咲かせる予定だけど」 「あーーっ!」 すっかり忘れてた、とビオレータは跳ね起き、大慌てで魔法の本を探し始めた。 そんな彼女を見て、明日もまた寝坊だ、とミュゲは盛大な溜め息を吐いたのだった。 ビオレータがヴァイスになる日は、まだまだ遠いようだ。 |
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