ビオレータと風の少年



〜ひそかに育てた恋の花〜








 暖かな春の風が吹く、とある日の午後。
 この日、丘の上の家は異様な緊張感に包まれていた。
 居間の中央、木製のテーブルに向かい、ビオレータはこの上なく真剣な表情で一枚の紙と格闘している。彼女の傍らには白猫ではなく白いローブを着たミュゲが立っており、手にした懐中時計に時折視線を落とす。
 シンとした空気の中でペンを走らせる音だけが響き、ビオレータの青紫の瞳は瞬きもせず羅列した文字を読解してゆくのだった。
「はい、そこまで」
 ミュゲが言葉を発するやいなや、ビオレータは息を一気に吐き出してテーブルに突っ伏した。彼女の下から紙を抜き取って軽く目を通しながら、ミュゲはビオレータの向かい側に座った。
「ふーん、結構埋まってるね」
「でしょ! 昨日、ちゃんと復習したんだから!」
 ビオレータは勢いよく顔を上げ、「褒めてくれ」と言わんばかりに得意げな笑顔を浮かべた。
「でも、正解しているかはわからないね」
 さらりとキツイ台詞を吐きつつテーブルの端に置かれていた書物を開き、ミュゲは赤いペンを持って採点を始めた。
 すると笑顔を途端に曇らせ、ビオレータは再びテーブルに突っ伏してしまった。

 ビオレータが挑んでいたのは、ミュゲが作成した【特製・模擬予測テスト(シュヴァルツ用)】である。レベルは中程度、シュヴァルツでも上位レベルの頭脳の持ち主がすらすらと回答できるものである。
 エスタシオンの魔法使い――黒ローブのシュヴァルツと灰色ローブのグラウたちには、昇級のための模擬試験が存在する。実技と筆記があり、この試験に五回合格しないと昇級試験を受ける事ができない。さらに試験結果でどれだけ能力を上げているのか、その都度チェックされるのだ。
 模擬試験は明日。それに備え、最後のまとめと称して予測テストに挑んでいたのである。

「はい、終わり」
 採点を終えたミュゲがテストを差し出すと、ビオレータはのろのろと顔を上げ、渋々受け取った。何となく見るのが怖い。
 ビオレータはあまり勉強が得意ではない。全くできないわけでもないのだが、この予測テストはかなりハイレベルだったのだ。こんな難しいの、出るわけないでしょーと心中で叫びつつ回答を埋めたのだ。
 お師匠様が甘い代わりに、ミュゲは結構スパルタである。容赦なく厳しい特訓を課せられることもある。それは心配性からくるものなのだが、全ては彼女自身が根源であるという事実に、ビオレータが気付くはずもない。
 口を尖らせながらビオレータは赤丸の数を確認した。一つ二つと数えるうちに、尖った口が引っ込み、唖然とし、そして最終的には満面の笑みが広がった。全百問という鬼のような問題の中、正解率はなんと七割を超えていた。
「まあそのテストでそのくらい出来れば、大丈夫なんじゃないの」
 わざわざ難しく作ったのだから、と付け加えつつミュゲが微笑すると、ビオレータは嬉しそうに頷いた。勉強が得意ではない彼女にとって、このテストの結果はとても嬉しい。
 今度の試験は四回目。これまで何とかクリアしてきたが、四回目ともなるとさすがに難易度が上がってくる。これをクリア出来なければ、グラウへの昇級試験など受けられない。明日は何としても、合格したいところだ。
 その後、二人は実技に備えて何時間も魔法の特訓を繰り返し、翌日の試験に挑むのだった。



◇    ◇    ◇



 エスタシオン内部、魔法使い養成学校へとビオレータはやって来た。一緒に来たミュゲは何やら用があるらしく、試験終了後に管理棟で落ち合う事になっている。
 養成学校は、エスタシオン内で唯一シュヴァルツが人の姿で歩ける場所である。各種試験から見習い達の養成まで全てこの場所で行われるため、規模は管理課よりも大きい。ゆえに新入生は場所が把握できずに迷う事もしばしばだ。
 久々に歩く学校の廊下で大あくびをしつつ、ビオレータは試験会場を目指していた。昨夜の実技特訓が厳しく、あまりに疲れたため、案の定時間ギリギリまで寝ていたのだ。
 ようやく試験会場付近にやって来ると、見慣れた顔を見つけて思わず駆け寄った。同じクラスで共に学んだ、かつてのクラスメイト達である。
「きゃー久しぶり、元気にしてた?」
「もちろん!」
 通路の一角で笑い声が響く。みな変わらず何より。
 同じ志を持つ年頃娘が三人揃えば当然だが、試験開始まで時間があるため、それまで雑談と相成った。遅刻しないようにと早めの時間設定で動いてくれたミュゲに大感謝である。
「私、今回で五回目なんだ」
「えっ、じゃあ合格したらいよいよ昇級試験なんだ」
 背が高く、知的な雰囲気を漂わすリリーが笑顔で言うと、ビオレータは羨ましそうな視線を向けた。同じ春の魔法使い志望としてはこの上なく羨ましい。
「私は四回目。でも自信ないんだよね……」
 不安げに溜め息を吐いたのは、夏の魔法使い志望のセレーノ。クラスでは誰よりも慎重派な子であったが、今でもその性格は変わらない様子。
「私も四回目だけど、毎回自信なんかないよ」
 そう言ってビオレータが舌を出すと、緊張が少しだけほぐれたのかセレーノは笑顔を浮かべた。
 それから三人は近況報告やクラスメイト達の話で盛り上がっていたが、試験の話になると唐突にリリーが言ってきた。
「でもさ、あんたのトコはお師匠さまが最強じゃない。それだけで羨ましいわよ」
 逆に心底羨ましそうな視線を向けられ、ビオレータは困惑した。
 確かに師匠であるイリスはカトル・セゾンの一人。だがそれを言ったら他のカトルはもっと大勢のお弟子さんがいるのだから、あまり羨ましがられる要因ではないと思うが。
「何言ってるの。いるじゃないもう一人」
 一瞬意味を掴み損ねたが、リリーはどうやらミュゲのことを言っているらしかった。
「え、だってミュゲくんはお師匠さまじゃないもん」
「うわー贅沢な発言だね、それ」
 傍らのセレーノにまで突っ込まれ、ビオレータは二人の顔を交互に見やった。
 二人の話を聞く所によれば、春と夏のシュヴァルツにとって、彼が兄弟子である事はこの上なく羨ましいことなのだという。学校を主席で卒業し、史上最年少でヴァイスとなった上に、春と夏両方の魔法を扱うまれに見る逸材である人物に、しかも付きっ切りで指導してもらえるなんて、師匠が二人いるようなものだと言われた。
「ブリーナが憧れてるのは私達の間では有名な話だけど、他にも憧れてる子いっぱいいるんだよ」
 そう言ったセレーノ自身も、実は憧れているんだろうというのは話しぶりで大いに感じられた。彼女はブリーナのように激しく感情を表すタイプではないが、ミュゲの話をしている時の表情はどこか嬉しそうだ。
「へーそうだったんだ。全然知らなかった」
「あんたってば、昔っからこういう話には鈍かったからね」
 リリーの言葉にセレーノも苦笑していた。こういう話=色恋沙汰の話であるが、ビオレータはそれにすら全く気付いておらず、さらに困惑していた。

「そういえば知ってる? ヴァンがグラウになったっていう話」
「えっ、あのヴァンが?」
 セレーノが話題を持ち上げた途端、ビオレータは微妙な表情を浮かべた。どこか迷惑そうな、嫌なことを思い出したような、そんな顔だ。
 ヴァンとは、やはりクラスメイトだった少年である。セレーノと同じく夏の魔法使い志望だが、彼女の話によると、どうやらずいぶん前にクラスの誰よりも早くグラウへの昇級を果たしたそうだ。
 だがビオレータにとっては、はっきり言ってどうでもいい話であった。なぜかというと、ヴァンは事あるごとに突っかかって来たり何かとからかわれたりして、苦手な相手だったのだ。
 ここにいるリリーやセレーノだけではなく、ブリーナや他のクラスメイトの誰もがその理由にしっかり気付いていたのだが、知らなかったのは超鈍感な当の本人だけで、彼女の中には苦い思い出として残っているのである。
 しかし意外と言えば意外な話だ。彼は明るくて(ビオレータ的にはうるさくて)人気者だったが、クラスで一番にグラウに昇級するような優秀な子ではなかったからだ。

 そうこうしているうちに試験開始時間が近づき、それぞれ手を振り合いながら再会を約束して散っていった。






 試験を無事に終えたビオレータは、満面の笑みで管理棟に向かっていた。もちろん姿は、首に薄紫のリボンを巻いた黒猫である。
 昨夜の予測テストのおかげで、筆記の方は難なく回答を埋めることができたのだ。実技の方は少々不安が残るものの、今回はクリアできそうな気がする。今さらながらミュゲに感謝した。
 ビオレータはミュゲとの集合場所である管理棟のエントランスにやって来ると、大人しく座って待っていた。季節管理課内には緊張しっぱなしのヴァイスたちがたくさんいるため、邪魔をしないようにというミュゲの配慮である。
 管理棟には猫の姿でのみシュヴァルツも入ることができるが、だいたいがグラウかヴァイスの付き添いがある場合である。
「ミュゲくん、まだかなー。早く帰りたいよう……」
 エントランスを出入りするヴァイスたちがいちいち視線を向けてくるため、ビオレータはかなり居心地の悪さを感じていた。どうせなら学校で待ち合わせてくれた方が良かったのに、などとふくれてみる。
 と、突然。
「きゃっ!」
 床に座っていたはずなのに身体が宙に浮かび、ビオレータは悲鳴を上げたと同時に慌てふためいて足をばたつかせた。どうやら首根っこをつかまれ、持ち上げられたらしい。
「よう、久しぶり」
 背後からなんだか聞き覚えのある声がして、ビオレータは恐る恐る振り向いた。そして青紫の瞳とかち合ったのは、意気揚々と輝く緑色の瞳だった。
 ビオレータの首根っこを掴んでいたのは、褐色の肌に銀の短髪を持つ少年。口元は得意げに弧を描いていた。
「あっ……ヴァン!」
 そう、この少年が先程話題に上った夏の魔法使い志望のヴァンである。いたずら小僧めいた笑顔は数年前とちっとも変わらないが、少しだけ顔の作りが変わったような気がする。
 ビオレータは(猫なりに)思い切り嫌そうな顔をした。足をばたつかせて必死に逃れようとしたが、ヴァンは笑顔のままで離してくれそうになかった。
「なあ、俺グラウになったんだぜ! 見てみろよこの灰色ローブ! 似合うだろー」
 手持ちのビオレータを自分の方へと向けると、ヴァンは自慢げに灰色のローブを見せびらかした。しかも胸元には、季節管理職見習いのエンブレムが輝いている。
 ビオレータは頬をふくらませて、ぷいっとそっぽを向いた。
「そんなの、全然うらやましくなんてないもん! 私だってもうすぐなんだから!」
 本当はちょっとうらやましいのだが、ヴァンの自慢が気に入らなくて強がりを言った。
 言い返されてますます面白くなってきたのか、ヴァンはにやっと笑って話をつなげた。
「俺、いま管理課で働いてるんだ。なんなら案内してやろうか」
「けっこうよ! 来たことあるもん!」
「そう言うなって。楽しいぞー?」
 ヴァンはあめ玉で子供を釣るような作戦を使ってその気にさせようとしたが、ビオレータはかたくなに拒んでいた。
「私、待ち合わせしてるの! もう離してよー」
 苦手な相手と出会っただけでも逃げ出したい気分なのに、なぜ話をしなければならないのか。そんな感じでビオレータは、しまいに泣きべそをかいた。小さな足を投げ出し、もはやぬいぐるみのような脱力加減だ。
 ヴァンの方はというと、何が楽しいのかずっと笑っていた。さすがクラスのムードメーカーだっただけあり、笑顔は夏の日差しのように眩しく、風のようにさわやか。
 だがそんなことはビオレータにとってはどうでもよく、早く帰りたい、ミュゲくん助けてー、と心の中で大いに叫んでいた。

「僕の連れに何か用?」
 背後から声をかけられ、ヴァンは振り返る。当然手にはぬいぐるみ状態の黒い猫。
 泣きべそをかいていたビオレータは、そこに待ちわびた人物を見つけて声を上げた。
「ミュゲくん!」
 さきほどまでの脱力ぶりはどこへやら、元気を取り戻したビオレータは、首根っこをつかむヴァンの手から逃れ、一目散にミュゲの懐へと飛び込んだ。
「うえーん、遅いよー」
 腕の中でおいおいと泣き出すビオレータを、ミュゲはよしよしと撫でてあやす。
 その仲むつまじい様子を見て、ヴァンは面白くなさそうにむっとしていた。敵意めいたものを漂わせて緑の瞳が睨むが、ミュゲには全く通じず、さらりと交わされた。
 そして突然何を言い出すかと思えば……
「俺、あんたには絶対負けないからな!」
 人差し指を突きつけて勝手に宣戦布告をすると、ヴァンは二人に背中を向けて行ってしまったのだった。
 ビオレータとミュゲは唖然として見送っていたが、数歩進んだ所でヴァンは立ち止まり、振り返った。
「じゃーなビオレータ! また来いよ! 今度は案内してやるからよ!」
「もう来ないもん!」
 ベーっと舌を出すと、ヴァンは嬉しそうに笑って手を振り、風のように走り去って行った。

 あの場にヴァンの師匠でもいたならば、ヴァイスに対して何という態度か、と怒られそうである。さらにブリーナなんかが居ようものなら、ゲンコツで殴られていたに違いない。
 ミュゲに意味不明な宣戦布告を残していったヴァンに対し、一体何を考えているのか、とビオレータは帰り道でも不機嫌だった。あんなやつがミュゲくんに勝てるわけないじゃないとか何とか、ブツブツ言いつつ。
 そもそも季節の魔法使い同士の勝敗って何だろう、と呑気に考えながら、ミュゲは腕に抱えた黒猫ビオレータに問いかけた。
「あの子、友達?」
「違うよ! 学校にいたときのクラスメイト!」
「ふーーーん……」
 意味深な返事をされ、ビオレータは顔を上げた。
「な、な、なに?」
「いや、別に」
 と言いつつも、ミュゲはなんだか楽しそうである。
「な、なに? なにかあるの?」
「別に何もないってば」
「気になるよーっ」
 子猫の爪が白いローブをかりかりと引っかくが、ミュゲはそれ以上は笑ってごまかしているだけであった。
 あのあからさま過ぎる態度でも全く気付かないとは……こういう鈍感な所も見事なまでにお師匠様にそっくりだ。カトル・セゾンの冬の魔法使い・ネージュの必死な様を思い出し、ミュゲはそんな風に考えながら帰路へとついた。

 ――彼は苦労しそうだな。

 ミュゲの予感は見事的中し、ビオレータがヴァンのひそかな想いを知るのは、かなーり先――彼女がヴァイスになる頃の話である。




END







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