ビオレータと春の救世主?



〜夢か現か不思議な声〜








 ビオレータは不思議な場所に立っていた。見渡す限りもやがかかったように白く、何もない。きょとんとしていると、どこからともなく声が聞こえてきた。

 ――たすけて。

 辺りを見回すも、真っ白な世界には何もなくて誰もいない。

 ――たすけて。

 声を追って走っていたら、空から光が差してきた。光はどんどん大きくなり、やがて辺り一面が眩しさに包まれた。



 はっと目を覚ますと、真っ白な天井が飛び込んできた。二度三度と夢うつつのまま瞬く。しばらくして夢を見ていたのだとようやく気付き、ビオレータはほっと胸を撫で下ろした……のも束の間、耳に届くのは小鳥のさえずりと、お城から届く正午の鐘の音だった。
「……いけない、遅刻だっ!」
 顔面蒼白でビオレータは跳ね起きた。と同時に寝衣を脱ぎ捨て、慌ただしく室内を駆け回る。今日は王宮に出かけなければならないのだ。いつもはミュゲが起こしてくれるのだが、今日に限って彼の姿がない。約束の時間は正午の鐘が鳴る前だったというのに、これでは完全に遅刻である。
「あーん、早くしなくちゃ!」
 ようやく黒いローブを着込み、適当に寝ぐせを直すと、ビオレータは大慌てで出かけて行った。

 ポカポカ陽気が心地よい、ある春の日。ビオレータはひとりでブルーメの王宮にやって来ていた。招かれたのは客間で、彼女の前にはしおれてしまった鉢植えの花。そして背後には太った王様と紳士な大臣がおり、事の成り行きをじっと見守っている。
「ウェール・ヴェニーレ、プレスト・ベニール」
 手にした杖をクルクル回しながらビオレータが呪文を口にすると、杖先がきらきらと光を放つ。その光をそっと当ててやると、ぐったりしおれていた花がみるみるうちに元気を取り戻していった。
「おおっ! 素晴らしい!」
 途端に背後から歓喜の声が上がる。国王はお腹の肉を揺らしながら、大臣の手を取ってたいそう喜んでいた。遅刻した事など微塵も気にしていないのが何よりである。
 ビオレータが城に呼ばれたのは、王様が育てている花を元気にするためだ。しかも今日は珍しく、彼女のそばに白猫がいない。ミュゲは数日間エスタシオンに出張(?)しており、今日帰宅する予定だ。
 さきほど使ったのは花を元気にする【クラシオン】という魔法だが、かなり初歩的なものなのでビオレータといえど失敗する事はまずない。そんなわけで、今日はひとりで仕事をこなしているのである。
「いやあ、ありがとう。助かったよ」
「いえ、またいつでも呼んでくださいね!」
 にっこり笑顔を返したビオレータだが、ふと心中で今朝方見た夢のことを思い返していた。
 ――そういえば、あの声は何だったんだろう?
 とても悲痛な声だった。本当に誰かが呼んでいるようだった。けれど起きてからはさっぱり聞こえないし、やっぱり夢だったのだろうと考える。ミュゲがいたら、何か助言してくれるかもしれないが……とにかく考えていても仕方がないので、ビオレータは王様と大臣に手を振りつつ、お城を後にした。



 一仕事終え、ビオレータは帰宅がてらに街中で買い物を楽しんでいた。今日はミュゲがいないせいか、あっちこっちとうろうろして目移りが激しいが、やはり最後は青果店の前で立ち止まる。店のおばさんとは仲良しなので、話が始まるとついつい長くなってしまったりする。
 店先で会話を弾ませつつ買い物をしていると、どこからか見られているような視線を感じて、ビオレータは周囲を見回した。が、当然のことながら誰もいない。
 気のせいか……そう思ったものの、何というかいつもならば足元にいるミュゲが発する――つまりは下方からの視線を確かに感じたのだ。視線を落としてみると、真っ黒な瞳がじっと見上げていた。全身薄茶で、目の周りだけが白い子犬だった。たぶんミュゲ(猫型)よりずっと小さいのではないだろうか。
「あら、その子犬また来てたのね」
 青果店のおばさんが困った風に笑いながら店から出てくる。屈むやいなや、子犬は尻尾を振っておばさんに擦り寄り、愛嬌をふりまいた。
「可愛いですねー!」
 ビオレータは瞳を輝かせながらおばさんの隣で屈み込んだ。彼女は(師匠譲りで)可愛いものが大好きである。触りたくて仕方がない様子。
 子犬は小さな尻尾を一生懸命に振りながら、ビオレータの手をペロペロ舐め始めた。
「あはは、くすぐったいよー」
「首輪もしていないから、迷い犬か捨て犬か……とにかく最近よく見かけるのよね」
 あんまり可愛くて人懐こいので、町の人々はついつい世話を焼いてしまうらしく、子犬が飢えることはないようだ。だがどこに住んでいるのかはわからないそう。
 ビオレータは帰るのも忘れ、おばさんと共にしばらく子犬と戯れて遊んでいた。


 ビオレータが帰宅したのは日が沈み始めた頃だった。西に傾きかけた夕日が丘の上の家を照らし、赤い屋根もレンガの煙突もオレンジ色に染まっている。しかし夕日が与えてくれる屋外の暖かさとは裏腹に、屋内には異様な緊張感と冷えた空気が漂っていた。
「……で? これは一体どういうことなの?」
 声の主は真っ白な猫。床に座ってぴんと背筋を伸ばしたミュゲは、座りきった薄青の瞳で目前に正座するビオレータを凝視し、一見して怒っているのがわかる。そして彼の隣には、嬉しそうに擦り寄る薄茶の子犬が。
「な、なんだか懐かれちゃったみたいで……それにこの子、家がないみたいだから放っておくのも可哀想で……だから……」
 しどろもどろになりながら、ビオレータは必死に説明をした。額には汗が浮かび、背筋を一粒の汗が伝う。沈黙がより一層緊張感を高めていた。まずい、絶対にしかられる。
 帰った途端、難題に直面させられるとは……まったく目を離すと何をしでかすかわかったものじゃない。はあ、とミュゲが深い溜め息を吐くと、ビオレータの肩がぴくりと跳ねた。
 今度こそ怒られる。掌にはじんわりと汗がにじんでいた。ビオレータの心情などお構いなしで、子犬はミュゲの長い尾で遊び始めてしまった。当事者のくせに何とも呑気である。
「……連れて来ちゃったのは仕方がない。とりあえず……」
「わーい、やったー! 住んでもいいって!」
 ミュゲの小言をさえぎって、ビオレータは子犬を抱え上げて大喜びした。それはもう跳んだり回ったりと、全身で喜びを表現している。
「ちょっとビオレータ、聞いてるの? ……って聞いてないみたいだね」
 もう一度ミュゲは溜め息を吐いた。だいたい犬に懐かれる猫なんて聞いたことがない。しかしすでに時遅く、あの喜びようではもう聞く耳を持たないだろう。これで捨てて来いなどと言った日には、ひどいだの人でなしだのこっちが悪いように言われた挙句、終いには泣きつかれるに違いない。喜ぶビオレータを尻目に、ミュゲは溜め息を吐きつつキッチンへと向かって行った。
「そうだ! 名前決めてあげなきゃ」
 ビオレータはベッドに寝転びながら一生懸命に子犬の名前を考え始めた。子犬も寄り添って、素敵な名が与えられる事を楽しそうに待っている。
 あれじゃない、これじゃない……色々と考えているうちに、ビオレータは眠くなってきたのか、うとうとし始めた。

 ミュゲがリビングに戻ってきた時、ビオレータと子犬はすっかり眠っていた。夢の中でも遊んでいるのだろうか、何やら怪しげな笑いを浮かべている。ミュゲは人型に戻り、そっと布団をかけながら苦笑した。
 自分達はこのブルーメでずっと生きていくわけではない。いずれはエスタシオンに帰らなければならない。エスタシオンには魔法使い以外入る事は許されないから、いずれは別れがやって来るだろう。そうなった時、つらい想いをするのはビオレータなのだ。だから、子犬を飼うなんて反対すべきだったのかもしれない。
 とは思ったものの、それもひとつの人生経験。楽しい事があればつらい事もある。季節の魔法使いとしてだけではなく、人として成長していくためには乗り越えなければいけない事だ。もしここにお師匠様がいたなら、きっと飼うことを許しただろう。
「……どうなることやら」
 ミュゲは子犬の寝顔を突きつつ、もう一度苦笑した。




 翌朝、ビオレータとミュゲは、子犬と共に散歩に出かけた。
 名前を決めてあげないと……ということで昨夜ずいぶん悩んだが、結局いい名が浮かばず今に至る。とりあえず、家族の一員の証として首にリボンを巻いてあげた。色はピンクだ。
 子犬はつまづいたり跳んだりと、散歩なのに忙しい。その愛らしい姿を二人は微笑ましげに見ていたが、突如子犬は何かを見つけたかのように走り出してしまった。何だろうと顔を見合わせ、ビオレータとミュゲは子犬の後を追った。
 子犬は細いわき道をどんどん進んでいった。たどり着いた先は誰かが所有する畑の一角で、大地には作物が、そして周囲にはたくさんの木々が茂っていた。
「あっ、こら! 勝手に入っちゃダメよ!」
 しかしビオレータの呼び声にも振り向かず、子犬はずんずん畑の中を進んでいってしまう。この状況で畑の主に見つかったら、勝手に入ったと怒られるかもしれない。どうか見つかりませんように――そんなビオレータの願いは見事打ち砕かれ、結局見つかってしまったのだ。
「おや、お前さんまた来たのかい」
 畑の主は初老の男性だった。子犬を見つけた眼差しはとても優しげで、屈みこんで頭を撫でていた。
「おや? 今日は他にもお客さんがいるようだ」
「す、すみません! 勝手に入って」
 勢いよく頭を下げたビオレータに、おじさんは笑いを返してくれた。
「はは、気にする事はないよ。お嬢ちゃんは、この犬の飼い主かい?」
「えっと、はい。昨日から」
「そうかい。動物好きのお嬢ちゃんに拾われて良かったな、おまえ」
 おじさんはビオレータの足元に真っ白な猫を見つけて言った。猫だけでなく犬も飼っているのだから、これではどう見てもただの動物好きだ。ビオレータは思わず苦笑した。
 二人が話している間も、子犬はどこかに向かって一生懸命走り続けていた。が、子犬ゆえに歩幅が狭く、こちらが大幅で歩けばあっという間に追いついてしまった。
「あの子犬はね、ここに来るたびあそこに向かって行くんだよ」
 おじさんが指差した方向を、青紫と薄青の瞳が見つめる。そこには一本の小高木が立っていた。子犬はその木の周囲を楽しそうに駆け回っていた。
「……ペルシコスの木だね」
 足元のミュゲが、ビオレータにだけ聞こえるようにささやいた。
 ペルシコスは、春に薄紅色の花をつけ、夏に甘い果実を実らせる木だ。もう花が咲いていてもおかしくない時期だが、この木はまだのよう。
「おじさん、これペルシコスの木だよね?」
「そうだよ。お嬢ちゃんよく知ってるね」
 一応春の魔法使いですから……とビオレータは心の中でつぶやいた。
「でも花が咲いてない。なんでだろう?」
「おじさんは長年農業をやってるけどね、こればっかりはわからないんだよ。他の木はちゃんと咲いているのに、どうしてかこの木だけがいつも咲かないんだ」
 ビオレータとミュゲは木に近づき、様子をうかがった。枯れているわけではないので、少し元気にしてあげれば立派な花が咲くだろう。そう思いながら、幹に手を触れた瞬間、ビオレータの頭の中に不思議な声が届いた。

 ――たすけて。

「あれ?」
 ぱっと手を離し、ビオレータは首を傾げた。
「どうしたんだい、お嬢ちゃん」
「今、声が……」
 不思議そうに声をかけてくるおじさんに訴えながら、ビオレータはもう一度手を触れてみた。

 ――おねがい、たすけて。

 間違いない。これは夢の中で聞いた声だ。助けを求めていたのはこのペルシコスの木だったのだ。
 もしかして……この子犬は、この木を助けたくて春の魔法使いである自分の元へやって来たのだろうか。というか、そうに違いないとやや強引に結論付け、ビオレータは勝手に不思議な運命を感じていた。
 とにかくこんなに悲痛な声を放っておくわけにいかない。ここは春の魔法使い(見習い)のプライドにかけて、あの魔法を成功させねば。ひとり意気込むビオレータの心中では使命感という名の炎が燃え上がっていたが、それに反して足元の白猫は呑気に欠伸をしていた。
「おじさん、大丈夫よ! 私がこの木に花を咲かせてあげる!」
 ビオレータが元気一杯で宣言をすると、おじさんはきょとんとして、すぐに笑い出した。いくらなんでもそれは無理だろうと。しかし、笑顔はやがて驚きに変わった。
「ウェール・ヴェニーレ、プレスト・ベニール」
 呪文を唱えると、手にした杖先に光が宿った。光はやがて七色の輝きを放ち、触れた幹から枝先までくるくる取り巻くと、枯れていたペルシコスの木は青々と葉を茂らせ、そして隣の仲間と同じように薄紅色の花を咲かせた。
「おお、これはすごい!」
 さすがのおじさんも、飛び出すんじゃないかというくらいに瞳を見開いて喜んでいた。一枚の葉すらつけなかったペルシコスは、隣に並んだどの木よりも見事に鮮やかな花を咲かせていた。
 おじさんは、感激のあまり瞳にうっすらと涙を浮かべていた。我が子のように長年見守り続け、もうだめだろうかと諦めかけていたからこそ本当に嬉しかったのだ。
「ありがとう、お嬢ちゃん」
「いえ、お礼はこの子に」
 言いながらビオレータは子犬を抱え上げた。元はといえば、この子犬が連れて来てくれたお陰なのだ。この子は春の救世主なのだ!(と勝手に思ったのは、やはりビオレータだけだが)
 おじさんは心からの感謝を込めて、子犬の頭を優しく撫でてくれた。ありがとう、と何度も何度も言っていた。
「そうだ!」
 突然声をあげたビオレータに、おじさんとミュゲが同時に瞳を向ける。そこには満面の笑みがあった。
「この子の名前は“ペル”に決めた!」
 どこから取ったのか、とは聞かずともすぐわかった。目の前には子犬の首に巻かれたリボンと同じ、薄紅色の花が咲き誇っていた。
「えへへ、よろしくねペル!」
 ビオレータは照れ笑いを浮かべ、ペルを抱え上げた。そしてペルの黒いつぶらな瞳をじっと見つめ、にっこり笑った。
「ペルが春の救世主だってことは、内緒にしておくからね!」
「わん!」
 こっそりとささやくと、ペルは元気よく返事をした。
 これから騒がしくなりそうだと思いながらも、ビオレータの喜ぶ顔を見て、ミュゲは笑わずにはいられなかった。

 しかし、ペルがビオレータの元にやってきたのは単なる偶然で、“救世主”は全くの勘違いであった事に、彼女が気づく事は生涯なかったりする……。




END







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