真昼の夢と守護者達






 瞳を覚ました時、ティアイエルは横になっていた。どれくらい眠っていたのかは分からないが、雨の音は聞こえず、眩しい光が穴の中に差し込んで来ている。
「いつの間にか寝ちゃったんだ……」
 瞳をこすりながら外に出てみると、雨はすっかり上がり、激しい稲妻も嘘だったかのように空は明るく晴れ渡っている。穏やかな風に揺らされ、大樹に茂った緑が織り成す旋律と共に、ティアイエルの耳には人の声が届いた。それもひとりではない、複数の声。
 この楽園には、自分とゼルエル以外に住人はいないはず。おかしいと思いながらも、ティアイエルは声が聞こえてくる方向へと羽ばたいていった。

 紫の瞳は驚きで見開かれていた。
 瞳の前で、たくさんの人が動いているのだ。しかも皆空色の髪、蒼い瞳、そして背には真っ白な翼がある。どう見ても【翼人】たちだ。
 どういうことか、何故こんなに人がいるのか。考えても考えてもティアイエルはその異変の理由がわからず、その場に立ち尽くしていた。
 そんな彼女に、何処からともなく現れた幼い子供が近づいてきた。
「何してるの?」
 人間にしたら五・六歳だろうか。幼い子供は笑顔でティアイエルを見上げている。誰かに似ていると思った。けれど誰なのか思い出せない。
「僕はゼルエル、君は?」
 ゼルエル……聞いたことのある名前だが、誰だったか。全く思い出せない。
「私はティアイエル」
 朦朧(もうろう)としたままティアイエルが名乗ると、ゼルエルという名の子供は、一緒に遊ぼうと言って彼女の手を引いて歩き出した。
 困惑したが、少年はしっかりと握った手を離そうとせず、仕方なくティアイエルはつられて歩いていった。
 一歩、二歩と歩くうち、どんどん過去を忘れていくような感覚があった。なぜ自分はここに来たのか、どうやってここへ来たのか。自分がどんな存在であったかも思い出せない。手を引いて楽しそうにはしゃぐ少年の顔に見覚えがあるが、どこで会ったのか覚えていない。名前も聞き覚えがあるが、誰の名前だったのか思い出せない。
 少年に連れ歩かれていくうち、たくさんの翼人とすれ違ったが、誰もが自分の名を呼び、まるでずっとこの地で共に過ごしてきた知人のように接してきた。それでも全く違和感を抱かない。逆にそれが当たり前のように思えてくる。

 やがて少年に連れて来られたのは、彼の自宅と思われる建物だ。白い土を固めたような素材の、半球体の家。自分はこの地の住人であるし、他にも大差ない建物が浮かんでいるのだから、見覚えがあってもおかしくはない。
「ただいまー!」
 ゼルエルが元気よく声を発すると、建物の奥から女性が姿を現した。長い髪を綺麗に結った、恐らく彼の母親と思われる人。翼人に年齢があるのかは知らないが、息子がいるような人には見えない。その美しさは人間では到底及ばず、少年と同じ輝きを放つ宝石のような蒼い瞳は、息子の姿を優しげに見つめている。
 彼女の姿を見た瞬間、ティアイエルは胸が詰まる思いがした。なぜかはわからないけれど、とても切ない気分になった。
 ゼルエルの母親は、客人に気付いてにっこりと微笑んだ。
「あらティアイエル、いらっしゃい」
「あ、こ、こんにちわ」
 ティアイエルは、恥ずかしそうに俯いた。透き通った女性の声で名を呼ばれたことが、何だか照れくさかった。
「ちょうど木の実のパイを焼いたところなの。お茶にしましょう」
 今度はゼルエルの母親に手を引かれて屋内へと導かれる。いつも出入りしている子が遊びに来たような歓迎ぶりだ。建物の内部に見覚えがある事も、いつも遊びに来ている家なのだから当然だと考える。
 案内されたのはリビングと思わしき一室。床と足がくっ付いたテーブル上に、ティーセットが広げられ、色とりどりの花が飾られている。焼きたてのパイが香ばしい匂いを振りまき、ティーカップに注がれた薄いピンクの飲み物が白い湯気を立ち昇らせる。
 椅子に座らされ、ゼルエルと彼の母親と楽しい談話を繰り返す。いつもと同じ風景。だが、ティーカップに口をつけた途端、ティアイエルは何か不自然さを覚えた。
 ――あれ?
 不思議に思いながらお茶を口に含む。何となくこの味を覚えている。
「今日買ってきたお茶なの。気に入った?」
 ゼルエルの母親が微笑みながら問いかけてきた。
 そうだろうか、自分はもっと前からこの味を知っていたと思う。
「ティアイエルはお母さんの作るパイが大好きだからね」
 幼いゼルエルがご機嫌で言う。
 そうだったか。自分はこのパイが好きだったんだろうか。
 呆然とした眼差しで、ティアイエルはカップの中の薄いピンクの液体を見つめた。ゆらゆらと揺れる液体に、自分の顔が映っている。視点の定まらない瞳の色は紫。楽園に住む翼人とは違った色。
 なぜ違う?

 ――そうだ……だって私は……。

 ティアイエルはもう一度カップに口をつけ、お茶を一口飲んだ。
「私……この味を知ってるわ。だって、ずっとずっと好きだったハーブティだもの」
 顔を上げたティアイエルの瞳に迷いはなかった。
「おかしいわね、今日初めて買ってきたものなのに……」
「おかしなティアイエルだね」
 母親もゼルエルも、絶え間ない笑顔で疑問を掻き消してしまう。
 違う、何かが違う。もっとよく考えて。自分を取り戻して。惑わされてはだめ。真実を見つけ出して。
「私、このハーブティがとても好きだった」
 なぜ好きだったのか。
「お城に住んでいる時、黒い髪の騎士がいて、彼女が教えてくれたの。『とても美味しいハーブティですよ』って」

 今初めて知った味ではない。ずっと前に教えてもらった。
 どこで? 城で。
 誰に? 黒い髪の、美しい女騎士に。彼女の黒い瞳はいつでも見守ってくれて、いつでも優しく導いてくれた。

「私、彼女のことがとても好きだったの。お姉さんみたいに優しくて、綺麗で、強くて……。そう、ずっと憧れてたの」
 ひとつひとつの思い出を確認するように、ティアイエルは言葉にし始めた。
「そう、そうよ。なぜ忘れていたのかしら。あんなに好きだった人なのに。ええと、彼女の名前は……」
 思い出して。彼女の名前は……

 ――心配することは何もない。私の名はアストレーア。貴女の名前は?

 思い出した、あの雨の日のこと。
 初めて彼女と、そしてとある城の王に出会った日の事を。

「彼女の名前は……」
「ティアイエル」
 合間に名前を呼ばれたが、ティアイエルは言葉を止めなかった。ここで言わなければ、きっとまたすぐに忘れてしまう。
「彼女の名前は、アストレーア。黒い髪の女騎士。そして私の義父は北方の城の王。私は、ここに住んでいた【翼人】じゃない」
 言い終えて顔を上げると、向かい側に座っていたゼルエルと母親がじっとこちらを見ていた。その表情があまりにも寂しそうで、少しだけ心がちくりと痛んだ。
「ねえ、ティアイエル。ここにいれば幸せになれるのよ。いつだって美味しいパイが食べられるし、美味しいお茶だって飲めるのよ」
「そうだよ、ティアイエル。毎日楽しく暮らせるんだよ」
 二人が必死になって引きとめようとしたが、ティアイエルは首を横に振った。
「いいえ。ここは私の住むべき世界じゃない。だって、翼人はパイなんて食べないし、ハーブティも飲まない」
 ティアイエルが母親に向けて言った。翼人は人間のものは食べないし飲まない。基本的に空腹を感じることは無い。そう教えてくれたのは誰か。
「それを教えてくれたのは……ゼルエルよ」
「ゼルエルは僕だよ」
 不貞腐れたように少年が呟いたが、ティアイエルはもう一度首を横に振った。
 違う。彼は本当のゼルエルではない。
「私が知っているゼルエルは、もっと大きくて、あなたみたいにニコニコ笑う人じゃないの」
 いつも不機嫌そうで、無愛想で、孤独で……でも、誰よりも美しく、強い人。
 ここには彼はいない。ここはまやかし。幸せという名ばかりの、ただの白昼夢。本当の楽園は、誰もいなくて、静かで、鳥達だけが声を響かせる場所。
「帰らなきゃ」
 ティアイエルは立ち上がり、リビングを飛び出した。
 早く帰らなければ、夜になってしまう。あまり遠くへ行くなと言われたのに、こんなにも遠くへ来てしまった。離れてはいけないと言われたのに、手の届かない所に来てしまった。
 ティアイエルは翼を広げ、大樹まで羽ばたいた。大樹の幹で眠ってしまった時から白昼夢へ迷い込んだのだ。きっと帰る方法も見つかるはず。
 背後で小さなゼルエルと彼の母親が、じっと彼女を見つめていた。けれどティアイエルは振り返ることなく飛び続けた。彼らはただの幻想。願っても決して叶えられない、ささやかな未来。

 目覚めた場所へと降り立ったティアイエルは、大きく力強い腕を空一杯に広げる楽園の守護者を見上げた。緑の隙間から白い光が差し、小さく弱い存在を照らしている。
 ティアイエルは大樹の幹にしがみつき、願った。
「お願い、私を元の世界へ戻して!」
 遠くから吹いてくる柔らかい風に大樹の緑がざわめき、それに合わせて木漏れ日がちらちらと揺れる。

 ――愚かな娘よ。なぜお前は人間であるのに、この楽園に存在する?

 大樹が応えた。その声は、まるで彼の幹のように、太く、力強い。

 ――ここは翼人の楽園。人間が足を踏み入れてはならぬ聖域。それなのに、なぜお前はこの地に存在する?

「私は……」

 ――聖域を汚す者よ、夢の中を永遠に彷徨うがいい。

「待って、お願いします。私を元の世界へ帰して! 帰りたいの!」
 大樹は無言で佇んでいた。少女の声に耳を貸そうとはしなかった。けれど、ティアイエルは諦めずに何度も何度も懇願し続けた。
 あまりのしつこさに観念したのか、大樹は少し困った風に問いを投げた。

 ――なぜ、夢から逃れようとする? 人間は楽で幸せな生き方を望むはず。夢の中ならば、お前を拒む者もいない、孤独もない。幸福という光だけが常にお前を取り巻き、護る。それの何が不満だという。

「だって、ここにはあの人がいないもの」
 ティアイエルの紫の瞳には涙が浮かんでいた。
「だから早く帰らないと」

 ――なぜ帰ろうとする?

 なぜ? なぜだろうか。早く帰らないと、どうなるのか。
 怒られるから? 違う、今の彼はそんな事で怒ったりはしない。
 幸せな夢を捨ててまで、孤独で寂しい世界へ帰ろうとするのは――
「あの人に会いたいから」
 大樹を見上げ、ティアイエルははっきりと力強く言った。
 早く会いたい。ここにいては二度と会えない。それほど辛い事はない。寂しくなんてない、孤独なんて感じない。あの人のそばにいることが、幸せだと思えるのだから。

 ――お前の言い分はわかった。だが“あちら”はどうだろうか。果たして、お前の帰りを待っているのだろうか。

「あちら?」

 ――ちょうど“あちら”にも客が来ているようだ。尋ねてみるとしよう。






 あまりにも帰りが遅いため、ゼルエルはぱったりと途絶えてしまったティアイエルの気配を探していた。翼を広げ、オレンジ色に染まった空を飛び回っていると、そのうちに風の伝えで楽園の守護者・大樹の声を聞いた。
 『愚かな娘は夢の中にいる』と。その声に導かれ、ゼルエルは大樹の元へやって来た。
 大樹の上空で渦巻いていた暗雲はすっきりと晴れ、風雨も雷鳴も夢であったかのように治まっていた。が、たとえ雨に打たれようが、楽園の住人の翼は濡れる事がなく、すぐそばで轟音が響こうが耳をふさいで怯える事もない。翼人は自然の恩恵を受けて生き長らえる種族。自然の脅威に脅かされる事など有り得ない。

 ――よく来た。久しいな、最後の翼人よ。

 大樹は古くからの友人を迎えるように穏やかな口調で、足元の小さな存在に語りかけた。翼を広げたまま腕組みをしたゼルエルの蒼い瞳が、大樹の緑を懐かしそうに見上げた。
「あんたと話すのは久しぶりだな」
 ゼルエルが大樹と言葉を交わすのは、彼が子供の頃以来。人間の世界へと飛び立つ前のこと。ゼルエルは、仲間を失い、“最後の”翼人になった時、大樹の元で過ごしていた。楽園の守護者はきまぐれで、たとえ翼人が相手といえど、語りかけてくるのは本当に稀だ。
「だが感傷に浸る前に、取り込んだ娘を返してもらいたい」

 ――取り込んだ、とはひどい言い草だな。私は楽園を守護する者として、この地を汚す要因を取り除こうとしているだけだ。

 大樹の声が厳しさを含む。
 それがこの地を護る者としての勤め。気が遠くなるような長い年月、翼人たちの未来だけを想って、大樹はこの楽園を見守ってきた。
「そうだな。あんたはずっと楽園を護ってきた。だからあんたが翼人を滅ぼした人間を忌み嫌うのもよくわかるし、俺だって人間は嫌いだ」
 今でも人間達は憎い。自分がしてきた事に後悔はない。それはこの先決して変わらぬ思いだと思う。けれど、とゼルエルは言葉を繋ぐ。
「あいつはただの人間じゃない。あんたの中にいるなら、わかるだろ? あいつが【恵み】を口にしたと」
 ゼルエルが珍しく笑みを浮かべた。
 【恵み】とは、大樹が実らせる果実のことをいう。その果実を口にし続ければ、やがては人間のように食を求める事がなくなる。さらに長命になるだけでなく、身体に害を及ぼすものから護ってくれる、いわば抗体を備えた身体となるのだ。
 毒薬を飲んで瀕死の状態だったティアイエルは、この地で【恵み】を口にし、命を取り留めたのだ。

 ――なるほど、確かに感じる。これは私と同じ波長だ。

 白い翼と、空色の髪。その上【恵み】を口にした者ならば、瞳の色が違っていても翼人として認めなければならない。
「そうだろう。ならば早く返してくれないか」

 ――なぜ、あの娘を求める? お前は“未来”を望まないのか?

 楽園に人間を招き入れれば、やがて訪れるのは破滅と衰退。すでに滅びかけている翼人の歴史を、完全に抹消してしまうつもりなのか。
 大樹の問いに、ゼルエルは一呼吸置いてから答えた。
「……未来を望んでるからに決まってるだろう」
 澄んだ蒼い瞳を輝かせ、楽園最後の翼人が不敵に笑った。
 “ティアイエル”は未来。楽園の未来のため、翼人の未来のため――そして自分自身の未来のためには、彼女の存在が必要不可欠。
 大樹は、知らぬ間に変わった友を無言で眺めていた。あの孤独で寂しかった、未来を見る眼差しすら捨てようとしていた幼子が、ここまで変わるとは正直驚いた。けれど、未来を見る瞳を取り戻してくれた事に、少しだけ喜びを感じていた。

 ――それほどまでに必要とするならば仕方ない。この地に住まう事を許してやろう。

 言葉と同時、緑の隙間からオレンジの光が射し込み、幹の空洞で横たわっている少女の姿を照らし出した。
 ティアイエルはすやすやと眠り、夢の世界に浸っているのか、幸せそうに微笑んでいる。人の気も知らないで全く呑気なものだ、とゼルエルは心中で毒づき、彼女を抱え上げた。

 ――お前達を見守ろう。それが楽園の守護者としての、私の務めだ。

 夕暮れの風が、緑と、そして空色を柔らかくなびかせる。
 千切れた葉と白い羽根が、いくつも宙を舞って遠い地へと飛んで行った。
「ありがとう」
 ゼルエルは小さく呟き、純白の翼を広げて大空を翔け出した。

 全ての感謝は、あなたのために。






 雲になったみたいに、ふわふわと宙を漂う感覚。
 頬を撫でる優しい風と、とても穏やかな鼓動。
 夢なら、どうか覚めないで。

 自分のものではない温もりを感じ、ティアイエルはゆっくりと瞳を開けた。ぼんやりとしていた視界にやがて浮かび上がってきたのは、風になびく空色の短い髪と、美しくも不機嫌そうな横顔。
 ――ゼルエルだ。
 今度は本物。夢の中でにこにこと笑っていた幼いゼルエルではなく、無愛想で、孤独で……それでも強く、誰よりも美しい翼人。
「……夢の中で、小さなあなたと、あなたのお母様に会ったわ」
 ティアイエルは目を瞑り、さきほどまで見ていた夢を思い出しながら楽しそうに話し始めた。
「小さなあなたは楽しそうに、にこにこ笑ってた」
「そうか」
 少し不機嫌そうな返事が返って来る。
「お母様は優しくて、あなたによく似た綺麗な方だった。初めて会ったのに、とても懐かしい感じがしたの」
「そうか」
 今度は少し柔らかな返事が返って来る。けれど相変わらずの無表情。
 そんな横顔を見つめながら、ティアイエルは恐る恐る呟いた。
「……あなたは、笑ってくれないの?」
 真っ直ぐ前を見ていた蒼い瞳が、腕の中に抱えた少女を見下ろすと、まるで機嫌を伺うような、怯えた瞳がじっと見上げていた。
「一緒にいれば、そのうち笑うかもな」
 そう言って、ゼルエルはばつが悪そうに視線を逸らしてしまった。
 その少しくすぐったい感覚が、とても嬉しくて。ティアイエルは肩をすくめると、温かな胸に笑顔を寄せた。

 これが真実の夢ならば、どうか覚めないで。
 緑の守護者が永久(とわ)に見守る、ささやかな夢よ。




END



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