◇ プロローグ ◇




「お待ちになって!」
 光溢れる通廊を、とびきりの美女が小走りで抜けていた。色素の薄い金の髪、そして鮮やかな翠緑色の瞳は、水の加護を受けし国【マトリカリア】の純血人たる証。麗しきその容貌は「まるで女神のよう」と、そう形容されることだろう。
 呼びかけた相手は声に反応することもなく歩いて行ってしまう。必死に呼び止めれば振り返ってくれるだろうと甘い気持ちを抱いていた美女は、一瞬立ち止まってちらと前方に視線を向けるも、相手との距離がさらに生じていた事実に焦りを見せ、そしてもう一度走り、今度はその腕にしがみ付いた。
「どうして行ってしまいますの? わたくしのことがお嫌いになったの?」
 涙ながらに訴え、美女は必死に腕を抱え込む。その豊かな胸に包まれたなら、たとえ腕一本といえど悦ばしそうではあるが。
 面倒くさそうな溜め息が聞こえた。次いで振り返った“青年”の漆黒の瞳が、腕にまとわりつく重力……もとい美女を鬱陶しげに見下ろす。
「俺、別にあんたのこと嫌いじゃないし」
「でしたら、どうしてっ!」
「そんでもって、別に好きでもないし」
 その一言に美女は愕然とした。
 興味もないから嫌いでも好きでもない。向けられていたのは明らかな“無感情”だった。
 しかしそれでも美女は諦めなかった。それほどまでに、彼女の心は青年に囚われてしまったのだ。
「行かないでっ!」
 涙声に決して振り返ることなく。
 漆黒の瞳の青年は去って行ってしまった。



 その、翌日のこと。



 美女の私室に呼び出された男は、柔らかな毛の敷物に膝をつき、深々と頭を垂れていた。
 美女の地位は“王女”である。その私室に自由に出入り出来る男は限られている。父王か、兄弟王子か、護衛騎士か……婚約者のみであろう。
 男はそのうち二つの条件を満たしていた。マトリカリア王女の護衛騎士、そして婚約者だ。
 高位貴族出身の騎士とはいえ、その地位は王家に匹敵するものではない。無事に婚儀を終えるその日まで、この上下関係は覆されることはない。
 婚約者として、男は王女の願いは何でも受け入れてきた。些細なことにも笑顔で応じてきた。その内は出世欲で満たされていたが、そのような心は微塵も気付かせずにここまで来た。気まぐれな王女はすぐに飽きてしまうから、その一寸の狂いもない美貌と忠誠心で常に興味を引きつけていた。
 全ては、己がのし上がるため。けれどもそこには確かに王女への愛があった。地位と愛を手に入れるためならば、笑顔の仮面を張りつけることくらいわけなかった。
 それなのに。
「あの方を、連れ戻して欲しいの」
 寂しげに呟かれた言葉に、男の眉がぴくりと動く。
 あの方とは……昨日この王宮を去った、異世界の男のことであろう。
 見上げた王女の顔はひどく消沈していた。瞳は赤く腫れており、一晩泣き明かしたのだろうと推測できた。そんな顔、婚約者として常にそばにいる男でさえ見たことはなかった。
 なぜ王女が彼の者を求めるのか――考えて、すぐさま結論に至る。
 自分の知らぬ間に逢瀬があったのだ。公にさせず繰り返されたということはつまり、そこには男女の関係があったと疑って妥当だろう。
 一寸の狂いもない美貌が凍りついた。純血のマトリカリア人たる証の翠緑色が、徐々に怒りの色を濃くしてゆく。肩先まで伸ばした髪のおかげで、幸いにもこの表情は王女には届かぬであろう。
「必ず、連れ戻して。願いを聞き入れてくれないというなら、あなたを護衛騎士の任から外していただくわ」
 任を解かれる――要するに、護衛騎士を解雇されるだけでなく、婚約の話も白紙に戻るということだ。王女が一言「あの方は嫌」と王に告げれば、これまでの努力が全て無に還るのだ。
 いや、どちらにしても自分はお払い箱となるだろう――男はそう思った。あの者を連れ戻せば、王女の心は再び彼の虜となり、婚約者であったはずの己は邪魔になる。すでに王女の心は自分から離れたのだ、これは間違いなく訪れる未来だろう。
 翠緑色の瞳が確実な怒りに燃えた。うっ血しそうなほど強く握りしめた拳がわなないた。
 出世欲と王女への愛で満たされていた男の心には、純粋なる憎悪が芽生えていた。




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