◇ 第4話 ◇




 翠緑色の瞳のきつい視線を受けながら。
 まどかは必死に頭の中を整理していた。彼の話をひとつひとつ繋げてまとめる作業を、いつもの約五倍程度と思わしき速度で処理してゆく。
 兄は、今の自分のように不慮の事故でこの国に飛ばされ、お姫様に助けられた。そのお姫様は彼の婚約者で、それを知っていたのにもかかわらず、兄はお姫様を奪ってしまった――簡潔にまとめるとこうだ。兄と姫と騎士の三角関係かこれは。しかも若干タチが悪い系の。
 この手の話はクラスメイトの、“ちょっと進んだ子たち”が話していたりするため、理解に苦しむほどではない。実際に彼氏がいたこともないまどかには、そういう時の心情やら怒りやらは未知なるものであるが……それより何より。
 ――何やってるのよー!
 大学へも行かず働きもせず一日中引きこもっていると思えば、全く一体何をやっているのだろうか我が兄は。いくら帰り方がわからないと言っても、もう成人したのだから何とでも努力して帰ってくればよかったではないか! ……と、まどかはこの状況の中、やけに現実的なことを考えていた。
「ともかく」
 空気を震わす低音の一言が思考をバッサリと断ち、まどかははっと我に返った。視線を上げると、呆れたような面倒くさそうな、そんな感情を点した瞳がこちらを見ている。無言で青ざめているまどかは、窮地に困惑して動揺していると思われたようだ。
「私は、あの男を国へ連れ帰らねばならない」
 王族の命に背けばこの命さえも危うい、とジェイドが付け加えれば、まどかは哀れなほどに震え上がった。一方ではそんな大変な目に合っている人がいるというのに、兄は一体全体どこへ逃げてしまったんだろうか。
「あ、あの……」
 ようやっとで勇気を振り絞り、まどかは口を開く。お約束のように睨まれ、結局すくみ上がったが。
「そ、その、あ、兄がご迷惑を、おかけして……ほ、本当に、本当に、すみませんでした……」
 せめてもと思い、精一杯の謝罪の気持ちを込めて頭を下げたが、純粋な少女の心さえもジェイドは鼻で軽く笑い飛ばした。
「何故おまえが謝罪する? そうされた所で私の進退に変化が生じるわけでもない。無意味な言動はむしろ気分が悪い」
 一刀両断され、まどかは絶句して凍りついた。頭を下げたままの状態でそうなったものだから、傍目にはすこぶる滑稽で哀れな状況になっているはず。
 この人は、本当に心から怒っている。怒っている、というレベルではないのだ。それもそうだろう。見知らぬ男に婚約者を取られて、あげく地位や職、果ては命まで失いそうになっているのだから。それを、詳しい事情も知らぬ小娘に軽々しく頭を垂れられて、不愉快に思う気持ちは仕方ない。
 それにジェイドの瞳には、この黒い髪も瞳も全てが兄に見えて仕方ないのだろう。こうして話を聞いてみれば、先程から向けられている視線の厳しさは納得できる、いや、しなければいけない仕打ちなのだ。変な話、あの時殺されなかっただけマシなのかもしれない。首に宛がわれた剣の刃からは、たしかに凍りつくような殺意を感じたのだから。
「安心しろ。当分の間、おまえに危害を加えるつもりはない」
 あんまりにも壮絶な表情で俯いていたせいだろうか、ジェイドが哀れに思って弁解してくれた――そう、ちょっとでも期待したのは大いなる間違いだった。
「おまえはユウヤを探すまでの人質だ。その命と引き換えに兄を連れ戻してもらおう」
 とんでもなくとんでもない、冗談では済まされない展開に、まどかは速攻で気を失いたくなった。


 その夜は、宿屋のおばさんの厚意でそのまま部屋を使わせてもらうことになった。件の怒れる騎士・ジェイドも、どうやら隣だかにいるらしい。間違いなく逃走防止とか、そういう目的で隣なのだろう。その証拠に、寝静まるはずの時間にも何度か部屋の前に現れたようだった。
 寝る前におばさんが訪ねて来てくれた時、あまりにも悲壮感漂う表情でいたものだから、本当に心配されてしまった。アメとムチ、まさにこういう時に使う言葉だと身を持って知った。ギャンギャン泣き叫んでおばさんの胸に飛び込んでしまえたら、と切実に願う程、まどかの心は疲れきってしまっていた。
 おばさんの話によれば、かの騎士はマトリカリアの正規軍の軍人で、王族の近衛騎士になれるほどだから、相当位の高い貴族だという。だからこんな辺境の町にいる事自体稀であるし、その権威は一民間人が逆らえるものではないらしい。そうだろうな、とまどかは他人事のように話を聞いた。そうでなければ、普通はお姫様と婚約なんて出来るものではない。
 そんな人を相手に兄は一体何をしでかしているのだ……ベッドに横たわり、眠れない時間を持て余しながらまどかは深いため息を吐いた。世界が違うとはいえ、どう見たって社会的地位にしても、ビジュアルにしても、敵うわけないではないか。
 友哉が見つかるまでの間、まどかは同行を強いられることになった。あくまで人質として。なぜ人質が必要なのかなんて、聞かなくても理解できる。友哉が渋った時に「妹の命が惜しければ……」という展開に持って行くつもりなのだ。
 まどかとしても、帰り方がわからない以上兄を探して聞き出すしか方法はない。ひとりで放り出されないないだけ有難いと思うしかないのかも知れない。
 だけど。
 ――あんまりだ。
 気付いた時には、頬を涙が伝っていた。
 帰りたい、帰りたい。そう心で呟くたびに涙が溢れてくる。お父さんお母さん、みっちゃん、ヨウちゃん、ノブミさん……大好きな人達の顔が浮かんでは消え、余計に寂しさがつのってゆく。無意識に携帯電話に手が伸び、開いてディスプレイを眺めてしまう。相変わらず電波状況は“圏外”で、メールも着信も何もない。
 この先自分はどうなるのだろう。今は大丈夫と油断していても、いつかジェイドは危害を加えるかもしれない。彼にとって、自分さえも憎むべき相手なのだから。そうなったら、向こうの世界では行方不明で捜索願とか出てしまうんだろうか……と考えて、ふと我に返る。
 兄は、いつも家にいた。少なくとも自分が家にいる時は間違いなく。つまりは、こちらの世界と自由に行き来しているということになるわけだ。
 考えているうちに猛烈に腹立たしくもなったが、その気力もすぐに失せた。この見知らぬ世界で希望の光は、幸なのか不幸なのか、職なし学なしの引きこもり兄だけとなったのだ。
 まどかは藁にもすがる思いでメールを打ち、奇跡よ起きろという淡い期待を胸に、兄へ向けて送信してみた。しかし結果は予想通り。すぐさま返ってきてしまうだけ。
 それを何度も繰り返し、泣き疲れた頃、まどかはいつの間にか眠ってしまっていた。

 なかなか寝付けずに遅くまで起きていたせいか、朝の目覚めは最悪だった。いつまで経っても動く様子のないまどかに苛立ったジェイドが叩き起こしに来たほどだ。その背後ではおばさんが心配そうにしていたのだが、高貴な騎士相手に言える事は何もないようで、ひどく申し訳なさそうであった。
 おばさんが気を使って運んできてくれた食事を、部屋でのろのろと食べた。焼いたパンに、細かく刻んだ野菜のスープ。少し足りない気もしたが、思うように食は進まず、結果少量の食事さえも残す有様だった。
 おばさんが食器やらを片付けて出て行く頃、入れ替わりでジェイドが現れた。彼は手にしていたたくさんの衣類の束をベッドに放り投げ、次いでまどかを一瞥する。
「この中から適当に着替えろ」
 きつい口調と視線に、もはや条件反射で身体が動き、慌ててベッドに寄って衣類を広げてみる。どれもこれもシルクに似た滑らかな肌触りで、見た目も清楚なものだ。ドレスまではいかないが、よそゆきワンピースみたいな感じである。中世ヨーロッパ史の絵とかで見るような、あんな雰囲気に近い。明らかにおばさん達が着ているような、民間人が着用できる素材ではないと、ブランド意識の低いまどかにだってわかった。
「あの……これ……」
「私のような正規軍の騎士が守護するのは殆どが要人、女性であれば姫君もしくは貴族の令嬢に限る。民間人を連れていると知れると、逆に怪しまれ、良からぬ思考を持つ輩が現れる可能性もある。おまえには見た目だけでも装ってもらう。瞳の色は仕方がないとして、髪はどうにかして隠すようにしろ。その色は珍しい。目を付けられて、人買いの手に渡ると面倒だ」
 “人買い”と聞いて、まどかはどきりとした。遠い昔、日本にもそういう風習はあったと思うが、今のさらりとした口ぶりからして日常的に有りうることのようだ。
 あくまで高圧的に言って、ジェイドはさっさと出て行ってしまった。要するに、そういった人買いたちの目に付かないようにもこの土地の人間の装いをし、同行するに当たって怪しまれないためにも着飾ってお嬢様の振りをしろと、そういうことか。面倒というのは手を煩わされたり、それで人質を失ったりするが嫌なだけだ。
 視線を落とし、まどかはまた溜め息を吐いた。手にしたワンピースを見つめてひどく気落ちする。こういう綺麗な服、着てみたいと思ってもなかなか着られるものではない。自分だって女だし、本当ならば嬉しいはずなのに、ちっとも嬉しくないし、楽しくもない。当り前だが。
 と、こんな事をしている場合ではないと、まどかは慌てて着替えを始めた。急がなければまた怒られるとわかっているのに、どうにも手が動かない。強迫観念によるものか、それとも体力低下のせいか、指先が震えて上手く着脱ができない。
「大丈夫かい?」
 控えめなノックの後に顔をのぞかせたのは、宿屋のおばさんだった。
「あんたの着ていた物と違うようだから、着方がわかるかどうか心配でね」
 どうやらそっちの方で気にしてくれたらしく、おばさんはせっせと着方を教えてくれた。
 ジェイドが用意して来たワンピース――そもそもはおばさんが買って来たもののようだが――は、一枚一枚はまるで下着かと思うほど薄地だ。それを数枚、重ねて着るのが貴族風の着こなしらしい。
「こう見えてね、若い頃は貴族様のお屋敷に奉公に出ていたんだよ。この辺の娘はそうやって修行に出るもんなのさ。どこに嫁に出しても恥ずかしくないようにね」
 色と形を見合わせて、おばさんは複数の中から三枚ほどを選び出し、まどかに着るように言った。ちょっとした物陰に隠れて指定されたように重ねて着てみる。薄地の衣装は一枚では恥ずかしすぎて着られそうにないが、重ねてみれば形も色も華やかになった。こういう重ね着は自分達とも左程変わらず、少しだけ楽しかった。
「あら、似合うじゃないかい」
「そ、そうですか?」
「あんた肌が白いから何でも合いそうだよ。こっちの服は荷物にまとめておくからね」
 荷物? と不思議がっているまどかの目の前で、おばさんは用意して来た巾着に似た形の大きめの袋に、余った服を詰め出した。
「お代のことは心配いらないよ。騎士様から頂いたからね」
 そこまで聞いてまどかは我に返った。そうだ。これからしばらくの間、あの騎士と一緒に行かなければならないのだ。
「上からはこれを羽織りな。頭はこうして、ほらショールをかければ髪の色は目立たないから」
 肩には少し厚地のマントが掛けられ、頭には薄い色のついたショールを掛けられ、それぞれ綺麗な細工のブローチで留められた。
「……悪いね。あんたが大変なことになっているっていうのはわかるんだけど……」
 騎士相手にはどうにもできないのだ。こうして世話を焼いてやることしかできないのだ。その気持ちだけは十分に伝わってきて、思わず泣きそうになった。
「いえ……あの、色々と、ありがとうございます」
「いいんだよ。大変だろうけど、頑張りな」
「はい……」
 返事はしたものの、心の中は不安でいっぱいだ。頑張るって、何を頑張るんだ自分。どうやって頑張るんだ自分。兄と連絡を取る手段もないのに。それより何より、あの人とずっと一緒だなんて怖い――。
「準備は済んだのか」
 恐るべき低音が響き、まどかは小さく肩を震わせた。ゆっくりと視線を向けると、そこには旅人のような出で立ちのジェイドがいた。彼が現れると、おばさんは深々と会釈して身を引いた。
「来い」
 顎をしゃくって踵を返したジェイドを、まどかは慌てて追いかけようと荷物を掴んだ。中身はおばさんが用意してくれたワンピース数枚と、ここに落ちた時に着ていたルームウェア、それと携帯だけ。こんな何の役にも立ちそうにないものが、今のまどかの全てだ。
「本当に、お世話になりました」
 おばさんに深々と頭を下げ、まどかは部屋を出た。

 ジェイドの後について向かったのは町中にある共同厩舎で、そこには彼の愛馬が繋がれていた。一頭は白い、もう一頭は黒い毛の馬だ。
「乗馬は?」
「……いえ、無理です」
 俯き加減で返事をしたが、面倒くさそうな表情をしているだろうとは予想がついた。どこかの高校には乗馬部があるとか聞いたこともあるが、自分の所にはないし、普通の女子高生が普通にできたらそれは特技の域だ。
 軽く溜め息を零し、ジェイドはまどかの手から荷物を取り上げると、自分の物と合わせて黒い馬の背に括りつけた。
 まどかは白い馬の前まで連れて行かれ、先に跨るように指示されたが、どうやって乗ったらいいのかわからない。用意された踏み台の上でもたもたしていると。
「きゃっ」
 突然に身体が浮き、思わず悲鳴を上げた。背と膝裏に腕の感触、そして間近にジェイドの綺麗な顔があり、色々な意味で鼓動が速まった。
 そのままさっさと馬の背に乗せられ、今度こそ自力で跨ると、確認した後にジェイドが背後に乗馬した。背に人の温もりを感じ、少しばかりどきりとするが、それよりも恐怖が上回り、まどかは全身を強張らせた。
「行くぞ」
 この先、何処へ向かうのか。兄は見つかるのか。
 様々な不安と恐怖を背に乗せ、馬は走り出した。




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