◇ 第3話 ◇




 まどかが目を覚ました時には、すでに世界は夜となっていた。
 見上げたのは見知らぬ天井、横たわっているのも違和感を覚えるベッド。けれども毛布が与えてくれる温もりに、今はひどく安心できた。
 知らない男の人が現れて、兄の名を述べて。知っているかと問われて、答えて……それから、人前だというのに盛大に吐いた所までは覚えていた。けれどその後の記憶は非常に曖昧だった。
 少しまどろんだ後に、思い出したかのように恐怖感が心を占める。どうしてこんな事になっているのか、あの人は誰なのか、兄とどういう関係なのか、そもそもここは何処なのか……整理しなければいけない事はたくさんあるはずなのに、だるくて頭が痛い。そして無性に寂しかった。
 ここが何処なのかは知らないが、今は眠りたい……そう思って寝返りをうった矢先、控えめなノックの音が響き、まどかは閉じかけた瞼を持ち上げた。
「目覚ましたんだね」
 室内に入ってきたのは、恰幅のよいおばさんだった。母よりももっと年上だろう。
 まどかと視線が合うとおばさんは穏やかに笑み、ほっと安堵の溜め息を零した。
「調子はどうだい? 寒くないかい?」
「え……と、だるいですけど、寒さは大丈夫、です」
 緑色の瞳を見て、改めて“外人”だと気付き、まどかは恐る恐る口を開く。言葉が通じるか不安だったが、どういうわけか大丈夫そうだ。
「そうかい、それなら良かった。とにかく今夜はゆっくりおやすみ。ここはウチの宿屋の一室だから安心だよ」
「え、と……あの……」
「何かあったらすぐに呼ぶんだよ。また様子見に来るからね」
 おばさんは一方的に話をして、部屋を出て行った。
 しばし唖然とした後、まどかは再び枕に頭を沈めた。たぶん、気を使ってくれたのだろう。心配せずに休めと言われているような気がした。
 とにかく今は眠りたい。色々聞くのも明日にしよう……そう考えているうちに、まどかは深い眠りについていた。

 次にまどかが目覚めたのは、翌日の昼近い時間だった。と言っても、昼だと知ったのは起きてしばらく経ってからのことだが。
 ぐっすり眠ったせいか、だるさも寒気もなくなり身体が軽い。欲を言えば、胃の中のものを全部出してしまったせいで少々お腹がすいている。うっかりすると鳴ってしまいそうだ。
 ベッドの上で半身を起し、まどかは戸惑っていた。起きたいが、どうしていいかわからない。勝手に動き回るのも失礼な気がするし、それに現状把握はまだ出来ていないのだ。
 とりあえずおばさんを呼んでみようかと思った矢先、ちょうどよくおばさんが現れた。心の声が通じたのかと正直に驚いてしまった。
「おはよう。よく眠れたかい?」
「はい……あの、ありがとうございます」
 優しげな笑顔にほだされて、まどかはお礼を言った。
「今さらだけど、言葉は通じるよね? 私はラナン。宿屋をやってるんだよ。昨日も話したけど、ここはその宿屋の一室さ」
 おばさんから見ても、まどかは異人種であるようだ。
 それはこちらも言える事だから仕方ない。
「あの、わたし、あの後……」
「真っ青になって、倒れたんだよ。だから一先ずここに運んだのさ。どこの誰だろうが、まず病人を介抱するのが先決だ」
 要するに、盛大に吐いた後に倒れ、運ばれた揚句に厄介になったと、そういうことである。
 見知らぬ人の手を煩わせたかと思うと、今さらながら非常に申し訳ない。
「あのっ、本当に、すみませんでした……ご迷惑かけて」
「なに、いいんだよ。ちょっと事情はわからないけどさ、困ってる人と病人は助けてやらなきゃね。あんたの着ていたものは、ほら、そこに洗って置いたから」
 おばさんが指示した棚の上には、綺麗にたたまれたルームウェア、その上にちょこんと携帯が乗っていた。
 そういえば……とまどかは着ているものに視線を落とした。言うなれば“洋風浴衣”といった感じで、薄地で、合わせた前を腰ひもで結ぶタイプのものだ。肌触りは柔らかく、着心地はよい。
 そして今さらながら恥ずかしくなってしまい、まどかは顔を赤らめて俯いた。おばさんが着せかえてくれたのだろうが、他人に裸を見られたのかと思うととてつもなく恥ずかしい。
「色々、ありがとうございます……」
 何度も頭を下げて礼を言うと、おばさんは「いいんだよ」と言って笑っていた。
 そうして一通り話を終えた所で、最も重要なことを思い出す。
 ここは何処なのか、自分はなぜここにいるのか。
 そして、あの男の人は誰で、兄とどういう関係なのか。兄もここにいるのか。
 一気に聞くのは迷惑な気がして、まどかは少しの間、心の中でたずねる順序を整理した。しかし気を使ったつもりが逆にタイミングを逃すこととなってしまい、ようやく口を開こうとした時には新たな来訪者が現れてしまった。
 ノックもなしに開け放たれたドアから、大きな影が踏み入って来る。
 第一印象は“美形”、この一言に尽きる。
 ゲームとかファンタジー系の洋画で見かける、いわゆる“剣士”という職業の人が着ているような服をまとった青年は、すらりと背が高く、スタイルもかなり良かった。細いわけではなく、なにか運動とか、そういうものをしっかりやって身体を作っている感じに見えた。肩先まで伸ばした髪は淡い金色で、薄暗い場所ならば銀に見えるかも知れない。
 そして何より目を引くのは、その瞳の色。おばさんのものより鮮やかで、とても美しい緑色をしていた。恐怖や不安より興味心が先立って、しばし見惚れたのは言うまでもない。
「もう少し休ませた方が……」
「構わない。外せ」
 室内に踏み入って来た男に対し、おばさんは一礼して後、恐縮しながらも言葉をかけた。
 けれど男の低音がおばさんの言葉を断ち、退室を促す。おばさんは仕方なく従った。従わざるを得ないといった感じだった。
 ドアが音を立てて閉じると、ゆっくりと振り返った男の視線がまどかを捕える。美しい緑色の瞳の鋭い視線を受け、まどかは恐れて身を固くした。
 嫌なものを見るような苛立たしげな眼差し――間違いない、あの人だ。
 途端、思い出したように恐怖に震えた。またあんなに恐ろしい目に合うのかと思うと、悲鳴を上げて逃げ出したいくらいだった。
 男は仏頂面のまま椅子に腰を下ろした。ベッドより少し離れたところで、テーブルに肘をつき、様子をうかがうようにまどかを見ていた。組んだ足はうっとりするほど長い。
「今一度確認するが」
 突然発せられた低音に、まどかはびくりと肩を震わせた。声を聞いて再確認した。あの人に違いない。
「ユウヤ・アイザキが、おまえの兄というのは、真実か」
 まただ。
 この見知らぬ土地で、見知らぬ人の口から、どうして耳慣れた名が出て来るのか。
「返答は」
 戸惑っていると、またしても苛立たしげに先を促され、まどかは慌てた。
「間違い、ありません……」
 震える声と泳ぎまくる視線で、完全に怯えていると悟られただろう。
 けれども、男はふっと鼻で笑い飛ばし、一度視線を外してから再びまどかに向き直った。
 見れば見るほど美しい男である。海外のモデルや俳優でも、ここまで完璧に造形の整った人はいないのではないかと思う。
「率直に言う。私は、ユウヤ・アイザキを探している」
 一瞬意味を掴み損ねた。おかげで“私”という一人称が、とても彼に似合っているなとか、どうでもいい事を思った。
 探しているということは、やはりこの人は兄と知り合いなのだろうが、どうしてこの見知らぬ土地の見知らぬ異人が、兄の知人なのか。そこが大問題である。
 まどかの困惑ぶりは傍目にも顕著だったのだろう。男は面倒くさそうに溜め息を吐いた。
「何故、私がおまえの兄を知っているのか、疑問なのだろう」
 え、と思い顔を上げる。
 男は、まどかの言葉を待たずに話を続けた。
「どうせ知らねばならないのだ。教えてやる。おまえの兄に、そうしたようにな」
 翠緑色の瞳にぎろりと睨まれ、まどかは身を強張らせた。

 この世界の名は【ロベリア】。
 まどかが現在身を置いているこの場所は、ロベリア南部に領土を持つ国・マトリカリアに属する町だという。
 そして、鋭い視線でもってまどかを威嚇し続けるかの麗しい青年は、マトリカリアの王宮に仕える騎士で、名をジェイド・カルミアといった。
 マトリカリアは水の加護を受けし国。翠緑色の瞳と薄金色の髪は、生粋のマトリカリア人たる証しだという。
 時は二年前――場所はマトリカリア王宮庭園、噴水内。
 その日、その場所に、突如として男が現れた。そう、まさに先刻のまどかと同じく、噴水内に全身水浸し状態で。
 男の髪と瞳の色は真っ黒で、ロベリア中を探しても決して見つからないであろうと誰もが一目で判断でき、マトリカリアとは異なる地で生まれた者であるとすぐさま理解した。言っている言葉も意味不明で、相当不審であったのは言うまでもない。
 その不審者の名は、ユウヤ・アイザキ。
 相崎友哉、紛れもなくまどかの実兄である。
 前触れもなく王宮内、しかも噴水などという場所に現れた男を誰もが警戒した。それが、国と姫を護る騎士ならば尚更だ。ジェイドだけでなく、国を護りし騎士団の面々は洩れなく男に刃を向けた。マトリカリアの近衛騎士団といえば、騎馬を許された者の中でも精鋭たちの集団である。研ぎ澄まされた力に、一撃で殺されても仕方のない状況ではあった。
 それを救ったのは、マトリカリアの姫君・エリカ。他国からも美姫と評判高い姫君は、何処の誰だかも不明な怪しい男に救いの手を差し伸べただけでなく、なんと拾って介抱してやったのだ。エリカ姫の進言で王からも許しが下り、友哉は図々しくも王宮に住みつくようになった。
 騎士とはいえ所詮は使われる身。王族の権威の前では過剰な思案も出過ぎた真似となってしまい、誰もが引き下がるしかなかった。
 それでもジェイドには納得できない理由があった。エリカ姫は、ジェイドにとって特別すぎる存在だからだ。
 友哉の一風変わった姿だけでなく、その言動にも強い興味を抱いたエリカは、警戒もせず友哉に近づき、色々と世話を焼いた。それが不安でならないジェイドは常に二人の傍にいたため、友哉とも言葉を交わす機会が多かった。エリカの願いもあって、世界のこと、この国のことを教えたのも彼だった。
「おまえの兄は、どのようにしてマトリカリアにやって来たのか解らないようだった。特に目的を持っているわけでもなかった。あの男にとっても、不慮の事故であったのだろう」
 マトリカリアでは見られぬ容姿に、使わない意味不明な言葉。それだけで友哉が自分達とは異なる場所で生まれ、生きて来たのだと知れた。
「住んでいた世界への戻り方も解らないというあの男を、姫は保護し、王宮に住まわせた。奴は自分の立場を全く理解もせず、悠々自適に、奔放に暮らした。誰もが奴を疎ましく思ったが、姫だけは違っていた。姫にとって異界の話は、何より興味深いものだったのだ。話に耳を傾け、声を聞くうちに、姫の心は次第にあの男へと傾いて行った」
 淡々と話し続けるジェイドの声が、ふいに重くきついものになり、まどかははっと顔を上げた、さっきは無に近かった彼の表情に、明らかな変化が浮かんでいた。あと一歩という所で怒りを抑えるかのような顔で、まどかを鋭く睨んでいたのだ。黒い髪や黒い瞳に、友哉の姿を重ねながら。
「私はエリカ姫の護衛騎士、そして婚約者だ」
 その一言と、翠緑色の眼差しの強さに何か嫌な予感がして、まどかは心臓を跳ねあがらせた。
「あの男はそれを知っていながら姫と情を交わした。奴に身も心も委ねた姫は、婚約者である私に、王宮を去って行った奴の捜索を願ったのだ。連れ戻さなければ護衛騎士の任を外すと、そう条件を突きつけてな。そうなれば私は職だけでなく、姫の婚約者であるという立場も失う事になる。もっとも、奴を見つけられたとしても結果は同じだろうがな。どういう意味か、わかるか?」
 射殺しそうな視線で睨まれ、言葉に詰まる。声を出せる状況ではなく、まどかは首を横に振る事しかできなかった。
「姫は、あの男に懸想しているのだ。奴が王宮に戻れば私など用無しだろう」
 吐き捨てるような言葉に、まどかは愕然とした。
 同時に痛いほどに理解する。
 ジェイドが兄に、そして自分に向けているのは、純粋な怒りなのだと。




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