◇ 第2話 ◇




 体育館での終業式が終わり、教室へと戻る頃。
「気持ち悪い……」
 まどかの体調はすっかり不良になっていた。
 壇上で「今日は特別に暑い日となりましたが……」と校長が言っていたように、とにかく体育館内は蒸していた。そんな中でも長々と話していた校長を本気で恨みたくなったのは、きっと自分だけではない。
 式の途中で具合を悪くして運ばれた生徒は何人もいた。まどかもこっそり退散しようと思ったが、上手くタイミングがつかめずに結局最後まで話を聞いていたのだ。何となく幼い頃から感じていたタイミングの悪さを、今日ほど恨みたくなったことはない。
 朝食を取らずに出てきて、そのうえ遅刻しそうになって全力疾走したのが悪かったらしい。そこへ来て今日の尋常でない暑さにすっかり負けたようだ。
「まどか、大丈夫? 保健室で休んでから帰る?」
 フラフラになっているまどかの腕を支えながら、美菜は心配そうに顔を覗き込んだ。
「ん……へいき。家まで帰れる」
 今すぐ吐きそうとか倒れそうとか、そこまでの不調ではない。自宅もそう遠くないし、帰るなら今しかないとばかり、まどかは荷物をまとめて美菜と共に学校を出た。

 相変わらず、外の暑さは尋常ではなかった。照りつける日差しがさらに気持ち悪さを募らせ、マンションに着いた頃にはまどかは吐きそうなほどになってしまっていた。暑さゆえの汗ではなく、背筋には脂汗が伝った。
 美菜と遊ぶ約束は夏休み後半に延期してもらった。楽しみにしていたのに……とぼやくと、とりあえず今日は帰って寝ろ! と逆に怒られた。ので、とにかくさっさと横になろうと、まどかはのっそりとした動作でオートロックを解除し、エントランスを抜けて部屋まで帰って来た。
「……ただいま」
 消え入りそうなほど小声で言うも返事はない。それはいつものことで、何も気に留めず、まどかは自分の部屋へ向かった。
 途中、友哉の部屋のドアが開いていて、まどかはふいに足を止めた。いつもは閉まり切りなのに珍しい……そっと中をのぞいてみると、友哉は不在のようだった。物がないゆえに片付いている部屋は静かだ。
 玄関に靴はあったから外出していないと思う。トイレかキッチンだろうか。
 と、そんなことしている場合ではないと思い出し、まどかはさっさと自分の部屋へ向かった。制服を脱いでルームウェアに着替え……そうこうしているうちに気持ち悪さは徐々にせり上がってきてしまい。
 ――吐きそうかも……。
 まどかはのろのろと壁伝いにトイレへと向かった。いざ危険になったらすぐさま人を呼べるように、携帯をしっかり握りしめて。これは兄と二人暮らしするようになってから自然と身についた習慣である。
 便座にもたれてぐったりすること数分、時折咳き込んだりするが、未だ“その時”はやって来ない。そのうち寒くなって来て、背筋がぞくりと震えた。
 別に何も出していないのだから流す必要などないのだが、無意識に手が水洗のノブに伸びて掴んだ。
 余談だが、まどかは十七年間、一度たりとも“小”の表記の方へ回した事がない。子供の頃、兄に「小は男が回すものだ」と教えられたからである。加えて、ここへ越してきてしばらくしてから故障してしまい、常に【“小”へ回すな】の貼り紙がしてあったのも理由だ。しかしこの時は無意識だったせいか、思い切り回してしまったのである。
 しかし一向に水が流れる様子はない。おかしい……と思い、もう一度回してみると。
 ゴボリ、と水中で大きな泡が生まれるような音がした。
 と思った、その次の瞬間。
 溜まっていた水が湧きあがり、爆発する勢いで噴き出してきたのだ。
「キャーッ?!」
 一瞬、視界が真っ青になった。
 ぐるり、と世界が反転するような感覚がして、自分は倒れたのだと思った。けれど。
 
 バシャン!

 ぎゅっと目をつぶったまどか、その頭からバケツをひっくり返したような大量の水が降り注ぐ。
「きゃあっ! 冷たいっ!」
 あまりの冷たさにびっくりして声を上げ、まどかは目を開けた。
 見てみれば全身びしょ濡れどころか、尻をついている地面さえも池のように水浸しではないか。
「やだーっ、どうするのこれ!」
 こんなに水だらけになっちゃって、クラ○アン呼ばなきゃならないよ! そんな風に、寒さに震えつつも焦っていたまどかだが……
 ふいに気付いた。視線を感じる。
 顔を上げて見回してみれば、自分がいる場所を取り囲むようにして人がたくさん立っていた。その目の色といえば、どれもこれも見たこともないような緑色の瞳である。
 なんで家に人が……そう考えて、また気付く。それ以前に、ここは自宅でもなければ屋内でもない。まどかが現在いるのは、晴天の青がまぶしいどこか町の中、そして座っているのは大きな噴水の中央だった。
「なっ……?!」
 ここはドコ、わたしはダレ?
 リアルにそんな事を口ずさむ日が来るなんて、本気で思ってもみなかった。
 青ざめつつ慌てている姿は、周囲の(恐らく野次馬な)人々にとってはひどく滑稽に見えたのだろう。何事かと思いつつも声をかけようかと躊躇っている。ひそひそ声が徐々に増えて来ると、現状把握もできていないくせに羞恥心だけが一気に募った。
「そ、そうだ、携帯……!」
 運良く握りしめていた携帯を持ち上げてみる。新機種の防水だったおかげで、デジタルの時計は正常に時を刻んでいた。とりあえず兄に連絡をしてみようとすぐさま開いたが、ディスプレイの片隅に表示されているのは“圏外”の二文字。
「ど、ど、どうしよっ……!」
 急に泣きたくなって、瞳には涙が浮かんだ。
 ここはドコ、わたしはダレ?
 わけがわからず狼狽しているまどかを不憫に思ったのか、野次馬の一人であった婦人が一歩進み出た時、彼女を押しのけて何者かが現れた。
 その“男”は颯爽とした足取りで噴水に近づいてゆく。歩調に合わせてひるがえるマントは見るからに上質な布で仕立てられており、それだけで高貴な身分の方なのだと野次馬たちは判断した。
 男は噴水の前までやって来ると、躊躇いもせずに足を踏み入れた。濡れるのも気に留めず水を分けて進み、そうしてまどかの前に立ちはだかる。
 突然の陰に覆われたまどかは、寒さと恐怖から真っ青になってその人を見上げた。フードとマントのせいで顔はわからないが、野次馬たちのような緑色の瞳が凝視しているのだけは見えた。
 その色があまりに綺麗で、思わず見惚れた、その瞬間。
 鋼が擦れる音が響いた。抜き放たれた“剣”はゆるやかな弧を描いて、吸い込まれるようにしてまどかの首に宛がわれる。

 ここはドコ、わたしはダレ?

 シンと張り詰めた空気の中、張り裂ける勢いで鼓動する心臓の音だけが耳に響く。周囲の水気に反して喉はカラカラに乾ききって、呼吸も上手くできない。
 首筋に感じるのは、嘘でも夢でも作り物でもない、水よりも冷たい硬質の“殺意”だ。
 洋画のファンタジーとかでこういうのをよく見かける。これは間違いなく、殺されそうになった主人公とか、そういう場面だ。

 ここはドコ、わたしはダレ?

 寒い。頭が痛い。毛先から滴る雫は水なのか汗なのか。
 なんでいきなりこんな状況に陥っているのか、まどかには少しも理解できなかった。
「……ユウヤ・アイザキという男を、知っているな?」
 このわけのわからない現状でふいに零れた言葉が、どうして耳慣れたものなのか。
「答えろ」
 優しさの欠片もない低音が、刺すように鋭い視線が、苛立ったように言葉を促す。言わなければ殺される、そんな錯覚に陥れる。
「は、い……あに、です」
 恐怖のあまり上手く声が出せず、やっとで絞り出した声は笑ってしまうほどに震えていた。
 どうしてこの人が兄を知っている? どうして自分が兄を知っていると確信したのか?
 様々な疑問が一瞬の間に脳内を駆け巡ると、思い出したように気持ち悪さが募って来て……
 まどかは、その場で見事に吐いた。




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