× 第2章 【紅蓮の魔女】 5 ×





 なだらかな円を描く硝子張りの天井が眩しく輝いている。手を伸ばしても決して触れられない高さから降り注ぐ光は、まるで裁きの光のよう。
 その神が与える光の下。奇抜な柄のローブを着た【奇術師】が、両手足を拘束された娘を見下ろしていた。
『イグネア=カルブンクルスよ。これより(ぬし)に刑を執行する』
 抑揚のない声が告げるも、イグネアは顔を上げなかった。【魔錠】にて魔力を抑えられた今、魔術師の命ともいえる瞳は紅き輝きを失い、乱れた長い栗色が疲労と絶望で痩せこけた頬を覆い、表情にさらなる影を落としていた。
(ぬし)はこれより肉体の時を止められ、受刑の準備に入る。死ぬまでその若き姿のまま、身体内外衰えはしない。主はこの【聖なる監獄(ユスティシー)】で九百年間服役し、その後釈放される。服役中は一切の飲食を禁じられるが、死ぬ事はない』
 コトリと音を立てて白い床に置かれたものに真紅の視線が向けられた。赤い蓋、小さな茶色の硝子瓶――ここへ入れられる前に強制的に飲まされた【万能薬(エリキシル)】の容器だ。万能薬(エリキシル)はプレシウの秘薬。たった一粒服用するだけで数十年間効果を発揮する。
『これにより、(ぬし)はこの先いかなる生命の危機に瀕しようとも死ぬ事はない。寝食を摂らずとも生きてゆけるし、どのような深手を負っても重症となっても、この万能薬(エリキシル)とその身に受けし呪いによって主の生命は維持される。九百年の服役を終えたのち主は釈放となるが、そこからが本当の刑であると心得よ』
 抑揚のなかった声が、少しだけ厳しさを増した。
(ぬし)はこれよりその身に四つの“呪い”を抱える』

 一、“意図して炎を操ってはならない”
 破壊と絶望を司る炎の魔術を扱えばそのまま己が身に還って来る。放った魔術の威力と同等の炎がその身を焼くであろう。
 一、“自ら命を絶つことが出来ない”
 この呪いと万能薬の力で、どんなに辛くて逃げ出したくなっても自害する事ができない。生き長らえながら苦痛に苛まれ続ける。
 一、“子を成す事は許されない”
 炎の魔術を操る忌まわしき子孫を、世に産み落とす事は許されない。そして家庭を守り、子を産み育てることがプレシウの女の仕事であるにも関わらずそれが出来ないこの娘は、女としての価値を永遠に失うこととなる。
 一、“唯一人を除き、己の真実を語ることが出来ない”
 その身に背負いし罪と罰を打ち明けられるのは、生涯で、世界で、唯一人。だが……

『真実を知る者が(ぬし)の秘密を他者に洩らせば……主は晴れて地獄へ逝くことができる』
 真実を打ち明ける者――それが不慮の事故によって現れるのか、自己の判断によって現れるのか誰にもわからない。
 事故によるならば……他人の不審を買い、憎悪と嫌悪に苦しみながら魔女は逝くのだろう。
 自己によるならば……もしもその相手が愛する者だとしたら。唯一心を許した者の手にかかり、幸福を手に出来ぬ不幸を呪いながら魔女は逝くのだろう。
 どちらにせよ、このプレシウ最悪の魔術師に課せられたのは、不幸という二文字に過ぎない。娘を不幸へと導く以外に呪いを与えられる意味はない。奪われた数多の命の重さを背負い、死んでいった者たちの苦痛と悲嘆と怒りを抱え、死ぬ事よりも辛く苦しい道を辿っていくことこそが、死すら恐れぬ紅蓮の魔女への最大の罰だった。
『覚悟はいいか、イグネア=カルブンクルスよ』
 黒手袋をはめた指が、娘の額に押し当てられた。

 そうして約千年の時を経て――【紅蓮の魔女】イグネア=カルブンクルスは、今に至る。


 脳裏に浮かんだのは忘れたはずの記憶。消し去りたい嫌な記憶が千年を経て甦ったのは、ついに真実を知る者が現れてしまったからなのか。
 ふっと息を吐き、イグネアは視線を落とした。左腕を焼いていた炎は完全に鎮火し、熱も治まった。媒体なしで炎を操れば呪いの作用でこうして腕を焼かれる。その威力に応じて罰を与えられる時間も変化する。炎狼の魔術はイグネアが扱う四つの中で第三位の威力を持つ。ゆえに数秒で済んだのだ。
「腕を、見せてみろ」
 意を決したように放たれた言葉に、イグネアは再び顔を上げた。ヒュドールは緊張と不審を混ぜたような表情でじっと見下ろしていた。無理もないとそう思う。
「腕は大事無い」
「嘘を言うな。あれだけの炎で焼かれたんだ。無事なはずは……」
 ヒュドールの言葉はそこで途切れた。イグネアが自ら左の袖を巻くり上げて腕を見せていた。細腕には古い烙印があるだけで、火傷はおろか傷一つ見当たらない。青碧の瞳が再び見開かれた。
「腕どころか全身を焼かれても、この心臓を貫かれても、(わし)は死ねない。与えられた呪いは、自害すら許さない」
 独特の発音と一人称はプレシウに生きていた者の証だ。その言葉で淡々と呟かれた言葉には重みがあった。
 九百年という長い間にプレシウは滅んだ。そこに住まう“仲間”たちは死に、時代は流れ、釈放された頃には全く別の世界が広がっていた。生活も言葉も違う。見知った世界は何処にも無かった。その孤独に耐え切れず、何度か死のうと思って自傷したこともあった。けれど一瞬の苦しみが襲ってくるだけで、すぐに傷は塞がり、何事もなかったことになる。だから自害すらとうの昔に諦めた。
「……ほ、本物なのか?」
 ヒュドールは恐る恐る問いかけた。さきほど見た映像は果たして真実なのだろうか。あの幻影の中で【紅蓮の魔女】と呼ばれた娘は、確かにこの少女と同じ顔だったけれど、どうして信じられようか。はいそうですか、とすぐに納得できるわけがない。
「さっきも言っただろう。(わし)は【紅蓮の魔女】。大戦終結の折に大罪者とされ、今なお受刑中の身だ」
 がらりと変わった口調――これはきっと、彼女の本当の言葉なのだろう。これまでの低姿勢な態度は身を隠すために偽っていたのか。話し方一つで人の印象はここまで変化するのだと初めて知った。
 これまでの地味で冴えないイグネアであったならば“大罪者”も“受刑中”も縁遠い言葉で違和感が募っただろうが、【紅蓮の魔女】として語る彼女にはそこはかとなく合っているように感じられた。
「肉体の時を止められ、呪いを科せられるのはプレシウでは“生き恥”とも呼ばれる極刑。(わし)が抱えた四つの呪いは、死する時までこの身を苛み続ける。その一つが先程見たアレだ。意図して炎を操れば、その威力に応じた炎が私の左腕を焼く。媒体なしでやれば効果てき面。けれど別の呪いのせいですぐに傷は癒える」
「別の呪い?」
(わし)は自害を許されない。傷がすぐさま癒えるのは呪いのおかげだ。ご丁寧に跡形もなく消し去ってくれる」
 ふっとイグネアは自嘲気味に笑った。何度も言わせるなという意味も込めたのだが、賢いヒュドールならばきっと気付いただろう。
 しばし沈黙が流れた。重苦しい空気が二人を包み、互いに次の言葉を考えあぐねていたが、やがてヒュドールが思い切ったように口を開いた。
「他にはどんな呪いを抱えてるんだ?」
 ここまで来たら全て聞いてしまえと腹を括った。全てを本人の口から聞いた上で、真実か虚偽かを見極めてやろうではないか。
 ヒュドールの冷静な対応に、イグネアは些か驚いていた。気持ち悪がられるか、恐怖の対象として見られるかと思っていた。けれどあまりの冷静振りに肩の力が抜けた。そうして初めて自分の方こそ緊張していたのだと思い知った。こうなったら全てを話すしかない。特に彼には言っておかねばならない事があるのだ。
「三つ目は“子を成す事が出来ない”。そして四つ目は“唯一人を除き、己の真実を語ることが出来ない”だ」
 それまで冷静だったヒュドールの顔色が変わった。どくりと心臓が脈打った。 “唯一人”、つまりそれは……
「つまり、アンタのこの身の上話を知っているのは……」
「世界でおぬし一人だけだ。おぬし以外の者が(わし)の秘密を知れば、この身には死が訪れる。どういう風に死ぬかはやった事がないからわからない」
 何でもないように言い放つイグネアとは裏腹に、ヒュドールは明らかに動揺した。つまりだ。自分が他者にこの話を洩らせば、彼女は死ぬと、彼女の生死は己に懸かっていると、そういうことになるのか。
 まるで罰を与えられた気分に陥った。人間の命を掌握するなど、とてつもない重圧感を抱えて生きなければならないではないか。
 ヒュドールの困惑を汲み取ったイグネアは、少し寂しげに笑った。当然だと思う。余程口が固くなければ無理な話、しかもこのような大罪者を彼は放置できないだろう。誰より責任感が強そうだから。
「好きにしていいぞ。(わし)は死など恐れていない。少し疲れていた所だ、そろそろ終わりたいと思っていた」
 溜め息混じりに放たれた言葉が脅迫めいた重圧を与えた。しかしヒュドールはその場で答えを導き出すことが出来なかった。




 疲れたから休みたいというイグネアを部屋に残し、ヒュドールは重い足取りで通路を歩いていた。身体中が鉛のように重い。頭がぼんやりとして、自分の足で歩いている感覚もない。青碧の瞳は困惑ぶりを惜しみなく浮かべ、鳥の尾のようにしなやかに伸びる白銀の髪は力なく宙を彷徨っている。
 イグネアの話は全て作り物なのだと思いたかった。小娘め、よくも俺を騙してくれたな、などと怒り飛ばす事が出来ればどれだけ楽だっただろうか。
 よくよく思い返してみれば、あの披露パーティの夜も様子がおかしかった。きっと罰を受けていたに違いないが、あの時は媒体として蝋燭の炎を用いたために腕を焼かれなかったのだろう。けれど今回は違う。“意図して”“媒体無しで”“自分を助けるために”炎の魔術を放った結果ああなった。それを目の当たりにし無傷の腕を見せられ、嘘だとは言えなかった。そのうえ己の秘密まで知られるはめになったのだ。彼女としては完全に不慮の事故だっただろう。
 ヒュドールはどうするべきかと真剣に悩んだ。相手はベルルム大戦の主犯、そのうえ罪無き多くの人命を奪った大罪者。「(わし)を殺せば英雄だぞ」などとイグネアは言っていたが、そんなに簡単に人命を弄べるわけがない。これまでの素振りから危険は少ないと思うが、このまま野放しにしていいものか。当時は極悪非道だったかも知れないが、約千年という信じられない時間を過ごすうち、性格が丸くなったかも知れない。彼女の命を奪うのは簡単だ。たった一言「あの女は紅蓮の魔女だ」と誰かに話すだけで終わる。だからと言ってそんなにあっさり割り切れるものではない。しかも自分を救ったがためにこうなったのだと知っているから尚更悩んだ。
 ヒュドールはブツブツと独り言を呟いたり、ううっと唸ったり、彼にしては珍しい表情の変化を繰り返しながら歩いていた。
「ヒュドール?」
 声をかけられてはっと我に返ると目前にリヒトが立っており、たった今帰って来ましたと言わんばかりに慌てている。しかし普段ならばこんなに安易に接近させる事はないというのに、うっかり考え込んでいたせいで全く気付かないほどヒュドールは無防備だった。
「イグネアはどうした? 彼女大丈夫?」
 慌てている原因はどうやら彼女を心配する気持ちらしい。護衛としてそばに居たにも関わらず落馬させてしまったことにリヒトも責任を感じているのだ。
「……あいつなら幸い怪我も無くて無事だった。今は部屋で休んでる」
「そうなんだ。それなら良かったよ」
 あとでお見舞いに行こう、などと言いながらほっと安堵の溜め息を吐いて表情を綻ばせたリヒトを見て、ヒュドールは何でか罪悪感に似た感情を抱いた。別にこの軽薄な相棒が傷付こうがどうなろうが知ったこっちゃないが、嘘を吐いたようでどうにも気分が悪い。今後もこんな感じで不快を抱かなければならないのかと思うと気分が滅入る。それならいっそ……
「リヒト」
「ん、なに?」
「実はな……」
 青碧の瞳が真摯な眼差しを向けると、黄金の瞳が瞬いた。
 言えば本当にあの娘は死んでしまうのだろうか。疲れたと言って横になっていたから、そのまま眠るように逝くのだろうか。それとも炎にその身を焼かれて逝くのだろうか。彼女は大罪者、どれだけの命を奪ったか知れない。そのせいで千年もの間生き続け、苦しんでいるのではないか。自業自得だ。
 千年――決して短い時間ではない。気が遠くなるような長い時間を、彼女はどうやって過ごしてきたのだろうか。たった一人、呪いに苦しみながら孤独に耐えて生きて来たのだろうか。あんな山奥に独りで住んでいたのはそういう理由があったからか。人目を避けて生活するのは、真実を知られるのが怖かったからなのか。
 千年も経てば異世界かと思うほど全てが変わる。かつての仲間も、見知った者も誰一人生きてはいない。そうした中でやっと真実を打ち明けられたのがどうでもいい相手で、そいつに命を掌握され、挙句心ない一言で死に追いやられたら……自分ならどうするだろうか。彼女のように「死など恐れない」ときっぱりと言えるのだろうか。ところで、どうしてあいつはチビのくせしてあんなに強く居られるのだろうか。
 いつの間にか心を支配していたのはイグネアに対する疑問ばかり。神経質なヒュドールは、全てすっきりさせなければ夜も眠れそうになかった。
 ほんの少し沈黙が流れる。続く言葉に期待心を膨らませ、リヒトはじっと待っていたが。
「いや、やっぱりやめておく」
「何っ、何なの? すごく気になるぞ!」
 話を途中で切られて逆に興味心が募ったリヒトは騒ぎ立てていたが、そんな相棒には完全無視状態で背を向け、ヒュドールは多大な不幸を背負ってしまったかのように盛大な溜め息を吐きながら、のっそりと歩いて行ってしまった。




←BACK / ↑TOP / NEXT→


Copyright(C)2007 Coo Minaduki All Rights Reserved.