× 第2章 【紅蓮の魔女】 4 ×





 城に向けて馬を走らせていた一行。だがリヒトとヒュドールはともかく、お荷物……もといゴルドのギャラリーたちの速度は遅く、この一刻を争う状況下で白銀の魔神が最高潮に苛立ちを募らせたのを見兼ねたリヒトは、イグネアを連れて先に行くようヒュドールに促した。
 当のイグネアは大丈夫だからと何度も訴えたものの、言葉に反して顔色が悪くなる等状態は悪化するばかりで、訴えは見事きっぱり却下された。そういうわけで、今度はヒュドールの馬に乗せられて城へと向かっている。
 早馬の背で、イグネアは青ざめていた。だが馬が怖い、背後の魔術師が怖い、腕が折れて痛い、そのどれも理由ではない。
 ――まずい。
 眼鏡の奥の真紅の瞳が徐々にぼんやりとしてゆく。足先から冷水に触れたような寒気が這い上がり、全身に広がってゆく。身体は寒くて震えそうになるのに反し、左腕だけが異様に熱い。尋常でない熱が腕を焼け付かせ、麻痺させている。
 このままではまずい。意識が吹っ飛びそうだ。けれど気を失うわけにいかない。何とか己を奮い立たせて前方を見遣ると、ゴルドの城は目前に迫っていた。

 やっとのことで馬から下ろされ、すぐさま医師の元へ連行されそうになったイグネアだが、それだけは勘弁して欲しいといつになく頑なに拒否した。その態度に、当然の事ながらヒュドールは不審感を爆発させたらしい。どうにかして医師の診療を受けさせようとしている。そういうわけで現在、終わりの見えない攻防戦が通路のど真ん中で繰り広げられているのである。
「ほ、本当に大丈夫ですから……」
「そんなに青い顔して大丈夫なわけがないだろう」
 全くもってその通りだろう。ヒュドールは不満げに眉をひそめたが、もう気にしている場合ではなかった。お願いだから早く一人にして欲しい。こうして問答している間も惜しいくらい。早くしないと、色々まずい事になってしまうではないか。その思いが焦りとなって表情に表れ始め、イグネアは普段の余裕も無くし、徐々に苛立ち始めた。
「本当に平気です。休みたいので、部屋に戻ります」
 少し強めの口調で言うと、ヒュドールはちょっと驚いたようだった。が、そんな些細な事に構っている余裕もなく、イグネアはくるりと向きを変えて自室を目指し歩き出した。
「ちょっと待て!」
 さっさと行ってしまいそうなイグネアを引きとめようと、ヒュドールは手を伸ばし、うっかり怪我した左腕を掴んでしまったのだが……触れた途端に焼け付くような熱さが手のひらに広がり、すぐさま手を離した。まるで熱された鉄板にでも触れたかと思ったほど。当然、青碧の瞳は思い切り見開かれていた。
 あれは人体の熱を超えている。一体どういう事なのか。問いかけようとして口を開きかけたが……目の前でイグネアがふらりと揺れ、後方に倒れこんで来た。咄嗟に手を伸ばして支えると、腕に重圧が圧し掛かる。
「おい、しっかりしろ!」
 声をかけるが、イグネアは完全に意識を失っているようで反応が無かった。


 気を失って倒れたイグネアを抱え上げ、ヒュドールは彼女の部屋に向かった。先程のやり取りであんなに拒否していたくらいだ、余程医師の診療を受けたくない理由があるのだろう、まず部屋に戻し、様子を見てからにしようと考えた。
 人を抱えていて手が使えないため、(あくまでも仕方なく)得意の蹴りで扉を開いて入室する。あまりの威力に、開いたはずの扉は反動で再び閉じたほどだ。
 とりあえずベッドに寝かせ、次いでずれ落ちまくりの眼鏡を外し、傍らに置いた。顔色は悪く、額や首筋に脂汗が浮かんでいる。そして腕が痛いのか、イグネアは時折苦しげな声を発していた。
 さきほど触れた時、左腕は尋常でない熱を帯びていた。折ったせいで発した熱とは考えがたい。傍目に異常な点は見られないが、落馬した時に打ったのは左の肩だ。腕ではなく、肩の骨が折れている可能性もある。
 ほんのり躊躇したものの、そんな場合ではないと考え直し、ヒュドールはイグネアの左の袖を捲り上げた。ゆったりとした衣の袖は抵抗なく捲くれ、細い腕が外気に晒される。それを追うようにして指先から視線を上げ、その先で見つけた異様な物に青碧の瞳は釘付けになった。
「なんだ……?」
 上腕部分、白い肌に浮かんでいたのは、裂傷でも打撲痕でもなく、一つの文字。刺青ではなく、どう見てもそれは熱した印を押し当てたと思われる痕だった。どれだけその印が熱かったのか、焼け爛れたその痕を見れば分かるような気がした。しかも、かなり以前に付けられたもののようだ。
 なぜこんな地味で冴えない娘に、こんな不釣合いなものが。もしやこの烙印が原因で腕が熱を帯びているのだろうか。
 まさかと思いつつも確かめようとして手を伸ばし、ほんの少し指先が触れた途端。眩暈に似た衝撃がヒュドールを襲い、頭が揺れるような感覚がした。そして同時、脳裏には不思議な映像が浮かび上がってきた。



 岩肌がむき出しになった、草木の一本も生えぬ大地。ぐるりと絶壁が取り囲む不毛の大地の一角には風が吹き荒んで砂塵を舞い上げ、乾いた風はその場の人々の衣や髪をバサバサと乱す。雲さえも遠い地へと飛ばされ、空は祝福を受けたかのように青く晴れ渡っている。
 小高い場所にあるアーチ状の台座には黒い覆面姿の人物が数人おり、揃って下方、岩の大地に屈服させられた者を凝視していた。
(ぬし)をベルルム大戦の主犯とし、刑罰を与える』
 台座の中央、立ち上がった少年が、少年とは思えぬような冷酷さを湛えた声色でそう告げた。侮蔑の意を惜しみなく浮かべた深緑の瞳が、無様に跪く娘を冷たく見下ろしている。
 両手足を拘束された娘は顔を伏せてじっと大地を見つめたまま、微動だにしなかった。再び吹き荒んだ風が長く伸ばした栗色の髪を乱したが、それでも娘はぴくりともしなかった。
(ぬし)は私欲の為にこの地に戦火を起こし、そして多くの尊い命を犠牲にして戦を終結させた。この罪は重く、そして過去に類を見ないほど残虐性に富んでおる。よって我々は今この時をもって(ぬし)をプレシウで最悪の大罪者とみなし、最高の刑を与える事とする』
 少年らしからぬ口調で、慈悲の心も見せず、淡々と言葉が紡がれていた。
『何か言い残す事はあるか? 最期に寛大な心でもって聞き届けてやろう。紅蓮(ぐれん)の魔女……いや、イグネア=カルブンクルスよ』
 名を呼ばれた娘の肩がぴくりと跳ねる。伏せられていた顔がゆっくりと上げられ、そして鮮やかで艶やかな真紅の瞳が忌々しげに少年を睨んだ。

 その顔は……眼鏡こそないものの、イグネア=カルブンクルス、彼女に違いなかった。



「なっ?!」
 夢から覚めたように激しく瞬き、ヒュドールは声を上げた。今そこで繰り広げられているかのように映像も声も鮮明だった。まるで自分の記憶の一部なのではないかと疑いたくなるほどだった。
 映像で見た娘の顔と、目の前で苦しんでいる娘の顔を照らし合わせる。【紅蓮の魔女】と呼ばれた娘と、彼女は同一人物だった。だが、かの有名な【ベルルム大戦】といえば、終結したのは約千年前と記録されている。
「そんなはずが……あるわけない」
 どう考えても理解できない。出来るはずがない。同一人物であるはずがない。千年も前に生きていた人間が、今この場所で眠っているわけがない。そうだ、と考えた。【紅蓮の魔女】は、きっと彼女の先祖なのだ。きっと代々同じ名を受継いでいるのだ……等、ヒュドールは珍しく非現実的な方向へと思考を向けた。しかし、そうだとしてもあまりにも顔が似すぎている。
「まさか」
 戸惑いながら、ヒュドールは今一度烙印に指先を伸ばした。触れれば、もう一度先程の映像を見ることが出来るかも知れないと、そう思ったのだが……
 触れようとしたその瞬間、固く閉じていたはずの瞼がカッと見開かれ、異様な輝きを灯した真紅の瞳が尋常でない気迫を込めてギロリと睨んで来た。未だかつてないイグネアの表情に驚愕し、圧倒されてヒュドールは身を引いた。
 その隙を突いてイグネアは驚くべき迅速さでベッドを蹴って跳び上がり、床に着地するやいなや壁際まで走り、警戒心を露わにする小動物のごとく身を縮こまらせて唸り声を上げ始めた。
「どうした?!」
 苦しみを耐えるような唸りに困惑しつつ、ヒュドールが近づいた。そして目の前で起きた現象に思わず足を止め、息を呑んだ。
 イグネアの左腕が燃えていた。まるで先程見た炎の狼がまとわりついたように、紅く激しく燃える炎が彼女の腕を焼いているのだ。
「おい……!」
 恐る恐る近づくヒュドールを、怒声が制止した。
「近づくなッ!」
「だが……」
「構うな、すぐに治まるッ……」
 だが炎はさらに勢いを増し、細い腕に絡み付いている。そして一際激しく燃え上がったかと思うと……
「あうっ……ああッ!!」
 押し殺したイグネアの悲鳴と共に、幻だったかのように消え失せた。

 伸ばしかけた手もそのままに、ヒュドールは絶句し、立ち尽くしていた。驚愕で見開かれた青碧の瞳に映るのは、見知ったはずの、けれど見知らぬ少女の姿。
 一体何が起きた? あの映像は何だった? この娘は何者だ? その左腕の烙印は何だ? 様々な疑問だけが脳裏を駆け巡っていた。
 ただ一つ分かる事。それは、彼女は普通の娘ではないという事だ。
「……アンタ、一体何者だ?」
 波紋一つない水面のように静かな声が問いかける。
 激しく肩を上下させ、がっくりと項垂れて床に座り込んでいたイグネアは、ようやく息を整え、そして左の腕――烙印を捺された箇所を強く押さえた。
 まさかこのような形で真実を知られる日が来るとは思ってもみなかった。そして、ついに“真実を知る者”が現れてしまった。この腕の烙印に触れ、“過去”を見ることが出来るのは、この世界で、生涯でたった一人。真実を知った者にはこの身に受けた呪いを聞かせ、この命を預ける事となる。
 つまり……彼がこの世界で唯一人、己の正体を知り、己の生死を左右する存在となってしまったのだ。呪いに支配され続けたこの長い長い人生を、この青年が、たったの一言告げるだけで終わらせる事さえできるのだ。
 俯いたまま口端を吊り上げて笑うと、イグネアは観念したように顔を上げ、真紅の瞳で真っ直ぐに白銀の青年を見据えた。

(わし)の名はイグネア=カルブンクルス。史上最悪の炎の魔術師と言われる、プレシウの大罪者【紅蓮の魔女】だ」




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