× 第2章 【紅蓮の魔女】 7 ×





 ゴルド城の中庭は緑に溢れ、季節の花々が咲いていてとても美しい。テラスのようなちょっとした空間には白いベンチが置かれており、広範囲に渡って庭園の風景を眺望できる。恋人同士で座れば、さぞ素敵な時間が過ごせることだろう。屋根もあるから雨も気にせず世界に浸れるに違いない。
 そのベンチに座り、オーゼラは「やってやった」と言わんばかりの勝ち誇った笑みを浮かべていた。さっきあの小娘に振舞った茶にはある薬を入れてやったのだ。知人の薬師から手に入れたもので、飲んだからと言って死にはしないが、ちょっと全身に湿疹が発生したりする代物だ。
 ――ふふ。地味なお顔をぶつぶつにして、ヒュドールに嫌われておしまい!
 などと非常に陰険な考えを麗しい顔にそのまま浮かべ、オーゼラはひとりほくそ笑んでいた。
 しかし……
「いてっ!」
 声と共に足元に誰かが転がって来て、深海色の瞳が怪訝そうに見下ろした。庭園の優美な雰囲気に浸っていたオーゼラの気分を見事にぶち壊してくれたのは、魔術師仲間のバラムだった。
 アンタ何やってるのよ、と言い掛けて口を開いたオーゼラだが、視界に別の人物の足が見えてふと視線を上げ、そして固まった。身も凍るような怒気をまとって現れたのは、昼の光を受けて銀色に輝く美形の魔術師だ。
 本来ならば黄色い声を上げて喜んでしまうのだが、今はそんな状況ではないとオーゼラにだって判断できた。青碧の瞳に浮かぶのは侮蔑や軽視よりも恐ろしい、静かで確かな殺意に感じられたのだ。
 バラムはここがオーゼラのお気に入りの場所だと知っている(しょっちゅう彼女がここで妄想を繰り広げているので)。恐らく彼を捕まえ、居場所を聞き出してやって来たのだろう。
「何かご用?」
 殺気を感じ取って内心びびりまくりだが、それを悟られぬようにオーゼラはにっこりと愛想の良い笑顔を向けた。ここで内心をさらしてしまえば、自分が何かしでかしたと正当化しているようなものだからだ。例の件でここに来たとは限らないし、とりあえず様子を見なければ。だがそんな余裕の態度もすぐに崩れてしまった。
「先日俺が言った事が理解できていないようだな」
「な、何の事かしら?」
 それでもシラを切ろうとするオーゼラに、ヒュドールはげんなりした溜め息を洩らす。
「……俺達に構うなと、二度目はないと忠告したはずだ。それでも馬鹿な行為をしでかしたのだから、まさか覚悟が出来ているんだろうな」
 青碧の瞳に全てを超越した“何か”を浮かべ、ヒュドールが一歩踏み出す。オーゼラは座ったまま後退りした。これは本気で怖い。殺されそうだ。
「ちょっと待て!」
 と、そんな凍える空気に割って入って来たのはバラムである。地面に転がっていたが何とか体勢を整え、オーゼラを庇うようにしてヒュドールの前に立ちはだかった。彼とて先日ヒュドールから受けた忠告を忘れちゃいない。しかし身を危険にさらしてでも、護りたいものが彼にだってあるのだ(多分)。
「あんたの忠告を無視した事は謝るよ。でもこいつが何でそんな事したのか、ちょっとは考えてやれよ」
 行き過ぎた行為だが、オーゼラはヒュドールを振り向かせたいがためにやっているのだ。それをわかってやって欲しい。というか、恋敵相手になんで必死になっているのか、今の自分を想像してバラムはほんのり自らを哀れんだ。が、必死の訴えも虚しく蹴散らされた。
「振り向かせるためなら何をやっても許されるのか? しかも手段が姑息で卑怯極まりない。お前のやったことは犯罪だ。それに、魔術師ならば陰険な手を使わずに正々堂々と闘ってみせたらどうだ」
 バラムは閉口した。全くもって正論で返す言葉もない。しかも余計に逆鱗に触れてしまったようで、青碧の瞳に点した怒りは限界を超えていた。
 もう許さんとばかりにヒュドールが今一度踏み出して来た。魔術の使用を控えた青碧の瞳がぎらりと妖しい光を放つ。こうなったからには今さら引き下がることは無理っぽく、バラムは息を呑んだ。美形が怒るとマジで怖い。
「ま、待て待て! 俺達を殺ったらあんただってタダじゃ済まないだろ!」
「どうとでも理由をつけて片付けてやるから安心しろ。第一、貴様も魔術師なら対抗してみせろ」
 対抗した所で敵うわけないだろうが! とバラムは内心で憤慨した。きちんと力量がわかっている辺り、見た目の柄は悪いがオーゼラよりも幾分分別があるようだ。
 美麗な顔に冷たい怒りを浮かべて近づくヒュドール、内心で逃げ出したいと思いつつも男のプライドが見事勝利して逃げ道を失ったバラム。
 そんな二人の会話を耳に留めながら、オーゼラは深い溜め息を吐いた。どんなに頑張っても振り向かないヒュドールが、あの小娘を想って自分達に殺意を抱いている(と勝手に勘違いしている)。それこそ本気である証ではないのだろうか。もう自分が立ち入る隙などこれっぽっちもないくらいに。
「(あの小娘に)本気なのね……」
 バラムの背後からオーゼラが真摯な眼差しを向けると、ヒュドールは冷ややかな視線を返した。こちらは思い切り臨戦態勢である。
「本気だ(今すぐ葬り去ってやりたいほどにな)」
 ちなみにヒュドールが言った“本気”は「本気でお前たちを許さない」という意味なのだが……。オーゼラは意味を完全に取り違えたらしく、がっくりと肩を落とした。
 ――本人の口から真実を告げられてしまったら、認めるしかないじゃない。
 誤解であることに微塵も気付いちゃいないオーゼラは、ついにこの恋を諦める事を決意したようだ。
「……わかったわ。そこまで言うなら(あなたの事を)諦める」
 この発言にいち早く反応したのはバラムだった。
「ちょっと待て、おまえ何言ってんだよ! こんな所で諦めていいのか?」
「バラム……」
「いいか、そんな弱音を吐いたらダメだ! 最後まで(あいつを止める)最善を尽くそうぜ!」
「バラム、あなたがそんなにまで応援してくれるなんて……ちょっと意外だけど、嬉しいわ。でも、もういいの。諦めなきゃね」
 よよよ、としおらしくよろけて見せたオーゼラを、バラムは唖然として眺めていた。俺達は今、命の危機に晒されている所だ。その状況下で一体何を応援すると言っているんだこの女は。
「どうでもいいが、敵に背を向けるとは随分と余裕だな」
 はっと我に返り、バラムは振り返った。その先では怒りを通り越して呆れモードに突入したヒュドールが、面倒くさそうに溜め息を吐いていた。
「そっちは覚悟が出来たみたいだな」
 青碧の瞳がバラムの背後を見遣る。どうやらヒュドールは、オーゼラが“死ぬ”覚悟ができたらしいと、こちらも大いなる勘違いをしているようだ。
「いやいやいや、頼むからちょっと待ってくれ!」
 バラムは慌ててヒュドールを制止した。足りない頭をフル回転させ、必死に状況をまとめようと試みる。この二人、互いに別の話を展開させているにも関わらず、返答の曖昧さで話がまとまってしまったのではなかろうか。
 オーゼラの「諦める」はヒュドールの事を諦めるという意味なのだが、ヒュドールは彼の怒りを受け入れるという意味で捉えているらしい。たった一人現状を把握してしまったバラムは混乱した。
 ――つーか、どうすんだよこの状況!
 頼むから、誰か助けてくれ。バラムは必死に救いを求めていた。

 そんな時に、救世主(?)が現れた。

「おや? 皆さん揃って何してらっしゃるんですか?」
 偶然なのか狙ってなのか知らないが、のほほんとした口調で現れたのは、おさげで地味で小柄な少女。すれ落ちた眼鏡を正しつつ、不思議そうに首をかしげてこちらを見ていた。
 チャンス到来。ここで逃げなければマジで殺される! バラムはぱっと笑顔を浮かべ、少女――イグネアに駆け寄った。
「いい所に来た! ちょっとあんた、あの魔術師様を止めてくれよ!」
「は? 止める?」
 バラムはイグネアにだけ聞こえるよう、コソコソと訴えた。何のことやら理解できないイグネアだったが、ずいっと背中を押され、いつの間にかヒュドールの前に立たされてしまっていた。
「あの、状況がわからないんですけれど……」
「アンタには関係ない。だからそこをどけ」
「い、いえ、どけと言われてもですね……」
 しっかり背中を押さえられていて動けないんですけど。と真紅の瞳が背後を見遣るが、バラムは「頼むよ」と言った感じで情けない表情を返してくるだけだ。
「……ちょっとした誤解が生じてさ。今、俺たち二人はあの兄ちゃんに殺されそうになってるんだ」
「えええええ?!」
「声がでかいっつーの!」
 バラムはこそっと事情を説明しようとしたが、イグネアが必要以上に大きな声を上げたため、ちっと舌打ちをした。
「どうやら、オーゼラがあんたにちょっかい出したのが気に入らないらしくて。こいつも反省してる(と思う)し、何とかしてくれないかな。頼むよ、一生のお願い!」
 うーん、とイグネアは唸った。ちょっかいとは、もしかしてさっきのお茶云々の話が関係しているのだろうか。確かにヒュドールは怒っていたが、まさかあの程度で殺人にまで発展するとは思いも寄らなかった。とりあえず見た感じでヒュドールが本気なのはわかる。そしてバラムの後ろにいるオーゼラが、何でか気落ちしているのも見て取れる。
「えーっと、その、お怒りはごもっともですが、殺人は良くないと思いますよ?」
 へらっと笑って交渉に乗り出したイグネアを、青碧の瞳がぎろっと睨む。条件反射でイグネアは怯み、さらにバラムも同調した。
「うるさい。これは俺の問題だ。引っ込んでいろ」
「俺のって……一応、私もこの件には関係してるんですよね?」
 ヒュドールではなく背後のバラムに問いかけると、彼はうんうんと必要以上に頷いていた。その後「余計な事は言うな」とヒュドールに睨まれて青ざめていたが。
 はあ、とイグネアは溜め息を吐いた。今どきの魔術師どもは、戦ではなく余計な事に神経を使って大変だなと。
 肩を掴んでいたバラムの手から逃れ、イグネアはヒュドールに歩み寄った。そうして彼にしか聞こえないだろう小声で話しかける。
「毒なんぞ盛られてもどうせ死にはしないのだから、許してやれ。こんな事で罪人になるなど、おぬしほどの者がたわけた真似をするな」
 老人口調で言われると、何でか説教されたようで悔しい。有無を言わせぬ物言いに、ヒュドールは込み上げて来た怒りを吐き出そうと口を開いたが、イグネアはすでに背を向けていた。
 だが、確かに彼女の言う通りだ。こんな下らない事をする輩のせいで、牢獄行きなんてまっぴら御免だ。しかも「おぬしほどの」などと言われて悪い気分はしなかった……などと浮かれた所でヒュドールは我に返った。なんで俺はあんな小娘に褒められて喜んでいるんだ。いやいや違う。あれは、あれでも一応魔術師の先祖みたいなものだから、ちょっといい気分になっただけで、決して喜んでいるのではない。というか、この俺に意見するなど何と生意気な小娘なんだ。
 ……などと一人ブツブツ言っているヒュドールは放置しておいて。
「彼もわかってくれたみたいですし、もう大丈夫だと思いますよ。でも、どんなに好きでも人の嫌がる事はしてはいけません。そんなことをしたら、あなたが嫌われてしまいます。嫌われるという事は、とても寂しくて辛いのですよ」
 がっくりと肩を落としたオーゼラの前まで進み出ると、イグネアは屈み込んで膝を抱えた。丸くなると、小柄な身体がいっそう小さく見える。
 その姿を、青碧の瞳はじっと見据えていた。かつて自分も言われたことのある言葉――それは、遥か昔に全てを敵に回して闘い、人々に忌み嫌われていた彼女だからこそ口に出来る、とても重厚な意味を込めた言葉だ。
「……ごめんなさい」
 小さく呟かれた言葉に、イグネアはにっこりと微笑んだ。消え入りそうな声でも、それはきっとヒュドールにも届いたはず。その素直な一言は、どんな言葉よりも効果があるのだ。


 そんなこんなで、ゴルド城での数日間を終え――
 スペリオルに帰国する事になった一行は、ずらりと並んだ馬車に集まり、出立の準備に勤しんでいた。特にする事も無いため、誰よりも遅く場に到着したイグネアは、意外な待ち人がそこにいて真紅の瞳を瞬かせた。
「よう」
 壁にもたれながら馴れ馴れしく手を上げたのは、ゴルドの魔術師・バラムである。
「どうもお世話になりました。例の彼女はお元気ですか?」
「まあな。でも見送りは遠慮しとくって言ってた。代わりにあんたらに謝っといてくれって。あいつ見た目通りのプライドの高い女だからさ。許してやってよ」
 苦笑交じりに話すバラムに、イグネアは自然と頬を緩めた。見た目の柄は悪いし、出会った時は髪を引っ張られる等の悪行を受けたものの、意外と善い青年ではないか。きっと彼が傍にいればあの娘もすぐに立ち直れるだろう。
「あとさ、これは俺個人の礼なんだけど……あんたには感謝してるんだよ」
「は? 私、お礼されるような事をしましたか?」
 わけがわからずにイグネアは首を傾げた。
「いやいや、いいんだ分かんなくても。とりあえずそれだけ。じゃあな、あの男前と仲良くやれよ!」
 まさか、あんたが現れたおかげで意中の彼女が振り向きそうだ、などとは口が裂けても言えなかったが。バラムは気前良く手を振って、余計な一言を言い放ちながら颯爽と駆けて行ってしまった。
 イグネアは去って行く後姿を呆然と見送っていたが……
「おい、何をしている! さっさと乗らないと置いていくぞ!」
 背後から怒声を浴びせられ、大慌てで馬車へと走っていった。
 ゴルドの二人の魔術師に多大な誤解を残したとは知る由もなく。イグネアは馬車に乗り込んだ途端にグーグーと居眠りを始め、のんびりと帰路に着いた。


 第2章【紅蓮の魔女】・完




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