+ プロローグ +




 薄暗い地下室で、若い娘が泣いていた。冷たい床に座り、がっくりと項垂れながら、何度も何度も「ごめんなさい、どうか許して」と請う声が響く。
 泣き崩れる娘の前には、黒い棺に横たわっていた。その中で眠るのは、絶世とも言える美しい青年。紫銀の髪は肩から腰まで流れ、人形のように美しい顔立ち。立ち上がれば長身であろうと想像できる長い手足。細い髪の先まで完璧に創り上げられた造形は、もしも“生きて”いたならば、さぞ魅力的であったろう。
 青年は死んでいた。両手を組んだ胸は赤く染まり、呼吸が止まった身体は微動だにしない。固く結ばれた形良い唇は変色し、空気に触れる肌は外気を吸ったように冷たく、白い。
 娘は、棺で眠る青年に向けて何度も許しを請うていた。
「ごめんなさい、ゼタル……。こうするしかなかったの。私、あなたの事を本当に愛していたの。どうしても、あなたが欲しかったの」
 頬を伝う大粒の涙は顎を流れ、娘の両手に持たれた“それ”へと落ちる。血を滴らす赤黒い“それ”は、娘の手の中で今なお鼓動する――青年の心臓だった。
 娘は、青年を愛していた。心から愛していた。狂うほどに愛した結果、青年を独占するために彼の心臓を取り出して殺したのだ。

「ここにいたのか、マリア」
 薄暗かった地下室に光が射すと同時、若い男の声が響く。男は漆黒の長衣を身にまとっており、胸には十字架が下げられていた。通常の神官が身につける銀とは違い、滑らかな光沢を持つ白銀製プラチナの十字架は、悪魔祓い神官エクソシストの証である。
 男は手にしたランプを掲げ、娘の姿を照らし出した。光を当てられても、娘は全く反応せず、ただただ泣き続けるばかり。
 男は急ぎ足で娘に近寄り、痩せ細った腕を掴んで無理やりに立たせた。
「もう去らなければ。奴の死に気付いた者が、呼び寄せられるかも知れない」
 穏やかながらも急かすように言葉をかけるが、マリアの心はここに在らず、うわ言のように「ごめんなさい」と呟き続けるだけだった。そして決して心臓を手放さなかった。これは愛の証。これさえあれば、彼の心は永遠の私のモノ――マリアの瞳は妖しい光を宿していた。
 以前のマリアは、もっと明るく気丈な娘だった。太陽のように暖かな笑顔を浮かべる、何処にでもいる普通の娘だった。だが、たったの一月で彼女は変わってしまった。美しき青年に魅入られ、殺してしまうほど彼を愛し、そして狂っていった。

 棺で眠る青年は、人間を魅了する力を備えていた。彼を見た者は老若男女問わず見惚れ、心奪われる。青年は紅銀の瞳に妖しさをたたえ、魅力的な姿と言葉で人間を騙し、陥れてゆく【悪魔】だった。
 今は“死んでいる”が、マリアを狂わせた悪魔は、心臓さえ取り戻せばまたすぐに復活するだろう。【悪魔】はその個体によって殺害方法が異なる。奴は心臓を取り出したくらいで消滅などしない高位体だ。それに奴の死を知って仲間が現れるかも知れない。そうなったらマリアは殺される。この場を離れても、取り出した心臓を探して追って来るかもしれない。
 神官は棺の蓋を閉めると、用意してきた聖呪符を貼り付けて封印した。これだけでは敵わない。この屋敷にも封印を施さなければ。長い時を経て甦っても、一歩も外へ出してはならない。

 一刻も早く、できるだけ遠くへ。 
 若き神官はマリアを連れ、忌まわしき悪魔の眠るエレフ村を去った。




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