この世の絶対神【マリートヴァ】は慈愛と平和を司る女神で、しばしば女性を守護する神としても崇められている。世界中に分布するマリートヴァ教は日に日に教会や修道院を増やし、唯一絶対神のために修道を積む者を募っている。その大半が女性を占めることから、先に述べた信仰理由がうかがえよう。

『女神・マリートヴァは、自らの子が死の淵に立たされた時、一粒の涙を零した。その涙を受けた子はみるみるうちに回復し、やがては生気を取り戻した』

 これは経典に記されている一文である。マリートヴァがその時零した涙は【女神の雫】と呼ばれ、事実存在していたりする。噂によれば、それは蒼白い光を放つ輝石で、触れた者をどんな危篤状態からも復活させる力を持つという。
 マリートヴァ教は【女神の雫】を秘宝とし、数多ある教会・修道院を転々とさせて所在を不明確にし、悪しき者どもの手から護っていた。しかし教徒達がそれを知ることはなく、これまで人目にさらされる事もなかった。

 この話の舞台となるのは、マリートヴァ教の中でも格式ある修道院・プリエ。長い歴史と厳格さを持つこの修道院はとある事情を抱え、風変わりな修道女をも抱えていた――。





「神よ、我らが守護神・マリートヴァよ。今日も無事平和に過ごせた事を心より感謝いたします」
 月が煌々と光を放つ夜。プリエの小聖堂はいくつも焚かれたロウソクの炎で厳かな雰囲気を漂わせていた。最奥の壇上には美しき女神の像が安置され、その足元には漆黒の装束に身を包んだ修道女達が集まり、一日を終えることができた喜びを胸に深い祈りを捧げていた。大理石で作られたマリートヴァ像は、まるで母のように慈愛に満ちた眼差しで彼女達を見守っていた。
 日課である夜の祈りは夕食後に行われ、全員参加が義務付けられている。その後は自由な時間を過ごし就寝に至るのだが、約一名、義務の祈りをさぼっている者がいた。
 小聖堂の裏側、木陰に隠れて少々見難い場所からは、修道院らしからぬ白い煙が立ち昇っていた。発煙元をたどってみると、そこには黒い修道服に身を包んだ長身の娘。胸できらめくロザリオのように、闇夜でも目立ちすぎる銀髪を頭の高い位置で結い、退屈気に空を見上げる瞳は藍色だ。そして幾度となく口にくわえるそれは、明らかに煙草である。
「……やってらんないっつーの」
 などと不満をもらしつつ、白い煙を吐き出す。立ち昇ってゆく煙を追いかけるように空を仰げば、広がっているのはロマンティックな星空。プリエは森に囲まれた小高い丘に建っているため、空気が澄んでいるせいか夜空は格別に美しい。
 だが、彼女にはそれが退屈で仕方なかった。ここは何の娯楽もない、取り立てて面白い話題も上らない修道院。楽しみといえば、ふもとの町に出た時にこっそり入手してくる煙草くらいだ。
 プリエはマリートヴァ教の中でも三本指に数えられるほど古く格式ある修道院で、男子の修道士はいない。格式が高い修道院ほど女子の占める割合が多いのは、やはり崇める神が女性神であるためだろう。そのうえここは「従順・清貧・貞潔」の三誓願をモットーに、とりわけ戒律が厳しいことで有名だ。こんな所に自ら望んでやって来る娘達の気が知れない。何の楽しみも知らず、若くしてその身を唯一絶対神(しかも女性神)に捧げるなど、時間の無駄遣いとしか思えなかった。
 心中で嘆いた所で現状が変わるわけでもない。そろそろ戻らなければ……赤く染まった煙草の先端から灰が崩れて落ちると、娘は最後に白い煙を吐き出した。至福の一時が穏やかに終わろうとしていた――しかし。
 突然の衝撃が全身を襲う。頭から水をかぶったのだと気付くまでに数秒を要した。容赦なく全身を濡らした水量は、文字通りバケツを引っくり返したかのよう。自慢の銀髪はだらしなく顔や肩に張り付き、肌にまとわりつく衣服の感触が気持ち悪い。視線を落とすと、足元には見事な水溜りが出来上がっていた。藍の瞳が怒りに燃える。
 忌々しげに頭上を睨みつけると、小窓から老年の女性がのそいていた。彼女の名はユスタ=シラー。プリエの修道院長である。きっちりとひとつに束ねた白髪交じりの黒髪、眼下を冷たく見下ろす瞳は、彼女の冷静さを表すかのような淡い水色。指導すべき修道女の破戒現場に出くわしても崩れぬ固い表情が、いかにも神経質な雰囲気を振りまいている。そしてその手に持たれたバケツが、この惨事の原因であるという何よりの証拠であった。
「院内で堂々と戒律を破るとは……いい度胸をしているわね。シスター・ベルジェ」
 抑揚のない声色が彼女をより堅物そうに見せ、淡水色の視線が水のような冷然さを増す。銀髪の修道女――ベルジェはいっそう睨みを利かせたが、ユスタは相手にするのも馬鹿馬鹿しいとばかりにさらりと受け流した。
「追い出されたくなかったら気をつけなさい」
 一言残し、ユスタは窓枠から姿を消した。その場に残ったのは、収まり場所のない怒りと一瞬の静寂。無人の空間となった窓を見上げ、ベルジェは冷えた身体をさすりながら盛大なくしゃみを響かせた。
「くそっ、ババアめ……!」
 銀髪の不良娘、その名はベルジェ=クレデンテ。これでもプリエに属する立派な修道女である。



 ◇   ◇   ◇



 修道女達の一日は起床後の祈りに始まり、合間に食事や労働、読書などを経て、就寝前の祈りに終わる。基本的には自給自足生活のため食事は質素。労働は農作業、織物生産などである。
 丘のふもとには教会を有する割と大きな町があり、教会へ出向いたり、買出しや公共施設へ奉仕に出かけたりと、俗世との関係を完全に断ち切っているわけではない。確かに俗世には修道を積む上で障害となるものも多いだろうが、それを乗り越えてこそ、というのがマリートヴァ教の教えでもあるのだ。
「へっくしゅん!」
 朝食を終えると院内の清掃が始まる。朝の輝かしい光が差し込む院内、そこかしこで黒い装束に身を包んだ修道女達がせっせと働いている中、廊下の一角で銀の頭が激しく揺れ動いた。身体をくの字に曲げて豪快なくしゃみを響かせたのは、雑巾片手に窓拭きに勤しんでいた問題の修道女・ベルジェである。昨夜頭から水をかぶったせいで風邪を引いたのか、朝からくしゃみが止まらない。せっかく拭き終えた窓に唾が飛ぶと、周囲の修道女たちから白い目が向けられた。渋い表情を浮かべつつ、ベルジェは口を尖らせて再び窓を拭き直す。全く、ここの女達は見事なまでにお硬くて居心地が悪いのなんの。
「風邪ですか?」
 声をかけられて振り向くと、背後には小柄な少女が立っていた。艶のある黒髪は伸ばしていればさぞ美しいだろうが、残念な事にこざっぱりと短い。じっとこちらを見つめる深緑の瞳は知的な雰囲気を漂わせ、無表情が少女を歳よりも落ち着いて見せている。
「また水でもかぶったんですか? 戒律を破るからそうなるんですよ。まあそれ以前に、祈りを怠ったりするから風邪など引くんです」
 きっぱりと説き伏せた少女に、年上であるにも関わらずベルジェは大いに怯んだ。
 この少女の名はルフィータ=エルフィン。歳は十七とベルジェより四つも下だが、十一の時からプリエにて修道を積んでいるため、修道女となって一年も満たないベルジェからすれば年下といえど大先輩である。小柄で顔立ちは決して悪くはないのに無表情でやや無感情。戒律を破る事など決してなく、まだ若いながらもプリエでは見本となるような修道女だ。そしてベルジェはというと、戒律を破るたびにこうして有難い説教を頂戴する始末だ。
「はいはいはい」
「返事は一度で結構」
 間髪を容れずに返って来たのはキツイ一言、加えて表情はかなり冷ややか。いちいち説教くさい性格がたまにうんざりする。せっかく若くて整った顔をしているのだから、もっと楽しげに笑えばいいと思うが、まあ修道院なんて退屈な場所にいて何の楽しみも知らずに花の乙女時代を過ごしているのだから仕方ない、という結論に達する。
「それよりもベルジェさん、今日は懺悔室の当番ですから、さぼらないでくださいね」
「ええーっ! 今日あたし?!」
 一応年上を敬う心が「さん」に表れているあたり可愛いかったりする。が、今はそれどころではない。
 【懺悔室】とはふもとの町の教会に設置されているもので、その昔は己の罪を告白し、悔い改める場所として機能していたようだが、善悪の基準が曖昧になった今では懺悔室とは名ばかりで、やれ恋の悩みだの金銭トラブルだの身の上話だの、もっぱらそんな相談ばかりが持ち込まれている。修道女達は修道の一環として、世間一般の人々の話を聞く役割を教会側から与えられている。しかし当番制とはいえ、あれは修道生活の中で最も退屈でうんざりする仕事だ。なぜ他人のお悩み相談を、しかも何時間も聞いていなければならないのか。
 ぶーぶーと文句を言うベルジェに対し、深緑のきつい睨みが飛んだ。
「さっさと行かないと、水をかぶるだけじゃ済みませんよ?」
「わかったって! ちゃんと行くから」
「嘘つくと、どうなるかわかってますよね?」
 返答が幾分嘘くさかったのか、ルフィータがきつく睨む。が、なぜかベルジェは余裕気な笑みを返した。
「あれ? ルーちゃん私とやり合う気あるの?」
 途端、ルフィータがむっとした。
「……その呼び方、やめて下さいって言っているでしょう」
 ベルジェは自分の方が優位に立つと、必ず「ルーちゃん」と呼んで馬鹿にするのだ。それが子供扱いのようでルフィータは好ましく思っていない。が、これを出すと八割方ルフィータが引き下がるので、ベルジェは都合が悪くなると多用するクセがある。
 余裕気にふんぞり返っていたベルジェだったが、ふいに視界に飛び込んできた人物を見て焦り出した。
「やばっ……」
 廊下の先に見えたのは修道院長のユスタだった。廊下を進んでくる彼女に対し、清掃に勤しんでいた修道女達がすれ違いざまに会釈をしている。遠目に見ても厳しい雰囲気を振りまく姿に、ベルジェは身を縮こまらせた。昨夜、祈りをさぼった彼女は朝までに反省文の提出を課されていたにも関わらず、例のごとくそれもさぼって今に至る。見つかったら今度は何を言われる事か。
「あたしもう行くから、あとはヨロシク!」
 ルフィータに雑巾を投げ渡すと、開け放たれた窓を飛び越え、ベルジェは銀髪をなびかせて逃げるように走り去って行った。ここは一階の通路であるが、このプリエであのように軽やかな所作が出来るのは、恐らく彼女とルフィータだけであろう。
 大慌てで去ってゆく後姿を見送るのは、小柄な少女とそばまで歩み寄ってきていた老女だった。
「また逃げられたわね」
 困り顔というか、疲れた表情を浮かべながらユスタが溜め息を吐いた。その溜め息を耳に留め、じっと外を見つめながらルフィータは率直な疑問を口にした。
「……どうして彼女なんですか?」
 深緑の瞳が見つめる先に、銀の輝きはもうなかった。あの逃げ足は最早特技としか言いようがないだろう。
「あの娘ほど条件が揃っている者はそうはいないでしょう。それはあなたが身をもって理解しているはずよ、シスター・ルフィ。それに……」
「それに?」
「私には逆らえないでしょうから」
 言い切って不敵な笑みを残し、ユスタは身をひるがえした。背筋をぴんと伸ばして歩く姿は美しく、見惚れるほどの姿勢の良さからは堂々とした威厳が感じられる。「私に逆らってはならない」と脅しをかける、規律の塊が歩いているようだ。そのプリエの主が、ベルジェを連れてきた張本人だった。

 約一年前――格式高いプリエに突如現れたのは、俗世の習慣がイヤと言うほど染み付いた娘だった。「従順・清貧・貞潔」……三誓願のどれひとつ当てはまらない生活を送っていただろうというのは、華やかな容姿と禁欲を渋る態度を見れば明らかだった。
 皆が皆十代で修道に入る中、すでに二十歳を超えていた彼女は、全うに修道を積もうとしているのではない、とルフィータは直感した。彼女は“あれのため”に連れて来られたのだろうと。その証拠は日々の動向にある。祈りはサボるし決められた仕事もさぼる。その上どこから手に入れてくるのか知らないが、院内での喫煙は日常茶飯事。しかし何があってもベルジェが破門されることはなかった。彼女は【特別】。このプリエに“居てもらわなければ困る”理由があるからだ。




 ふもとの町にやって来たベルジェは、重い足取りで教会に向かっていた。これから正午の鐘が鳴るまで懺悔室に入り浸り、入れ替わり立ち代り持ち込まれる自己中心的な相談に付き合わなければならない。朝の空は爽やかだというのに、そりゃ溜め息だって洩れる。
 町中での目立つ行為はユスタから禁じられているため、教会までは表通りではなく、裏道を使って進むのがベルジェの通常だ。背の高さに加え、髪の色も目立つから仕方ないだろうが、顔を見られると不味いことにもなり得るからだ。
 細い路地をのんびりと進み、さてその十字路を右に曲がれば教会の裏手だ――と、そこまで来て、彼女の耳には言い争う声が飛び込んできた。何事かと壁影に身を潜ませて左の方向をうかがう。複数の男達だ。一人の若者を、一団と思わしき三人が取り囲んでいる。
「だから、これじゃ足りないって言ってるだろう?」
「ふざけるな! 約束どおり持ってきたじゃないか!」
 話を盗み聞くと、どうやら金銭トラブルでもめているらしい。十字路の左手は行き止まりで、何かやらかすには持って来いの好適地だ。壁に追い込まれた若者は脅しをかけられている風で青ざめている。その様を取り囲んだ男達が見物して楽しんでいるようだ。
 朝っぱらからいい大人が何やってるんだか。真面目に仕事でもして稼いでくればいいものを、寄ってたかってカツアゲか。ベルジェは溜め息を吐きながら身を屈め、足元に転がっていた石を拾い上げた。小石を軽く放り投げ、また手中に戻す。それを二三度繰り返し、そして握り締めた拳を振り上げている男に向かって投石。勢いづいた石は見事顔面に的中し、男が地面に伏す。騒然とした場に立て続けに石が飛ぶ。外すことなく的を射た投石のおかげで一団は崩れ落ち、追い詰められていた若者は自由を得、不安げに振り返りながら逃走していった。
「一丁あがり」
 地面に膝を着き、攻撃を受けた箇所を各々押さえ、男達は未だ痛みに身をよじらせている。
 “投げる系”は得意ではないが、相手が素人ならば容易いものだ。足元に小石がゴロゴロという偶然に感謝しつつ、手についた砂を払い落としながらベルジェはそ知らぬ顔で教会へと向かっていった。
 これも彼女なりの“無償奉仕”である。


 一仕事終えて教会の門をくぐると、神父が掃き掃除をしており、せっせと手を動かしながらも会釈してきた。ベルジェは軽く腰を折って応えた。フードを目深にかぶっているため、顔は見られない。町では修道女らしく振舞えという命令が下されているので、ここはしおらしく振舞う。
 入口の扉に手をかけながら、ふと後方に瞳を向けると、神父は掃除をする手を止め、門のすぐ近くで誰かと話をしていた。会話の相手は、格好から察するにこの町の人間ではないだろう。黒い外套を羽織った……旅人だろうか、神父の頭一個分高い身長から男と判断できる。背を向けているため顔は見えないが、朝日を受けてきらめく短い金髪が印象的だ。
 ベルジェの藍の瞳が見開かれた。その見知らぬ男の後姿に見覚えあるような気がしたのだ。
「……って、んなわけないか」
 長身の金髪男なんて、町を歩けばどこにでも見つかる。きっとそのせいだと思いながら、ベルジェは扉を開けて中へと入っていった。その背を、藍の視線が追っていたとも知らずに。

 教会に足を踏み入れ、左手すぐに懺悔室はある。誰でも気軽に入れるようにとの配慮らしい。懺悔室は狭く、ひとつ置かれたランプのおかげでほのかに明るいだけ。薄壁をはさんで相談者と修道女が向かい合って座る形になるが、互いに顔は見えず、声だけしか聞こえない。しかし壁の下方には手が出し入れできそうな四角い穴がある。これは相談者が“気持ち”――要するに寄付金を渡す時に使うものだ。寄付されたお金は当然教会のものとなる。ついクセで何度か懐に忍ばせようとした事があるのは内緒だが。
 薄壁の向こう側に足を組んで座ったベルジェは、そばに置いてあった経典を手に取ってページをめくった。相談者を待つ間の退屈しのぎに……との気遣いらしいが、経典読んで退屈をしのげるのは、心が清い“本物の”修道女くらいだろう。
 懺悔室が開かれてから数十分後、すぐに相談者が現れた。“彼女”は座るなり口を開き始めた。声から判断するに中年女性。口調からして富豪系の夫人だろう。彼女は延々三十分、愛猫がどれだけ可愛いかを話して帰って行ったのだった。
 婦人が帰るやいなや、溜め込んでいた息が一気に吐き出される。どっと溢れてきた疲れに背を押され、前方に突っ伏す。返答も必要とせずに三十分喋り続けた先程の婦人に拍手してやりたい。こんな仕事を笑顔で勤め上げている同僚達の気が知れない。せめて恋の悩みの方が好奇心が湧いて楽しいものの、一人目からこんな状態じゃ身が持たない。
 ベルジェはもう一度溜め息を吐いた。ここまでして修道女の真似事をしなければならない理由が、さっぱりわからなくなって来た。

 プリエにやって来る前、ベルジェは盗賊を生業としていた。しかも使いっ走り的な下っ端ではなく、自ら一団を率いている立場だった。一団の元首領はベルジェの養父で、幼少の頃から周囲を盗賊どもが取り囲んでいた。それが当然だと思っていたし、彼らは家族だった。そういった環境で育った少女は、十五になる頃には誰もが認める一人前の盗賊に成長し、見た目の麗しさから皆の人気者だった。
 やがては養父から一団を任され、各地で騒ぎを起こしては様々な物を盗んだりした。争いなんて日常茶飯事、盗っては逃げて追われて――それでも仲間と一緒に暴れて騒いで楽しかったし、辛くもなかった。さすがに殺しはやらなかったが、危険と隣り合わせである日常。その日一日をやり過ごすため、子供の頃から闘いの訓練には勤しんでいた。だから自分が危機に陥るなんて思ってもみなかった。一年前の、あの時までは。


『君とは別な形で出会いたかったな、ベルジェ』

 思い出される過去の風景。そう、あれは……珍しく盗みに失敗し、初めて窮地に追い込まれた夜だった。
 炎上する室内で床に伏す自分を見下ろしているのは、自分と同じ藍色の瞳。口説き文句にも似た台詞を口に、整った顔に苦渋の表情を浮かべながら金髪の優男が一歩、また一歩と近づいてくる。
『私は、どんな形でもアンタみたいな奴には会いたくなかった』
 追い詰められてなお毒づくのは、胸に下げたロザリオのように輝かしい銀の髪を持つ娘。血で赤く染まった肩を押さえ、時折痛がりながらも藍の瞳は余裕気に輝いていた。
『つれないな。二年も付き合った仲じゃないか』
『しつこい男は嫌いなんだよね』
 男が笑った。屈託のない笑顔で。
『でも仕方ないな。君の負けだ』
 負け――つまり自分はこの男に捕まり、盗賊として働いてきたこれまでの悪事の数々を裁かれるわけだ。
 はっきり言ってごめんだった。まだ若き身空で牢獄生活なんて嫌だった。しかし目前の男はどんなに懇願しても逃がしてはくれないだろう。
 男のまとう制服は政府公安局所属の保安官のもの。しかも濃紺色はエリートクラスを意味する。男は公安局の中でも随一とされるやり手で、彼に目を付けられて逃げおおせた者などいないとまで言われているほどだ。そんなやつに目を付けられて早二年。これまで幾度となく対峙してきたが、それも今日で終わるのか。
 血に塗れた肩がうずく。男が一歩進むたび、鼓動が激しさを増す。終わりたくない……空いた手で胸元のロザリオを握り締める。この世の絶対神マリートヴァが女性を守護する女神なら、この危機を救ってくれてもいいんじゃないか。信仰心なんてないくせに、都合の良い考えが駆け巡る。

『覚悟は出来た?』
 穏やかに微笑みながら男が手を伸ばしてくる。その手が触れたらもう終わり……その時銃声が響き渡った。銃弾は男の肩をかすめ、はるか後方の壁へとめり込んだ。男が肩を抑えてバランスを崩した一瞬の隙をついて、脇から大柄な男が飛び出して来た。決死の救出劇を繰り広げようとしているのは、養父の代から一団のまとめ役を担っていたサルバだった。
 ガタイのいいサルバはベルジェを難なく抱え上げ、窓際まで駆け寄って一言残した。
『俺は牢獄生活には慣れてるからな。お前はまだ若いんだから、こんな所でとっ捕まんな』
 次の瞬間、お茶目に片目をつぶったオヤジの顔が遠のいた。窓から投げ出されたのだと気付いたのは地面に落下した後だった。ちょうど良く位置していた植え込みのおかげで二階から落下した衝撃はかなり緩和されたものの、それでも身体の節々に痛みが走る。肩の痛みが何よりキツイ。
 けれど痛がって悶絶している暇なんてなかった。サルバが身を呈してまで作ってくれた逃走の機会を無下にするなんてことはしなかった。やれる時にはやる、それが一団の教訓だったからだ。
 あちこちで飛び交う怒声と叫声。それらを振り切り、どうやってその場を駆け抜けたのか、どんなに頑張っても思い出せなかった。気付いた時には見知らぬ修道院の前で座り込んでいたのだ。
 夜の静寂も相まって、そのまま眠ってしまいそうだった。身体は疲れ切っていた。どこをどうやって、何十分何時間走ってきたのかさえわからない。ここが何処なのかもどうでも良かった。肩の痛みは限界を超えた。痛みも痺れも通り越し無感覚だった。
 このまま行けば死にそうだと、何となく思った。最期を迎える場所が修道院だなんて、女神も粋なことするじゃないか。信仰心のない者にまで慈悲の手を差し伸べてくれるとは、さすが女神様。そんな風に考えながらじっと目をつぶっていた。徐々に遅くなってゆく呼吸と心拍数に意識が集中する。夜の闇に同化し、自分という存在が無くなるかのように、静寂に包まれてゆく。
 だが、何者かが止まりそうになった時を再び動かした。

『このような夜更けに何用ですか?』

 聞こえてきたのは冷静極まりない声。大怪我を負った人間を前にして、冷静でいられるなんてどんな奴だ。死ぬ前に顔を見てやると思って目を開けると、黒い修道服を来た老年の女が立っていた。こちらを見下ろす視線は、慈悲深い神に仕える修道女とは思えないほど厳しい。それに口調には排他的な感情が垣間見えた。
『別に、用なんてないよ。ちょっと休んでるだけ』
 一見して“普通の”娘ではない風貌を淡水色の瞳がゆっくりと検分する。冷ややかな視線は、ふいに胸元のロザリオに向けられ、そこで止まった。それは、マリートヴァを信じて止まない心を持つという何よりの証だった。
『……入りなさい』
 一呼吸置いて発せられたのは、意外にも歓迎の言葉だった。……渋々だが。

 それがユスタとの出会いだった。
 ユスタは傷の手当を施し、軽い食事を与えてくれた。その代わりにここへ来た経緯の説明を促され、渋々話した。話を聞いても終始ユスタに笑顔はなく、冷たい容貌は変化することがなかった。
 こういうお堅い職業の人間には自分のような存在は煙たいだろうと思ったし、別に慈悲の心を期待していたわけではない。こちらこそ居心地が悪いのでさっさとおさらばしたいが、肩の傷は思いのほか酷い。あのクソ保安官め……と恨みを堀り返しつつ、これからの事を考えた。しばらくは日常生活にも支障をきたすだろう。仲間とは離れてしまったから一人だし、ほとぼりが冷めるまで外は危険だ。どうしたものかと考えていると、ユスタから意外な提案がなされた。
『あなた、この修道院で“働く”気はありますか?』
 ここは普通“修道を積む気があるか”と聞くのではないか。
『どういう意味?』
『言葉の通りです。ここで“働く”代わりに衣食住は保障しましょう。ここは修道院ですから、俗世の人間の出入りは全くと言っていいほどありません』
 「身を隠すには最適だろう」と言っているようにも聞こえた。修道女ともあろう人間が、なぜそんなことを提案するのか疑問だった。
『その代わり、あなたにはやってもらう事があります』
 身を護る代わりに出された条件。それは……




 はっと目を覚ましたのは、ちょうど正午の鐘が鳴り響いている真っ最中であった。ベルジェは慌てて身を起こし、目を擦った。その場には誰もいないのに、習性でついつい周囲を見回してしまった自分がちょっと情けない。
「やばっ……寝ちゃったよ」
 寝ている間に懺悔室の訪問者はなかったのだろうか。だとしたら運が良い。これで神父から報告が行ったら、またどやされる事間違いなしだ。
 懺悔室の開放は正午の鐘が鳴り終わるまでと決まっている。この数分間に誰かやって来たら面倒くさい。という事で、ベルジェは鐘が鳴り終わる前にさっさと教会を後にした。
「それにしても……嫌な夢見ちゃったじゃないのさ」
 プリエに来て約一年。これまであの日を夢に見た事はなかったのに。なぜ今になって……。
 それがささやかな予知夢であったとは、ベルジェ自身気がついていなかった。




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