雪原の果てに 【後編】








 外界は徐々に明るくなってゆく。闇色の大地が白さを取り戻してゆく。
 もうすぐ夜が明ける。
 琥珀色の瞳は、不吉な予感にしっかりと見開かれていた。吹雪が窓を叩く音が無い。隙間から入り込む風の音が無い。こんなに胸騒ぎを覚えたのは初めてだった。
 窓の外が明るみを増し始めたのをその瞳で確認し、わずかに身動ぎした時。
「もう少し……もう少しだけ、このままでいて……」
 わかっている、彼は行かなければならない。けれど、もう少し、ほんの数秒でもいい。少しでも長く、彼の温もりを、鼓動を感じていたかった。
 ライツフォルは彼女の細い身体を優しく抱きしめた。
「必ずあなたの願いを叶えてみせます。あなたを護ってみせます」






 吹雪が止んでいた。こんな事は初めてだと、大雪原を見渡し騎士達が口々に言う。太陽は相変わらず姿を現さないが、白い灰色の空は風が無いだけでもずいぶんと明るく見えた。
 そして、白い大地に見覚えのある紋章を見つけ、騎士達は瞳を見張った。ラフィナートとレクスの紋章の入った、無数の旗が穏やかな風になびいていた。

 騎士の呼び出しを受けたライツフォルは、いつものように鋼の鎧と重い赤のマントを身にまとい、城の見張り場へと現れた。威風堂々たるその姿に、見張り場にいた数名の騎士達は見惚れ、そして深い敬意を表す。
「まさかここまで進軍させているとは……」
 琥珀色の瞳が細められた。
 まるで吹雪が止むのを予測していたかのように、ラフィナートとレクスの追手は間近に迫っていた。
「ライツフォル様」
 鋼の軍勢を凝視する騎士団長に、傍らに控えていた若い騎士が声をかけた。
 ライツフォルは一度目を閉じ、静かに深呼吸をした。
 自分はここで果てるが、それでも願いはただひとつ。あの方が無事故郷に帰りつく事が出来れば。その願いを叶えるためならば、この命など惜しくは無い。
 琥珀色の瞳が見開かれた。
「レジーナ様のお付きの方に、我々が追手を食い止めている間に城の裏手から逃げるよう、伝えろ。あの方はいざという時の為に馬術を心得ている。心配はない」
「しかし!」
「私の指示に不満があるのか?」
 言葉を返した騎士に対し、ライツフォルの厳しい言葉と視線が向けられる。
 それ以上の返答を拒まれた騎士はいささか口惜しげに俯いたが、そのまま深く頭を垂れると、立ち上がって指示通りに動き始めた。


 吹雪が止んだ大雪原・フィーデルネーヴェに現れた軍勢は、少数の反逆者を捕らえるだけなら多過ぎると思われる、その数およそ百前後の騎馬隊。指揮官を務めるのは、隣国・レクスの将軍だ。歳は四十代前半、髭面の将軍は、レクスの紋章が入った黒い鎧を身に着けている。
 腕組みをし、孤城の動きをじっと見据える彼の瞳に、反逆者たちの姿が映し出された。彼らが駆るのは【シュヴァル】と呼ばれる、普通の馬よりも身体が大きく足も頑丈な、雪原移動に適したラフィナートの特産だ。
 栗毛のシュヴァル達の中、一頭の葦毛(あしげ)が目を引き、騎士の重い赤のマントがひるがえった。
 「【二十人斬り】の騎士、ライツフォル=ファインです」
 傍に控えていたレクス兵が、噂に聞くその姿を見て将軍に耳打ちをした。
 【二十人斬り】とは、前(さき)の戦でライツフォルについた異名である。一刻も経たぬうちに敵国の兵を二十人ほど倒したことからこの名がついた。
 その姿は勇猛果敢。それでいて優雅だったと、彼の闘い振りをその目で見た者は言う。

 初めて見る噂の騎士の姿に、将軍は、それでも今はただの反逆者だと言い放った。それ以上の言葉は彼らには必要ないのだと。

 やがて、雪原には金属音と馬のいななきが響き渡り始めた。
 騎士達は闘った。必死で抗った。全ては愛すべき王妃の為にと。
 しかし勝敗の行方は歴然としていた。百近くの騎馬隊に対し、たった十数名の反逆者達では決まった未来をくつがえす事は不可能であった。
 冷たい雪の上に横たわるのは王妃の騎士達ばかり。しかし、それでも残り僅かな仲間達は必死に己を奮い立たせた。せめて王妃が無事に逃げ果せるまで。それまで我らは倒れるわけにいかない。
 ライツフォルは絶え間なく血の滴り落ちる左腕を強く押さえた。ほんの一瞬だった。目の前がかすんだ。その隙を突いて何処からともなく放たれた一本の矢が、確実にライツフォルを捉えた。

 我に返った時、ライツフォルの琥珀色の瞳には若い騎士の顔が映っていた。彼を慕い、常に傍にいてくれた、まだ騎士になりたての青年であった。
「ライツフォル様、早く……早く行ってください」
「何を言っている!?」
 青ざめて怒りに震える騎士団長に、力ない微笑が向けられた。
「我々は“王妃と貴方”を逃がすため、ここまでやって来たのです」
 思わぬ言葉に、ライツフォルは言葉を呑んだ。
 彼は何を言っているのか。我々は王妃を逃がすためにここまで来たのではなかったか。
「皆それを望んでいます。お二人が幸せになることを……。だから早く、早く王妃の元へ行ってあげてください……」
 最期に眼に映したのは、憧れの騎士団長の姿。彼の大きな手を強く握り、若い騎士は安らかな笑みを浮かべて瞳を閉じた。
 琥珀色の瞳には涙が浮かんでいた。若き騎士の胸に顔を埋め、ライツフォルは身を震わせた。






「レジーナ様、こちらです」
 レジーナは侍女に手を引かれて螺旋階段を下りていた。二人は足早に階下を目指す。城の外には馬が繋いである。そこまで向かわねば。
 城外への扉を開け放つと、頬を刺すように冷たい風が吹きつけ、二人の髪をなびかせた。空を見上げるとそれまで止んでいた吹雪が再び始まるのか、ひとつふたつと小さな結晶が舞い落ちてくる。
 ルビーの瞳は、近くに繋がれた赤毛のシュヴァルを見つけた。優しい瞳でじっとこちらを見つめるシュヴァルに、穏やかな笑みを向けながらレジーナが近づく。
 ふと、遠くから馬のいななきが聞こえてきた。ゆっくりと視線を向けると、瞳を引く葦毛のシュヴァルが真っ直ぐに向かってきていた。名誉ある地位の者にしか与えられない特別なシュヴァルと、そして風になびく重い赤のマントは、今はたった一人しか持ち得ぬもの。
「ライツフォル……!」
 ルビーの瞳が驚きで見開かれた。もう一度彼に会えると思っていなかった。だから本当に嬉しかった。
 口元を押さえ、驚愕の表情で見つめるレジーナを、名を呼ばれたライツフォルが馬上から穏やかな視線で見つめ返していた。
「ライツフォル様、レジーナ様をよろしくお願いします」
 自分の背中を軽く押す侍女の言葉に、レジーナは振り向いた。
 常に傍にいてくれた侍女が穏やかに微笑んでいた。
「あなたも一緒に来てくれるんでしょう?」
 レジーナの言葉に、侍女はゆっくりと首を横に振った。
「私はここでお別れです」
「何故……?」
 すると侍女は結っていた黒髪を解いた。そして黒髪の下から姿を現した輝きに、レジーナもライツフォルも瞳を見開いた。
「王が、何故私を貴女様の傍に置いていたかご存知ですか?」
 レジーナはわからず、静かに首を横に振った。
「いつでも身代わりが務まるよう常に貴女様の傍に控えろと、そう命じられておりました」
 軽く頭を垂れた侍女の髪は、レジーナのそれととてもよく似た色であった。背丈も同じ、髪の長さも同じ。瞳の色は変えようがないが、後ろ姿であれば誰もが間違うであろう風貌だった。
 まさか、とレジーナは思った。まさか彼女は初めからそうするつもりでここまで着いて来てくれたのか。
 全てを悟った時、ルビーの瞳からは涙が零れた。自分の我儘のせいで、皆を傷つけているのだと。
「さあお早く。追手はすぐに城へとやってくるでしょう」
「待って! 私は行けない!」
 抵抗するレジーナを、侍女は無理やりに葦毛のシュヴァルまで近づけた。
「ライツフォル様」
 侍女が見上げると、ライツフォルは深く頷き、そして一度馬上から降り立つとレジーナを抱え上げ、馬の背に乗せた。
「待ってライツフォル! 私は残ります!」
 涙で潤んだルビーの瞳が、金色に輝く侍女の姿を捉えた。
「レジーナ様、私は貴女に仕えられた事をとても嬉しく思っております。私達は誰も貴女を恨んだりしない。貴女が本当に大切だから」

 ラフィナートの王は決して名君ではなかった。権力を振りかざして物事を推し進めることも多々あり、内外問わず強い反感が存在していた。レジーナを無理やりに妻に迎えたこともその一部といえよう。
 そういった王の下に仕えるのは、兵士といえど女官といえど相当の気苦労を要した。
 そんな彼らを、レジーナは太陽のように眩しい笑顔で励ましてくれた。労わり、敬い、彼女は常に弱者の味方をしてくれていた。憂鬱な生活の中でその言葉の数々がどれだけの救いとなっていたか、彼女は知らないだろう。
 だからレジーナのたったひとつの願いを、命がけで叶えることくらい彼らには何ともないこと。そうして数々の恩を返せるものならば、喜んで成し遂げよう。反逆者として討たれる運命ならば、この命は王妃の為に。


 疾走する馬の背で、レジーナは両手で顔を覆い泣き続けた。白く細い指の間からは、絶え間なく涙が零れて落ちる。
 小さく震える彼女の身体をしっかりと抱え、ライツフォルの琥珀色の瞳は先に広がる暗い森を捉えた。雪原の先にあるという世界とは、どんなものかと想像しながら。

 雪景色が流れ過ぎて行く。
 背後の景色に孤城を置いて、葦毛のシュヴァルが森を目指して駆けてゆく。
 ライツフォルの意識は朦朧(もうろう)としていた。左腕の怪我にばかり気を取られすぎていたが、あちこちに相当のダメージを受けたのだと気付く。特に激しく右の脇腹に痛みが走っていた。
 しかし堪えなければ。あの森の向こうの世界を目指さなければ。愛する人を故郷へ帰さなければ。それだけが己に課せられた最後の使命。失った沢山の仲間達のためにも、その使命を果たす義務がある。
 ライツフォルは薄れ行く意識を必死に引き戻した。
 人が足を踏み入れぬ森の中は雑然としていた。
 足元に積もった雪の下には、長く伸びて複雑に絡まった木の根。そして一杯に伸ばされた枝が、まるでこの先の世界への侵入を防ぐかのように行く手を阻む。
 それらをやっとで掻い潜り、葦毛のシュヴァルが白い大地に足跡を残して森を駆け抜ける。




 どれくらい馬を走らせたか。
 地図にさえ見放された森は深く、一度迷い込んだら決して逃れられない迷路のようであった。
 このまま、出口を見つけられないまま、森の中に閉じ込められてしまうのだろうか、とそんな事さえ考えた。

 二人の不安を打ち消すかのように、やがて、薄暗く不気味だった森の中に光が射し込み始めた。出口は近い。
 そして徐々に近づく、見たこともない白い光の渦。
 あんまり眩しくて……眩しすぎて。異世界の光を受けたレジーナの金の髪が、神々しくて。
 ライツフォルは瞳を閉じた。






 瞳を閉じていた。
 耳に届くのは静けさだけ。
 真っ白だった頭の中に遠のいていた意識が戻ってくると、微かに鳥のさえずりが聞こえてくる。そのさえずりに導かれるように、レジーナは瞳を開いた。
 ルビーの瞳に映し出される、懐かしい故郷の景色。雪ばかりの白かった大地が、今は色とりどりの花に変わっている。灰色の厚い雲に覆われていた空は、眩しいほどに青い。
 青い空をゆったりと流れる白い雲、甘い花の香り、優しく頬を撫でる風。何もかもが懐かしい。
 ルビーの瞳に涙が浮かんだ。ひとつ、ふたつ、と朝露のように輝かしい涙が白い頬を伝ってゆく。沈んでいたはずの表情が、女神の笑顔に変わっていた。
「やっと、やっと帰ってきた……!」
 喜びを押さえきれなくなったレジーナは、少女のようにはしゃいで声を上げた。
 懐かしい景色も香りも、昔と変わらず嬉しかった。子供の頃に戻れたようで、城に連れて行かれる前に戻れたようで、心から嬉しかった。
「ライツフォル! もっと先にね、村があって……」
 振り向いたレジーナの笑顔は、そのまま固まってしまった。振り向いたと同時、それまで自分を抱えていてくれたライツフォルの身体が馬上から崩れ落ちたのだ。
 ライツフォルの身体が地に崩れると、真っ白な花びらが静かに舞い上がった。呆然としたまま、ルビーの瞳が花の絨毯に横たわった騎士の姿を映し出す。白かった花々が、徐々に赤みを増してゆくのに気付いた。
「ライツフォル……?」
 馬の背から飛び降りたレジーナは、屈みこんで騎士の様子をうかがった。何度も、何度も名を呼びながら。

 けれどもライツフォルが応えることはなかった。
 閉ざされた瞼が再び開くことはなく、あの澄んだ琥珀の瞳をもう一度見ることは叶わなかった。
「ねえライツフォル、瞳を開けて?」
 それでも諦めきれず、レジーナは何度も何度も彼の名を呼んだ。
 震える指先が騎士の頬を、薄茶の髪を撫でる。そうして名を呼べば触れれば、琥珀色の瞳が自分を見て微笑んでくれるような気がして。その唇が愛の言葉をささやいてくれるような気がして。その腕が強く抱きしめてくれるような気がして。
 しかし重くなった騎士の身体は微動だにしなかった。

 レジーナはライツフォルの身体を強く抱きしめ、声を上げて泣いた。零れた涙がライツフォルの冷たくなった頬にいくつも落ちて流れる。
 やっと帰って来られたのに。この生まれ故郷で、ずっとあなたと過ごして行けると思ったのに。一緒に老いて行けると思ったのに。
 ほら、今度はあなたの時が止まってしまった。
 永遠に若い姿のままで、年老いてゆく私を見守ってゆくのでしょう?
 かつて私がそうであったように。

 見渡す限りの花の大地。まるで天国のような景色の中、愛する人の亡骸を抱きしめたままレジーナは泣き続けた。
 誇り高き騎士団長のシュヴァルだけが、静かに彼女を見守っていた。




 ライツフォルの死に顔は、己の使命を果たせた喜びに満ちて穏やかだった。
 琥珀色の瞳は異世界の壮麗な風景を映し出すことはなかったが。花々が咲き乱れる大地で、光を受けて輝くレジーナの姿を映し出すことはなかったが。彼女と共に年老いて死することも叶わなかったが。
 それでもライツフォルは幸せだった。
 彼女に愛されたことが、想い合えたことが何よりも幸せだったから。

 あなたの存在は私にとって女神そのもの。
 あなたの言葉は私にとって女神の言葉。
 私の女神が幸せであれば、それは我が幸せとなりましょう。
 この身が深き地の底に埋もれてしまっても、魂は常に貴女と共に。
 この雪原の果ての大地で、私は貴女を護り続けましょう。











 それから歳月は流れた。
 【魔女】の住むと言われる、世界の最北の大地。その一角の丘の上にふたつの墓がある。
 墓のひとつは色あせて所々崩れかけており、かなりの年月を過ごしたと見受けられる。その隣に寄り添うようにして建てられたのは、真新しい白の十字架。
 二つの十字架は色とりどりの花々で飾られていた。

 二人の魂は離れることなく、この地で安らかに眠るだろう。
 この雪原の果てで……永遠に。






← Back / Novel ↑ / あとがき →






Copyright(C)2004− Coo Minaduki All Rights Reserved.