願い花の咲く木の下で 【後編】






「なあ、【上】に住んでる奴らって、みんなお前みたいに真っ白なのか?」
「真っ白?」
「えーと、その、なんつーか……そう、お前みたいな色の服を着ていたり、お前と同じ髪の色をしてるかって話だ」
「うん、そうよ。父様も母様もみんな同じよ」
「みんな同じ……考えただけで気持ち悪い」
「気持ち悪い? ってなに?」
「う、えーと……こう、言葉にできないむかつきというか、苛立ちというか」
「そういえば、私あなたのお名前知らないわ」
「な、名前?」
「そう」
「俺の名前はヒソクだ」
「ヒソクはいっぱい難しい言葉を知っているのね!」
 ヒソクの背中でカレンは楽しそうにはしゃいでいた。もしかしたらカレンに限ってかも知れないが、掴みどころのない人間だ、【上】のヤツは。そんな風に思いながら溜め息を一つ吐き、ヒソクは休むことなく歩き続ける。裸足のカレンを背負って。
 残念な事に、ヒソクには彼女に靴を買ってやれる金銭的余裕がなかった。さらに今すぐ行きたいとせがむので、仕方なくこうして背負って歩いているわけだ。幸いカレンは軽いのでそんなに苦にはならないが、傍から見れば異様な光景である事には違いない。
 西の方へは行った事がないからはっきりとは言えないが、ガラクタ山から見えた木までまだ遠いだろう。こうなったからヤケだ、行くしかない。だったら時間を短縮した方が都合が良い。
 ヒソクは廃工場の一帯を抜け、その先にある大きな資材置き場へと向かった。この資材置き場は今でも使われているが、今日は休みで人はいない。ヒソクはその辺に置かれた鉄骨やら木材やらの合間を抜け、高台へと足を運んだ。高台から見える、これまた別の資材置き場まで鋼鉄製の太いワイヤーが張られており、フックが取り付けられている。下から上へと資材を運ぶ際、フックにロープなどを引っ掛けてワイヤーを伝わせるために使うのだ。重たい資材を運ぶためのフックは巨大で頑丈。たとえば子供が二人飛びついて下りて行くくらいで壊れたりはしないだろう。
 ヒソクはあたりを見回した。鉄骨の合間に丁度良くロープを見つけ、拾い上げる。そして自分の胴体とカレンをぐるぐると縛り始めた。
「なにしてるの?」
「ん? お前を落とさないようにしてんの」
 ロープを固く結んで一丁あがり。ヒソクはフックに手をかけて引き寄せ、がっちりと力強く掴んだ。下の資材置き場まで百メートル以上ありそうだ。眼下を覗けば、二つの資材置き場の間にはすくみ上がるような深い谷底がある。掴んだこの手を離したならば真っ逆さま、二人揃って仲良くあの世逝きだ。
「いいか、しっかり掴まってろよ。絶対に手を離すなよ」
 そう言って地面を蹴り、ヒソクはフックに飛び乗った。勢いをつけたフックは真っ直ぐに下方へと降りて行く。いつも重たい鉄骨を運んでいるフックは、子供二人など軽くて仕方ないとばかりに急降下してゆく。
「まるで鳥になったみたいに空を飛んでる! ヒソクはすごいことが出来るのね!」
 ヒソクの首にしがみ付いていたカレンは、ゆっくりと顔を上げ、そして瞳を輝かせ始めた。空を翔けるような疾走感。こんなに気持ちのいい風を受けたのは初めてだ。
「あー? はしゃいで落ちたって知らないからな!」
 風の音がうるさくて、耳元ではしゃぐカレンの声も紛れてしまう。カレンの言う事は大袈裟だと思うが、確かにこれまでにない体験だ。なんせ真っ白な【上】の少女を背負って、空を翔けているのだから。


 資材置き場はワイヤーによっていくつも繋がっており、カレンを背負ったヒソクはフックに飛びついて下方へ下方へと下って行った。この短縮作戦が効を成し、大分西へと動いたはず。その証拠に、最後の資材置き場に着いた頃には、ガラクタ山から小さく見えた木が、はっきりと捉えられるほどに近づいていた。
 “大きな木”は、目の前に広がる森の奥の方にあるようだ。ヒソクは物珍しそうに辺りを見回しながら森の中を歩いた。きっとここで木を伐採して上方へと運んでいるのだろう。こんなに木が密集している場所は初めてだった。
「あの木まで、もう少しかな」
 首にしがみ付いたカレンが楽しげに話しかけてくる。期待感で心が膨れ上がっているのが、口調からはっきりわかった。
「さあな。でも、あの木の所に行ったって花はないかも知れないぞ」
「そんな事はないわ、きっとあるもの」
 なぜそこまで頑なに、良い方向へと物事を考えられるのか。ヒソクには全く理解できない。
「すいぶん、夢いっぱいで幸せな生活を送ってたみたいだな」
「? 幸せってなに?」
「いや……」
 幸せという言葉を学ぶ理由もないほど、満ち足りた暮らしをしているのだろう。彼女のように一点の染みもないほど白い世界は、ゴミや塵もなければ危険な事など何一つないのだろう。あんなに毎日沢山の“不必要”を捨てているのだから。
 籠の中で大切に大切に護られる鳥のように、カレンは育てられて来たのだろう。カレンだけではない。きっと【上】の世界で暮らす子供たち、果ては大人まで、そうして生きているのかも知れない。
 たとえ本人が幸せだと思っていても、籠の鳥のように暮らすカレンは憐れだと思う。“みんな同じ”白さをまとい、個性もなく同じように並んでいるのかと思うと気持ち悪い。
 けれど、目に映るもの全てを新鮮に感じる姿は少し羨ましい。廃れた生活でいつしか夢を見ることも失った心には、時にこの瞳に無知だと映っても、幼子のようなカレンの純粋さが羨ましかった。

「ねえ、幸せってなに?」
 カレンがもう一度問いかけてきて、ヒソクは我に返った。
「うーん、なんつーかなあ。幸せってやつは、人によって違うものなんだよ。たとえば、家族一緒に仲良く暮らすことが幸せだというヤツもいれば、金がたくさんあって幸せだというヤツもいる。美味いものが食えたら幸せなヤツもいるし、生きてるだけで幸せだってヤツもいる」
「よくわかんないけど……」
「あっそ」
 諦め半分の口調でヒソクは笑っていた。たくさんの言葉を並べた所でカレンに通用するはずもなかった。
「ヒソクは、幸せではないの?」
 その問いに、ヒソクはしばし押し黙った。
「どうかな……。俺は、さっき言ったどの幸せも持っていないから」
 両親はもういない。その日の空腹を満たすささいな金さえもない。美味いものなんて食った事がない。こんな自分、生きていて意味があるのかなんてわからない。幸せなんて、なんなのか知らない。
「ねえ、もしかして“楽しいこと”が幸せなの? だったら私、今とっても幸せよ! だって、ずっと【下】の世界を見てみたいと思っていたもの。【下】は私が思っていた通り、楽しいところだわ。鳥みたいに空を飛べたし、願い花だって見つかっちゃうのよ?」
 あまりの前向き発言に、ヒソクは思わず噴出した。願い花の話が本当かどうか、花が存在するかさえも定かではないのに、もう見つけた気でいる。人の背中ではしゃいで、なんともお気楽なものだ。
「それに、ヒソクに会えてとても幸せよ」
「な、なんでだよ」
「だって、ヒソクは私の知らない事をたくさん知っているもの。すごいわ」
 十六年生きてきて、すごいなんて言われたのは今日が初めてだ。不覚にもそれがとても嬉しかった。そしてかなり照れくさかった。なんと応えていいのか言葉に迷っていたら、耳元でカレンがあっと声を上げた。
 何事かと顔を上げ、ずっと先に視線を向ける。そこには巨木が茂っていた。沢山の葉をつけた枝を所狭しと伸ばし、まるで鳥の翼のように広げている。周囲には泉が広がっており、巨木は浮き島のような場所に堂々と佇んでいる。上方から零れてくる光が緑と水面に反射し、そこだけ別世界のように輝いていた。

 ――【下】の世界には、不思議な花が咲くの。その花は七色に輝いていて、願い事をすると必ず叶うのよ。もしもあなたが【下】の世界に行く事があったなら、まず大きな山を探しなさい。そして頂上から見える大きな木を目指しなさい。近づいて行くと泉があってね、その泉を越えるとようやく木にたどり着けるの。

 ここまでは寒気がするほどにカレンの話と同じだ。そしてあの木を見上げられるほどに近づけば、足元に七色に輝く花が見つかるはず。
 ヒソクはおぼつかない足取りで泉の中へと踏み入った。ブーツに水が入り込んで重くなり、誰かに足を掴まれているような感じがした。一歩進むごとに水位が上がり、気付けば腰まで水浸しだ。けれど上方から洩れる光のおかげか水は温められ、不快感はなかった。当然背中のカレンも水に浸かっている。それも初めての体験で楽しいのか、カレンは足をばたつかせて遊んでいた。水飛沫が光を受け、小さな宝石のように輝く。とても綺麗だった。

 泉を抜け、岸へと上がったヒソクは迷わずに巨木の根元へと向かった。上方から注ぐ光は木に近づくほど強くなり、青々と茂った葉の隙間からちらちらと木漏れ日が落ちる。見上げてみると、空を覆う鉄板はそこだけわずかに抜けており、代わりに木の枝で遮られていた。巨木の根は太く長く、それが幹まで伸びて螺旋を描いていた。足場にして登れば天辺まで行けそうだ。
「あった! ヒソク、下を見てよ!」
 足をばたつかせ、カレンが声を上げて催促する。ヒソクは促されるまま下を向き、そして鳶色の瞳を見開いた。
「は、ははは……! なんだよ、花って……そういうことか」
 笑いを抑え切れなかった。てっきり七色に輝く花を想像していたが、全く違っていた。長い年月をかけて育った巨木の根が複雑に絡み合い、五枚の花弁をつけた花のように地面で形取っている。その中には泉から流れた水が溜まり、上空から注ぐ光が反射して輝いているのだ。
 ヒソクは胴を括っていたロープを解き、カレンを巨木の根に座らせた。カレンは嬉しそうに足をばたつかせ、薄灰の瞳を輝かせて花を眺めていた。
「あったね、本当にあったね!」
「そうだな」
 本当にあるとは思わなかった。どうしてあんな話が【上】で語り継がれているのか……【下】の人間が【上】へ行ったのか、それともカレンのように【上】から降りて来た人間がいたのか。ヒソクには皆目見当がつかないが、それならばきっとカレンが【上】に戻る手がかりが見つかるはず。
「この花にお願いすれば、それが叶うのよ」
「はは、まさか。そんなわけないだろ?」
 どう見たってこの“願い花”は自然が生み出した偶然の産物。願った所で何も叶いやしない。そう思ったものの、ヒソクは面白半分で適当な願いを口にしてみた。
「じゃあ、腹が減ったから何か食いたい」
 鳶色と薄灰の瞳がじっと花を見つめるが、きらきらと輝くだけで一向に何も起こらない。ヒソクは深い溜め息を吐いてからぐっと背伸びをした。
「だから言っただろ? こんなものに願っても何にも……っ! いてえ!」
 話の途中で何かが上から振って来てヒソクの頭を直撃した。ぶつかった箇所を押さえながら苦悶の表情で足元を見てみると、そこには果実が転がっていた。緑がかった黄色の丸い果実を拾い上げ、再び上を見てみる。じっと瞳を凝らすと、緑の葉の合間に同じような果実がいくつも実っているのが見えた。葉に隠れて最初は気付かなかったのだ。
「こっちにも落ちてるよ」
 カレンは足元に落ちていた黄色い果実を拾い上げて喜んでいた。彼女は迷わずかじりつき、満面の笑みを浮かべる。甘くて美味しいらしい。カレンに倣ってヒソクも果実にかじりついた。ほんのりとした甘さが口の中に広がり、果汁が乾いた喉を潤してくれた。
「願いが叶ったね!」
 他にも拾った果実を両手に持ちながら、カレンは嬉しそうに笑顔を浮かべていた。願いが叶ったというか、単なる偶然にしか過ぎないが、カレンの笑顔を見ているとそんな風に思えてしまうから不思議だ。

 二人は螺旋の根っこを登り上を目指した。残念な事に鉄板と枝に阻まれて天辺まではたどり着けなかったが、ずいぶんと地面が小さく見えるほどまで高い位置まで登ってきた。二人は太い枝に並んで座り、しばし遠くを眺めていた。
「お前の願いも叶うかもな」
「え?」
「だって、何か願い事があって花を探してたんだろ?」
 そうだ、とカレンは思い出した。けれど、心に抱いていた願いごとはすでに叶ってしまったのだ。【下】の世界を見ることができた。願い花も見つけることができた。これ以上他に願いは……
「私、もっと【下】の世界を見てみたいな」
 そんなささいな願いは、花に願わなくとも目の前の少年が叶えてくれるだろう。偶然が生み出した産物は、偶然に出会った二人をも“奇跡”に変えてしまう。
 しかし。
「あそこ、見てみなよ」
 ヒソクが上方を指差すと、カレンが顔を上げた。
 鉄板の間で所狭しと絡んだ枝の合間に、人一人が抜けられそうな空間が見える。ヒソクは無理だろうが、細身で小柄なカレンなら通り抜けられそうだ。
 カレンはあまりに綺麗過ぎる。そしてあまりに純粋過ぎる。【下】で生きてゆくには不都合な存在だ。それはカレンが悪いわけではない。鉄板に阻まれて二つに分かれた世界が悪いのだから、仕方がない。
「あそこから、【上】へ帰れる」
 カレンは驚いたように瞳を見開いていた。ヒソクの言葉の意味を、すぐに理解できないようだった。
「私、まだ帰りたくないよ」
 ヒソクは首を横に振った。今は帰るべきだ。この【下】の世界で見たものを糧とし、カレンはもっと世界を知るべきだ。たとえそれが“裸足”という些細な言葉であっても、どうしてその言葉が存在するのか、理解できるようにならなければ。長年抱いていた夢は叶った。だからもう現実へ帰る時間だ。

「じゃあ、約束しようぜ」
 薄灰の瞳が瞬いた。
「お前がもう少し大人になって、世の中の事をもっと知ったら……そうしたら、また【下】へ来ればいい」
「もう少しっていつ? 私、そんなに待てないよ」
 カレンは不満そうに口を尖らせた。
「急くなよ。大きくなるのなんて、あっという間だ。お前は賢いから、すぐに色んな事が理解できるようになる。そうすれば、もっとこの世界が楽しくなる」
「ほんと?」
「ああ」
 カレンはしばし押し黙った。ヒソクはじっと彼女の返事を待つ。
 どこからか吹いて来た風が木々を揺らし、緑が穏やかな音色を奏でる。【上】から注ぐ光は木漏れ日となり、二人の姿を優しく温かく照らしていた。
「……ほんとに、また会える?」
「会えるよ」

 ――【下】の世界には、不思議な花が咲くの。その花は七色に輝いていて、願い事をすると必ず叶うのよ。もしもあなたが【下】の世界に行く事があったなら、まず大きな山を探しなさい。そして頂上から見える大きな木を目指しなさい。近づいて行くと泉があってね、その泉を越えるとようやく木にたどり着けるの。見上げられるくらい木に近づいたら、今度は足元を見て。ほら、きっと見つかるわ。七色に輝く“願い花”が。

 誰かがその瞳に映した真実は、やがて物語となって語られるようになった。物語は少女に夢を抱かせ、その“願い”は衝動となって彼女を突き動かし、そして有り得ぬはずの出会いを生んだ。
 それはきっと、この木の下に咲いた“七色に輝く花”が叶えてくれた願い。この花が咲き続ける限り……世界を知りたいと少女が願い続ける限り、二人の出会いは何度でも繰り返される。その時、夢は現実となって少女の瞳に映るだろう。


 だから、今日もこの木の下で君を待つ。
 今日こそは会えますようにと、柄にもなく七色の花に願いながら。



 END





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