1〜eins〜






 ひとりの老婆が、空を見上げていた。揺り椅子に座りながら、青く、青く澄んだ空を、黒い瞳でじっと。
 その空色は老婆にとって、とても懐かしい色であり、同時に悲しい色でもあった。何かを思い出すように、静かに瞳を閉じると、ひとりの少女の笑顔が浮かんでくる。愛らしいその人は、永遠に少女のまま。美しい容姿の内側に、脆く崩れ易いガラスのように繊細な心を持った、花のように、鳥のように、可憐な少女であった。
「おばあちゃん。ねえ、おばあちゃんてば」
 声と共に身体を揺さぶられ、老婆は目を開けた。幼い子供がすぐそばで自分を見上げていた。
 老婆はまだ小さい孫の姿を見てにっこりと微笑んだ。
「ねえ、今日はどんなお話をしてくれるの?」
 小さな女の子は老婆の足元に座り込むと、瞳を輝かせておねだりをした。
「そうねえ……じゃあ、今日は背中に翼の生えた女の子のお話でもしようかしら」
「背中に翼?」
 うん、と老婆は頷いた。
「昔々名もなき小さな島には、普通の人間と、もうひとつ、背中に翼を持つ種族が住んでいたの……」
 空色の髪と真っ白な翼を持つ、天の支配者。
 彼らの辿った、儚く悲しい運命。


 そう、これは、翼ある人々の物語――





*     *     *





 青年が長い廊下を歩いていた。真っ白な白衣に身を包み、手にはファイルのようなものを何冊も抱えている。割合に整った顔立ちであるにも関わらず、表情は暗い。毎日毎日同じ場所を目指しながら、彼は溜め息を繰り返す。
 憂鬱な気持ちと重い足を引きずりながら、青年はある部屋の前で立ち止まった。
「おはよう、ティアイエル。今日の気分はどうかな」
 ノック音の後、部屋の扉を開けながら声を掛けてきたのは、この研究所で最も若い研究員・ハビアであった。
 ティアイエルと呼ばれた存在は、大きな窓際に置かれたベッドの上で微笑んだ。
 緩やかに波打つ、腰まで伸びた空色の髪、紫色の瞳、真珠色の肌、この世の物とは思えない美しい姿。人間にしたら15・6歳といった頃か。
「うん、今日もいい気分よ」
 そう答えて少女はか細い足を赤い絨毯の上へと下ろした。ノースリーブの真っ白なワンピースの裾が、足元をすっぽりと隠してしまった。
 ティアイエルは立ち上がると、その小さな背中から純白の翼を広げて見せた。片翼でも彼女一人分の身長はあろうかと思われる大きな翼。
 ハビアはそれを見て少し苦しげな表情をした。
「ティアイエル……すまない。今の僕は黙って見ている事しか出来ないんだ。けれど、いつか必ずここから出してあげるからね」
 青年の瞳が悲しみの色になった。
 ティアイエルは傍まで近寄り、頭1個分上にある彼の顔を覗き込んだ。視線が合うと、彼女はニッコリ微笑む。
「いいのよ、ここが私の家だもの。あなたがいてくれるなら、それで充分」
 少女の言葉はハビアの心に棘を刺した。
 どうしてこの少女を実験台にしなければならないのだろうか。


 古代の種【翼人(つばさびと)】の最後の一人であるティアイエルは、物心ついた時から島の南方に位置するこの科学研究所で過ごして来た。週に2度行われる彼女のデータ収集は、人として屈辱的なものばかりである、とハビアは思っている。
 【翼人】は、至高の美と力を誇る種で、百年以上の時間(とき)を生き、自然界を自在に操る力を持つという。研究所はその謎を解き明かすため、まだ少女であるティアイエルを研究材料として扱ってきた。
 ここの人間には心がない、と常々思っているハビアは、研究所一若い青年で、いつ頃からか彼女の世話を任されていた。頭脳はなかなかに明晰で、いずれは研究所を背負って立つ人間となるだろうが、日に日に研究所に対する不満は募るばかり。
 しかし彼にはティアイエルを連れて逃げ出せない理由があった。同じく研究員であった父が、ここの所長に多額の借金をしていたのだ。借金だけを残し、この世を去った父。肩代わりとして彼は頭脳を買われ、ここで働いているのだった。

 研究所があるこの島に名前はない。
 南方は自然の消滅を犠牲に、科学の力で常に繁栄を見せてきた。その逆で、北方はいまだに古い風習を留めており、王が民を治めるような状態を続けていた。

「そろそろ行こうか」
 ハビアはティアイエルのか細い手を取り、部屋を後にした。
 少女のか細い手を取り、ハビアは廊下を歩く。
 暖かいはずなのに寒いと感じる。すれ違う人間達に表情がないから。感情が見られないから、寒いと感じる。真っ白な壁は綺麗なはずなのに、青年の瞳にはどうしても汚れているようにしか見えなかった。
 複雑に入り組んだ長い廊下を歩き回り、暫くすると彼女の為のラボに辿り着いた。そういった造りにしてあるのは、余計な秘密を知られないためであろう、とハビアは思っていた。
 ハビアが手持ちのIDカードをスキャンすると、自動ドアは音も無く左右に開く。
 待ち構えていた研究員が2人の姿を確認すると、ハビアの元から少女を連れて行く。自分の手から少女の手が、するりと抜けていってしまう。
 彼はいつもこの瞬間が嫌で堪らなかった。この一瞬、自分が強く手を握っていれば、あの少女が連れて行かれることはないのに、と。しかし、そう出来ない自分が一番嫌で堪らなかった。
 室内の中央にある巨大なポッドの中に入れられ、薄緑色の液体に身体を覆われるティアイエル。不思議な事に溺れたり、窒息したりはしない。
 ハビアは見ている事を許されてはいるが、それ以上の行為は禁じられていた。別にその場にいる必要もないのだが、彼は実験が終わるまでじっとその場で待つのだった。






 ある夜。
 外は強い雨が降っていた。全てを溶かしてしまうような、汚れた酸の雨。
 暗闇の中で静かに眠る少女の姿。雨の音しか聞こえてこない。
 だが、ベッドに横たわるティアイエルの耳に、ガラスが割れるような音が飛び込んで来た。
 跳ね起きた彼女の心拍数は上がっていた。と、同時に扉の向うでささやき声が聞こえて来た。
「……ル……エル、ティアイエル……」
 ハビアの声だ。
 慌てて駆け寄り扉を開けると、細い光が差し込み、同時に大きな影が室内へと流れ込んできた。その姿を見て声を掛けようとしたが、伸ばされた手に口を塞がれた。
「……ティアイエル、ここから逃げるんだ……」
 声を殺して言うハビアの肩は、血で真っ赤に染まっていた。
 血なんて今まで見たことのないティアイエルは、足元から力が抜けていくのがわかった。その赤い色を見ているだけで、意識が遠のいていく。
 全身を震わせながら力なく座り込む彼女を、ハビアは無理に立たせようとする。右肩を負傷したため、抱え上げることが出来ない。
「ティアイエル、ぐずぐずしている暇はないんだ。頼むから立ち上がって」
「だって……その血は……」
「こんなのは大丈夫だから。早く、さあ」
 再度促されて、仕方なく立ち上がった。それでも足はガクガクと震え、地を歩く感覚がなかった。
 廊下に出たハビアは、辺りを警戒しながらティアイエルを半ば引きずるようにして走り出した。可哀想だが彼女を気遣っている余裕がない。早く逃がさなければ、この少女は殺されてしまうかも知れない。いや、殺される事よりも残酷な運命が待ち受けているのに。骨も折れた右肩の痛みは限界を超えた。ハビアの方こそ、遠のく意識と闘っているのだった。
 しばらく歩き回り、ハビアは誰も使っていない暗い部屋へと飛び込んだ。と、同時に彼は崩れ落ちた。額には汗が滲み、右肩からは今もなお赤い血が流れ出している。顔色は白くなる一方で、放っておけば危険な状態だ。
「ハビア、しっかりして! どうしよう、どうしよう……」
 瞳に涙を溜めてオロオロする少女を横目で見ながら、ハビアは遠のく意識をもう一度呼び戻した。この意識が途切れる前に、伝えなければならない。そしてここから逃がさなければならない。
 人類の未来の為の研究なんて嘘だ。この研究所は悪魔の巣だ。悪魔を創り出して、いずれは人類を滅ぼしていくのだ。
「……ア? ハビア?」
 聞き慣れた声で意識が完全に引き戻された。
 自分を見つめる紫色の瞳は不安に揺らぎ、今にも崩れ落ちそうだった。
 神秘の空の青に右手で触れようとして、思い止まる。空は、赤い染みを持つべきではない。代わりに左手を伸ばし、柔らかい髪に触れた。
 いつからこの少女を見て来たのか……もう忘れてしまった。長い間同じ時を過ごして来た。一緒に笑い、喜び、時にはちょっとした仲違いもあった。
 けれど一緒にいることが当たり前だったから。それが何よりの幸せだったから。自分を兄のように慕ってくれていた彼女が可愛くて、とてもとても大切だった。
 しかし、それも今日で終わる。自分はもう二度とこの髪に触れることはない。紫の瞳は二度と自分を見つめることはない。
 最後の力を振り絞り、ハビアは立ち上がった。
「こっちへ、早く」
 ティアイエルの手首を掴み、バルコニーへと導いた。夜風が少女の長い髪を揺らした。
「ティアイエル、ここから逃げるんだ」
「どうして? 何故突然……」
 背後から足音の近づく気配がした。本当に迷っている暇はない。ハビアはティアイエルを抱え上げた。右腕に走る激痛など、気にしている余裕などもはやない。
 ここは地上から五階の一室。しかし、迷いはなかった。
「ハビア、どうしたの!? 下ろして!」
「……君ならここから飛び降りても助かる」
「いやよ! 私はあなたと一緒にいたいの!」
 少女の言葉に、ハビアは薄く微笑むことしか出来なかった。
「君はここに居てはだめだ。人類を救う為の研究なんて全て嘘なんだよ。だってティアイエル、君は……」
 言いかけて、腕の中の少女を眼下の海へ目掛けて宙に放り投げた。
 鼓膜を破りそうな銃声が、ハビアを襲う。銃弾は容赦なく彼の体を貫き、真っ赤な鮮血が飛び散った。
「いやあああ!!」
 底に落ちる恐怖と、瞳の前で遠のいていく青年の姿に、ティアイエルは悲鳴を上げた。

 少女の悲鳴も遠くに聞こえた。
 さようなら、ティアイエル。
 どうか、どうか幸せに。

 青年は静かに瞳を閉じた。







2〜zwei〜




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