2〜zwei〜







 外は強い雨が降っていた。
 北方小国の王は、女騎士アストレーアを供に馬を走らせ、城へと帰る途中だった。
 古の遺産とも言うべきであろうか――崩れた神殿のような場所を偶然通りかかった時、何かに引き止められたように王はふと馬を止めた。馬を休めよう、と言って一度振り返ると、王は瓦礫の山へと入って行った。アストレーアは当然それに従う。瓦礫の山で辛うじて屋根のある場所を見つけると、馬を繋いで足を踏み入れた。

 王は暗い闇の中で【空】を見つけた。空の青だけが闇の中でもはっきりと浮かんでいた。
 膝を抱えてうずくまると、空色の長い巻き髪が身体を覆い、まるで晴天の日の青空がそこにあるようだった。
 王とアストレーアは瞳を見張り、少しずつ【空】との距離を狭めていった。そして完全に形を捉えられる距離になって、更に瞳を見開いた。
 真っ白な翼を背に生やした少女だった。
 ――これは……古の種【翼人】か。

『空色の髪と、背に純白の翼を持つ。それは【翼人】』

 彼の頭の中で知識が回り出し、かつて得た情報を引き出した。
 自分の意識とは別に、王の手は少女の空色の髪に触れようとしていた。
 気配を感じた少女の身体は一瞬震え、顔を上げた。自分に向けられた顔は青白く、表情は明らかに怯えていた。再び抱えた膝の間に顔を埋めると、肩を抱いて少女は震え出した。
 王と顔を見合わせ頷くと、アストレーアは羽織っていたマントを脱いでか細い肩に掛けた。
 温かさを感じてか、少女はゆっくりと顔を上げた。瞳の前には今度は女性の優しい微笑があった。
「心配することは何もない。私の名はアストレーア。貴女の名前は?」
 黒い瞳がまっすぐに見つめていた。
 低めの穏やかな声に促され、少女は口を開いた。
「私の名前はティアイエル」
「貴女は【翼人】か?」
 今度は王が問いかけた。
「……はい」
 消え入りそうな声でティアイエルは答えた。
 そして二人の見ている前で、彼女は紫色の瞳から大粒の涙を零し始めた。

 王はいつの間にか、彼女に亡くした幼い娘の姿を重ねていた。生きていれば、彼女と同じ歳頃に成長していただろう、と。
 ――このような少女を、どうして放って行けようか。
 ティアイエルの横で膝をつき、彼女の白い手を取ると、王は言った。
「貴女を我が城に迎えよう」




 ティアイエルは王の養女として城に迎え入れられた。北方の小国である城では、誰もが彼女を歓迎してくれた。初めは戸惑っていたティアイエルだったが、次第に心を開いていった。取り分け王は彼女を本当の娘のように可愛がっていた。勿論【翼人】の言い伝えは、誰もが知っていただろうが、そういうものとは別に彼女は皆から愛されていた。
「姫様、ティア姫様」
 呼ぶ声にティアイエルは振り向いた。
「なあに?」
「お義父上がお呼びですよ」
 アストレーアの声ににっこり笑って頷くと、ティアイエルは空色の長い髪を靡かせて歩き始めた。

 ティアイエルが城に来てから、早三月が経とうとしている。
 来たばかりの頃は全てが不慣れで戸惑ったが、親切な皆のお陰で随分姫としての振る舞いも板に付いてきたようだ。義父王は優しく、自分を【翼人】ではなく、ひとりの娘として愛してくれていた。
 ティアイエルは自分がどういう存在なのか、研究所に居る時にハビアから聞かされて知っていた。

『空色の髪と、その背に純白の翼を持つ【翼人】は、至高の美と至高の力を持つ』

 彼女はその古の種の最後の一人なのだとハビアは言っていた。外に出れば、彼女の【至高の美】と【至高の力】を求めて悪者が近づくかもしれない、と彼は常日頃から心配していた。
 ティアイエルは自分に【至高の力】など無いとわかっている。確かに空気の動きや風の流れを感じることが出来るが、至高だと称えられるようなものではない。
 けれど、義父王を始め、アストレーアも城の者達も、それを抜きで彼女を扱ってくれていた。
 とても幸せだった。こんなにも幸せな事が有り得るのだろうか、と思った。
 それがずっと続けばいいと願っていた。




*      *      *



 満月の輝く、ある夜。
 ティアイエルは部屋のバルコニーで夜風にあたっていた。少し冷たいけれど穏やかな空気が、彼女の髪や頬を優しく撫で、心地よい感触に浸りながら、闇に浮かぶ満月を眺めていた。
 ふと、一瞬満月が黒い影に覆われた気がした。空は雲ひとつ無い。
 ――何かしら?
 そう思った瞬間、穏やかだった空気がザワザワと一点に向かって動き始めているのに気付いた。彼女にはそれが鮮明に感じられた。
 空気の集まっていく場所に瞳を向けて、ティアイエルは目を疑った。そこには、自分と同じ純白の翼を生やした青年がいたのだ。
 人間にしたら十七・八といった頃だろうか。肩まで届かぬ程短い空色の髪と、深い蒼の瞳をした美しい少年は、高い木の上に立ち、ティアイエルをじっと見つめていた。彼を取り巻く空気は落ち着かない様子でうごめいている……怯えているのか。
 鼓動は少しずつ速くなっていた。もしかしたら、ハビアが自分を心配して、仲間をよこしてくれたのだろうか。微かな期待を胸に、ティアイエルは青年に向かって声をかけた。
「あなたも私と同じ【翼人】なの?」
 彼女の動揺で震える言葉を聞くと、青年は微笑した。美しい顔立ちからは想像できぬ程に歪んだ口元で。
「『あなたも私と同じ』だと? 笑わせるな。この俺こそが真の【翼人】であってお前は違う」
 今度は耳を疑った。彼の言っている意味がわからなかった。
 同じ空色の髪、同じ純白の翼。何処をどう見ても、伝えられる【翼人】の姿と同じではないのだろうか。戸惑っているティアイエルの表情をもう一度うかがい、青年は口端を引き締めて言葉を続けた。
「その証拠に、お前は【至高の力】を持たない」
 そう言って彼は右手をかざした。と同時に、ティアイエルの背後にあった窓のガラスは、派手な音を立て、一瞬にして粉々に砕け散った。
 ティアイエルは足元に散らばる輝く破片を見て呆然とした。
 ――何が起きたの?
 上手く説明できなくても、はっきりと理解出来る感情があった。目の前の存在が怖い。逃げたい。しかし一歩でも足を動かせば、鋭い切っ先で怪我をしてしまうだろう。
「触れなくても物なんか簡単に壊せる。これが【至高の力】だ」
 どうする事も出来ずに立ち尽くす少女に向かって、青年は言った。
 確かにこんな力は自分には無い。だったらこの背の翼や人間では持ち得ないこの髪の色は何だというのか。
「だったら……私は、私は何だというの……?」
 ティアイエルは乾いた喉の奥で詰まった声を無理に押し出した。声が震えているのが自分でもわかる。
 青年は木の上からひと羽ばたきし、バルコニーの手摺に足をつけると身を屈めた。短く、不揃いな細い毛先が風に揺らめく。恐怖で身じろぎできないティアイエルの目の前までやってきた青年は、本当に美しく幻想的だった。しかし、やはりその美しさに不釣合いな笑みを浮かべている。
「お前は、人間の胎児に俺の【翼人】としての遺伝子を、あくまで模倣したものを注入された存在だ。つまりは【翼人】の髪と翼を持った、ただの人間だ。……お前は紛い物なんだよ」
 ティアイエルを見ていた蒼い視線は、いつの間にか彼女のずっと後ろに移されていた。彼の言葉は、どうやら後ろにいる人物に聞かせる為のものだったようだ。
 何か嫌な予感がした。
 恐る恐る振り向くと、そこには青ざめた義父王が立っていた。先程のガラスが砕け散る音を聞いて駆け付けたのだろうか。
「……お義父さま」
 首だけをひねって振り向き、ティアイエルは背後に立つ存在を確認した。
 青ざめた表情でそこに立っていたのは義父王だった。揺らぐ眼差しが、じっと少女を捉えている。
「今のは……今のはまことの話か?」
 少女と青年、どちらに問いかけたのだろうか。

 どちらでも良かった。答えが得られればそれで良かった。
 しかし、ティアイエルは彼が求める答えを持ち合わせていない。どうしていいかわからない。また乾いた喉の奥に言葉が張り付いてしまった。
 信じて欲しい。いや、信じてくれると、それを信じている。けれど、その本当に小さな期待を青年は粉々に砕いてくれた。
「あんたもこんな小国とは言え、一国の王だ。だったら南方の科学研究所の話は聞いた事あるだろ? こいつはそこで創られたんだよ」
 王は言葉を失った。
 科学研究所の話は勿論聞いたことがある。主に【人類】について深く研究しているらしいが、どんな内容なのかまでは知る由もなかった。伝説の【翼人】だと信じて疑わなかった少女が、まさか人の手によって産み出された存在だったとは。
 そんな事実に関係なくティアイエルを一人の娘として、愛している……。でもその先が聞きたかった。
 何故? 何故そんな存在を創り出す必要があったのか?
 聞かなければならない。聞かなければならないのに、王の足は心に反してその場を立ち去っていた。事実に関係なく、ティアイエルを愛しているなんて……嘘だった。王の期待は裏切られていた。胸の奥が痛んでいた。

 無言で去っていく義父王の姿に、涙が零れた。今すぐに後を追いかけたいのに、足元に散らばる破片がそれを許さない。
 ――目を見てくれなかった。信じてもらえなっかたの?
 ティアイエルはその場にうずくまり、両手で顔を覆った。白く細い指の間から、幾つものすじが流れて落ちる。
「所詮人間なんてあんなものだ。力なんていらないと言いながらも、腹の底では欲している。あの王がお前を拾ったのも【翼人】の力を欲したからだろ」
 頭上から聞こえてくる冷たい声に顔を上げ、ティアイエルは声の主を睨みつけた。涙で潤んだ紫の瞳はとても美しかったが、青年には興味の無いことだった。
「どうして……」
 どうしてあんな事を言ったの? どうしてそんな風に言うの? どうして私は創られたの?
 聞きたい事は沢山あったが、うまく声が出ない。
 だが、ここで泣き続けるだけなんて、そんなのは嫌だ。
「あなただって研究所に利用されてるんでしょう? だったら何故……」
「それは違う。俺が研究所を利用してるんだ」
 ティアイエルの言葉を途中で遮って青年は言った。
 また、あの似つかわしくない笑みを浮かべて。

 ――何……言ってるの?

「どうして? って顔してるな。だったら教えてやるよ。人間を滅ぼして俺が世界の王になるためだ。研究所に命令して、俺の下僕を創り出させてるんだよ。お前はその第一号でまだ試作段階だ。だから【至高の力】を持ってない。【至高の美】は……まあ合格ってところだけどな」
 淡々とした言葉が頭に響いてくる。つまり自分はこの青年に従い、人間を殺す為に創られたということだろうか。
 眩暈がした。【翼人】だと思っていた自分が、それどころか殺人に使われるだけの虚しい存在だったなんて。胸の奥から悲鳴が込みあがってきた。けれど、乾いた喉がそれを押さえつけ、辛うじて嗚咽だけが漏れた。
 うずくまり、肩を震わせる少女を無視して、青年は再び右手をかざした。ティアイエルの足元に散らばった無数の破片は、今度は更に細かい粒子に姿を変え、風に乗って宙をさまよい、そして消えた。
 青年はバルコニーの手摺からふわりと飛ぶと、地に足を着けずに少女の傍らに立った。
「お前に残された道はふたつある。俺と共に研究所に戻るか……今ここで殺されるか」
 驚く程冷静な声だった。
 一瞬ためらい、言葉の意味を理解すると、ティアイエルは素早く身を起して部屋の中へと逃げ込んだ。
 青年は足を浮かせたまま、ゆっくりと彼女の後を追い、深い蒼の瞳は、怯える姿をじっと捉えている。瞳を見ればわかる。彼は本気だ。
 足がガクガクと震える。力を失って壁に背を付けたまま座り込んでしまったティアイエルを見下ろし、青年が言った。
「どうする?」
 そんな事聞かれたってわからない。
 彼は恐らく本当に自分を殺すだろう。今ここで殺さなくても、いずれ必ず。
「……けて。助けて、お義父さま……」
 事実を知り、受け入れずに逃げた義父の名を、それでもティアイエルは呼んでいた。それは微かな声で、きっと誰にも届かないのに。
 口元を押さえ、涙を流す少女の姿を見て、青年は溜め息を漏らした。
「まあいい。そんなに言うなら三日待ってやる。その間に思い知ればいい」
 そう言って背を向けると、青年ははばたいて夜の闇へと姿を消した。一枚の白い羽根だけが、ティアイエルの足元に落ちていた。







1〜eins〜 / 3〜drei〜




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