空色の花 前編






 世界のどこかに、小さな島がある。今はシャマイムと名づけられたその島には、かつて人間ともうひとつ、背中に翼を持つ種族が住んでいた。
 晴天の空のような髪、汚れを知らぬ純白の翼、そして人間では到底及ばぬ至高の美を持ち、自然界を自由に操るという至高の力を誇るその有翼種は【翼人(つばさびと)】呼ばれ、百年前、人間が住まう世界より完全に姿を消した。物語の語り部もいなくなり、彼らがどんな存在だったのか、どんな運命をたどったのか、伝承がなくなって久しい。


 シャマイムは科学が発展した国で、至るところに研究所や大学が建ち並び、今では有能な科学者・研究者を排出する国として世界中から注目を集めている。
 国の発展のおかげで人々は豊かな生活を送っているが、その代償として自然の力で生まれる緑は姿を消し、人の手で作り出されるものとなってしまった。科学の力で生み出された植物が大地を覆い、人々の命の糧となる。しかしそのような世界でも、風だけは昔と変わらず人々に安らぎと優しさを運び、空は恵みの雨を降らせる。失われずに現代を生きる自然も残っていた。

 シャマイム北部にある植物学研究所は、遺伝子組み換えを用いて新種の植物や花の開発を行っている。内外共に衛生的な白い建物は天井も高く開放感に溢れ、人工物とはいえ季節に関係なく常に緑や花に囲まれている。また、重要な研究を行っているラボ以外は比較的広範囲に渡って一般人にも開放されているため、どんな研究をしているのかと見学にやってくる学生や、癒しを求めて休息に訪れる人々も多い。
 一般人向けとしてエントランスに案内所を設けたり、説明係の研究員を用意したりと、堅苦しい雰囲気を一掃し、研究所をもっと身近な場所として感じて欲しいという、政府の願いが込められているのだ。

 アムは、植物学研究所に勤め始めて一年の新米科学者だ。子供の頃から植物や花が大好きだった彼女は、付属の大学で植物学について学び、研究者となって新しい種を作り出すという夢を実現させた。
 しかし現実とは実に厳しいもの。研究所に入ったからには一人前として扱われ、難しい仕事も研究も、全てひとりでこなしてゆかなければならない。シャマイムの研究所では全ての科学者達が対等に活躍しているため、女性だから、まだ新米だからという言い訳は一切通用しない。何より自ら望んでこの世界に足を踏み入れたのだから弱音は吐けない。

「第三観察室の管理をしているのは誰だね?」
 各研究室の入口は自動式で、開いたとしても無音のため、人が入ってきても大して気にならないものだ。だが開いたと同時、書類に目を通しながら白衣の中年男性――研究室管理官が言葉を発したため、室内で仕事に打ち込んでいた研究者達は一斉に視線を集めた。が、すぐさま誰もが思い当たらないと首を傾げた。
「あの、私ですが……」
 応えたのは細身で中背の女性。髪も瞳も漆黒で、女性らしい色気も特になく、取り立てて目立つ風貌ではない。人混みに紛れてしまえば、見つけ出すのに一苦労するに違いない。
 身体を小さくして怯えたように立ち上がった、彼女がアムだ。遠慮がちに手をあげたアムの顔を見遣った管理官は、また君か、と言いたげに深い溜め息を吐いた。
「温度管理は時間ごとにチェックするよう、決められているはずだが?」
 言われた途端あっと声を上げ、アムは一気に顔色を変えた。慌てて壁がけの時計に目をやる。決められているチェック時間を、すでに一時間も経過しているではないか。
「す、すみません! すぐに向かいます!」
 アムは大慌てで書類を抱え込んだ。一枚、二枚と書類が落ちるが、それは今は不必要なもので、拾っている余裕などなかった。同僚達が呆気に取られている中、彼女は頭を下げながら研究室を出て行った。

 アムが管理を任されている第三観察室は、新種の成長を種の段階から観察する所で、開発されたばかりのデリケートな植物が置かれているため、温度調節には細心の注意を向ける必要があった。しかし、彼女は別件のレポートをまとめる事に熱中していたため、つい設定された時間のチェックを忘れてしまったのだ。
 観察室へと入ると、大慌てで温度設定センサーを調節し、植物達の具合をうかがった。葉や花弁は瑞々しく張りがあり、とりあえず大丈夫のよう。アムはほっと溜め息を吐き、温度調節ミスも含めて観察記録に詳細を記入していった。
 書き込みながら、今度は別の意味で溜め息を吐いた。瞳は暗く沈んでいる。
 どうして失敗ばかりするのだろうか。気を抜いているつもりはないのに、いつもどこかでミスを犯している気がしてならない。先日は大切な研究レポートを紛失してしまい、管理官に厳重注意を受けたばかり。それは自分自身の失敗で、自分に非があるから仕方ないのだが、今回のように研究所の負担となってしまうような失敗だけは避けたかったのに。他にも小さなミスは多々あり、研究室のメンバーにも迷惑をかけてしまっている。
「私、向いてないのかな……」
 ショーケースのような透明な立方体の中で、一際大切そうに保管されている植物がある。それを見つめながら、アムは呟いた。
 大輪の花をつけたこの植物は【ヒンメル】という新種だ。研究所が特に力を注いでいる植物で、アムが初めてたずさわった研究で開発されたものでもある。
 晴天の空色の花びらは、まるでそこに小さな空が広がっているよう。憂鬱な雨の日でも、ヒンメルの花を見ているだけで心が晴れやかになる。そんな思いを皆にも抱いてもらいたい――自分の研究で生まれたヒンメルが、いずれ世界を空色に染めてくれたら……そんな夢を抱きながら、アムは日々研究に熱意を燃やしている。
「そろそろ戻らなきゃ……」
 レポートが途中だったことを思い出し、アムは最後のチェックを怠らずに観察室を後にした。しかし結局レポートが書き上がらず、帰宅は深夜になってしまったのだった。



 シャマイム北部の丘の上には、研究所などの施設が建ち並ぶ中で少々異質な存在感を放つ建物がある。それは百年の昔には居住者がいた、古城である。昔から自然豊かな場所だったのだろう、その風景を残したいという政府の意向で、敷地の周りはぐるりと緑に囲まれている。城内に入る事はできないが、古城の敷地内は公園として使われており、休日になると人々が憩いの場として利用している。アムも例外ではなく、休日になるといつもここへやって来て、読書にふけったりしているのだ。
 古城の敷地はシャマイム政府の管理下にあり、まるで今も誰かが住んでいるかのように綺麗で、ゴミひとつ落ちていない。広範囲に及ぶ庭園の中央には噴水があり、いくつものベンチが置かれ、人工の木々が木陰を作り出している。
 アムは適当なベンチを見つけて座った。木漏れ日がちらちらと影を揺らし、柔らかな風が気持ち良い。周囲を見回すと、恋人達が寄り添い合ったり、老夫婦が散歩をしたり、子供達がじゃれあったり、という光景が飛び込んでくる。人が多いけれど静かで、読書には最適な場所である。アムは荷物から読みかけの本を取り出し、しおりを挟んだ箇所を開いた。
 読書を始めて十分くらい経っただろうか、風が少し強くなり出した。ざわざわと騒ぎ出す緑にアムが顔を上げた瞬間、突風が吹き荒んだ。風は容赦なく本のページをめくり、ついには途中に挟んであった書類をも吹き飛ばしてしまった。あの書類は、本から抜粋した情報を書きつづったもの。なくして困るものでもないが、まとめるのに時間はかかった代物だ。
「あっ……!」
 黒い瞳が飛ばされてゆく紙を追う。咄嗟に手を伸ばしたが、届くはずがなかった。
 諦めるしかない――千切れた緑と共に空高く舞い上がる書類を見守っていたが、真っ白な紙は急に落下し始め、不自然な軌道を描き始めた。そして少し離れたベンチに座っていた青年の手の中に、まるで吸い込まれてゆくように落ちて行ったのだ。千切れた緑は遠くへ飛ばされてゆくのに、何の変哲もない白い紙だけが青年の手元に舞い落ちてきた。とても不思議な光景だった。
 呆然としていた。一体何が起こったのか、理解に苦しんだ。そんなつもりはなかったが、アムがじっと見ているように見えたのだろうか、青年は穏やかな笑顔を向けてきた。
 我に返ったアムは、そのあまりの美しさに思わず頬を染めた。
 テレビや雑誌で見かけるモデルよりもずっと整った、中性的な顔立ち。安月給では決して手に触れることなど叶わぬ、高価な宝石を思わせる蒼い瞳。そして、ヒンメルの花のような晴天の空色の髪。歳はいくつくらいだろうか。年下にも見えるし、上にも見える。とにかくどこを取っても同じ人間だとは思えない、神秘という言葉が相応しい、年齢不詳の青年であった。
「はい」
 青年はいつの間にか目の前に立っていて、拾った書類を差し出していた。
「あっ、ありがとうございます!」
 すっかり見惚れていたアムは、書類を受け取りながら大慌てで頭を下げた。が、すぐにしまったと思う。一度下を向いてしまうと、なかなか顔を上げられなくなった。目の前にとても綺麗な青年が立っていると思うだけで照れくさかった。
 けれどいつまでもそうしているわけにもいかず、恐る恐る顔を上げた。すると、青年はもう一度微笑みを向けてくれた。
「ねえ、きみは植物学に興味があるの?」
「えっ?」
 一瞬、質問の意味を掴みはぐった。初対面なのにどうしてそんな事がわかったのだろうか。
 しかしよく考えてみれば、彼は自分が抱えている本の題名を見ただけだろう、という結論にたどりつく。
「あっ、えっと……はい。私、これでも植物学研究所の人間なんで……」
「へえ、すごいんだね」
「い、いえ、そんな」
 聞かれたわけでもないのだから、自分の事を話す必要などなかったのに、舞い上がって余計なことまで話をしたと後悔した。しかし見ず知らずの人でもそんな風に言ってもらえると、ダメ研究家でも嬉しい。特に、綺麗な人なら尚更だ。
「植物学研究所って、ここから少し南に行った所のだよね? 普段、どんなことしているの?」
「普段ですか? えと、私の研究室では、主に植物の新種開発をしてます」
 アムは自然と応えていたが、それをきっかけに青年は植物について次々と質問をしてきた。質問されれば答える必要があるわけで、繰り返しているうちに、いつの間にか二人はベンチに座り、会話を弾ませていた。とはいえ、青年はアムの話を笑顔で聞いているだけだった。得意分野ということもあり、ひとり盛り上がって話をしていた事に気付いて、アムは唐突に話を止めた。その様子を、青年は首を傾げて不思議そうに見ていた。
「どうかしたの?」
「い、いえ……私、夢中になってひとりで話していて……」
 しかも気付けばすでに夕日が沈みかけている。オレンジ色の世界が、まばらになり始めた園内の人々を照らしていた。
 恥ずかしさのあまり、アムは下を向いたまま顔を上げられずにいた。初対面の人相手に、舞い上がって何を勝手に盛り上がっていたのだろうか。名前も知らない人なのに、なぜか嫌われたくないという気持ちが強かった。
「そんなことはないよ。色々興味深い話が聞けて、とても楽しかった」
 穏やかな声色だった。顔を上げると隣に座っていた青年は立ち上がっており、彼女を見て微笑んでいた。夕ぐれのオレンジの中でも、彼の髪はまるで晴天の空が広がっているように鮮やかだった。
「ねえ、またここに来る?」
「えっ……はい。だいたい休日は来てます」
「じゃあ、見かけたら声をかけてもいい?」
 アムは目を見開いたまま硬直していた。多分、顔は赤くなっていたに違いない。頬が熱いのは、夕日が当たっているせいではない。
 異性からそんな誘いを受けたのは初めてだった。しかもこんなに綺麗な青年に、だ。からかわれているのかとも思ったが、青年にはそんな様子が見られなかった。一瞬躊躇したが、思わず頷いてしまっていた。
 彼女の答えに満足したのか、青年は最後まで笑顔を残し、帰路へつくため歩き出していた。去っていってしまう背中を見送りながら、ひとつ聞き忘れたことを思い出し、アムは青年を呼び止めた。
「あ、あの……名前、聞いてなかったから……。私、アムっていいます」
 青年の方も名乗り忘れていた事実を思い出したのか、あっという表情を見せた。
「僕の名前はハビア。じゃあまたね、アム」
 微笑んで手を振ったハビアは、再び背を向けて歩いていってしまった。
 正視出来ないほど純粋な笑顔と「またね」という言葉が、明確な約束のようで。アムはしばらくその場を動けずに、去ってゆく青年の背中を見つめていた。


 それからアムとハビアは古城の庭園で逢瀬を繰り返した。
 始めの頃はアムの姿を見かけたハビアが声をかけてくる、という感じだったが、いつしかそれが逆になり、近頃は確実に待ち合わせをするようになった。ハビアも植物や花が大好きで、アムの話に非常に興味を抱いてくれていた。
 ベンチに座って話をしたり、散歩をしながら風景を眺めたり、することといえばいつも同じだったが、それでも時間が過ぎるのが早いと思えるほど楽しかった。
 ハビアはとても不思議な雰囲気をまとっている。そこにいるのにどこか遠く、触れていなければ消えてしまいそうな、そんな現実味のない青年だった。住所も職業も年齢も知らない。知っている事といえば子供のように純粋な笑顔と、草木や花をとても大切にしている優しい心だけ。それでも怪しいと思ったことはない。
 思えるはずがなかった。アムは少しずつだが確かにハビアに惹かれていた。


 その日は休日のはずだった。
 しかし研究所から大至急との召集があり、アムは食事も摂らずに家を飛び出した。
 研究室に入った頃には既に同僚達も集まっており、管理官を始め、みな神妙な面持ちで慌ただしく動き回っていた。
「な、何があったんですか?」
 洗い立ての白衣を着込みながらアムが声をかけると、近くにいた先輩研究者が渋い表情を向けてきた。
「第三観察室の温度調節センサーが壊れたらしく、植物がほぼ枯れてしまったんだよ」
 答えながらも先輩研究者はあくせくと動き回り、それ以上の言葉もなく行ってしまった。
 全身から血の気が引いていった。第三観察室には、研究所で開発された新種の植物が保管されている。もちろんヒンメルの花もだ。新種の保管には温度調節が最も重要な役割を果たす。それがセンサーが壊れて、植物が枯れてしまっただなんて……。
 アムは居ても立ってもいられず、観察室を目指して走っていった。


 普段は一般人にも開放されている植物学研究所。当然その日も変わらず、一般人の出入りは繰り返される。子供連れの家族、若いカップル、老年の夫婦――その中に、珍しい髪の色をした青年がいた。晴れ渡った空色の髪と、人外の美貌は非常に人目を引くのだろう、すれ違う誰もが足を止めて彼を振り返り、見惚れていた。
 青年――ハビアは研究所のエントランスに設けられた案内所へ向かった。今日は古城の庭園で待ち合わせをしたのに、アムは昼近くなっても現れない。普段は時間通りにやって来る彼女に何かあったのだろうかと、彼は研究所まで足を運んだのだ。
 案内所のカウンターでは、若い女性がこちらに背を向けている。ちょうど電話応対を終えたところのようだ。
「ねえ、ここでアムっていう子が働いてると思うんだけど、知らない?」
 背を向けていた案内嬢は、声をかけられて笑顔のまま振り向いたが、見たこともない美青年の登場に硬直してしまっていた。何事かとハビアは彼女の目の前で手を振るが、彼女は目を見開いて微動だにしない。

 その時、何かに呼ばれたような気がしてハビアは辺りを見回した。右手の方向に真っ直ぐに伸びる廊下の、ずっとずっと先から風が運んでくるのは、すすり泣きに似た声や悲鳴に近い声。助けを求める複数の声が、ハビアの耳をくすぐった。
蒼の瞳が白い廊下の先を見据え、どこからともなく入り込んだ風が空色の髪を揺らした。
「呼んでる……」
「え?」
 遠くを見つめて呟く青年に、案内嬢は首を傾げた。誰が呼んでいるの? そう問いかける前に、彼は行ってしまった。

 第三観察室は騒然としていた。常温に耐え切れずに枯れてしまったものや、まだ枯れていないものを分類し、細かくチェックしたり、温度調節センサーの修理に追われたり、と研究者達が絶え間なく出入りを繰り返し、動き回っている。
 その中にアムの姿もあった。彼女はヒンメルの花が保管されている個室に入り浸り、管理官や先輩研究者達と共に、修復に追われていた。
「もう、だめかもしれないな……」
 管理官がぼそりと口にした言葉に、アムは思わず涙を浮かべた。
 ヒンメルは他のどの新種よりも繊細で、ほんの少しの温度変化にも弱い状態だった。これからあらゆる環境に適応できるように開発していく予定だった。だが、花びらも葉も水気を失い、ぐったりとしてしまっている。
 泣いたからといってヒンメルが甦るわけではない。けれど諦めきれない。この花にどれだけの熱意と夢を注いできたか。
「気持ちはわかるが、諦めるしかない」
 俯いて涙を零し始めたアムの肩に手を置き、管理官が溜め息を吐く。
 ひとつふたつと零れ落ちる涙を拭うアムの隣で、別の研究者が枯れてしまったヒンメルを取り上げ、個室を出て行った。
 全ての気力を失った気分だった。これまでの苦労も努力も抱いた夢も、涙となって一気に流れ出てゆく。手足から力が抜け、アムは立ち上がることすら出来なかった。

「な、なんだ君は!」
 突如として観察室内がざわめきだし、誰ともなく声を張り上げた。何事かと管理官も、俯いていたアムも顔を上げてそちらに目を向ける。
 空色の髪をした青年が、蒼い瞳を細めて微笑んでいた。
「ここは一般人の立ち入りは禁止されているはずだ! すぐに出て行きなさい!」
 立ち入り禁止区域には必ず警備員が立っているはずなのに、どうやってここまで入ってきたのか。研究者のひとりが青年に詰め寄り即刻退室を促すが、彼は頑として動こうとしなかった。
「みんなが、僕の事を呼んでいるんだよ」
「は……?」
 わけがわからず顔をしかめて首を傾げる研究者の手から、枯れてしまったヒンメルを取り上げ、青年・ハビアは笑顔を浮かべた。かすかに生気を感じる。まだ間に合う。
「何をする気だ!」
「……少し、静かにしていて」
 怒鳴り声を上げられても、ハビアは冷静な態度を崩さなかった。ちらと向けられた蒼の視線は、優しげだけれども有無を言わさぬ異様な気迫が込められており、研究者たちは思わず口をつぐんだ。
 ハビアはぐったりとしおれてしまった空色の花にそっと唇を寄せた。まるで愛の言葉でもささやく時のように。
「……大丈夫、きみはまだ頑張れる。だから元気を取り戻して。“彼女”の笑顔を消してしまわないで」
 青年の唇が、限りなく優しく空色の花びらに触れた。そっと吐かれた息が復活の呪文であるかのように触れた唇から染み渡り、徐々にヒンメルを甦らせてゆく。しおれていた花びらが生き生きと広がり、葉はより青々とし伸びてゆく。
 その場の誰もが絶句していた。有り得ない光景に目を奪われていた。
 美貌の青年の手の中、死んでしまった花が見事なまでに咲き誇っていた。開いた花と青年の髪は、まさに青空のごとく目に眩しい。
 それだけではない。青年から与えられた生気を分かち合ったのか、観察室中の植物が息を吹き返したのだ。完全に枯れ果て、諦める以外に方法がなかった植物までも、だ。室内が色とりどりに咲き乱れ、緑の青さが眩しく光る。夢を見ているようだった。
「よかった」
 無邪気な笑顔を浮かべ、青年はほっと息を吐いた。そばにいた研究者にヒンメルを手渡すと、青年はみなに背を向け観察室を出て行ってしまった。


「待って!」
 廊下を歩いている最中に背後から呼び止められ、ハビアは振り返る。息を切らせながら追いかけてきたのは、アムだった。
 一体どうやって植物達を甦らせたのかなどと、そんな事を聞きたいのではなかった。彼が何者なのか、それが知りたかった。空色の髪も、蒼い瞳も、現実味のない美しさも、そしてあの不思議な力も――もはや同じ人間と呼ぶわけにはいかない。
「あの……」
「きみに話したいことがあるんだ。今夜、古城の庭園で待ってる。来てくれるよね?」
 問いかけようとアムが口を開いたが、ハビアに先を越されてしまった。彼はそれだけを告げると背を向けて行ってしまった。
 青年を取り巻いていた風が流れて、肩まで真っ直ぐに伸ばした黒髪を揺らし、アムは引き止める言葉すら口に出来ずに去ってゆく背中を見つめるだけだった。





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