Light & Darkness


Sequel 9








 真っ暗だった世界に光が広がり始め、そこに見覚えのある室内を描き出した。やがてぼんやりと人影が浮かび上がり、聞き覚えのある声が響いてくる。

『これを、本当に私に預けるというのだな?』

 窓から差し込む光が、女王の黄金の髪と、掲げられた小さな石を輝かせている。エメラルドの瞳は、清き水のごとく透明なつゆ型の石に釘付けだ。

 これはいつの光景だったか。
 そう確か、アスライーゼ城にやって来て、一年くらい経った頃。フェリーシアにオルフィスの秘宝【アペイロン】を託した時の光景だ。
 なぜフェリーシアにアペイロンを託したのだったか。
 本当はロックウェルに渡そうと思っていた。けれど、所持していれば危険が伴う代物。これから長旅に出る彼には、どうしても渡せなかった、渡したくなかった。
 どうしようかと扱いに困った末、フェリーシアに相談したのだ。
 フェリーシアは、それが危険なものであることも、所持していればいずれ波紋を呼ぶであろうことも、自分勝手な想いでロックウェルに渡せなかったことも、全てを承知でアペイロンを受け取ってくれた。その代わり、どう扱おうと一任するという条件付で。
 彼女は出会って間もないにも関わらず、世間知らずの自分を本当の妹のように可愛がってくれた。日々接するうち、フェリーシアは人として王として、心から信頼に値する人物だと思えた。だから託したのだ。
 その思いに応えるように、フェリーシアは決してアペイロンを悪用することはない、と固く誓いを立ててくれた。
 けれど、その後アペイロンがどうなったのか、知らされていない。


 眩しいくらい白い光景の中で、大好きな女王の笑顔が輝いていた。
 だが、突然世界がめまいのように歪み始め、光は闇に侵食され、笑顔でそこに立っていたはずの女王は、ぐったりとして何かにもたれていた。
 どうしたのかと必死に手を伸ばしたが、どうしても触れることができなかった。駆け寄っているつもりなのに、どうしてもそばへ近寄る事ができなかった。

『貴女がいけないんですよ』

 言葉と同時、女王の背後に漆黒の男が現れた。真っ暗な光景の中で、女王の黄金の髪と白い肌がはっきりと浮かび上がり、男の暗紫の瞳が妖しく輝いていた。
 男は女王の身体をいとおしげに抱かかえながら、じっとこちらを見つめていた。

『貴女が彼女にアペイロンを渡したりするから、こんな事になったのです』

 血の気の失せた女王の頬に口付けながら、男は左手にしたものを掲げて見せた。
 それは、紅い血を滴らせる、真っ白な竜の片翼だった。

『ほら、これで貴女とお揃いだ』

 悲鳴を上げた。
 けれど、その悲鳴は音にはなれず、空気を震わすことすらできなかった。
 振りまかれた哄笑が、何も出来ずにもがく自分を嘲笑っているようだった。










 レインは弾かれたように跳ね起きた。身体中に汗をかいている。背筋を伝う冷や汗が生々しい。呼吸と心拍数はひどい乱れようだ。
 慌てて辺りを見回すが、広い室内は薄暗いだけで何も聞こえない。“動”の気配を感じない。誰もいないのだ。
 呼吸を整えながら、さきほどの光景が夢であったのだと確認し、額に浮かんだ汗をそっと拭いながら安堵の溜め息を吐いた。
 なんて嫌な夢。
 でもあれは、現実となりうる夢だ。そう思ったら苦しくなって、強く胸を押さえていた。

 アスライーゼではないとわかるが、ここは一体何処だろうか。途中から記憶が途絶えてしまっているけれど、悠長に眠っている場合ではないのはわかる。嫌な空気が漂っている。
 手が無意識に首元を探っていたが、そこに望んだものはなく、レインは落胆した。いつも身につけている魔陣石は、どこかで落としてしまったのだろうか。魔陣石があれば、なんと心強いことか。
 とにかく、この部屋から逃げ出さなければならない。
 ダークネスは確実にアペイロンを狙っていた。やがてフェリーシアの手にあると気付いてしまうかも知れない。そうなったら、さきほど見た夢が現実となってしまう危険性が高い。
 見たところ外傷もなく、また繋がれているわけでもないと気付き、レインはベッドから降り立った。とりあえず入口の扉へと近づいたが、しっかりと施錠されており、当たり前だがここからの逃走は不可能だ。
 となると、残る手はひとつしかない。窓から、飛んで逃げるしかない。
 しかし片翼を失った彼女には到底無理な話だった。飛び立った瞬間にバランスを崩して真っ逆さまだろう。

 けれど、このままここに居ても、待っているのは辛く屈辱的な日々。一族の仇、己の身も心も傷付けたあの男のために、一生尽くさねばならないのだ。それにフェリーシアのことを考えると、居ても立ってもいられない。
 窓はなぜか施錠されていなかった。誰もいないかどうか確認してから、レインはバルコニーに出た。
 辺り一帯闇色に染められている。手摺に手をかけ、眼下に広がる風景を望んで息を呑んだ。この部屋は最高位置にあるのだ。落ちたら間違いなく死ぬだろう。夜の闇が恐怖感を、遠くに見える城下の明かりが不安感をいっそう募らせた。何て遠いのだろうと思う。

 それでも迷いはなかった。この先ロックウェルに会う事も叶わず、アスラーゼにも帰れず、一生あの男の元で生きていかねばならぬのなら、いっそ死んだ方がマシだ。
 強くなり始めた風が、長い髪と広げた色鮮やかな片翼を揺らした。一度瞳を閉じ、レインは深呼吸を繰り返した。鼓動がやけに大きい。
 スカイブルーの瞳を見開くと、レインは迷わずバルコニーから飛び立った。
 もしも叶うのであれば、もう一度あの人に会わせてくださいと願いながら。



 身体は真っ逆さまに地へと向かっていた。何度か羽ばたいてみたが、やはり片翼では上手く飛ぶ事ができなかった。
 死を覚悟していた。全身から力が抜け、羽ばたいているのかいないのか、自分がどういう状況になっているのか、頭の中は真っ白だった。
 やがて、ずっと速度を緩めなかった身体が停止した。
 もう地上に落ちたのだろうか。
 しかし、死んだという感覚がなかった。打ち付けられた衝撃もなかった。それとも、もう死んでしまったからこそ何も感じないのだろうか。
 怖くて、きつく瞳を閉じていた。心臓が壊れたかと思うほど、ドクドクと鼓動が身体中で響いている――つまりはまだ生きているということか。
 身を強張らせていたレインは、ふと肩に触れられている感触があることに気付いた。そう、ちょうど誰かに抱えられているような感じだった。
 もしかして、と淡い期待が心を過ぎった。







 しかし、その期待はあっさりと裏切られた。

「ずいぶんと無茶をなさるお嬢さんですね」

 聞こえてきたのは想い焦がれる恋人のものではなく、彼女が恐れ忌む男の声。目の前にあるのは月夜に映える純白の髪ではなく、闇夜に埋もれる暗紫の髪。
 肩に、背に、足に触れた男の指先から、氷のように冷たい感覚が広がった。

「は、離してください!」

 抱えられた腕から逃れようと、レインは必死になって抗った。けれど、ささやかな力ではどうにも出来ず、彼女は元の部屋へと運び込まれてしまった。
 特別拘束する気はないのか、カイザーは降り立った直後に抱えていたレインを静かに下ろした。
 解放されると、レインは窓辺から反対側の入口まで走った。扉に背を向け、息を荒げ、その距離でもって漆黒の男を拒絶した。
 黒竜の翼をしまったカイザーは、彼女の様子に嘆息した。その表情は、聞き分けのない子供を見遣るそれである。

「落ちて死んだらどうするんですか。せっかくロックウェルに救ってもらった命なんですから、無駄にするなんて勿体無い」

「あ、あなたにそんな事を言われたくない!」

 温厚なレインも、さすがにこの発言にはかっとなった。
 なぜ、死に至るような状況に追い込んだ相手に、そんな事を言われなければならないのか。どんな思いでこれまで生きてきたか、知りもせずに。
 しかし怒りを口にしたくても、上手く言葉が出てこなかった。目の前の男に恐怖し、それすらも出来ない自分が不甲斐ない。
 自然と涙が溢れていた。どうしても逃げ出せないこの場の状況と、過去の記憶が流させた涙だった。
 そんなレインに、カイザーが追い討ちをかける。

「どんなに逃げても、私は貴女を捕らえることが出来ますよ」

 そこで言葉を切ったカイザーの姿が、一瞬レインの視界から消えていた。

「ほら、こんな風にね」

 離れていた声は、息を吐く間もなく接近していた。レインの隣に並んで立ったカイザーは、悠長に腕組をしていた。
 背筋がぞくりとした。自分の力では、この男から逃れられないと肌で感じた。
 彼の名は【ダークネス】。それは、何も容姿だけをたとえたものではない。
 闇夜に紛れ、水面下で動きまわる俊敏さ、影となって策を練り、そして遂行する頭の切れの良さ――そういうものをも含めた、いわば彼への賛辞である。そんな男からレインが逃れる術(すべ)は、皆無に等しい。

「ああ、でも……これがあれば、逃げられるかも知れませんね」

 怯えた表情を浮かべるレインに向き直り、カイザーは胸元から何かを取り出して見せた――形を崩し始めた、アペイロンのレプリカだ。
 レプリカとはいえ、それは立派な魔陣石。しかも、アペイロンに似せて作ったため、普通の魔陣石よりも強力だ。
 これさえあれば魔術が使える。陣を組む時間さえあれば、自力で逃げ出す事ができる。
 わざとらしく目の前で揺り動かされるレプリカを、スカイブルーの瞳が追う。レインは取り返そうとして、思わず手を伸ばしたが、その細い手首を捕らえられてしまった。

「あまり聞き分けが悪いと、“本当に”帰れない状況にしなくてはなりません」

 いつかの夜のように、カイザーは軽く腰を折り、目線を合わせた。
 レインは思わず身を強張らせた。硝子越しなのに、その瞳が怖い。
 すぐそばで感じる気配を押し飛ばして、逃げる力があればとさえ思う。

「もう片方の翼、失いたくはないでしょう?」

 この場で逆らえば、残された翼も奪われてしまう。闇色の瞳が、逆らってはならぬと脅していた。
 自分の足で逃げ出す事ができない、自分の翼で飛び立つ事ができないのが悔しい。
 様々な思いが涙となって溢れ出す。こうして泣く事しかできない自分を情けないと思う。
 けれども、どうしても怖くて怖くて動けなかった。三年前に直面した辛く苦しい光景と痛みが、脳裏と背中に降りてくる。

 ――痛い? ではこうすれば、そんな痛みなど些細なものだと思えるでしょう?

 そう言って、この男は自分から片方の翼を奪っていった。
 抗っても駄目だった。切り裂かれたような激しい痛みに悲鳴を上げたけれど、その声は、さっき見た夢と同じく音にはなれなかった。口元を覆った黒革の手袋に、拒絶も悲鳴も、全てを奪われていた。
 殺された父や数少ない同種たちの散らばった色鮮やかな羽根、あの時の悲惨な光景――痛みを超えて感覚を失った背中から止め処なく流れた、赤い血の色――今でも鮮明に覚えている。


「大人しくして下されば、何も辛いことはありません。私だって、女性に対してあまり酷い行為はしたくないのですから」

 嘘だ、とレインは思った。
 それを言葉にしようとして開きかけた唇は、今まさに奪われようとしていた。

「貴女は、自分の意思でここに居るという事をお忘れなく」

 彼の一言一句が、レインの思考を鈍らせる。聞き続ければ、それが真実なのだと思い込んでしまう。徐々に毒が広がり、まるで魔法にかけられたように、身体中が麻痺してゆく。
 穏やかな口調、甘く優しい悪魔のささやき。
 魔陣石など使わなくとも、彼の言葉にはそれだけの力があった。
 今度こそ逃げられない、とレインは覚悟を決めていた。







 しかし、逃れる道がないと思われた空間は、窓からの侵入者があっさりと壊してくれた。

「ねー、カイザー! すごいんだよ、聞いてよー!」

 突如として背後から声が聞こえ、触れるか触れないかの際でカイザーはぴたりと動きを止めた。消化不良で気分が悪いといった風な表情を浮かべつつ。
 肩を落とし、一息吐いてから振り返ると、窓からの侵入者は、まるで緊張感のない笑顔を返してきた。
 ヘラヘラと笑っていた侵入者――ジンは、主(あるじ)の表情がかなり渋い事に気付き、カイザーとレインの顔を交互に見ながら、場の状況をしばし考え込んだ。

「あれ、もしかして俺、お邪魔だった?」

「……そうかも知れませんね。それで、一体何が凄いんですか」

 呑気な言いっぷりにカイザーは呆れ顔を返す。
 「夕食が豪華だった」とか「可愛い女の子を見つけた」とかいう、かなりどうでもいい話だったらキレるかも知れない、などと心の片隅でひそかに考えていた。
 それが眉間のしわに表れていたが、ジンは気にせず興奮しているようで、身を乗り出してウキウキしていた。

「でっかい竜が空を飛んでたんだよ! 俺、ワイバーン以外の竜って初めて見た! カッコよかったなー」

 遠い空から優雅に翔けてきた飛竜――さきほど見てきた光景を思い出し、ジンは子供のようにはしゃいでいた。瞳の輝きぶりから、本当に喜んでいるのだと判断できる。
 彼の言葉に、ダークパープルの瞳が期待で見開かれた。

「ジン、その竜の背に乗っていたのは誰だかわかりますか?」

 問いかけたカイザーの口元は弧を描いていた。
 聞く必要もなく、彼にはその存在が誰であるのかわかっているからだ。

「えっとねー、白い髪してる人だったかな。あとはガタイのいいお兄ちゃんと、ちっこい金の竜。あれ可愛くていいなー。俺も飼いたい」

 レインの表情が変わった。
 白い髪の人というのは、ロックウェルだ。ガタイのいいお兄ちゃんはサラで、金の竜はファルシオンに間違いない。

 ――来てくれたのね。

 今度は嬉し涙が頬を伝った。こんな涙なら、いくら流しても惜しくはない。早く会いたいという気持ちは、募るばかりだ。
 そんなレインを尻目に、カイザーは微笑していた。
 面白い。どうやら彼は、とことん邪魔をする気らしい。

「白い髪の男は【竜王】です。彼女達を取り戻しに来たのでしょう」

 竜王は負けず嫌いで独占欲が強い、いかにも王族系の性格だ。
 大切なものを盗られたまま引き下がるような、そんな情けない男ではないから、きっと来ると思っていた。

「竜王は私がお相手しましょう。邪魔立ては必要ありません」

「俺はどうすんの?」

「その他はあなたに任せます。好きにして下さい」

「わかったー。頑張るね!」

 ジンは意気揚々と腕を振り回し始めた。
 が、ふとある事を思い出してカイザーに問いかけた。

「そういえばさ、ロネッサが見当たらないんだけど」

 ジンの問いに、カイザーは一呼吸置いてから、冷めた笑みを飛ばした。

「ああ、彼女ですか。言いつけを守らなかった罰が下ったのでしょう。気にしなくて結構ですよ」

 口調はあっさりしたものだった。
 これまで幾度となく夜を共にした相手に向けるには、いささか冷たすぎるものだが、実際思いが強かったのはロネッサだけであって、カイザーには特別な感情など存在していない。
 しかも言いつけを破っただけでなく、“彼女”を殺そうとした事実は、ひそかにカイザーの逆鱗に触れていた。彼自身が手を下さなかっただけ、ロネッサにとっては幸運だったというもの――それがカイザーの考えだった。

「ふーん。ま、いいや。んじゃ、行って来るねー」

 そう言ってジンは手を振りながら、窓から出て行ってしまった。
 手を振っている相手は間違いなくレインであったが、彼女はどうすることも出来ずに戸惑っていた。何だか、ダークネスの手下にしては調子の狂う人だ。
 安堵の溜め息を吐いた途端、ダークパープルの瞳が見下ろしてきて、レインは再び身を強張らせた。

「まあ、彼が来たからと言って、貴女が逃げられるとは限りませんけれどね。ロックウェルにあっさり敗北するほど、私は弱くない」

 言葉と共に漆黒の翼が広げられ、レインの姿を影が覆った。
 その影の大きさが、闇の力の強大さを表しているような感覚に襲われた。埋もれてしまったら、二度とは這い上がれない深い深い闇だ。
 それを見つめているうち、レインの脳裏にひとつの謎が浮かび、どうしても聞いてみたくなった。

「……なぜ、あなたは同じ種族の人と闘ってまで、力を欲しがるんですか?」

 レインから問いかけられるとは思いもしなかったのか、カイザーは一瞬驚いたような、彼にしては珍しく無防備な表情を見せた。
 だが、すぐに唇は弧を描き、目線を合わせて答えを返した。

「私は、別に彼らが嫌いというわけではないんです」

 けれど、とカイザーは言葉を繋げた。

「邪魔をする者は、誰であろうと消すだけです。ただ、それだけですよ」

 彼の返答に、レインは何か言わなければならないような気持ちになった。引き止める言葉を口にすれば、彼は思い留まるのではないかとさえ思える理由だったからだ。
 呆然とするレインの白い手を取り、カイザーは軽く口付けた。その所作は紳士そのものだ。

「続きはまた今度」

 優しげな笑顔は、まるで幻想だったかのようにすぐ目前から消え失せていた。一瞬の間にバルコニーへと移動していた漆黒の男は、闇色の翼を広げて優雅に宙を舞っていた。


 漆黒の闇に、竜の黒翼が、暗紫の髪が埋もれてゆく。
 吹き上げる風が、痩せた頬を撫で上げる。

 ――今宵で決着をつけましょうか、ロックウェル。

 今宵の月はいっそう輝かしく、素晴らしいショータイムを彩るに相応しい。
 白き竜と黒き竜の、最初で最後の闘いは、月の輝く夜空が舞台。
 光か闇か――今宵の勝者が、空の支配者として君臨すればよいのだ。




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