Light & Darkness
Sequel 12
ガイデル城上空では、長らく攻防が続いていた。時に剣のぶつかり合う音が響き、時に魔法の陣が光を放つ。振るった拳が頬を掠めては裂傷が走り、繰り出された蹴りが夜風を切る。 しかしいつまで経っても白と黒の優劣は付かなかった。相手の手の内を知っているからか、互いの攻撃はなかなか効をなさないのだ。 「……しぶといですね」 一向に進展なしの攻防にいささか飽きてきたのか、溜め息を吐いて零したのはカイザーだ。彼はスピードに優れているものの、体力はロックウェルよりも劣る(とはいえ人間の比ではないが)。すでに小一時間も同じような流れを繰り返していれば、忍耐強い彼と言えど飽きもする。その心中は「さすが体力“だけ”は優れている」などと毒づきまくりである。 「だったら、そろそろくたばれ」 台詞と共にエメラルドが睨んでくる。どうやらこちらもすっかり飽きている様子。ロックウェルは元々短気ゆえに、長期戦には向いていない。だが彼の脳裏に敗北という文字はなく、勝者は己であると確信していたりする。要するに敗北者はカイザーだと決め付けているため「早くくたばればいいものを……」とこちらも心中は毒づきまくっている。 「くたばるのは貴方でしょう?」 ダークパープルが冷ややかに細められた。 その意味深な笑みに警戒心が高まる――奴は絶対に何か企んでいるに違いない。その企みを阻止するべく、ロックウェルは大幅な二歩で素早く間合いを詰め、切りかかった。振り下ろした剣は掌で受け止められたが、そのまま手ごと切り裂いてやろうと力を込める。 カイザーは刃を握ったままにやりと笑った。次瞬剣の刃が真っ赤に染まり、熱は金属を伝ってロックウェルの素手を焼きつかせた。咄嗟に手を離すが、手首を掴まれ、腹には膝蹴りを一発、さらに足払いを食らって見事地面にうつ伏せに倒された。 掴まれた右腕は捻り上げられ、左腕は踏みつけられ、ロックウェルは小さく呻いて表情を歪めた。当然の事ながら腕への重圧は遠慮なしである。しかも固い靴底のせいで痛さ倍増だ。 迂闊だった。カイザーの左の手袋には【発熱】の陣が刻まれていたのだ。 「おやおや。竜王ともあろう御方が足蹴にされるなんて情けない」 カイザーは奪った剣を放り投げた。真っ赤に染まっていた刃は銀色を取り戻して宙を回転し、再び黒革の手中へと戻る。 ダークパープルが白い頭を見下して笑い、逆手に持たれた剣の先は、地面に突っ伏すロックウェルの首元に向けられ、ぴたりと止まった。 「こんなに呆気なく終わるとは思いませんでしたが……仕方ないですね」 剣先を落としさえすれば銀の刃が胴と首を切り離し、竜王は死ぬ。それで長く続いた私闘も終わりを告げる。そして今宵の勝者である漆黒竜が、この空の支配者となるのだ。 地べたに伏した白い頭をダークパープルが冷ややかに笑い飛ばすも、その視線にエメラルドが応えることはない。表情が見えないのをいい事に、ロックウェルは神経を研ぎ澄ませ、ひたすらある機会を狙っていた。 ――早くしやがれっ……。 踏まれた左腕と背に回された右腕は確かに痛い。 だいたい、いつからこの男はこんなお喋りになったんだ。……そして思い出す。ああ、こいつは初めて会った時からこうだったと。 「さようなら、ロックウェル」 妙に冷めた表情を浮かべ、情のカケラもなく単調な台詞回しでカイザーが別れを告げる。 剣先が一気に落ちた。 剣が触れる瞬間、エメラルドの瞳を見開き、ロックウェルは渾身の力を振り絞って首をよじった。落ちてきた剣は首筋をかすめて地に突き刺さり、鮮血が肌を染めた。もう数ミリでもずれていようものならば見事に首を貫かれて逝っていただろう。あわやという状況であるが、致命傷にはならなかった。それでも――触れてさえいれば十分なのだ。 カイザーが不満げに眉をひそめ、今一度剣を引き抜こうとする。が、空気を震わせて剣先から冷気が昇り、柄を握る彼の左手を凍てつかせてしまった。――ロックウェルの剣に【氷結】の陣が彫られていたことを、カイザーが気付くよしもなかった。首筋に触れた刃から(怨)念を送り、ロックウェルは陣を発動させたのだ。 「クッ!」 カイザーは凍り付いてしまった手袋を仕方無く脱ぎ捨て、立ち上がりざまに仕掛けられた足払いをかわすべく跳躍した。 避けられると予測済みだったか、次いでロックウェルは右手を伸ばして地に突き刺さっていた氷の刃を鷲掴みにし、力任せに振り回してカイザーの首を狙った。惜しくも身を屈ませてかわされたが、待ってましたとばかりに足を振り上げ、細い顎を蹴り上げる。のけぞったところで左手を伸ばし、カイザーの腰から剣を拝借。風を切って薙いだ剣は見事な弧を描き、確かな手応えを感じた。 細身の剣は黒いネクタイと白のシャツを切り裂き、胸に裂傷を走らせた。カイザーは数回後転して大幅に間合いを取ったが、着地と同時にバランスを崩して片膝をついた。途端に傷口から一気に血が噴出し、胸元を真っ赤に染め上げた。 腕を染める己の血を瞳に映し、カイザーは怒りに震えた。そしてロックウェルの胸元で揺れる青い魔陣石を見た瞬間、何かが切れたかのように冷静さを欠いて声を荒げた。 「小賢しい真似をっ!」 それはそこに立っている男と、自ら翼をもぎ取ったあの鳥へ向けた怒りだった。やはりあの時、両翼を奪っておくべきだった。 息も切れ切れ、口端から流れ落ちる血を拭うカイザーの姿を、ロックウェルはじっと立ち尽くしたまま見下ろしていた。常に冷静に立ち振る舞い、嘘くさい笑顔の仮面でその顔を覆っていた男が、理性を失って怒りを露わにするなど見たこともなかった。そして一度として勝利した事のない相手が、今まさに崩れそうになっているという状況に、最強種の王としてのプライドがくすぐられた。 が、正直上手くいくとは思わなかった。いざという時のため、剣に陣を彫っておいて正解だったと今さらながら思い返す。剣は奪ったし、あの傷ではもはや肉弾戦は無理だろう。放っておけば出血多量でそのうち死ぬかも知れないが、こうなったからには止めを刺さねば終われない。 「これで最期だ」 剣先と共にロックウェルが言葉を向ける。その首を切り落として、全ての恨みを晴らしてやろう。 しかしふいに笑いが洩れ、ロックウェルは眉をひそめた。カイザーが声を殺して笑っていた。 「何が可笑しい」 一瞬、激痛で頭が狂ったのかと思った。 「ふふ……これで勝ったなどと思われては困る」 「なんだと?」 エメラルドが気に入らなさそうに睨む。が、すぐに息を呑んだ。 蒼白の顔をわずかに上げ、カイザーがにやりと笑っていた。夜の闇がさらなる影を落とし、彼の表情をいつになく不気味に見せる。 カイザーは黒いネクタイを脱ぎ捨てると、真っ赤に染まった胸元を押さえ、いっそう息を荒げ始めた。呼吸をするたびに激痛が走り、時折苦しげな表情を浮かべて。 「はっ……あっ……貴方は、私には絶対勝てないっ……なぜなら……」 【竜王】という地位も、最狂の魔陣石【アペイロン】も必要ない。ただ唯一、ロックウェルが敵わない理由があるとするならば、もうこれしか方法はない。この状態では命取りとなりかねないが、それでも危険と隣り合わせという何とも言いがたい、背徳感にも似た快楽に強く誘われ、身を震わせて激痛に耐えながらカイザーは項垂れた。 ダークパープルが見開かれると、背には漆黒の翼が現れた。ざらりと背筋をなぞった感覚は全身を這い回って身体中の血を熱く煮えたぎらせ、爪を立てた指先は、触れている床石の感触をおぼろげにしてゆく。心臓が大きく脈打つと、地についた両手足は見る見るうちに変化を遂げ、苦しげに喘いでいた口元が深く裂けてゆく。そしてダークパープルの瞳がいっそう色濃い闇を広げると、喉の奥から這い上がってきた咆哮が夜を震わせた。 空を覆いつくすように広げられた漆黒の翼。太い四肢に強固な鱗。黒衣をまとっていた男の形は見る影も無く、変化を遂げた黒翼の竜がそこにいた。身を起こせば、丈はワイバーンなど比にならぬほど。見上げれば、漆黒に染まった双眼が凝視していた。 ――勘弁してくれ……。 肩を大きく揺らしつつ、ロックウェルは心底疲れきった表情を浮かべた。体力もだいぶ消耗した上に首筋の傷は痛いし血は止まらないし、容赦なく踏まれた腕ももちろん痛い。それなのに竜を相手しろというのか。 絶対に勝てない理由とはまさにこれだ。カイザーは竜に変身できるが、ロックウェルはそうはいかない。【白き竜が天翔る時。それは大地が崩壊を遂げる時】――そんな信憑性のない伝承があるせいで、自らの翼で飛ぶことさえ禁じられてきたロックウェルは、二十二年の人生で完全な竜に変身した試しがない。だが竜となったカイザー相手に、はっきり言って生身の人の姿では勝ち目がない。 どうしたものかと思考をめぐらせていたロックウェルだったが、カイザーの口から洩れ始めた黒い炎を見て我に返った。と同時、黒き炎が一気に吐き出され、ロックウェルは横に跳んでかわし、地面を転がって体勢を立て直した。が、身を起こした瞬間瞳を見開いた。広げられた黒い片翼に刻まれた陣が、カッと光を放っていたのだ。 翼が羽ばたかれ、魔方陣の力で強風が巻き起こる。吐き出された炎は風を含んで踊り狂い、全てを焼き尽くそうとばかりに一面に広がった。黒い炎は生き物のように全身をうねらせ、周辺の木々を燃やし、建物を焦がし、ついでにロックウェルの薄茶のコートにも食いついた。 「チッ……!」 ロックウェルは忌々しげに舌打ちした。コートを脱いで鎮火を試みるが、食いついた黒い炎はあり得ないほど勢いを増し、断念せざるを得なかった。仕方なく投げ捨てると、格好の餌を得た炎は一気にコートを食らい尽くす。 何とも言いがたい感情が燃え上がった。気に入って着込んでいただけに、内に芽生えた怒りは半端じゃなかった。相手が“カイザー”であったなら、一発殴りつけて文句を言ってやるところだが、残念ながらそんな状況ではない。カイザーの口からさらなる炎が吐き出され、今度はロックウェル自身を焼き尽くそうとしていた。 ロックウェルは右の手にした己の剣を握り締め、再び【氷結】の陣を発動させた。強烈な冷気をまとった一刀により、襲い掛かってきた炎はまるで物かと思うほど簡単に氷結し、長い足で蹴り飛ばされ、剣でなぎ払われ、硝子細工のように崩れていった。炎を凍らせるなど、魔陣石なしでは成しえない所業である。 だがこうしているだけではラチが明かない。何とかして近づかなければ。 カイザーは悠々と空を舞い、自ら広げた黒い炎を風であおり、眼下で動き回る小さな男を眺めて楽しんでいた。胸部にはさきほど受けた傷がくっきり浮かび、いまなお出血し続けているが、人型に戻らない限り死にはしないだろう。 一瞬の隙をついて黒い巨体が近づき、太く強固な爪が小さな男を切り裂こうとして振るわれた。ロックウェルは右からの攻撃を左へ跳んでかわした。的を外した爪は石床に突き刺さって亀裂を走らせた。が、息を吐く間もなく今度は左から襲い掛かってくる。凶器と化した爪先が左腕をかすめ、ロックウェルは剣を取り落とした。落ちたカイザーの剣は無残にも踏み潰されて武器としての役割を失ったが、形を保っていた鋭利な刃先がエメラルドの瞳に留まる。ロックウェルは器用に足を使って刃先を蹴り上げた。勢いよく回転して上昇した先端は運良くカイザーの肩に突き刺さり、耳を劈くような悲鳴が鼓膜を刺激した。 カイザーが身悶えた。大きくのけぞると、胸の裂傷から血が溢れ出す。怒りに燃えた漆黒の瞳がエメラルドを捉えると、振るった前肢がロックウェルの身体を強打した。吹き飛ばされたロックウェルは、地面に打ち付けられて二三度転がったが、漆黒の翼が引き起こした強風によってさらに飛ばされ、勢い余ってガイデル城の屋上から投げ出されてしまった。 「……はあっ……クッ……ずいぶんと好き放題やってくれましたね」 耐え切れずに人型に戻ったカイザーは、肩に突き刺さった剣先を引き抜き、血塗れになった身体を押さえて息を荒げた。自ら広げた炎は先程の強風で全て消し飛んだが、焼け焦げた跡がくっきりと残っている。地面を眺めていたダークパープルの瞳は、ロックウェルが転がり落ちた先をじっと見据えた。 「……今度こそ、死にましたか」 いくらドラゴーネといえど、城の屋上から落ちれば死ぬだろう。恐らく強打した時に肋骨を数本折っただろうから、生きていたとしても身体の自由が利かないはず。すぐさま追って止めをさすべきだが、こちらもそう易々と動き回れない状況である。 しばし間を置き、落ち着きを取り戻そうとした時だった。派手な回転音と共に隼のような勢いをつけた剣が脇を通り過ぎていった。 ダークパープルは剣に見向きもせず真っ直ぐに前方を見据え、闇夜を切り取ったかのようにくっきりと浮かんだシルエットを映し出していた。寒気がするほど真っ白な翼をいっぱいに広げ、ロックウェルが宙に浮かんでいた。 「おや……【竜王】が規律を破ってよろしいのですか?」 竜王たる者、己の真の姿を容易に見せてはならない。まるで呪縛のように長年その身を拘束し続けた【竜王の掟】は、鎖のごとく頑丈で強固。それを自ら断ち切ったロックウェルに対し、カイザーが冷やかし口調で問いかけた。 「……お前は本当に愚かな男だな」 一度瞳を閉じ、「アホなこというな」とでも言いたげに呆れ返った溜め息を洩らすと、意を決したかのようにロックウェルは瞳を見開いた。瞼の奥には高価なエメラルドはなく、もうひとつの王族の証――ピジョン・ブラッドの瞳があった。 「この俺が【竜王】、つまり俺が掟なんだよ!」 この期に及んでも俺様的な発言でロックウェルが吼えた。父も先祖も亡き今、彼を従える者は誰一人としていない。だから、この身を束縛していたくだらない掟など、律儀に護る必要なんてない。信憑性のない伝承などクソくらえだ。 血の色に染まった瞳が妖しく光り、肌が抜けるように白く変化すると、左の頬に浮かんだ竜を思わせる不思議なタトゥーが鼓動に合わせて脈打ち始める。生まれて初めての変化は、何とも言えぬ恐怖と興奮で身体中を上気させ、全身から水分を抜いたように喉を焼き付かせる。身体は熱いのに指先や膝が震え、背筋にはぞくりと寒気が走る。折れた肋骨を庇い苦しげに喘ぎながらも、ロックウェルはみるみるうちに姿を変えていった――そう、先程のカイザーのように。 そして再び竜の咆哮が大気を震わせた時には、見るも美しき白翼竜が夜空に現れていた。 「はははは! 貴方にそんな度胸がおありとは! 今さらながら見直しましたよ!」 思わず、カイザーは声を上げて笑った。 父親のやり方に反発し、逃げ出していたにも関わらず、ロックウェルは古からの掟を決して破ろうとはしなかった。口では何と言おうとも、結局は従順な王子かと心の片隅で馬鹿にしていたこともあったが、その彼がまさか禁忌を犯すとは。 「いいでしょう。貴方がその気ならば、最期までお相手いたします」 この身が破滅に向かおうとも、今は力ある限り闘う事だけが竜としての誇り。古から敷かれた掟を、竜王であるロックウェルが自ら破ったのだ。ここで惜しめば礼儀に反する。たとえ故郷を滅ぼした身であっても、最強種【ドラゴーネ】としてのプライドまで捨てるほど落ちぶれたわけではない。 そして竜王たる者が真の姿を見せた時、本当にこの大地が崩壊するのかどうか――この瞳で確かめるのも悪くはない。 この上なく愉しげな笑顔を浮かべ、カイザーは再びその身を竜へと変えた。 |
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