× 第3章 【2+1の恋金術】 9 ×





 自室に戻って来たイグネアは、朝の散歩を終えた爽快感などちっとも得られず、どっと疲れていた。リーフに振り回されるのも疲れるし、リヒトに嘘を吐くのも気が引けるし、何よりヒュドールの機嫌は最低で心臓に悪い。特に迷惑をかけた覚えもないのだが、何故だかものすごく睨まれたのだ。あの三人が揃うと話がややこしくなり、頭が混乱してしまう。
 上半身だけをうつ伏せでベッドに乗せ、イグネアは若い娘がするとは思えないほどのだらしない体勢を取っている。なんだかもう一度眠ってやりたい気分だ。というか、寝てしまえ。そして全て忘れてしまえ。
 そんな風に考えていると、扉をノックする音が聞こえ、面倒くさいと思いつつもイグネアは適当に返事をした。ほどなくして扉が開かれる。
「……なんだそのだらしない格好は!」
 不機嫌さをそのまま表した様な、ピリピリした声色が響くと、途端にイグネアは飛び起きた。あたふたして振り返ると、扉の所に腕組みをしたヒュドールが立っていた。
「なな、何の用だっ」
 どうやらまだ機嫌は直っていないらしい。不眠のせいもあるのだろうが、いつになく目つきが悪く、表情が怖い。イグネアはまたしてもほんのり青ざめていた。
「アイツには用心しろと言っただろう。それなのに、何故近づけるんだ」
 どうやら機嫌が悪い理由はそこにあるようだが、どうしてヒュドールがそこまで気にするのか、イグネアには理解できない。
「い、いや……そんなに用心するほど、あやつは危険ではないぞ。そもそも偽りとはいえ“従弟”という関係にあるのだ。チョビヒゲにも気に入られているようだし、皆の手前、邪険にするわけにもいかないだろう。それに……」
「それに、なんだ?」
「あやつは、(わし)に危害を加えるつもりはないと言っていた。ここに来たのは、ただ私に会いたかっただけなのだと」
 肉体の時間を止めた時にリーフが受けた呪いについて、イグネアは話して聞かせた。自分に会わねば、長らく続いた人生を終わらせる事が出来なかったのだと。あんな風に猫を被るのも、世間を上手く渡り歩くために必要だったのだろうと。
「今も憎んでいるかはわからんとは言っていたが……こうして今もリーフが生き続けているのは、(わし)のせいなのだ。命を狙われようが、恨み言を言われようが承知せねば。あやつにはその権利がある」
 たしかにそうだろうが、リーフにしたってイグネアに極刑を与え、未だに苦しめているのではないか。それにも関わらずイグネアがあまりにもリーフを擁護するため、ヒュドールはどうしてかムカッと来た。
「アイツが生きているのはアイツの勝手で、アンタが責任を感じる必要はないはずだ。呪いと薬のおかげで身の危険は回避できるだろうが、相手は執念深く千年も生きて来た奴だぞ。何か企みがあるとか、そうやって油断させるのが手なのかも知れないとか思わないのか?」
 ヒュドールはきっと心配してくれているのだろうと思う。それはわかるし、リーフも彼に対して挑発的な態度を取っているのだから、互いに印象が悪く、険悪なのも仕方がない。
 けれど。
「……(わし)はこの世に出てまだ百年だが、リーフはもっと長い間、激しく変わり行く世界で独りだった。境遇が違えども、私らは千年もの間孤独に生きてきた。その辛さが、おぬしにはわかるか?」
 イグネアは寂しげに俯いた。
 望んで人目を忍んでいた自分とは違い、抱えた秘密を知られまいとして、リーフは人を騙して、人を拒んで生き続けなければならなかった。時折寂しさを感じても、誰を頼る事も叶わなかった。だから憎み合っていた相手でも孤独を拭い去る事が出来るのであれば、会いたいと。そう思った心は嘘ではないはずだし、そう願いたいのだ。
 それ以上何も言わず、イグネアはただ俯いたままだった。
「ではなんだ。アンタも、ずっと孤独を感じながら生きてきたのか? アイツがいれば、それを感じないとでも言うのか?」
 思いがけぬ問いに、イグネアは戸惑った。
 プレシウを出た頃は、あまりの世界の変わりように心がついてゆかず、そう感じた事も多々あった。けれど、全てを絶って生きるようになってからは寂しいと思った事は無いし、リーフがいるからと言って寂しさが緩和されたとも思わない。だが、正直なことを言うと……。
「嘘偽りのない姿で接することができるから、リーフと話す時はとても気が楽だ。それが寂しくないということなのかも知れないが……よくわからない」
 その返答にヒュドールがイラッとしたらしいのは、表情を見れば明らかだった。
「何故わからない。自分の事だろう!」
 強い口調で責め立てられ、イグネアは大いに怯んだ。そもそも、なぜこんなに責められているのだろうか。
「おぬしは、どうしてそんなに怒っているのだ? たしかにおぬしには色々と迷惑をかけていて悪いとは思っている。だが、私はそんなにも怒らせるようなことをしているのか?」
 ヒュドールはうっと押し黙った。返す言葉を探していると、イグネアは疲れたように俯き、そしてぼそりと呟いた。
「そんなに(わし)のことが気に入らないのなら、消してしまえばいいだろう。おぬしには、それができるのだから」
 青碧の瞳が見開かれた。この小娘は一体何を言っているのだ。気に入らない? 誰がいつそんな事を言ったんだ。消してしまえばいい? そんな事が出来るわけないだろう。だいたい、何故こんなに俺がイラついていると思っているんだ。リヒトにリーフ、ふらふらとあちこちに浮つきやがって……と、そこまで考えてヒュドールは我に返った。まるで珍獣を見た時のように瞳を見開き、呆然とする。今、俺は何を考えていた? と自問し、そして思い返して愕然とする。これではまるで……
 そこで初めて己の苛立ちの原因を知ったヒュドールは、勢いで吐き出しそうになった言葉を押し留めようとして口元を押さえ、数歩引き下がった。
 ヒュドールが急に静かになったのが不思議だったのだろう。イグネアは自分を凝視して固まっている彼を見て首を傾げていた。

「“騎士”様は、随分と魔女にご執心のようだな」
 予期せず聞こえた声にはっとし、真紅と青碧の瞳が同時に声の方を見遣る。新たに現れた訪問者は深緑の瞳を不敵に輝かせて笑みを浮かべている。どうやら事の成り行きを伺っていた様子。ヒュドールがすぐさま不愉快気な顔をした。
「……何が言いたい」
「自覚がないならば教えてやっても良いが、話されて困るのはお(ぬし)ではないのか?」
 深緑の瞳がちらとイグネアを見遣る。ヒュドールがムカッとしたらしいのは、またしても表情を見れば明らかだった。何が気に入らないって、こいつのこの上から目線の物言いだ。年寄りくさく説教めいたことを、ガキの風貌で言われると無性に腹が立つ。だがさすがは誰もが認めるクールビューティ、そこで負けはしなかった。
「お偉い裁判官様は、何にでも首を突っ込んで白黒付けたがるようだな。見かけによらずずる賢いその頭で、今度は何を企んでいる?」
 負けじと不敵に口端を吊り上げたヒュドールに、リーフは瞳を輝かせた。この儂に毒を吐くとはいい度胸だ。面白い、久々に燃えるではないか。
「別に何も企んではおらぬ。考え過ぎではないのか? 第一、根拠も無くそのように人を疑うなど失敬ではないか。その神経質さと高慢さ、ねじ伏せて地べたに這いつくばらせてやりたいわ。お主のその小奇麗な顔が苦悶で歪むかと思うと、想像するだけで高揚するな」
 深緑の瞳がギロリと見上げる。
「やれるものならばやってみろ。返り討ちにして足元に跪かせてやる。その時に泣いて許しを請う事になるのはお前の方だ。せいぜい覚悟でもしておくがいい。最も、今のうちに土下座でもしておくというのなら考えてやらなくもないが」
 青碧の瞳が冷徹に見下ろす。
 どうやらこの二人は全く同じ側の性質らしく、互いに支配してやりたい欲に満ち溢れている。様々な思惑を乗せた火花は激しく散り、その後も過激な舌戦は続いていた。

 イグネアは大変疲れていた。ヒュドールもリーフも、手こそ出さないものの、まるで子供の喧嘩のように罵り合っている。
 どうしてこんな事になったのかと考えて、一つの結論に達する。こうして争いを生んでいるのは、全て自分なのだ。
「おぬしら、そのくらいにしておけ」
 やんわりと声をかけるが、二人はまるで聞いちゃいない。イグネアの存在などもはや気にもしていないらしく、若干下らない言い争いはしつこく続いている。
 イグネアは俯き、拳を握り締めてこれでもかというほど息を吸い込んだ。
「やかましいわ貴様らッ!!」
 怒鳴り声が響くと、ヒュドールもリーフもさすがに度肝を抜かれ、口を開けたまま驚愕の表情でイグネアを見ていた。彼女が怒鳴るとはまさか思いもしなかったらしく、言葉を失っていた。温厚な人ほど怒らせると怖いとよく聞くが、まさにそれを目の当たりにした気分だ。
 シンとした空気が流れる。この異様な緊迫感は一体何事かと思いたくなるほど。
 静かになった二人を恨めしそうに睨むと、すぐさま表情を崩し、イグネアは脱力して肩を落とした。
「……(わし)のいる場所には、どうあっても争いしか起こらないのだな」
 ベルルム大戦と今では争いの規模がまるで違うけれど。それでも人の心に黒い影を作らせているのだから、その大きさなど関係ない。
 なぜ今なお受刑中であるのかわかるような気がした。自分は、千年経っても何も変わってはいない。争いしか呼び寄せないのだ。
 必要以上に他人と関わったからとても疲れていた。あのまま静かに暮らしていれば、こんな風に考える事もなかったのに。
「やはり私は外に出るべきではなかったのだ。だからもう……帰ろうかと思う」
 とてつもなく暗い表情で言い残し、イグネアはのそのそと部屋を出てそのまま何処かへ行ってしまった。








 朝はとても清々しい空模様であったのに、夕暮れが近づくにつれて雨雲が広がり、暗闇が空を支配し始めた頃には雨粒が落ちていた。気温は下がり、屋外をうろつく人影はまばらになる。
 王宮の敷地内には、教会が二つある。一つは新しくて大きく、今も貴族の結婚式や礼拝に利用されている。もう一つは古く小さく、新しいものが建てられて後、誰からも忘れられてしまった寂れた教会だ。
 その古い教会の扉の前に座り、イグネアは膝を抱えていた。小さな身体を丸めて、まるで寒さを凌ぐように。なんだか今日はとても疲れた。少し一人になりたかった。
 どれくらいそうしていただろうか。しばらく無音だったはずが、ふっと雨音が聞こえ、イグネアは俯けていた顔を上げた。表情は――寂しげどころかたいそう眠そうである。彼女は部屋を出てからふらりとこの場所にたどり着き、しかも考え事をしながらいつの間にか爆睡していたのだ。雨が降り出したことさえ気付かなかった。そして、何かものすごく考えなければいけない事があった気がするが、途中で眠ってしまったせいで全く思い出せない。
「まあ、いいか。しかしよく寝たな」
 などとあくび交じりに呑気に言い放つ。緊張感の欠片もありゃしない。そのままのんびりと立ち上がり、背伸びをしていると。
「……アンタは、何処ででも安らかに眠れるんだな」
 いきなり声が聞こえ、イグネアはぎょっとして声の主を探した。無意味に大袈裟に首を振って辺りを見回すと、すぐそばに非常に疲れた表情のヒュドールが立っていた。しかも、全身ずぶ濡れである。
「お、おぬし、一体いつからそこにいた?!」
「ほんの四十五秒くらい前だ」
 つまり、さっきの台詞付きのあくび等もバッチリしっかり見られていたという事になる。なんだかまた睨まれそうだな、と思いつつおろおろと視線を上げると、ヒュドールは睨むわけでもなく無言で軒下まで歩いて来た。濡れていない屋根の下に、ぽつぽつと雫が滴り落ちて染みを広げてゆく。
「ずいぶんと濡れているではないか。【水の魔術師】が聞いて呆れるぞ」
「……アンタが、帰るとか言うからだろう」
 イグネアはうっと怯んだ。これは間違いない。どうやら探されていたらしい。
 この教会は敷地内でも目立たなくひっそりとした場所に建っており、見回り兵ですら「どうせ何もないだろう」と回避していくため、大変見つけづらい場所だったりする。いつから雨が降り出したのか全くもってわからないが、ヒュドールの様子からしてかなり探し回られたと推測できる。
「そ、それはすまなかったな」
「……別に、もういい」
 何やら非常に気まずい空気が流れていた。呆れているのか知らないが、ヒュドールは先程のリーフとの舌戦が嘘のように言葉がない。愛想がないというか元気もない彼の声色が気にかかり、ふと横顔を見上げた。
 疲れ切って憂いを帯びたような、何ともいえぬ美麗で繊細な横顔は、濡れて頬にかかる白銀の髪のせいでさらなる魅惑の世界を広げている。一般女子ならば頬を染めつつうっとりと魅入ってしまいそうな雰囲気であるが、残念なことにイグネアには通用しない。それよりも、忙しなく頬を滴る雫が気になって仕方がない。何か拭く物は……と探るものの何一つ見つからず、イグネアは自分の袖を軽く引っ張って手を伸ばした。
「早く着替えぬと風邪を引くぞ」
 私は引かないがな、などと軽く自慢しつつ、イグネアは袖が濡れるのも気にせずヒュドールの頬を拭った。
 意外なイグネアの行動に、ヒュドールは面食らったようだった。だが、間もなく青碧の瞳が細められた。そして伸ばされた細い腕を掴み、イグネアに向き直った。
 そのまま、沈黙が漂う。忘れられた場所には静寂が漂い、暗くなり始めた空から落ちる雨の音だけがやけに耳に届く。
 無言のままじっと見下ろされ、イグネアはかなり困惑していた。もしや、また余計な事をしでかしてしまったのだろうかと。
「本当に、帰るつもりなのか?」
「は? い、いや、それは……」
「行くな」
 はっきりと聞こえた言葉に、イグネアはきょとんとしていた。ヒュドールは冗談を言っているわけでも、からかっているわけでもないらしい。表情は真剣だ。こんな真剣な雰囲気の中で、まさか「勢いで何も考えずに言った」などと言えるわけがない。
「……さっき、アンタはリーフが現れて気が楽だと言ったな。嘘偽りのない姿で接することが出来るから、寂しくないと。だったら、俺はどうなんだ」
 質問の意図がわからないものの、なんと返していいのかわからず、イグネアは「あー」とか「うー」とか意味不明な呻きを発していたが、それすらも気にしないとばかりにヒュドールは言葉を続けた。
「俺はアンタの千年前の姿は知らないし、長い年月を生きる辛さもわからない。アイツのように思い出話も出来ないし、故郷を懐かしむ事も出来ない。けれど、アンタの“秘密”と“今の姿”は知っている。それだけでは足りないか」
 自分は秘密を知る唯一の存在であるのに、何故リーフの名だけを口にしたのか。それがとても気に入らなかった。
 始めは迷惑だし面倒だと思った。けれど、彼女の動向には普通の人間のように悪意も欲もないと気付くと、徐々に迷惑だと思わなくなったし、多少面倒だと思っても放って置くことが出来なくなった。時々あまりの愚鈍さに苛立ちはするが、それよりもむしろ他の奴を頼られる事が腹立たしい。
 これまでの数々の苛立ち場面が走馬灯のように駆け巡る。そうして、その最大の理由をはっきりと理解した。これはもう認めるしかなかった。
「俺は……アンタのことが好きだ」
 真紅の瞳が見開かれる。
 静かな雨に全ての音が吸い込まれ、ヒュドールの言葉が鮮明に耳に届いていた。





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