× 第3章 【2+1の恋金術】 10 ×





 人気のない古びた教会の前は静かに降る雨の音だけが響き、まるでそこだけが別世界になったかのように奇妙な沈黙が漂っていた。
 瞳を見開き、イグネアは驚いていた。いや、驚くというよりは困惑と言った方が適当かもしれない。
 ヒュドールは、この私のことが好きだと、そう言った。辺りは異様なほど静かだし、聞き間違いではないと思う。けれど何でそんな事を言い出したのか、イグネアには理解不可能だった。というのも、ヒュドールは自分のことを迷惑がっているとしか思っていなかったからだ。
 ふと、そこで考える。あれだけ散々睨まれて怒られていたのだから、それがいきなり好きだとかいう事にはならないだろう。そうすると、やはり聞き違いだったのかも知れない。実は“好き”ではなく“隙”だったのかも知れない。そういえばさっき「リーフに油断するな」みたいな事を言われたから、もしや「お前は隙だらけだ」と言われたのかも知れない。というか、むしろそうな気がする。いやきっとそうだ。
 脳をフル回転させて自己解決をしたイグネアは、青碧の瞳を見返して瞬き、わずかにずれ落ちていた眼鏡を空いた手で押し上げた。
(わし)はそんなに隙だらけか?」
「……は?」
「い、いや……おぬし、私が油断しまくりで隙だらけだと言いたかったのだろう?」
 ヒュドールの眉間にしわが寄り、あからさまに“不快”の二文字が表情に出た。
 この女、一体何を言ってやがると本気で思った。(これでも一応)意を決して言ったというのに、何でこんな突っ込みどころ満載な返事が返って来るのだろうか。いくら普通の娘と異なるとはいえ、これは鈍感すぎる。というか、なんで俺はこんな面倒くさい小娘のことを好きだとか言ったんだろうか。そもそも、全てはこいつが帰るとか言うからいけないのだ。雨の中散々探し回って挙句この仕打ちはなんだ、呪いか。寒いし眠いし、本来ならば今頃部屋で寝ているはずだったのに。結局どうあってもこいつは俺の苛立ちの原因にしかならないのだ……などと色々考えているうちに無性に腹が立ってきたらしく、ヒュドールは案の定いつものようにギロリと睨みつけてきた。
「わ、私はまた怒らせるようなことをしたか?」
 イグネアの発言に、ヒュドールの苛立ちが最高潮に達したのは言うまでもなく。
「もういい!」
 掴んでいた腕を放すと、ヒュドールはぷいっと顔を背け、立ち去ろうとして数歩進んだ。が……
「言っておくが、俺がさっき言ったのは、好きか嫌いかの真っ二つに分けたら“好きだ”という意味だ!」
 当初の“好き”とはかけ離れた、大分大雑把なものに変換されてしまったが、もうここまで来たら意地以外の何物でもない。自分の気持ちを馬鹿丁寧に説明してやる姿ほど情けないものはないから、その気が微塵も存在しないのは仕方ないが、全く素直でないというか、何ともらしさ溢れる台詞だ。
 そんな感じで怒れる白銀の魔術師様は全身で苛立ちを表現しつつ、再び小雨にうたれながら行ってしまったのだった。

 一人取り残されたイグネアは、寒空の中しばし呆然としていた。迷惑がられるようなことばかりしている(らしい)ので、当然嫌われているのだろうなと思っていたのに、どうやら本当に好きだと言われたらしい。不思議なこともあるものだ。
 わずかにずれ落ちた眼鏡を押し上げつつ、真紅の瞳を瞬かせた。とりあえず、どういう意味での“好き”であったのかは全くと言っていいほど理解出来ていないのだが、嫌われていたわけではないと知って安堵した自分がいるのは嘘ではなかった。
 外は寒いのに、心がほんのり温かくなったのは気のせいではない。




 疲れていたせいか、その夜はこれ以上ないというほどぐっすり眠れた。まさに爆睡と呼ぶに相応しい眠りだった。そのせいか、またしても通常より寝過ごしたイグネアは、昼近くなった頃にようやく起き出した。
 カーテンを引いて窓を開け放つと、爽やかな風が入り込んでくる。昨日の雨が嘘のように空は青く晴れ渡り、太陽の光はとても温かい。
 洗顔と着替えを終え、無意味に豪華な鏡台の前に座り、長い髪をとかしつつ形ばかりの身支度を整える。長年のくせで勝手に手が動き、髪を編んでいた。さて今日は何をして過ごそうかなどと考えていると、遠慮もなしに扉が開け放たれ、イグネアは大いに驚いて振り返った。許可もなくズカズカと入室してきたのはリーフだ。
「なんだ起きていたのか。いつまでも姿が見えぬから、起こしてやろうと思って来たというのに」
 と、リーフは何やら企んでいそうな表情を浮かべていた。一体どのような手段で起こそうとしていたのかが気になる所である。
 どうでもいいが、リーフは昨日のことなど微塵も気にしていないらしい。だいたい、あんなに疲れていたのはこいつにも原因があるというのに……と思うものの、言えば倍以上の嫌味で返されるため、ここはぐっと堪える。とはいえ、イグネア自身もネチネチ気にするタイプではないので、ほとんどどうでもいいと思っているのだが。
「いったい何事だ?」
 訝しげに問うと、リーフはにやにやと笑いながら近づいてきた。そして座っていたイグネアの腕を掴むと、やや強引に立ち上がらせる。
「なな、何をするっ」
 掴まれた腕を引っ張られ、イグネアは足をもつれさせた。しかしリーフはお構いなしといった感じで、半ば引きずるようにしてイグネアを部屋から連れ出そうとしている。
「どこへ行く?」
「いいからついて来い」
 いきなりやって来て、なんだその高圧的な言いっぷりは。まだ身支度が整っていないというのに、どこへ行こうというのだ。
「待て待て! いま髪を束ねるから」
 するとリーフはわずかに振り返り、にやりと笑った。
「どうせ遊ばれるのだ。そのままで構わん」
「はあ?!」
 わけがわからずも、イグネアはずるずると引きずられて行った。

 イグネアが連行されたのはリーフの私室だった。そこに待ち受けていたのは数人の女官とぴっちりとした佇まいの中年の仕立て屋で、イグネアを見つけて捕まえるや否や、まるで珍獣を捕獲したかのような歓声が上がった。
 わけがわからずイグネアは困惑していたが、部屋中に広げられた色とりどりのドレスや布を見た途端、何やら不穏な空気を感じ取って早速逃げ出した。が、閉じられた扉の前にはリーフが立っており、逃亡は見事阻止された。
「何をさせる気だっ」
「まあまあ、そんな怖い顔しないでよ」
 こっそりプレシウ訛りで詰め寄ったが、リーフはすでに猫被りモードを発動し、愛嬌のある笑顔を返して来た。逃げ出そうとしていたイグネアを反転させ、そのまま背中を押して女官の群へと戻してしまった。女官達は腕まくりをし、皆一様に「やってやるぞ」と言った風の気合がこもった表情を浮かべていた。
「さあイグネア様、覚悟はよろしいですか?」
「今度こそ、わたくし達が腕によりをかけて変身させてみますわ!」
 などと口々に言葉を発しつつ、女官達はその辺に散らばっているドレスやらを手に取り、アレじゃない、コレじゃない。あっちがいい、こっちがいいとか何とか、次々とイグネアにドレスを合わせ始めたのだ。それだけでは飽きないのか、仕舞いには手入れ途中である髪まで弄り出したではないか。まさに前回の雪辱をいざ晴らせと言わんばかり、どの女官も張りきりまくっている。
「ちょっとお待ちを! これはどういう事ですかっ」
 女官達に遊ばれながら、不満そうにリーフを振り返る。彼は少し離れた場所で椅子に座って寛ぎつつ、イグネアが遊ばれる様を楽しげに眺めていた。
「何って、今夜開かれるっていう夜会のためにドレスを選んでるんだけど」
「夜会?!」
「僕のための披露パーティだって」
「はあ?!」
 イグネアは素っ頓狂な声を上げた。披露パーティ……もしや、この前のようなあの疲労パーティのことであろうか。
 そういえばと思い出す。たしか美形共が話していた。国王……もといチョビヒゲは、新しい魔術師を手に入れるとすぐに自慢したがると。つまり、リーフのことを自慢したいが為に、またしてもあのような下らない催しを繰り広げようとしているのか。
 しかし待て。リーフがこの城にやって来たのはつい数日前のことだ。この数日の間に全て準備を整えたのだろうか。そんな事が可能なのか。そんなにこの国は暇なのか(ちなみに自分の時は五日で準備が整ったということは忘れている)。
「楽しみだね」
 小悪魔スマイルのリーフが見守る中、イグネアは女官たちの手により滑稽なほど着飾らされていた。
 最初のうちは頑なに拒んでいたのだが、もはや抵抗するのにも疲れたイグネアは、もうどうにでもしろとばかりに自棄を起こし、されるがままであった。無意味に派手な色のドレスや妙にセクシー系のものもあり、嫌味かと思ったほどだ。そんなのが似合うわけがないのだから、用意してくるだけ無駄ではないか。というか、リーフの披露パーティなのに、なんで私が着飾らねばならないのか。誰も行くとは言っていないのに。
 様々な色や形のものを着せ替え、女官達はイグネアを何とかして着飾らせようとして躍起になっていたが、地味な容貌にはどうにもこうにもドレスが似合わない。どれを着ても滑稽な感じになり、女官達は腕組みをして「ここまで似合わぬ人がいたのか」と言いたげに唸り、真剣に悩んでいる。背後ではリーフがけらけらと笑っているのが聞こえ、何とも不愉快である。ああ、もう部屋に戻って昼寝がしたい。

 さてそんな感じで時が過ぎ、あまりにもパーティの装いが似合わないイグネアに観念したのか、女官達が揃って自信と意欲を喪失した頃、それまで傍観して笑っていただけのリーフが立ち上がった。
「あー面白かった」
 などと失礼な発言をしつつ涙目を擦り、女官達を押しのけてイグネアの前に立ちはだかる。真紅の瞳が若干恨めし気に睨むが、リーフは微塵も気にしちゃいない。それどころか、衣装掛けにずらりと並べられているドレスを物色し始め、そこから一着選んで取り出した。
「イグネアには、こういうのが似合うよね」
 リーフが差し出したのは、貴族の姫君が夜会に着るようなドレスとはかけ離れた、華やかさも派手さもない、よく言えば清楚で大人しめな、悪く言えば単に地味な、長い袖がゆったりと広がった白いワンピースだ。褒めるべき点といえば、袖と裾に施された細やかな刺繍だろうか。手が込んでいてとても綺麗だが、正式な夜会に着るようなものではない。まあ、別に派手に着飾らされるよりはましだからいいのだが。
 さあ着て来いという命令を受けたイグネアは、仕方がないのでそのワンピースに着替えてみた。反論しても、後で十倍以上の毒舌と対決しなければならないのだから、それを考えればこの際どうにでもなれという感じだ。
「これをさ、こう腰の所をもうちょっと絞ってさ。そうすればふわっとして可愛くない?」
「そうでございますね」
 リーフは傍に控えていた仕立て屋を近くに呼び寄せ、さらには女官達の手も借り、イグネアとワンピースの具合を細やかに調整し始めた。
「袖はいかが致しますか? 袖のないドレスが今の流行でございますから、切ってしまえば可愛らしくなると思いますよ」
 そう言いながら、仕立て屋はイグネアの腕を取り、するすると袖をまくっていくではないか。彼的には「こんな感じになりますよ」というのを見せたかったのだろうが、よりにもよってそれが左腕であったため、イグネアは大層慌てた。しかしここで無理やりに手を払えば何となく感じが悪い。
「イグネアは寒いの苦手だから、袖はそのままでいいよ。流行りは他の人にでも任せておけばいいよね?」
 とリーフが片目をつぶって合図を送ってきた。仕立て屋は彼の意見に納得し、あっさりと引き下がってくれた。
 さりげなく助けてくれたのだと、数秒経ってからようやく気付いたイグネアは激しく瞳を瞬かせた。かなり嘘を吐いているのだが、それでも頑なに嫌がるよりは怪しまれずに済むし、納得もさせられる。さすがは裁判官様、その場の空気を読んで瞬時に決断を下すのは得意らしい。
「あとは淡い色のショールを羽織ればいいかなあ。髪は大きく巻いてこう……ひとつに束ねて軽く肩に流せばいいんじゃない? ちょっとした飾りでもしてあげれば十分だよ。お姫さまじゃないんだし、派手に着飾る必要ないよね」
 リーフがにっこり笑いかけると、仕立て屋も女官も皆一同に頷いていた。だいたい、イグネアは姫君でもなんでもなく単なる魔術師なのだ。それを踏まえると、これまで無理やり飾ろうとしていたのが馬鹿らしいほど、リーフの言い分は最もに思える。さすが従弟様といった風に、揃って感心していた。

 その後すぐに仕立て屋がワンピースを調整し、イグネアの夜会服はあっという間に完成した。すぐさま着用を命じられ、またしても仕方無く着替えると、今度は鏡台の前に座らされ、女官のひとりが丁寧に髪を結ってくれた。
 そんなこんなで。一応の変身を遂げた頃には、すっかり日が沈んでいた。イグネアはというと、連行されてからずっとリーフの部屋に閉じ込められ状態であった。どうやら前回逃げ出した事を女官達から聞いたらしく、阻止されたようである。
 暗くなった外界を窓越しに眺めてみると、馬車に備え付けられた携帯用の【魔光燈】が点々と並んでいるのが見えた。披露パーティにやって来た貴族やら何やらが乗ってきた馬車なのだろう。遠くからご苦労なことである。
 ふと背後で物音がして振り返ると、こちらも一応着替えたリーフが立っていた。今宵の主役だとばかり、可愛い王子様風にでも変身するかと思いきや、さほど気合も入っていない魔術師っぽい服である。が、やはり上質の布で作られており、ひらひらと風に揺れる裾やら袖やらは、非常に滑らかな感触であるのだろうと見ただけでわかる。
「逃げ出さずに大人しくしていたようだな」
 隣に並んだリーフが、にやりと笑いかけてきた。察するに、やはり逃亡阻止のために閉じ込められていたらしい。
 ちなみにパーティに出たくないというイグネアの意思は、ずいぶん前に却下されている。“従姉”の二文字を出し、皆の前で「寂しい」などと瞳を潤ませたら、それこそチョビヒゲあたりがどんな手を使ってでも探し出すのではなかろうか。ここまで来て無理を通しても労力の無駄となるため、もう諦めた。
「さすがに眼鏡は外せぬか」
 一応の変貌を遂げたイグネアだが、やはり眼鏡だけはどうあっても外せなかった。
「当たり前だろう」
「何なら、(わし)のように眼球に直接硝子を貼り付けてみたらどうだ?」
 そういえば、リーフは眼鏡をしていないのにどうやって魔力を抑制しているのかと気になっていた。意外な所で真実を知ったわけだが、何が悲しくてそんな自虐的行為をしなければならないのだ。眼球に硝子を貼り付けるなど、よくもそんな恐ろしいことが出来たものだ。イグネアは信じられないといった顔でリーフをまじまじと見ていたが、リーフは気にしちゃいない。
「それにしても、意外と白が似合うのう」
 深緑の瞳が、頭の天辺から爪先まで一巡りしてにやりと笑う。それが明らかに揶揄であると、イグネアはすぐに理解した。
 今も昔も変わらない。“白”は花嫁の色だからだ。
「嫌味で着せたのか……」
 げんなりした顔でイグネアは溜め息を吐いた。戦に身を投じていた頃も、男が占める魔術師の中で女を捨てて生きていたが、呪いを受けて女としての価値を永遠に失った自分には、白なんてものは決定的に縁のない色だと思っていた。
「そのように言うな。確かに白は特別な意味があるが、そこまで深く考えてはいなかったぞ。あの中でお主に似合いそうだったのが、それだけだったから選んだのだ」
 何十着とあった服の中でそれだけって……なんとも虚しい響きである。

「……昨日はすまなかったな。儂としたことが、ついムキになってしまったようだ。まさかお主が声を荒げるとは思ってもいなかったがな」
 予期せぬ言葉にイグネアはぱちりと瞬いた。一瞬なんの事か思い出せなかったが、どうやら昨日のヒュドールとの舌戦の事を言っているようだ。
 あのプライドの塊のようなリーフが素直に謝罪するとは……天変地異の前触れだろうか。それともヒュドールの言う通り、何か魂胆あってのことだろうか。胡散臭げに様子を伺っていると、リーフがむっとした。
「儂が謝罪するのは、そんなにも不思議な事か」
「……かなり」
「はっきり言うな。それも一応謝罪のつもりなのだが、お主にとってはどうでもいい事か」
 リーフが顎をしゃくった。そうやって色々と見立ててやったのも詫びのうちに入っているという意味なのだが、イグネアには何のことやらさっぱりわからなかった。
「お主、もう少し娘としての感性を取り戻した方が良いと思うぞ」
「なぜだ?」
 躊躇いもせずに首を傾げたイグネアに、リーフは溜め息を吐く。これまでの経緯を考えると、娘としての意識が薄いのは仕方がないことだが……このように面倒な女に興味を持った小僧共が少々不憫になってきた。別に、後は各々勝手に頑張ればいいので関係ないのだが。
「まあいい。そろそろ時間だから行くぞ」
 やんわりとイグネアの手を繋いで愛嬌の良い笑顔を浮かべた。すでに猫被りを発動させたらしい。
 どうでもいいが、なんで一緒に行かなければならないのだろうか……という疑問が解決される事はなく、イグネアは再び疲労パーティに足を運ぶ事となってしまったのだった。





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