× 第3章 【2+1の恋金術】 12 ×





 ダンスホールを飛び出したイグネアは、一応の全速力でヒュドールの部屋を目指した。単に彼が寝込んだだけであったなら大して気にもならなかったが、こうなった原因は間違いなく自分にあるのだ。それに先程リヒトも言っていたように、ヒュドールは自炊しなければ食事もできないし、他人の世話を一切受け付けない。つまりは投薬も出来ないわけで、このまま衰弱すれば死ぬかも知れない……などと、かなり深刻に考えつつイグネアは走っていた。
 そんな感じで、息を切らせてヒュドールの私室へやって来たわけだが、予測通り扉はしっかりと施錠されていた。どうせなら開けて置けば良いものを……と内心で文句を言ってみるが、それで現状が変わるわけではない。どうにかして中に入る方法を見つけねばならない。
 ――こうなったら、窓から侵入するしかないな。
 どう考えても、あの神経質の塊であるヒュドールが窓を開けっ放しにしたり、鍵をかけ忘れたり……という事は有り得ないのだが、“破るならば扉よりも窓”と考えついたイグネアは、自室のテラスから隣に飛び移るのが最善の方法だと思いつき、早速作戦を遂行し始めた。
 しかし案の定というか、問題が発生。テラスに出て隣までの距離を確認してみたが、どう見ても飛び移れそうになかった。猿ばりの身軽さを持つリーフなら、あるいは可能かも知れないが、引き返して連れてくるのも何だし、ここは自分がやらねば意味がない(のだと思われる)。
 どうしようかと悩む事数秒、こうなったら目の前に生い茂る木々を伝って行こう、という考えにたどり着いた。
 通常でも上りづらい高めの手摺は、いつもよりも長めの裾のせいで一際手こずった。どうにか木へと飛び移り、しがみついて一息吐く。そして木の枝を慎重に伝い、最後の最後で滑り落ちそうになりながらも、何とかヒュドールの部屋のテラスに降り立つ事に成功した。我ながら頑張ったと褒めてやりたい。
 一応鍵が開いていないか調べてみると、一つだけうっかり掛け忘れたと思われる箇所があり、イグネアはほっと息を吐いた。仕方がないとはいえ、窓を破るのは盗人みたいで気が引けたのだ。
 しかし、施錠し忘れてしまうほどヒュドールは重症なのだろうか。まさか今頃死の淵を彷徨っていたりして……と、ますます大袈裟に考えたイグネアは、部屋に忍び込み、すぐさま彼が寝ているであろうベッドに向かった。そして様子を伺って……さっと青ざめた。
 ベッドに深く身を沈めてぴくりとも動かず、呼吸すらしていないように思える姿は、なんだか死んでいるように見えたらしく、イグネアは大いに慌てた。
「ヒュドール!」
 抑えめ声で名を呼んでみるが、ヒュドールは目を覚まさなかった。軽く揺さぶっても何の反応も無い。
 もしや、食事も出来ずに弱った身体に容赦なく高熱が襲い、そのまま力尽きてしまったのでは……! などとうろたえていると、ふいに苦しげな呻きが聞こえた。
「……おや?」
 もう一度顔をのぞき込んで見ると、ヒュドールは眉間にしわを寄せて非常に苦しげな表情を浮かべていた。どうやらまだ生きているらしい。イグネアはほっと胸を撫で下ろした。
 しかし、額に触れてみれば結構な熱である。とりあえず息はあるものの、このまま放置しておけばどのみち彼に未来はない。ヒュドールは自分で動かなければ何も出来ないのだから、何とかして熱を下げてやらねば。
 けれど、イグネアはこれまで薬など飲んだことがないため、解熱には何が効くのか全くわからない。さてどうするか……と考えること数秒。
「仕方がない。これしかないな」
 懐に忍ばせておいた茶色の小瓶を取り出し、イグネアは溜め息を吐いた。
 取り出したのは【万能薬(エリキシル)】の瓶。これならばすぐに回復させられるだろう。何と言っても、どんな怪我も病気も治してしまうプレシウの秘薬なのだから。
 しかし気が進まないのも事実だった。というのも、この【万能薬】はたしかに効果的であるが、かなり中毒性があり、一粒でも害を及ぼす事がある。一粒で効果は数十年に渡るが、切れるとどうしても自ら手を出してしまう。そういうところがまさに刑罰に打って付けのアイテムである。イグネアももれなくそんな感じで、そうして常人の飲食から遠ざかってしまうのだ。
 だがこうしていても仕方がない。ヒュドールの命には代えられない。一粒与えると危険だが、少し削って水に溶かした程度ならば大丈夫だろうと、イグネアは早速厨房へと向かった。
 そして、またしても問題が発生した。
「なんということだ!」
 小瓶の中身を取り出してみて、イグネアは愕然とした。なんと【万能薬】が残り一粒となっていたのだ。少し(ン十年)前に確認した時はまだ残っていたはずなのに、一体いつの間になくなってしまったのか……と考えているうちに、ある事実を思い出す。そういえば一年くらい前に眼鏡の修理をした際、これを修理費の代わりにしたのだった。何と迂闊なことをしてしまったのだろうか。
「……まあ少し削るだけだし、あとは使えるしな」
 一粒しかないというのが心許ないが、何とかなるに違いない。あとでリーフにでも相談してみることにしよう。
 さてどうやって削ろうかと考えつつ振り返ろうとしたが、予期せず何かに衝突し、イグネアはよろめいた。しかも、あろう事か手にしていた最後の【万能薬】を、なんと取り落としてしまったのだ。
「ああああっ!」
 咄嗟に手を伸ばすが、当然の事ながら届くはずもなく。小さな丸薬は軽快に流しを転がり、無情にも排水口へと消えて行った。なんということか。自分の命の糧だけでなく、ヒュドールの回復の源まで失ってしまったではないか。一体どうすればいいのだ。
 まるでこの世の終わりが来たかのような表情を浮かべ、イグネアは振り返った。振り向いた先には、いつの間に起きて来たのかヒュドールが立っていてまた度驚いた。
「お、おぬし、起き上がって大丈夫なのかっ?」
 焦りつつ問いかけるが、聞こえていないのか返事がない。
 物音に反応してかそれとも先程揺すったせいなのか、ヒュドールは熱に浮かされて夢遊病のように起き出してきたと思われる。その証拠にいつもの冷然さは微塵も感じられず、かなりぼーっとしているのだ。こうして立っているのさえ、恐らく奇跡に違いない。
 ぼんやりとした青碧の瞳は若干焦点が合っていないが、それでも間近に何かがあると認識しているのだろう、嫌になるほどじっとイグネアを見下ろしている。いつもは束ねている長い白銀の髪はそのまま肩を流れており、なんだか明らかに雰囲気が違う。加えて、ちょっと押せば倒れそうなほど弱っている、普段は絶対に見せないだろう油断しまくりな姿は、一般的な娘の神経であれば鼻血を噴いて倒れそうなほど心躍る状況ではなかろうか。
 しかし残念な事に、相手は人並み以上に意識の低い娘である。そんなドキドキのシチュエーションよりも、命の糧を失ったショックの方がはるかに大きい。まったく、大人しく寝ていればこんな事にはならなかったものを……などとブツブツと文句を言いつつ、真紅の瞳が恨めし気に見上げると、ヒュドールはわずかに眉をひそめ、苦しそうな切なそうな表情を浮かべて呼吸を荒げていた。
 いかん、まずはこいつを寝かさなければ――と思った次瞬、ヒュドールがふらりとよろめいた。
「のわっ!」
 イグネアはおかしな声を上げつつ後退りしたが、すぐに流し台にぶつかってしまった。ヒュドールはというと、まだ意識はあるらしく、流しの縁に手を付いて辛うじて立っている。それは別に構わないのだが、異様に距離が近いのだ。イグネアにもたれかかっている状態である。これが平常であれば全く有り得ない上にむしろ突き飛ばしてやるところだが、如何せん相手は病人で、しかもその原因は自分にあるわけだから邪険にも出来ない。
「……どうしよう」
 動かせば倒れそうだし、かと言ってこの状況は如何なものか。イグネアの肩でぐったりとして休憩状態のヒュドールは、うっかりすればそのまま眠ってしまいそうである。白銀の髪が頬に触れていて、なんだかくすぐったい。持ち主の体温に反してひんやりとしており、見た目通りさらさらだなあ、などとほんのり呑気な考えを抱いたが、口に出して言っている場合ではない。
「ヒュドール、しっかりしろ。倒れるなら寝床へ行け」
 若干古くさい言葉に反応してか、ヒュドールの肩がぴくりと動いた。そして軽く身を起こす。ようやく動いた、とほっとしたイグネアだが……
「ひいいいいっ!」
 すぐさま悲鳴を上げた。何でかしっかりと抱きつかれて……というよりも、むしろしがみ付かれてしまったのだ。もはや熱でもなければ不可能な状態であることは間違いない。普通の娘ならば卒倒しそうなシチュエーションも、イグネアにしてみれば一秒でも早く逃れたいと思うばかりである。
「離さんかっ」
 軽くもがいてみるが、背に回された腕の力は意外にも強く、逃げられない。何でこんな状態になっているのだ。というよりも、一体どうしろというのだ! とうろたえていると、身体にのしかかる重圧が一気に増えた。
 案の定、ヒュドールはそのまま意識を失ったらしい。
「ううっ……お、重い!」
 比較的細身で軽量に見えるヒュドールだが、そこそこ背もあるし、やはり男だからそれなりに重い。しかも全体重をかけられているのだから、小柄なイグネアは押しつぶされそうである。しかしここで倒れるわけにはいかない。床に転がってしまったら、それこそ立ち上がれなくなってしまうかも知れない。
 もうこうなったら、このままこいつを寝床まで運ぶしかない。意を決したイグネアは、ヒュドールの腕を掴んで肩に回し、重圧に耐えながら力を振り絞って一歩ずつ、慎重に引きずっていった。何度か倒れそうになったが、その度に「あの戦の日々を思い出せ」と心を奮い立たせて踏ん張った。そんなこんなでようやくベッドまでたどり着いたが、ヒュドールを寝かそうとした勢いで自らも突っ伏してしまった。
 その状態で数秒。
 なんだか疲れたし、このまま寝てしまいたい……と思いつつも、そんな場合ではないと我に返り、起き上がってヒュドールを適当に転がし、何とか寝かせる事に成功した。まったく先程といい、我ながらよく頑張ったと褒めてやりたい。
 さて、こうしちゃいられない。本来の目的を思い出したイグネアは再び厨房へと戻り、小瓶の中をのぞいてみた。丸薬は一粒もないが、崩れ落ちた粉末が微量ではあるが残っていた。ヒュドールに与えるだけだから、これだけあれば十分だろう。さっそく水に溶かし、コップを掴んでヒュドールの元へと戻る。
「ヒュドール、起きろ」
 呑気に気を失って寝込むヒュドールを何度も揺さぶっていると、しばらくして苦しげにひそめられていた眉がぴくりと動き、うっすらと瞼が開かれた。もう一度名を呼ぶと、朦朧とした青碧の瞳がゆっくりとこちらを見上げる。
「辛いのはわかるが、(わし)の話をよく聞け。いいか、このままではおぬしは死ぬだろう。その若い身空で死にたくなかったら、大人しくこれを飲むのだ」
 と、心配しているのか脅しているのかわからないような事を言うと、ヒュドールは理解したのかしないのか不明だが、のっそりと身を起こし、立てた膝に頭を乗せてぐったりとしていた。
 半ば脅しめいた事を言ったのはわけがある。ヒュドールは、普通の状態では絶対に飲まないからだ。死ぬとか言えば、きっと無理にでも飲むだろうという、一応の考えがあってのことだ。
 それが効を奏したのか、それとも本人の意識が薄いせいなのかはわからないが、ヒュドールは差し出されたコップを手にし、しばらくじっと見つめていた。薄れた意識の中でも警戒心を露わにする辺りがさすがというか、真性というか。
「おかしなものは入れていないから、心配するな」
 苦笑しながらイグネアが言うと、ヒュドールは無意識の中でも納得したらしく、熱くて乾いていたのか、水を一気に飲み干した。
 もしもこの場にリヒトがいたならば、今世紀初とも思えるヒュドールの行動に、驚愕していたに違いない。まさに天変地異の前触れと思う事だろう。それ程までに、たとえただの水といえどヒュドールが他人の施しを受ける事は奇跡に近いのだ。
 そんなことは全く気にも留めていないイグネアはというと、ようやく薬を飲んだことに安堵し、コップを奪い取ってさっさとヒュドールを寝かしつけた。
 一仕事終えた後の疲労感といえば、これ以上ないほどである。今夜も良く眠れそうだ。元々の原因は自分にあるとはいえ、元気になったら一言文句を言ってやらねば気が済まない……などと考えつつ、イグネアは自室へと引き返して行った。鍵を開けて扉から出ればいいものを、ご丁寧に来た道――つまりは来た時と同じように、窓から木を伝って帰ったのだった。





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