× 第3章 【2+1の恋金術】 13 ×





 来た道(?)を引き返し、自室へ戻ろうとしていたイグネアだが、それまで順調に進んでいたにも関わらず、最後の最後でうっかり足を滑らせてしまった。それでどうなったかと言うと、現在手摺にしがみ付いて落下を防いでいるという状況である。それもこれも、いつもよりも若干長い服の裾がいけないのだ。普段ならば山暮らしで鍛えた足腰を存分に活用し、高めの手摺など何のその、軽やかに難を逃れているというのに。
 しかし、こうしてしがみ付いていても仕方がない。さすがに腕も疲れてきて、なんだか落下しそうである。この部屋は結構な高位置にあるのだが、まあ落ちたからと言って死にはしないし、怪我してもすぐに治るだろうし、面倒くさいから一回落ちてしまおうか……などと考えていた矢先、いきなり腕を引き上げられ、イグネアは大いに慌てた。慌てつつも何とか手摺を越え、テラスに転がる。何事?! と思って見上げてみると、ものすごく渋い表情で腕組みをしているリーフがいた。
「何をやっておるのだ……」
 呆れ返った溜め息がもれた。
「おお、助かったぞ。というか、おぬしこそなぜここにいる?」
「姿が見えぬから探しておった」
 ホールにいないようだからと探し回っていた所でリヒトに出くわし、居場所を知らぬかと聞いてみると、恐らくヒュドールの所だろうと教えてくれた。当の本人はどういうわけかやや不機嫌そうであったのだが、まあどうでもいい。
「そうなのか。おぬしは抜け出してきて大丈夫なのか? あの強烈な婦人達はどうしたのだ」
 救出された安堵に浸っていたイグネアは、ふと気になって聞いてみた。今回の主役であるリーフがいなくなって、会場はさぞかし大変なのではなかろうか。特に彼を取り囲んでいた婦人方など、血眼になって探しているのではないだろうか。
「下らん催しなど疲れるだけだ。化粧の濃さを見ただけでわかるがな、ああいう輩は所詮己が一番可愛いのだ。(わし)がいようといまいと関係ない。構っているのも最初だけで、どうせすぐに飽きる。何よりもあの香水の匂い……吐き気がする」
 若干青ざめつつ、リーフは可愛い顔に似つかわしくない、あの白銀の魔人よりも強烈な毒をさらりと零した。先程リーフを取り囲んでいたお姉様方が聞いたら、青ざめて顔を引きつらせるに違いない。千年生きていれば色々な世界を見る機会があるし、多分ああいった状況も経験済みなのだろう。言わんとしていることは何となくわかるため、イグネアは苦笑していた。
 リーフはふらふらとよろめきながら部屋へと戻り、無意味にふんわり仕様のソファに勢いよく座った。背もたれに体重を預けて表情を歪めつつ、締まっていた襟を緩めつつ、具合が悪そうに溜め息を吐いていた。どうやら本当に気分が優れないようだが、見た目は少年なのに素振りが青年というかむしろ今はオッサンくさいというか、こういう所で自然と千年の歴史が滲み出てしまうらしい。
 とりあえず座れと促され、イグネアは渋々リーフの隣に座った。こいつは前科があるため、迂闊に近づくと何をしやがるかわかったもんじゃない、と警戒心を抱きつつ。
「ところで。お主こそ、何故あのような場所で宙吊りになっておったのだ?」
 たしかヒュドールの所にいると聞いたが、それがどうしてテラスで宙吊り状態になっていたのだ、この女は。それを問うてみると……
「入口に鍵がかかっていたから仕方なく窓から入ったのだが、ほれ、このように裾が長いだろう? ここへきてうっかり足を滑らせてしまったのだ」
 服をつまみ、ははっと笑いながら呑気に答えられ、リーフは怪訝そうな顔でイグネアを見遣った。呆れて物も言えないというか……。この平和な世の中がいけないのか、それともこれは大いなる変化なのか……一体いつからこんなに抜けた奴になったのだろうか。
 それと同時、リーフの脳裏にはある疑問が浮かんでいた。扉に鍵をかけるということは、すなわち自ら他を遮断しているわけであって、そんな奴は放っておけばいいものを、何故わざわざ面倒な事をしてまで様子を見に行ったのか。そんな必要があったのか。それで、終いにはあのように危険な状態に陥っていたではないか。自己を犠牲にしてまで気にかける理由は、ヒュドールが真実を知っている者だからなのか、それとも……
「お(ぬし)、あやつに惚れておるのか?」
「はあっ?!」
 唐突に理解不能なことを聞かれ、イグネアは思い切り素っ頓狂な声を上げた。真紅の瞳が驚いて見返すと、リーフはものすごく真剣な顔をしていた。
「どうなのだ」
「ど、どうと聞かれても……そのような事実はござらんが」
 大真面目な顔で答えをせがまれ、イグネアはわずかに身を引いた。しかも言葉遣いが微妙におかしいが、それよりもそんなに大真面目に聞くことなのだろうか。そもそも、リーフは何でそんな事を思ったのだろうか。というか、なんだか前にも似たようなことを聞かれたような、聞かれないような。
 リーフはというと、答えが微妙に嘘くさいと思っているらしく、深緑の瞳があからさまに疑うような視線を向けていた。
「それにしては、随分と構うではないか」
「それはだな、あやつが寝込んでいる原因が(わし)にあるからだ」
「は?」
 眉をひそめてリーフは小首を傾げたが、イグネアは何かを思い出してポンと手を叩いた。
「ああ、おぬしにも少しは原因があるな」
「……ますます意味がわからん」
 額に手を当てて、リーフは不愉快そうに溜め息を吐いた。
「ほれ、おぬしらが下らん言い争いをしていただろう? あの時に私が帰ると言ったら、あやつは雨のなか探し回ってくれたらしい。それでいま寝込んでいるのだ。大きな原因は私だが、おぬしも大人気ないことをしてああなったのだから、少しは反省しろ」
 説明してやると、リーフはようやく思い出したらしく、一応は納得したようだった。が、どうやら反省する気は微塵もない様子。
「大人気無いのはあやつの方だ。年上のくせして儂のようにいたいけな少年に対し、ムキになって毒を吐きおって」
 などと言い返す始末である。しかし、いくら見た目の歳が下であっても、実際に上なのはリーフの方である。というか“いたいけ”という言葉がとてつもなく似合わないのだが。
 しかも、イグネアがヒュドールの肩を持ったために、どうやらリーフはちょっとすねたらしい。腹いせとばかり、不愉快そうな表情を浮かべてごろりと横たわり……
「ぎゃーっ! おぬし、またそのようなことをっ!」
 またしても膝に頭を乗せられ、イグネアはさっと青ざめた。こいつは性懲りも無くまたやりおって! と必死に逃れようとするがびくともしない。この小賢しい頭を蹴り飛ばしてやろうかと本気で思った。
「良いではないか。減るものでもなかろう」
「へ、減るとかいう問題ではない! 私を嫁の代わりにするな!」
「別に代わりになどしておらぬ。というか、お主如きがアルーサの代わりになるものか、この愚か者め」
「くっ……!」
 拳を握り締め、イグネアは憤りを募らせた。たしかにこいつの嫁は、あの時代にしては可愛らしく、出来た娘であった(と、ぼんやり覚えている)。代わりなどと言った非は心の中でこっそり詫びよう。だが自分勝手にしておいて、なぜに愚か者と言われなければならないのか。さっさとどけ! と本気で殴ってやろうかと考えていると、リーフが意味ありげな眼差しで見上げてきた。
「まあ代わりにはならぬがな、存外に寝心地が良いのは事実だ。癖になりそうだな……」
「なっ?!」
 びっくり発言に踊らされ、イグネアは思惑通りにびっくりした。瞳を見開いていると、微かな熱を帯びた深緑の瞳がじっと見上げている。ちょっとばかり、先程のヒュドールが向けてきた視線に似ているが、そのむず痒いような雰囲気に呑まれてほんのり困惑していると、リーフの手が伸びてきて髪に触れた。
「花の香がする……」
 束ねた髪を軽く引かれ、イグネアは身体を傾けた。髪に絡まっていた一片の花びらがひらりと落ちたかと思うと、リーフを取り巻く不思議な風に踊らされ、まるで生きているかのように不規則な軌道を描いて宙を舞った。
 じっと見上げてくる深緑の視線に耐え切れず、イグネアは「なぜこんな状況になっているのだろうか」などと心の片隅で考えながら軽く視線を泳がせた。が、今度は顎をつかまれ、もう一度視線を合わせさせられた。そのまま引き寄せられれば、自然と距離が近づいてしまう。
 リーフが何をしたいのかわからずに困惑していたが、ふっと鼻をつく匂いに気付き、イグネアは惜しげもなく眉をひそめた。
「おぬし、飲んでいるな!」
 勢いよく身を起こし、イグネアは声を上げた。このアルコール臭は間違いなく酒を飲んでいる。どうりで先程から何か言動がおかしかったのだ。
 プレシウであればリーフは一応“成人”を迎えていて、酒を飲もうが嫁をめとろうが問題なしだが、この国の法律で定められた年齢は十八だと聞いた。リーフのような(見た目)子供が、しかも公共の場で堂々と飲酒とはいかがなものか。
「誰にも見られてはおらぬし、別に構わんだろうが」
「いいものか! しかも酔いおって。だから具合が悪くなるのだ!」
「……うるさいのう。お主は儂の母親か。第一、あの程度の量で酔うわけがなかろう。この悪心の原因はな、女共の香水だ」
 間近で声を上げられ、リーフはうるさそうに表情をゆがめていた。ちなみに彼が飲んだのはグラスにして三杯だが、現代(いま)の酒は味もアルコール量も濃いものが多い。それをリーフが知らぬはずはないのだが……結果この様だ。
「何を浮かれているのだ……って、おい、寝るな!」
 と、そうこうしているうちにリーフはごろりと寝返りを打ち、なんとそのまま寝入ってしまった。しかもアルコールのせいか、ものすごく良い寝つきっぷりである。揺さぶっても起きやしない。
 悪夢、再びである。


 そのうち起きるだろうと思っていたのだが、リーフは完全に眠ってしまったようで、イグネアはどうしようかと困惑していた。しかし彼女自身も、ヒュドールの世話(?)で労力を費やしたためにどっと疲れが出てしまったらしく、肘掛にもたれて次第にうとうとし始めた。ちなみに二人の脳内には、パーティ会場に戻るという考えは微塵もない様子である。
 イグネアが完全に眠りに落ちると、代わりにそれまで寝ていたはずのリーフがぱちっと瞳を開けた。薄暗い中でも光を感じて深緑の瞳がゆっくりと動く。開けっ放しの大きな窓から、白い月の光が注いでいてほんのり明るかった。
 横になったまま見上げると、イグネアの寝顔がすぐそばにあった。下を向いているせいで眼鏡がややずれている。手を伸ばして眼鏡を取り上げるが、全然起きそうにない。本当に有り得ないほどの無防備っぷりだ。
 静寂の中しばらくぼんやりしていると、不意に小さな物音が聞こえ、リーフは再び窓辺に視線を向けた。窓辺には、先程は見られなかった人影があった。
 今宵は国内の要人を招いてのパーティ、警備兵もそこかしこにいたはず。それらを掻い潜って影のように突然に現れたのは長身痩躯の男。頭には布を巻きつけ、無法者っぽい服を来た若い風貌の男は、“奇妙な造形の色眼鏡”を押し上げ、(たぶん)こちらに視線を向けた。
「ようやく来たか。それで、どうであった?」
 イグネアの膝に寝転がったまま、リーフが男に向かって問いかける。男はすぐに答えず、イグネアに視線を向けていた……と思われる。如何せん色眼鏡のせいで視線を追うことが難しいため、全ては憶測なのだが。
「構わん。どうせ起きやせん」
 リーフの言葉通り、間近で話し声がしてもイグネアは目を覚ましそうになかった。見事な爆睡ぶりだが、それだけ確認が取れるとようやく男が口を開いた。
「大方の調べはついた。けれど“特定”するにはもう少し時間が必要だ」
「どの程度で明らかに出来る?」
「ひと月の間には」
「随分とかかるのう」
「場所が遠い。最善は尽くす」
 返って来るのは感情の点らない淡々とした答えばかり。
 リーフは一息吐き、諦めたような表情を浮かべた。
「“モグラ”のお主でそれだけの時間が必要なら、常人には一年かかっても無理だろうからな。致し方あるまい、特定が出来たらすぐに知らせろ」
「了解」
 一言言い残し、そして現れた痕跡は一つも残さず、“モグラ”と呼ばれた男はテラスから身を躍らせて夜の闇へと消えて行った。

 静寂が漂うと、リーフは再びイグネアに視線を戻した。話し声がしても起きる様子がない。深緑の瞳は、真剣な色を浮かべて呑気な寝顔を見上げていた。
 先程酔った勢いに任せ(たように見せかけ)て、「ヒュドールに惚れているのか」と問うたのには理由がある。嘘を言っているようには思えなかったが、なにせ色恋沙汰とは無縁の世界で生きて来た女だ。本人に自覚がないだけとも考えられる。“あちら”がイグネアをどう思っていても、それは関係ない。イグネアがこの場所、そして現状に執着する理由が出来ると厄介になる。
 どちらにせよ、全ての真相は不明確だが……
「その間に心変わりせねば良いがな。そうなれば……苦しむのはお主だ」
 その言葉には、不思議な重みがあった。





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