× 第3章 【2+1の恋金術】 16 ×





 リヒトと別れて部屋に戻ったイグネアは、大いに疲れて肩を落とし、深い溜め息を吐いた。結局指輪の金額は知ることが出来ず、また同じ事の繰り返しとなってしまった。リヒトは本当に気にしないと言っていたが、いくら何でも学習能力無さすぎだろうという自己嫌悪感は拭えない。
 もう一度溜め息を吐いて、イグネアは左手の指を見つめた。七色のミールスは何の罪悪感もなく呑気に輝いてやがる。一体どんな術が施されているのだろうか。すごく気になるものの、イグネアには判別のし様がない。
 ということで、とりあえず何でも知っていそうなリーフにでも聞いてみるか……と思い立つが、不在の間に自室に戻ったのかすでに姿はない。あまり気乗りしないものの、仕方がないので行って来るか……とイグネアは重たい足を引きずって部屋を出た。そうして隣室の前を通り過ぎようとした所で、そういえばヒュドールはどうしただろうかとオマケ的に思い出すと、図ったかのように隣室の扉が開き、姿を見せたヒュドールと鉢合わせになった。
 途端、イグネアは青ざめた。何でか知らないがヒュドールは大層不機嫌らしく、冷ややかな視線を向けてくるではないか。
「ど、どうも……」
「どこへ行っていた」
「えーと、その、城下へ……」
 なんでこんなに低姿勢になっているのか、自分でもよくわからない。イグネアは怯えつつもきちんと答えたが、それでもヒュドールの機嫌は悪いようで、扉にもたれて腕組みをしつつこちらを見ている。またしても何かやらかしてしまったのだろうか。
 ヒュドールは珍しく「誰と?」とは聞かなかった。イグネアを自由に連れまわす輩といえば一人しか思い当たらないからだ。
「そういえば、おぬし、熱は下がったのか?」
「……おかげ様で」
 若干引きつった笑みを向けると、ヒュドールはあからさまに不機嫌そうな声で答えた。正直言って一秒でも早く立ち去りたい気分だ。
「それは良かったな。では」
 余計な事をして更に機嫌を損ねるのもどうかと思い、イグネアはそそくさと場を立ち去ろうとしたが、腕を掴まれて制止された。
「それについてアンタに聞きたいことがある。入れ」
「な、な、なんだっ?」
 やや強引に腕を引かれ、イグネアは足をもつれさせながら引きずり込まれた。無情にも扉が閉じる。逃げ出したい感を募らせながらも恐る恐る振り返ると、青碧の瞳が凝視していた。
 きっと無意識のうちにまた何かやらかしたのだ。こうなったら先に聞いてしまえ。どうせお怒りを買うならば、さっさと済ませた方が心臓によろしい……と考え、イグネアは口を開こうとしたが、ヒュドールに先を越された。
「アンタ、夕べこの部屋に来たか?」
 何を聞いてくるかと思えば……意外な質問に、イグネアはきょとんとしたまま瞬いた。
「ああ、来たぞ」
 当然だろうと言わんばかり、あまりにもあっさり答えるものだからさすがのヒュドールも機嫌を損ねている場合ではなかったらしく、驚いていた。扉の鍵はかかっていたというのに、一体何処から入り込んだのだ。
「ど、どうやって入った?」
「そこの窓からだが」
「窓っ?」
「ああ、私の部屋から外の木の枝を伝ってな。鍵が開いていてよかった。まあ閉まっていたら破って入ろうと思っていたがな」
 さすがは山娘、そういう手できたか……とヒュドールは唖然とした。それにしても、鍵をかけ忘れたという事実もだが、何よりも弱っている所を他人に見られたという衝撃は、彼の中では信じられないほどに大きかった。しかも記憶が曖昧だから尚更だ。何たる失態、有り得ない。
「おぬし、何も覚えていないようだな。まああれだけ熱があれば仕方がないか。なかなかに大変だったのだぞ」
 イグネアが思い出しながら言うと、ヒュドールは途端にぎくりとした。こいつ、一体何を見たのだ。
「な、何がだ?」
「大人しく寝ていたかと思ったら、いきなり起き出してきてな。あげく、(わし)にしがみ付いたまま気絶したのだ。仕方がないから引きずって寝床まで運んでやったんだぞ」
 イグネアが説明すると、ヒュドールは徐々に青ざめて口元を押さえた。“しがみ付いた”“気絶した”のフレーズに更なる衝撃を受ける。それを、まさかこの俺がやったとでも言うのか。嘘だ、絶対に嘘だ。意識が曖昧だったとはいえ、そんなことは有り得ない。この小娘め、そんな言葉に俺は騙されんぞ。
 ……などと何処かに吹っ飛んでいるヒュドールはお構いなしで、イグネアはさらに言葉を続けた。
「ああ、そうだ。おぬしに飲ませた薬だが、私の【万能薬(エリキシル)】なのだ。あれは一粒与えると中毒になってしまうが、水に溶ける程度のごく少量だったし、心配するな。とはいえ、その影響で数日は飲食なくとも平気だろうけれどな」
 ははっとイグネアは呑気に笑ったが、なんでかヒュドールは瞳を見開いて愕然としていた。青碧の瞳が、信じられない光景を目の当たりにしたようにイグネアを凝視している。
 高熱で寝込んで、あげく気絶して他人の世話になったくらいだ。その辺に置いてあった薬を、自ら立ち上がって飲んだとは考えにくい。しかも本人が“飲ませてやった”とはっきり言ったのだ。これは間違いなく、他人の手から“魔術で浄化していない”水を受け取って飲んだと思われる。
 失態を見られたあげく、八年間頑なに貫いてきたものを崩された衝撃は、考えていたよりもはるかに大きかった。頭がぐらりとし、世界がひっくり返りそうだった。
「さきほどからどうしたのだ? まだ熱があるのではないか?」
 ヒュドールの心情など微塵も気にせず、イグネアは小首を傾げながらすっと手を伸ばし、少し背伸びをしつつ彼の額に触れた。そして思ったよりも低い体温に納得してか、ひとりうんうんと頷いていた。
「さ、触るな!」
 呆然としていたヒュドールだが、触れられていると気付いて思わずイグネアの手を弾いてしまった。しかし、やった後ですぐさま後悔する。我に返ってちらと見遣ると、イグネアはわけがわからずに首を傾げていた。が、すぐに困ったように笑った。
「ともあれ、元気になってなによりだ。部屋に来たときは死んだように眠っていたから驚いたがな。おぬしに死なれると困るから、どうしようかと思ったぞ」
 唐突な言葉に、ヒュドールが瞬いた。
「ど、どういう意味だ……」
「おぬしに先立たれてしまうと、私は死ねなくなるだろう」
 不慮の事故でも老衰でも、命を預けているヒュドールが死ねばイグネアの秘密は永遠に守られ、死することなくこの世をさまようことになってしまう。
「これ以上ひとりで生き続けるのはごめんだ。だから、もしもおぬしが死に至るような時があったら……その時は私も連れて逝っておくれ」
 青碧の瞳が見開かれた。本人には全く微塵もこれっぽっちも自覚はないだろうが――それは、ある意味最強の“殺し文句”だ。
 プライドの塊がプライドを崩された時の、潔癖症が不可侵領域に踏み込まれた時の脆さと言ったらない。ズカズカと踏み込んできた相手は、嫌悪の対象になるか、逆に好意の対象となるかはそいつ次第だ。
 衝撃を受け続けて精神的に弱っていたヒュドールに、この台詞は信じられないほど効果があった。自分でも理解不能な感情が湧き上がり、おかしな錯覚に陥ってくる。なんかもうそんな台詞を吐かれた日には……ますます目が離せなくなってしまうではないか。
 気付けば、ヒュドールはふらりとイグネアに近づいていた。
「なな、なんだ。どうしたっ」
 いきなり距離が縮まってイグネアは困惑しつつ後退りしたが、追いかけるようにしてまた一歩とヒュドールが近づく。そうこうしているうちに壁に背がぶつかり、イグネアは逃げ場を失った。
 あと一歩という距離で腕を掴まれ、イグネアは大いに慌てふためいた。また怒られるのかと真紅の瞳がおろおろ見上げると、青碧の瞳が切羽詰ったように見つめていた。
「……この間、俺が言ったことを覚えてるか」
「こ、この間?」
 困惑のし過ぎで著しく処理速度が低下したのか、すぐに思い出せずにイグネアは困惑したが、ヒュドールは返答を待たずに言葉を続けた。
「忘れたなら、もう一度言ってやる」
 内面をそのまま映し出したような、繊細で美麗な顔がふっと近づく。こいつのこの年寄り的回転速度の記憶力になど、もう期待しない。こうなったら、忘れられないように一度どころか何度でも言ってやろうじゃないか。というか、この俺にあの台詞を二度言わせるなど許し難い。これで思い知らなかったら、どうしてくれよう。
「俺は、アンタのことが……」
 言いながらふいに軽く視線を落とし、どうしてかヒュドールは言葉を切った。掴んだ“左”の手を高く持ち上げ、その指で呑気にきらめいているモノを見て、美麗な顔が一瞬にして怒れる魔人のそれに変わった。
「これは何だっ!」
「ひいいっ!」
 未だかつてないほどの怒りを乗せて睨みつけられ、イグネアは条件反射で大いに怯んだ。この世の全ての怒りをまとったかのような気迫は、はっきり言って猛烈に怖い。
「答えろ!」
「あうっ、これは、その……【ミールス】と言って、プレシウでよく見かけた石で……」
「そんな事はどうでもいい。どうしたんだと聞いてるんだ!」
「ううっ……昼間、リヒトと出かけた時にだな……」
 言葉を最後まで聞かずして、思い切り遠慮なしな舌打が響いた。あの軟派男め、一体どういうつもりだ。
「今すぐ外せ」
「は?」
 イグネアが聞き返すと、ヒュドールは軽く舌打した。
「い、ま、す、ぐ、は、ず、せ」
「そ、それは無理だ。この石には何やら魔力が働いていてな、私の指にくっ付いてしまったのだ」
 イグネアがおろおろと答えると、ヒュドールは肺に溜まった二酸化炭素を全て吐き出すかのような盛大な溜め息を吐いた。
「この指にする意味を知ってるか?」
 当然、イグネアは首を横に振った。
「……“婚約中”だ」
 一瞬の沈黙が漂う。
 そして、すぐに驚愕の声が派手に響いた。
「えええええええっ?!」





←BACK / ↑TOP / NEXT→


Copyright(C)2007 Coo Minaduki All Rights Reserved.