× 第3章 【2+1の恋金術】 18 ×





 目を覚ましたのはいつにも増してずいぶんと早い時間だった。その理由は、腰の痛みだったりする。負担をかけないようにとゆっくり慎重に身体を起こし、一息吐く。気付けば、昨日着ていた服そのままで寝ていた。
 おや? と首をかしげ、イグネアは昨日のあれこれを思い返してみた。そうして数分後にようやく思い出す。そういえば、部屋に戻ってくる途中で腰が痛くなり、ヒュドールに背負ってもらって帰ってきた……らしい。なにせそのまま寝てしまったようなので、後の事は全く何も覚えていなかったりする。
 それにしても。昨日よりも痛みは緩和したものの、怪我が治らないなんて変だ。いつもならばすぐに完治してしまうのに。
 もしや呪いが解けたとか? と一瞬喜んでみたものの、そんなはずあるわけない。こんな事は初めてだった。気乗りしないものの、仕方がないから後でリーフに相談してみよう。
 辺りはまだ薄暗いが、目が覚めてしまったからにはさっさと起きてしまえ。とりあえず風呂に入って着替えるか……と腰を気遣っていつも以上にのろのろな動作と怪しげな前傾姿勢で風呂場へと向かったイグネアだが……

 ――お、おかしい。

 入浴を済ませて着替えを終えた頃には、腰痛とは別の異変に苛まれていた。身体から力が抜け、立っていられなくなったのだ。徐々に目の前が揺れ、視界がぶれてくる。こいつは明らかにおかしい。
 このままでは倒れるかも……と考え、腰痛を気にしつつ必死に歩いて再びベッドへ戻った。




 ヒュドールは朝から隣室の前に立っていた。昨日のこともあり、イグネア(の腰痛)の様子が気になったからだ。
 呪いと薬のおかげで怪我や病気知らずと豪語していたくせに、なぜあんなに痛がっていたのかが気になる。まあ、たまにはそんな事も有り得るのかも知れないが……などと安易に考えつつノックをする。しかし返事はなかった。
 あの若年寄りのことだ、この時間ならば間違いなく起きているはず。もしや日課らしい散歩にでも出かけたのだろうか。
「入るぞ」
 と、了解もなしに勝手に足を踏み入れ、青碧の瞳が部屋を見回す。部屋の主はまだ眠っているのか、ベッドに横たわっていた。まさか、腰が痛すぎて動けないとか言うんじゃなかろうか。
「おい、どうした」
 顔をのぞき込んで問いかけると、イグネアはううっと唸ってきつく閉じていた瞼をゆっくりと開いた。
「ヒュドールか……」
「腰が痛くて動けないのか?」
「それはだいぶ良いのだが……なにか、身体の調子が悪いのだ」
「?」
 こいつがこんな事を言うなんて珍しい。不審に思ってもう一度よく顔をのぞき込んで見れば、かすかに頬が上気していることに気付く。もしやと思って手を伸ばし、額に触れてみると、さほど高くないものの熱を帯びていた。
「熱っぽいな」
「熱? (わし)が、か?」
 イグネア自身、自分が発熱するとは思いもよらなかったらしい。それもそうだろう。千年生きていて、こんな事態に陥ったのは初めてなのだから。
 見た目と性格を見事反映しているかのように、額に触れている手は朝っぱらからとても冷たい。普段ならば心臓麻痺でも起こしそうな感覚であるが、今はほんのり気持ちが良い。やはり熱っぽいせいだろうか。
「……何かおかしいんじゃないのか? アンタ、怪我や病気はすぐに治るはずだろう」
「私もそう思っていたところだ。なぜだろう……」
「たとえば、呪いが解けたとか」
「それはまずない」
 イグネアが即答すると、ヒュドールは「言ってみただけだ」と溜め息を吐いた。どうせなら呪いが解けてくれた方が色々と有難かったのだが。
 それにしても腰のことといい、何かおかしいのは事実だ。これは早急に真相を探る必要がある。イグネアはうーんと唸った。早いところリーフに話をした方が良さそうだが、今は起き上がるも億劫で、できればこのまま寝ていたい気分である。さてどうしたものか。
「大した熱でもないから、一日大人しく寝ていれば治るだろう。昼までなら時間があるから、何か必要なことがあれば代わりにやってやる」
 何でか知らないがヒュドールが異様に親切なことを言うため、イグネアはほんのり戸惑った。こいつも何かおかしいんじゃなかろうか。
「で、ではその……ひとつだけ、頼みたいことがあるのだが」
「なんだ?」
「……リーフを呼んで来てくれないか」
 言った途端、ヒュドールは遠慮なしにすこぶる嫌そうな顔をした。
 二人は犬猿の仲だから、たぶんこういう顔をされるだろうとは予測していたが、もう少し隠そうとか思わないのだろうか……などとイグネアは考えていたが、やはりというか、ヒュドールが嫌そうにしている本当の理由は微塵も理解していない。
 ヒュドールは思い切り舌打をした。何でいつもいつも頼るのは他の奴なんだか。全くもって気に入らない。青碧の瞳がぎろっと睨むと、イグネアは怯んで縮こまった。
「だ、だめか?」
 捨てられそうな子犬のように上目遣いで願われ、ヒュドールはうっと言葉に詰った。なんだその卑怯な手口は! 病人にそんな顔をされたら断れないではないか。しかも先程「代わりにやってやる」と言った手前、引き下がれないではないか。
 それにこいつの場合、面倒を見るなら事情を知っている奴の方がいいというのも事実だ。ものすごく気は進まないし気に入らないが、自分は城を空けなきゃならないので仕方がない。
「呼んで来るから、そんな目で見るな!」
「そ、そうか、すまない」
「その代わり、話をするならコソコソしないで俺の前でしろ。いいな」
「うっ、わ、わかった……」
 イグネアが素直に返事をすると、ヒュドールは不機嫌そうにさっさと退室して行った。


 というわけで、リーフの私室までやって来たヒュドールだが。
「……いないのか?」
 何度ノックして声をかけても、中からの返答がない。勝手に入るのも気が引けるが、今さらあのクソガキに何を思われようがどうでもいい……と思って扉を開けようとしたが、施錠されていて無理だった。
「あの……」
 不意に声をかけられて振り返ると、女官がひとり立っていた。
「リーフ様でしたら、数日留守にするからと言ってお出かけになりましたが」
「……なに? 本当か?」
「はい。わたくしはリーフ様のお世話をしておりますが、お部屋の掃除もしばらくはいいと言われております」
 あいつが留守だなんてかなり珍しい。一体どこへ行ったというのだ。しかも、呼んで来て欲しいと言ったくらいだ。間違いなくイグネアは何も知らないのだろう。
「行き先を聞いているか?」
「申し訳ございません、そこまでは……」
 あの性格からして、そんな事をわざわざ言っていくはずもない。あの小賢しいクソガキのことだ、単に遊びで出かけたわけではないはず。
 何か嫌な予感がした。それは明確に言い表せるものではないし、そんなに気にするほどの事ではないのかも知れない。けれどあれだけイグネアに付きまとっていたのが、何の音沙汰もなく不在になるのは不審極まりない。
 ――何を企んでやがる。
 とにかくいないものは仕方がないし、ここにいても戻ってくるわけではないため、ヒュドールは引き返してイグネアの部屋まで戻った。

「いない?」
「ああ、数日留守にするとだけ世話役の女官に言って出たらしい。行き先に心当たりはないのか?」
「ない。あやつめ、どこへ行ったのだ……」
 まったくこんな緊急時にいないなんて。普段はこちらの意図など完全無視で絡んでくるくせに、迷惑なやつだ。まあどうしようもないので、帰って来るまで待つしかないが。
 イグネアはブツブツと不満げに文句を言っていたが、ヒュドールが何か言いたげにじっと見ている事に気付いて瞬いた。
「なんだ、どうかしたのか?」
「……アイツには気を付けろよ」
「は? なぜだ?」
「どうも胡散臭い。あの小賢しいクソガキのことだ、きっと何か企んでいるに違いない」
「それは考えすぎではないのか?」
 苦笑しながら言った途端、青碧の瞳がギロリと睨んできた。体調不良で寝込んでいるというのに、いつもの習慣で反射的にうっと怯む。
「いいからたまには言う通りにしろ。帰って来た早々トラブル処理はごめんだからな」
 たまにはって……むしろいつも言う事を聞いているような気がするのだが。しかしそんな思いも当然のことながら口には出せず。
「アンタのことは一応女官にでも世話を頼んでいくが……」
 青碧の瞳が、いっそう厳しい視線を向けて来た。
「左手は見せるなよ」
「? なぜだ?」
 意味がわからず不思議そうな顔をすると、ヒュドールは都合悪そうに舌打した。ああ、何でこんなことまで言って行かなきゃならんのだろうか、情けない。
「“そんなもの”を誰かに見られたら、騒ぎになるに決まってるだろ」
 そんなもの? と思いつつ左手を見てみれば、そこには呑気に七色の輝きを放つミールスが。
「なぜこれが騒ぎの元になるのだ?」
 本気で悩むイグネアに、ヒュドールは思い切り渋い顔をした。こいつ、本気で言ってるのだろうか。
「あのな……たとえ不本意な結果だとしても、そこに指輪なんかしていれば婚約中になるんだ。相手は誰だとか、そういう話になるだろうが。特に女官なんかに見られてみろ。一晩のうちに城中に知れ渡るぞ」
 なにやら過去にそういう経験があるらしく、その恐ろしさを思い出してヒュドールは若干青ざめていた。女というのは、ちょっとした噂にも大そうな妄想を付け加えて過剰な物語に仕立て上げる生き物なのだ。
 ああ、色々考えると不在にするのが不安になってきた。本当に大丈夫だろうか。これならば、まだあのクソガキに頼んでいく方が安心できるような錯覚さえ起こってくる。
「外れなくなったと、正直に言えばいいではないか」
 言い返され、ヒュドールはあからさまにムッとした。こいつは噂話の恐ろしさを知らないからそんな事を言えるのだ。正直に言った所でそのまま伝わるわけないだろうが。
「とにかく。たったの数日なんだ、大人しくしていると約束しろ!」
「うっ、わ、わかった」
 何をそんなにムキになっているのか知らないが、あまりにも気迫のこもった瞳で睨まれ、イグネアは怯みながらも頷いていた。



 ヒュドールが退室して一時間くらい経っただろうか。いつの間にか眠りに落ちていたイグネアだったが、額に触れられる感覚に気付いてふっと瞳を覚ました。熱があるせいか瞼さえも重い感じがする。ゆっくりと瞳を開けると、じっと見つめる黄金の瞳と視線が合った。
「ごめん、起こしちゃったね」
 ベッドの脇で椅子に座って様子を見ていたのはリヒトだった。額に触れていた手を静かに戻し、申し訳なさそうに微笑んでいる。いつからそこにいたのか、全然気付かなかった。
「いえ……お気になさらず」
 不調のせいか喋るのも少し辛くて、口調がいつにも増して遅い。なんだか久しぶりな感覚に戸惑ってしまう。
「……なにかご用ですか?」
「用ではないけどね。これから出なきゃならないから、その前にお見舞い。昨日俺が連れ回したせいで風邪引いちゃったのかなと思って。ごめんね」
 なんだかまたしても深刻に謝られてしまい、イグネアは必要以上に大袈裟に首を振った。このうえ腰が痛いなんて知られたら土下座でもされそうな勢いだ。それだけは避けなければ。
「い、いえいえ、そうではないんですよ。大した熱ではありませんし、お気になさらず。大人しくしていればすぐに下がるだろうと、ヒュドールも言っていましたし」
 リヒトは少しだけ表情を曇らせた。イグネアの不調はヒュドールから聞いたのだが、彼女の口からその名が出ると、やはりどうにも面白くない。
 ふと、リヒトはイグネアの左手に視線を落とした。細い指にはめられた指輪の石は、光を受けて七色の輝きを放っている。外れないのだから仕方ないけれど、自分が贈ったものを肌身離さず身につけてもらえているのは、とても嬉しい……などと思ってしまうのは、相手が彼女だからだろうか。
「ねえ」
「な、なんでしょう?」
「戻って来たらさ、話したいことがあるんだ」
「私にですか?」
「……この状況で、他に誰がいるっていうの」
 おかしな返答をされ、リヒトは苦笑した。何でこう、この子は的外れな事を言うのだろうか。まあ、そこが面白くていいのだが。
「その時はさ、ちゃんと聞いてくれる?」
「は、はあ……」
「約束ね」
 いつもとはちょっと違った、とても穏やかな笑顔を向けられ、イグネアは思わず頷いていた。
 返答に機嫌を良くしたリヒトは、爽やか笑顔と共に手を振りつつ去って行った。その背を見送ると、再び睡魔が襲ってきた。なんだか今日はやたらと約束を迫られる日だな……などと考えているうち、イグネアはゆっくりと眠りに落ち始めた。


 その翌日のこと。ヒュドールが危惧していた事態は見事に現実となった。
 予想に反してイグネアは数日微熱が続き、女官の世話になっていた。その際、約束も忘れてうっかり左手を見せてしまったのだ。
 中指にきらめく高価そうな指輪を見て、女官がすぐさま噂に走ったのは言うまでもない。さらに翌日には、「相手は誰?!」という話題が城内のあちこちでささやかれていた……。





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