× 第3章 【2+1の恋金術】 19 ×





 “イグネア様婚約疑惑”が城中に広がってから早三日。引きこもりな当の本人の知らぬ所で、人々の、特に女官達の間で噂は盛り上がりを見せていた。
 イグネア様はあまり外出をされないから、間違いなく王宮の人が相手だ。しかも見た感じで高価そうだったから、稼ぎのいい人でないと贈れない。そうなると相手は貴族、騎士、魔術師に絞られる……などと意外にも的を射た推理が進められ、そうして最終的には「まさか、あのお二方のどちらかでは?!」という驚愕の内容にまで発展していたのだ。
 もしもこの場に例の美形共がいたならば、リヒトはこの波に乗じて嬉々として公表し、ヒュドールは最高潮に苛立っていただろう。運良くか悪くか、不在のために難を逃れたわけだが。

 さて、そんな渦中に舞い戻ってきたのは、謎の失踪を遂げていたリーフである。当然のことながら彼はイグネアが変な指輪に呪われた(?)ことも、彼女の婚約疑惑も、そしてその噂話が己が身までをも巻き込んでいる事実など、これっぽっちも知りやしない。
 自室に戻り、様々な考えをめぐらせながら一息吐く。着替えを済ませて、さて今後の事を考えようかと思っていた矢先、扉がノックされ、世話役の女官が顔をのぞかせた。
「お帰りなさいませ。何かお召し上がりになりますか」
「あ、ただいま。うーん、今はいいかな。気を使ってくれてありがとう」
 猫被りモードでにっこり笑い返すと、女官は大変嬉しそうに微笑んだ。大体の女は、こうして愛想を振りまいておけば役に立つものだ。
「留守の間に、何か変わったことなかった?」
「ヒュドール様が訪ねていらっしゃいましたが」
 その名が出た途端、リーフの瞳の色がほんのり変わった。それまでの愛嬌の良い笑顔に、少しだけ本来の自分を浮かべる。
「……なんで?」
「理由はお聞きしませんでしたが、どちらへ出かけられたのかと尋ねられました。私は存じませんので、そのままお伝えしましたが」
 ヒュドールが自らここへ来る事などまず有り得ない。イグネア、もしくはチョビヒゲにでも頼まれたのか。一体何用だろう。
「ふーん、なんだろうね。あとで行ってくるよ」
「あ、でもヒュドール様は、お仕事で数日お戻りになりませんよ」
「……へえ、そうなんだ」
 リーフは意味ありげに笑んだ。仕事という事は、間違いなくリヒトも一緒なのだろう。不在だなんてこれほど好都合なことはないな……などと自分に都合よく考えていたところで、女官がとんでもない事を言い出した。
「ところで、イグネア様がご婚約されたというお話は本当なのですか?」
 思いも寄らぬ女官の発言に、リーフは一瞬思考を停止させた。
「……なんのこと?」
 聞き返すと、女官は心底驚いたような、それでいて若干嬉しそうな、さらに残念そうな――という何とも複雑な表情を浮かべた。
「従弟のリーフ様でもご存じないのですね」
 まあ、実際は従弟でも何でもないわけだが。
「だから、どういうこと?」
「城内で噂になっているのですよ。イグネア様が左手の中指に高価そうな指輪をされていると。わ、私どもの内々では、お三方のどなたかという話になっているのですが。私としてはリーフ様を推していたのですけれど……従弟でしたらご結婚できますし」
 お三方――要するにそのうちの一人は自分で、その他はあの小僧共ということか。自分の不在の間、たったの数日間なのにあの女はどういう展開を迎えているんだ。そもそも何だその指輪というのは。全く、面倒なことばかり引き起こしおって。
 ――やはり、さっさと連れ出しておくべきだった。
 女官はその後も噂について熱弁を振るっていたが、リーフは耳を傾けず、内心は苛立っていた。





 思いのほか長引いた微熱のせいで、イグネアは毎日部屋で過ごすはめになっていた。これはいわゆる風邪ということなのだろうが……熱と腰痛、それに加えてもう一つ身体の異変が起きているのだ。
「……腹が減った」
 今まで【万能薬(エリキシル)】のおかげで常人の飲食から遠ざかっていたが、これをきっかけに何でか普通に空腹を感じるようになったのだ。ヒュドールが手配しておいてくれたおかげで、毎日定時刻に女官が様子を見に来てくれているため、しっかり三食摂取できているのであり難いが……こんな事も初めてだ。
 本当に、一体どうしてしまったのだろう。早く真実を知りたいのに、こういう時に限ってリーフがいない。あいつは何処へ行ったのか、いつ帰ってくるのか。とはいえ、リーフがいたって原因はわからないかも知れないが、やはり年の功で頼りにしてしまう。
 それにしても静かだ。熱も下がったし、腰痛の方も大分いいのだが、まだ万全の体調ではないため、外へ出るなと言われているのである。女官にしてみれば、国力であるイグネアが更に体調を崩しては大変だという配慮なのだろうが、散歩も日課になっていたし、こう閉じこもってばかりいるとさすがに退屈だ。
 早く外に出たいなあ、こうなったら黙って外に出てしまおうか、などと企んでいると、ノックもなく唐突に扉が開いた。ずいぶん大胆な女官が来たな、と思っていたら、なんと現れたのはリーフだった。
「リーフ! お、おぬしどこへ行っていたのだ?」
 いきなり現れたかと思ったら、何やら怒っているようで、イグネアは怯んだ。リーフがつかつかと歩み寄って来ると、反射的に後退していた。
 何でそんなに怒っているんだ……とか考えているうちに、気付けば背後は壁になっていた。しまった。
 壁際まで追い詰めると、リーフは手を伸ばしてイグネアの左手を掴み、深緑の瞳が指先をじっと見下ろした。
「……【ミールス】ではないか」
 ひと目で言い当てるとは、さすがプレシウの魔術師。しかも【裁判官】であった彼は、【奇術師】とも密接な関係にあったため、殊更この石を良く目にしていたから当然だろう。
 ミールスに注がれていた視線は、イグネアを真正面から捉えた。
「城中で噂になっているそうだ。お(ぬし)が婚約したのは、何処の誰だと。どういう事なのか説明しろ」
 脅しをかける声色で、明らかに怒っていると判断できる。それよりも、そんな噂になっているなんて全然これっぽっちも知らなかったぞ。これはまずい、とイグネアは青ざめた。何がまずいって、ヒュドールに散々言われていた事が全て事実になっているからだ。戻って来た途端にまた怒られそうだな……などと考えに耽っていると。
「聞いておるのか!」
「ひっ、はいい……!」
 そういやリーフがいたのだった、と思い出して顔を上げると、深緑の瞳が未だかつてないほどに怒っていた。こいつがこんな顔をするのは非常に珍しい。一体どうしたのだ。とりあえず、これ以上怒らせるのも嫌なので、イグネアは誤って指にはめたところ、外せなくなった、と真実を正直に話した。
「お主には本当に呆れるな。ミールスといえば、奇術師共が奥の手として利用していた秘術の石だぞ。魔力を感じたならば、罠が仕掛けられているだろうと予測できなかったのか?」
「……うう」
 イグネアはばつが悪そうに視線を逸らした。全くもって正論である。返す言葉もない。
「そして、その結果がこの騒ぎだ。さっさと(わし)に言えば良かったものを」
 わざとらしく溜め息を吐かれ、イグネアは何でかムカッとした。大体、相談しようとした時に限っていなかったのはお前の方だろうが。
「言おうにも、肝心な時にいなかったのはおぬしではないか。腰痛は治らぬし、風邪は引くし、腹は減るし……(わし)は突然不調に見舞われて不安だったのだぞ! いったいどこへ行っていたのだ!」
 珍しくイグネアがまくし立てると、リーフは驚いて瞳を見開いていた。これは怒っているというよりも、むしろ“八つ当たり”に近い。しかも、この女が“不安”を口にするなんて……それは一体“どちらの”不安なのか、無性に知りたくなった。
「……不安? それは“己が身に何が起きているのか”というものか? それとも儂が不在だったからなのか?」
 腕を掴まれたまま顔を近づけられ、イグネアはさっと身を引いた。なんでこんなに近づくんだこいつは。
「ど、どちらかといえば前者だな」
 言った途端、リーフはぴたりと動きを止め、遠慮もなしに盛大な溜め息を吐いた。全く、本当に男心をわかっていない女だ。嘘でも後者だと言えば、機嫌良く協力してやったというのに。今さらだが、あの小僧共が少々不憫になってきた。こんなだから、奴等も相当に苦労しているのだろう。
「まあいい。どういった理由かまでは儂には判断できぬが、その不調の原因はミールスにあるのではないのか? 【万能薬(エリキシル)】は摂取しているのだろう?」
 その問いに、イグネアが一瞬顔色を変えたのを、リーフは見逃さなかった。
「他に何か隠しておるようだな。吐け」
「うっ……じ、実は、【万能薬】はもう一粒もないのだ」
「何だと? 何処へやったのだ」
「大半は一年くらい前、眼鏡の修理をした時に“モグラ”にくれてやった。気付いたら残り一粒だったのだが……それは不慮の事故でなくしてしまったのだ。それもおぬしに言おうと思っていた」
 【万能薬】は、怪我や病気を瞬時に治す効力があるが、摂取しなくともイグネアの場合は生きていける。特性を生かして刑罰のアイテムとして使用されていたのは、その中毒性も考慮した上のことだ。間違いなく、イグネアは中毒になっているのだろう。
 しかし、そう考えると先刻のイグネアの発言に疑問を感じる。病気に怪我に空腹――全て解決されるはずの状態が、全て表面に出ている。
 【万能薬】は魔術を用いて精製した薬で、呪いとは違う。それを考慮すると、イグネアの身に起きている異変の原因に考えられるのは――
「……先程も言ったが、ミールスは奇術師共の奥の手だ。自身の魔力が底を尽きた時、代わりに発動するようにと術を施している場合が多かった。その中で最も多用されていた方法が“魔術の無効化”だ」
「無効化?」
 ああ、とリーフは頷いた。
 奇術師たちは、奇妙ではあるが様々な場面で非常に有効となる術を得意としていたため、仲間に引き入れようとして必死になる輩が多かった。しかし彼等は独特の存在で、群れるのを嫌い、独自でも生き長らえる術を持っていたために自尊心が強かった。ゆえに協力を願われる反面恨みを買うことも多く、命を狙われる機会も多々あったわけだ。
 その中で活躍していたのが【ミールス】である。特に魔術師が占めていた戦の時代、その身を襲うのは魔術が全て。奇術師たちはミールスに“己が身に受けた全ての魔術を無効化させる呪術”を施し、その身を護っていた。
 そんな事実を全く知らなかったイグネアは、ただただ感心していた。さすがは【裁判官】、プレシウの裏事情にも詳しいものだ。
「お主の症状を考慮すると、このミールスには無効化の呪術が施されている可能性が高いな」
「呪術ということは、やはり呪いなのかっ?」
「まあ、そうなるな。ミールスが【万能薬】の魔力を無効化しているのだろう」
 イグネアはがっくりと項垂れた。この上呪いを受ける羽目になるとは……一体いつになったら解放されるのだろうか。ますます迂闊に手を出した己が情けないというか、恨めしい。

「……それよりも、問題はミールスではなく、お主の婚約の方だ」
 改めて言われ、イグネアははっと顔を上げた。リーフの深緑の瞳がじっとこちらを見ている。
「どうするつもりなのだ」
「ど、どうもこうも……さきほども言ったようにこれは事故であって、ここ、婚約などという事実は無根だ」
 イグネアはそれで良くとも、こうして噂が広まった以上、周囲の者はそれでは治まらないだろう。特にあの小僧共は揃ってこいつに惚れているようだし、そう簡単に手放すとは思えない。
 それに――
「お主は一体いつまでここに留まる気でいるのだ?」
「……?」
 リーフの言葉の意味を、イグネアはすぐに理解できなかった。
 その表情で、イグネアに思慮が足らないであろう事をすぐさま察し、リーフは言葉を続けた。
「わかっているだろう。儂等は普通の人間ではない。同じ場所に長く留まる事は出来ない。ここに居られるのもせいぜい一年が限度だ。お主は、この先どうするつもりでいたのだ?」
 成長期の年齢である少女と少年が、一切の変化を見せずに生きていれば、それはやがて異質なものへと変化する。リーフは身を持ってその経験をしたのだ。だから言葉には重みがあった。
 言われて初めてイグネアははっと気付いた。そういえばそうだ。だからこそ変化を恐れて独り、人目につかぬ場所で生きていたのではないか。私はどうするつもりだったのだろう。ここで永遠に暮らす気でいたのか。
 周囲の人々――ヒュドールもリヒトも、自分を“普通の娘”として見ているようだったから、すっかり忘れてしまっていた。あまりにも穏やかで平和な日々が、罪と罰を忘れさせていたようだった。
 言葉に詰り、イグネアは俯いた。シンとした空気が漂う。
 それからどのくらい沈黙が流れただろうか、ようやくリーフが口を開いた。
「儂と共に来い。そうすれば……お主の呪いを解いてやる」
 真紅の瞳が見開かれた。
 見上げると、深緑の瞳が真摯な眼差しでもってじっと見つめていた。





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