× 第4章 【炎と烙印】 2 ×





 屋敷を飛び出したリーフは、空を見上げながら走っていた。続いて周囲を見回してみれば、それまで穏やかに時を刻んでいた町が慌ただしくなっている。道を歩いていた者は近場の建物に逃げ込み、仕事をしていた者は途中で投げ出し、やはり屋内に逃げ込んで扉を堅く閉ざす。魔鳥の目に触れぬようにとこうして逃げるのが町民たちの常だ。
 それまでけたたましく響いていた警鐘がびたりと止むと同時、深緑の瞳が上空をきつく睨んだ。
 視線の先には巨大な鳥がいた。その全長は、大人が両手を広げても到達できない。民家の屋根に降り立った魔鳥カディールは、翡翠の瞳を細めて少年を凝視していた。どうやら今日の獲物を定めたようである。
「……また(まが)い物か」
 翡翠の瞳と睨み合い、リーフは舌打ちした。
 こうして度々現れるのは、全てカディールの偽物である。本物ならばもっと玉のような瞳をしているし、何よりその瞳に強い魔力を宿しているのだ。微塵も感じないこいつは、まさに偽物だ。
 しかし、だから大人しいかといえばそうではない。魔力がなくとも本物同様に自己防衛の術は持ち合わせているため、翼と尾には注意しなければ。死にいたるようなことはないものの、触れるだけで麻痺し、しばらく動けなくなってしまう。その間に襲われれば死んでしまうだろう。
 カディールが翼を広げた。七色が空を彩るのは、攻撃を仕掛ける前兆である。予想通り、大きく羽ばたかれた翼から無数の羽根が飛散し、リーフを目掛けて飛んで来た。
 リーフは背負った剣を引き抜き、矢のように勢いづいて飛んで来る羽根を弾き飛ばし、さらに空いた手で宙に印を切った。

来たれ、風の刃よ(ライ・バラム・ツァンナ)!」

 ぎろり、と深緑の瞳が妖しく光ると、カディールの周囲に突如異変が起こった。まるで刃で切りつけられているかのように翼に無数の裂傷が走り、七色の羽根が散った。
 カディールの透明な声が悲鳴を上げる。しかし、これくらいで倒せるような相手ではない。翡翠の瞳に怒りを浮かべ、巨大な鳥が羽ばたいた。宙に浮いたかと思ったら、恐るべき速度で急降下し、獲物を襲おうとしていた。
 しかし。
 体勢を整えようとしてリーフが動いたと同時、ベルトに下げられた小さな鈴が揺れ動いた。すると、真っ直ぐにリーフに向かっていたカディールが、何かに気付いて目前で進路を変更したのだ。嫌なものがそこにあって、近づきたくないと逃げるように。
 その隙を突いて、リーフはもう一度宙に印を切った。

来たれ、渦巻く風よ(ライ・タルナーダ)!」

 無風だった空に突如として竜巻が現れた。激しく渦巻く風がカディールを捕らえ、容赦なく滅ぼしてゆく。美しい声が悲鳴を上げた。
 勝った、と余裕気に口端を吊り上げたリーフだったが……間もなく別の方角からカディールの鳴き声が聞こえ、さっと表情を変えて空を見上げた。もう一羽、別のカディールがやって来たのだ。
「くそっ……」
 竜巻に襲われた方も辛うじて生きている。さすがのリーフも、二羽当時に相手できるほど余裕はない。地上戦ならまだしも、相手は宙を自在に飛ぶ鳥。不規則な動きをされるから厄介だ。
「リーフ君!」
 名を呼ばれて振り返ると、近くの民家から若者が顔をのぞかせ、手を振っていた。このまま逃すのも悔しいが、一度引いたほうが良い。そう判断したリーフは剣を鞘に収め、民家に向かって走った。

 駆け込んだ民家の中には複数の男達が集っていた。彼らはリトスの町民たちで、勇士を募った自警団の面々である。リーフが来るまで、カディール撃退は彼らだけで行っていた。けれど鍛錬を積んだ戦士というわけではないため、せいぜい追い返す程度のことしか出来ず、倒すまでには至らない。プレシウの跡地であるにも関わらず、魔術師が一人もいないのも痛い事実である。
「危なかったね、怪我はないかい?」
「大丈夫ですよ。ありがとうございます」
 先ほど名を呼んだ若者が心配そうに声をかけてきたが、リーフは何てことはないといった風に(猫被りで)笑んだ。ベルンシュタイン邸では遠慮なく“プレシウ訛り”で話すが、外ではそういうわけにいかない。
「リーフがやられたら困るからなあ」
 と、今度はそばにいた中年男性が苦笑しながら言った。
「ご心配なく、僕は結構強いですからね」
 悪戯小僧さながらに口端を吊り上げると、その場に笑いが起こった。緊急時ではあるが、こういう和やかな雰囲気を作れるのが、リトスの良い所でもある。屋内にいればカディールは襲ってこないし、リーフでも倒せないのだから、今は帰ってゆくまで待つしかない。カディールたちはしばし上空を飛び、飽きると山へ帰ってゆく。日々その繰り返しだ。
「お、帰ったぞ」
 窓から外をうかがっていた男性が声を上げると、近場にいた面々が同じようにして外界をのぞく。悠々と空を飛んでいた二羽のカディールは、七色の翼を羽ばたかせて北の方角へと戻って行った。
 窓から離れた場所で自警団の面々を見遣り、リーフは表情に影を落として溜め息を吐いた。彼らは一般人で、戦闘能力は無いに等しい。しかも、今は擬い物だからこそ彼らでも追い払えるのだ。
 これで“本物”がやって来たらどうだろうか。はっきり言って自警団は何の役にも立たない。“本物”を捕らえるには、もっと力のある輩が必要だ。例えばイグネアならば――かなりの戦力にはなるが、呪いのせいで満足に魔術を使えないため無理だ。
 ――その前に“本物”が存在するかどうかも怪しいがな。
 千年前に存在していたカディールは、長い年月を経る上で徐々に進化を遂げ、一度に数羽産む子孫全てに“万能の血”を受継がないようにした。そのため、姿形こそ同じであるものの“万能の血”を流すカディールは、現代では非常に希少な存在となってしまった。オンブルの研究によれば、その確率は百羽に一羽と言われる。はっきり言って、今だって存在しているのか不確かな状況なのだ。
 だが、それでも。ここまで来たからには諦める事などできないのだ。百に一ならば、百羽でも何でも倒してやろうではないか。
 まあ、呪いが解けなかったらそれはそれで仕方ないしな、などとほんのり呑気な考えも頭の片隅に浮かべつつ、リーフはもう一度溜め息を吐いた。







 リーフがカディールと闘っていた頃。
 ベルンシュタイン邸では刻々とおやつの時間が近づいていた。オンブルは十時と三時、日に二回のおやつを欠かさないという、子供みたいな大人なのである。それが、どんな時でも。
「あれ、ケーキがない」
 冷蔵の庫を開け、イグネアは瞬いた。昨日買っておいたはずのケーキがない。たしかあと一つ残っていて、明日のおやつに出してやれと思っていたのに。
 買ってこないとな……と思ったが、さっき警鐘がなったばかりなので油断はできない。イグネアは諸事情で一人きりでの外出を禁じられているため、今は危ないかもしれない。ちなみに固く禁じているのはリーフである。
「まあ、一回くらい食べなくても死にませんし」
 昼過ぎにでも買いに行けばいいか、などと呑気に考えて振り返ると。
「ひいいいっ!」
 柱の影にのっそりとオンブルが立っていて、恨めしげにイグネアを見ていた。
「……イグネア君。きみは自分の立場がまるで分かっていないようだね。きみはこの私に雇われているんだよ? だから、私が決めた法律は守らなければならない。つまり何が言いたいかというと……」
「はいはいはい。買ってまいります!」
 ブツブツと怨念のこもった愚痴をこぼされ、イグネアは小動物のごとき素早さでオンブルの脇をすり抜け、玄関へと走った。

 一人で外出できないイグネアは、必ず誰か供につけて外を歩く。と言ってもオンブルは絶対に外に出ないため、その役はリーフかモルのどちらかになるのだが、リーフは昼間は自警団の方へ行っているため、必然的にモルとの外出が多い、というわけである。
 一緒に外出とはいえ、モルはほとんど口を利かない。ので、会話もない。でも一応護衛的な事はしっかりやってくれる。一緒に歩くというよりは、さりげなく付いて来ていると言ったほうが適当かもしれない。
 イグネアが向かったのは、近所の菓子店だ。ここは日々世話になりっぱなしのミリアム夫妻が経営する店で、なんとオンブルはここのケーキでなければ食べないという我侭ぶりだ。確かに彼女の作るケーキは美味しいから仕方ないのだが。
「こんにちは」
 扉を開けると、店内には数人の客が来ていた。イグネアが登場するとそれぞれ挨拶をしてくれた。ある意味目立つイグネア達は、娯楽の少ないリトス町民たちにとって常に興味の対象であるらしく、なんだかもうすでに皆顔見知りなのだ。
 モルはいつも外で待っているため、イグネアは一人その場で待っていた。少し経つと、手が空いたミリアムが笑顔を向けてきた。年齢は二十代後半、明るい笑顔が魅力的な、元気な女性だ。
「いらっしゃい。町長さんのおやつかしら?」
「はい……」
 ミリアムがくすっと笑うと、イグネアは苦笑した。
 ミリアムも町民たちも、イグネアよりもオンブルとは付き合いが長いわけであって、だいたいの事情は知っているらしい。そもそも、最初にケーキを差し入れたのはミリアムの方だったという。開店の挨拶にと届けたら大そう気に入ってくれて、それ以降は日に二度のおやつに、と前任のメイドさんが毎日買いに来ていたそうだ。
「すぐ用意するから待っててね」
 そう言って、ミリアムはさっそくケーキを箱詰めし始めた。少しゆったりとした動作であるのは、丸く張ったお腹を見れば一目瞭然。彼女は今、妊娠中なのだ。
「そういえば、さっき警鐘が鳴ってたわね。大丈夫なのかしら?」
「あれから鳴ってませんし、もう帰ったのではないでしょうか」
 ずれ落ちた眼鏡を正しつつイグネアが答えると、ミリアムはにっこりと笑った。
「イグネアの“旦那さま”が来てから、少し落ち着いてるものね」
「そうですね……って、はっ?!」
 イグネアは頓狂な声を上げた。旦那さまって何の話だ!
 するとミリアムは「照れなくてもいいのよ」とか言いつつ、意味ありげな笑いを浮かべていた。
「最初はみんな、あなたは町長さんのお嫁さんだと思ってたのよ。あ、今でもそう思っている人、結構いるみたいだけど。まあ、町長さんとあなたじゃ歳が離れているし、それにあんなに可愛い“旦那さま”が一緒じゃ、仕方ないわよね」
「いえいえいえ、最初もなにも、私は誰の嫁でもありませんから」
 首と手を激しく振って、イグネアは全身全霊で否定した。
 当初、イグネアはオンブルの嫁だと勘違いされていた。それこそ町民全部に。町民たちは、あんな変人でも色々気にかけてくれているらしい。中でも、三十路超えても独身であることが何より気がかりだったらしい。そこへ来て若い娘が屋敷に住み着いたものだから、てっきり……と、これまで何度も言われたことがある。
 しかし最近は、さらなる勘違いも生まれているようだった。
「ふふ、まあ実際は違うのかも知れないけど……でもリーフが来てから、みんな助かってるって言ってるわよ。リトスには、あんな風に闘える人がいなかったからね」
 そりゃ戦慣れした魔術師ですから……とイグネアは内心で呟いた。剣も魔術もいけるリーフは、一般人からすればそれは神の領域に値するようだ。
「はい、出来たわよ」
 そうこうしているうちにおやつの用意が出来たらしく、カウンターの向こうからミリアムが出てきた。全貌が明らかになると、ミリアムの細い首に小さな鈴が下がっているのが見えた。
「それで、ついでと言っては何だけど……」
 包みを手渡しながら、ミリアムはちょっと申し訳なさそうな顔をした。
「一時間だけ、預かってもらえるかな?」
 何を、と言われなくともイグネアは何のことだかすぐに理解し、快く了承した。




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