× 第4章 【炎と烙印】 4 ×





 それからイグネアは一人で悶々と考え込んでいた。先程の一件でどっと疲れてしまったのは気のせいではない。
 リーフはどこまで本気なのだろうか。考えが全く読めない。だいたい、恨んでいると言って目の前に現れたのはあやつの方ではないか。
 しかし色々と疑問や文句はあるものの、リーフの言い分は一理ある。“知った者同士の方が都合が良い”――付いて行くと決めた際、それはイグネア自身も考えたからだ。秘密を抱えていても、事情を知っているから嘘も偽りも必要がない分気楽に生きてゆける。
 だからと言ってなんとも思わない(というか恨んでいた)相手を嫁にしようとは、なんとも奇特すぎる男だ……とイグネアは洗濯物をたたみつつ考えていたが、不意に手を止めた。
 別に誰かの嫁になりたいと思ったことはなかったが、こんなに様々なもの(呪い等)を抱えた自分を嫁にしようなんて輩は、きっとこの先現れないだろう。すると諸々を含め、リーフはずいぶんと思い切った選択をしたと考えられる。同情……はなさそうなので、単なる気紛れかも知れないし、己の娯楽(追い詰めて愉しむ等)のためかも知れない。だとしても自分を受け入れてくれる人間は、もしや後にも先にもあやつだけなのでは……?
 考えた途端、さっと青ざめた。これは罰の延長かなにかだろうか。だいたい、リーフの嫁になどなったら毎日嫌味や毒舌と闘わなければならないではないか……などとブツブツ呟きながら、再び手を動かして洗濯物を片付けていると。
「何をブツブツ言うておるのだ」
「ひいいいい!」
 いきなり真横に顔が現れ、イグネアは嘘くさいほどに驚いて悲鳴を上げた。仰天して視線を向けると、ものすごく渋い表情のリーフが間近で屈んでいた。悲鳴がうるさかったのか耳を塞いでいる。
「い、いきなり現れるな! 驚くではないか!」
 驚いた拍子にうっかり“プレシウ訛り”で責めてしまったが、興奮しているのか本人は全く気付いちゃいない。イグネアは一人憤っていたが、リーフはどこか楽しそうだ。
「もしや、(わし)の事を考えていたのか?」
 イグネアはぎくりとして固まった。まさにその通りなのだが、なんだか素直に頷くのがものすごく嫌な気がした。
「そ、そんなわけないではないか」
 と言ってさりげなく身を引いたが、あんまりにも素直すぎる行動で逆にばれたらしい。リーフはにやっと笑っていた。
「ならば、そのように逃げることもなかろう」
「に、逃げてなどいない」
「そう言う割には徐々に下がっているではないか」
「お、おぬしが近づきすぎるからだ」
 先程あれだけ接近したのに、何を今さら……とリーフは鼻で笑った。
「それは、ようやく儂を男として意識したと思っても良いのかのう」
 悪戯めいた笑みを向けられて何だか無性に腹が立ち、イグネアはむっとした。これは間違いなくからかわれている。きっとさっきのも冗談半分で、追い詰めて反応を楽しんでいただけなのだ。そう思うと、本気にして真剣に考えた自分が馬鹿らしくなってきた。
「知らん。勝手に思っていればよいではないか」
 イグネアがふいっと顔をそむけると、リーフは意外そうな顔をして瞬いた。
 半年以上共に過ごして来て、イグネアのこんな反応を見たのは初めてだ。これまでは何を言っても飄々としていて動じなかったくせに、普通の娘として生活しているうちにそれなりの感性が宿ってきたのかも知れない。先程もそうだ。ちょっと迫ったくらいであのように狼狽して……それこそ昔だったら蹴るなり殴るなり、最悪魔術を使ってでも逃れただろうに。
 あの無駄に自尊心が高かった、そして今では嘘くさいほどに鈍感な【魔女】が自分の手の内で変わって行く様は、何とも言いがたい征服感を抱かせる。これはなかなかに面白い……とリーフは微かに笑った。そしてイグネアが正座しているのを良い事に、またしてもごろりと寝転び、許可もなく膝に頭を乗せた。
「ぎゃーっ! おぬしは、またそのような……!」
「うるさいのう。この際もう良いではないか」
 頭上でぎゃーぎゃー騒がれてもしれっと涼しい顔を浮かべ、リーフは満足げに瞳を閉じている。
 イグネアは握った拳を震わせた。こいつはもう本気で一度殴ってやらねば気が済まない……などと考えていると、ふいにリーフが呟いた。
「一年、だな」
「?」
 何のことかとイグネアは首を傾げた。
 リーフは瞳を閉じたままで言葉を続ける。
「ここに滞在できるのも、やはり一年が限度だ」
 怒りに震えていた拳が緩み、力失せてゆっくりと床に落ちた。
 自分達は歳を取らない。心は歳を重ねても、身体は成長しない。周囲の人間達とは違う。だから、同じ場所に長く留まる事は出来ない。どんなに楽しくても、誰かと親しくなっても……それは無意味なことになってしまうのだ。
 一度離れれば、もう二度と会うことは叶わない。ミリアムやマイル、町民たち……それにあの変人のオンブルでさえ。ようやく築き上げた関係が、たったの一年でなかった事になってしまうと思うと無性に寂しくなった。
 長い年月を生きてきて、こんな風に寂しさを感じたことはなかった。幼少の頃からずっと独りだったから、それに慣れていたから何も感じなかった。人と関わりあうことは時に面倒であるが、良い意味でも、そして悪い意味でも様々な変化をもたらすのだと知った。
 リトスに来て約半年が過ぎた。一年などあっという間だ。
「そのような顔をするな。呪いさえ解ければ、いつまでも居られるではないか」
 一体どんな顔をしていたのだろうか。想像もつかない。はっとしてイグネアが見下ろすと、深緑の瞳が困ったように見上げていた。
「残り半年。それまでには必ず“本物”を探し出してやる」
 リーフは自尊心の高い男だ。だから不可能なことを口にすることなどない。それは根拠のない自信なのか、それとも単なる気休めの言葉なのか……イグネアにはわからなかった。
 万能の血を持つカディールが存在するのかも疑わしいのが現状だ。けれど、それでも今はこの言葉を信じたい気持ちがあった。
「だが、もしも見つからなかったら……」
 深緑の瞳が、真紅の瞳を捕らえた。
「その時は、共に町を出よう」
 イグネアはわずかに瞳を見開いた。
 伸ばされたリーフの手がそっと頬に触れる。
「何年、何十年とかかっても“本物”は必ず見つけ出す。儂の正体は知れているのだ、オンブルにはこれまで同様に協力させれば良い。だがこの町は出ねばなるまい。何処か人知れぬ場所で暮らそう。お主は儂が護ってやる。こう見えてもな、儂は自分の女には優しいぞ」
 からかうように言って、リーフがくすくすと笑った。
 けれど、その裏側に確かな孤独が密かに存在するのだと、イグネアは知っていた。


 リーフの申し出を、イグネアは(気持ち程度)前向きに考えてみる事にした。
 何だかんだ言っても、リーフは頭が切れる(または小賢しいという)。ちょっと寂しげな雰囲気も、もしかしたら偽りかも知れないし、本気で本当なのかも知れない。だからまだ全面的に信用はできないのだ。
 しかし、大戦中とはいえ愛する嫁を殺し、あまつさえ自ら裁いて罪人にした女と共に生きようとしているのだ。どれだけ葛藤した末に過去に折り合いをつけたのかはわからない。
 共に生きるといっても、自分達はきっと常人のような夫婦にはなれない。たとえばイグネアがリーフに惚れることはあっても、リーフがイグネアを最愛の者と思うことはないだろう。それは彼も十分に理解しているはずだ。
 それでも。独り永遠を生きるより、憎んでいた相手を伴侶にする道を選ぼうとしている。それをもう少し理解すべきだと思った。

 さて色々考えることはあるものの、メイドはやはり日々忙しい。炊事に洗濯、掃除……朝起きて眠るまでやる事が山ほどあるのだ、そうそう悩んでばかりいられない。というか、イグネアはうじうじ考えるタイプではないため、眠ったら最後何を悩んでいたかさえ忘れてしまうのだが。
 午後のおやつの時間が終わり、夕暮れが近づいた頃。そろそろ夕食の支度を始めるか、とイグネアは白いフリルのエプロンを装着して厨房に立った。得意料理が未だ一品という彼女は、今日も(というか今回も)得意の野菜スープを作るべく、材料を出していたのだが。
「塩が、ない」
 うっかり、塩を切らしてしまっていた。これはすぐに買ってこないとまずい。ミリアム直伝の野菜スープは塩が決め手なのだ。塩がないなんて有り得ない。
 ということで、早速買いに出ようとしたのだが、いかんせん今は共に行ってくれる人がいない。リーフはあれからまた出かけてしまったし、モルはおやつの時間以降オンブルの手伝いをさせられていて地下に潜ったままだ。単独で出た挙句にカディールの襲撃に出くわそうものならば、後々リーフから毒舌嫌味が勘弁してくれというほど降って来るに違いない。
 しかし塩は今すぐ欲しい……ほんの数秒悩んだ結果、いざという時は民家に逃げ込んでしまえばいいやと呑気に考え、イグネアは一人で買い物に出かけた。

 町の雑貨店には、夕食の買い出しにきた奥様方が多数いた。井戸端会議に華を咲かせつつ買い物を楽しんでいる。イグネアが現れると、もれなく視線が集まった。娯楽の少ないリトスでは、イグネアたちの一挙一動に興味が募るらしい。
「あらイグネアちゃん、町長さんはお元気?」
「やあねえ奥さんったら。こんなに若いお嫁さんが来たんですもの、元気じゃないわけないでしょう。フフ」
「何を言ってるの奥さん。イグネアちゃんの旦那様はリーフ君よ?」
 などとイグネアに近寄って来たかと思ったら、若干ずれた会話を弾ませ始めた。私は誰の嫁でもないです……と過去に何度も否定したが、全く聞いてもらえていないらしい。彼女達に一切の悪気はなく、またあんな変人でも屋敷の主人を心配してくれていると思うと、なかなか強く出られないのが痛い所だ。
 先日ミリアムが言っていたように、町内の……特に年配の奥様方の中には、未だにイグネアがオンブルの嫁だと勘違いしている人がいるようなのだ。そしてさらに別の勘違いも生じている事実は否めない。
「よう、いらっしゃい若奥さん」
 終いには、店のオヤジもこんな事を言う始末である。
 そのうち別の会話を始めてしまった奥様方の脇をすり抜け、イグネアは疲れた表情を浮かべてオヤジに視線を向けた。
「……お塩ください」
「はいはい、塩ね!」
 と陽気に鼻歌なんか歌いつつ、店のオヤジはせっせと奥の棚から塩を取り出し、袋に入れ始めた。
 待つこと数分。会計を終え、イグネアはさっさと店を出た。まあ何かあるとも思わないが、今日は一人だから早く帰った方が身のためだ。
 イグネアが出ると同時、もう一人別の奥様が大そう慌てて入店して来た。
 軽く挨拶を交わしてすぐに出てしまったため、イグネアは「さっきその先でものすごい綺麗な男の子に声かけられちゃったのよ!」という、奥様の興奮した声を聞くことができなかった。


 塩の入った袋を大切そうに抱え、イグネアは足早に屋敷へ戻っていた。まさかこんな時にカディールが来るはずないよなあ、などと少し気楽には考えていたのだが。
 その直後にけたたましい警鐘が鳴り響き、イグネアは大いに青ざめた。
 なんだその出現の確率は! と大焦りで周囲を見回すと、こなれた町民たちはあっという間に逃げ去り、バタバタと家屋の扉が閉まってゆく。鈍臭いイグネアは完全に取り残されていた。
「こ、これはまずい!」
 はっきり言って危機だ。この状況で見つかったら間違いなく襲われる! そう考えつつ振り返ると――
「ひいっ!」
 バサバサと七色の翼を羽ばたかせ、遠い空からカディールが近づいて来ていた。翡翠の瞳が眼下で青ざめる娘を捕らえ、真っ直ぐに向かってくる。
 まずい、本気でまずい。こんな危機的状況でも塩は決して手放さず、イグネアは必死に逃げた。その速さといえば普段の愚鈍振りが嘘のようで、まるで小動物さながらの素早さである。
 周囲の民家にでも逃げ込めばいいものの、何も考えられなくてとにかく屋敷を目指して走った。時折背後に視線を向けるが、カディールは執拗に追いかけてくる。あと少し近づかれれば、奴の射程範囲に入ってしまうではないか!
 息も絶え絶え、イグネアは走った。リーフが奴を追いかけて来てくれればいいが……と考えるものの、そんな助けを待っていられる状況ではない。カディールは鳴き声を上げつつ何度も翼を羽ばたかせ、なびく長いおさげに食いつこうとしているのか首を伸ばし始めた。
 こうなったら、多少危険が伴うが致し方ない。闘うしかない。
 イグネアは瞬間的に速度を上げ、一旦カディールを引き離した。そして突然に立ち止まって振り返る。
 眼鏡の奥で真紅の瞳がぎらりと妖しい光を放っていた。
 二本の指が宙に印を切った。

来たれ、炎の(ライ・フラム)……」
来たれ、氷の矢(ライ・ジェロ・ヴェロス)!」

 高く叫んだイグネアの声に、誰かの声が重なった。見開かれた真紅の瞳には、降り注ぐ氷の矢で翼を傷めつけられて悲鳴を上げるカディールの姿が映った。
 次いで、言葉を失って唖然とするイグネアの脇を誰かがすり抜けて行った。夕陽色に染まった柔らかな髪が瞳に留まる。
 攻撃を受けて逆上したカディールが怒りに燃えた。翡翠の瞳はイグネアではなく、抜き身の剣を手に向かってくる“青年”に狙いを定め、七色の翼を羽ばたかせて容赦なく羽根を飛ばした。
 しかし。

来たれ、氷の盾(ライ・ジェロ・アスピス)!」

 再び声が響くと、“青年”の前に氷の盾が出現し、羽根の猛攻を見事に防いだ。
 盾に護られた“青年”は、物怖じせずにカディールに向かって突き進んだ。ならばと振るわれた尾は一太刀でなぎ払われ、役目を失った銀の糸がはらはらと宙に舞う。

来たれ、氷の槍(ライ・ダス・ランツェ)!」

 青く輝く槍が複数出現し、乱雑ながらも螺旋を描いて足場を創り上げた。“青年”は階段を駆け上がるようにして器用にもそれらを飛び移り、瞬時に頂上まで昇ってゆく。
 そして。鋭い氷の先端と研ぎ澄まされた剣の一突きが、同時にカディールを貫いた。
 透明な声が悲鳴を上げた。貫かれた身体の中心から、力を持たぬ血が大粒の雫を垂れ流す。翡翠の瞳から光が消えるとカディールはついに力失せて息絶え、地に堕ちて動かなくなった。
 イグネアは呆然としていた。すぐに現状を把握できずにいた。
 ぐったりとして動かなくなった魔鳥のそばには“青年”の姿。夕陽に染まる“蜂蜜色”の柔らかな髪、長い手足に高い身長。ゆっくりと振り返るその横顔に、確かに見覚えがあった。
「……見つけたぞ」
 背後からの声にはっとして振り返ると、忌々しげに表情を歪める端正な顔と、怒り最高潮で見下ろしてくる“青碧の瞳”を見つけた。
 なんでこいつらがここにいるんだ……心に抱いたその言葉がものすごく率直に表れてしまい。
「げっ!」
 イグネアは、思わずそんな声を上げていた。




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