× 第4章 【炎と烙印】 9 ×





 リヒトの魔手から逃れたイグネアは、小動物さながらの素早さで扉に駆け寄り、即座に飛び出した。本人も“明日から”と言っていたように、この後に何かしようとは思っていないらしく追撃はなかったものの、逃げる背に向けて何やらこっぱずかしい台詞が投げられたがちっとも聞いちゃいなかった。
 廊下を駆けつつ、イグネアは青ざめていた。彼女にとって一大事だったのは、衝撃の愛の告白でも何でもない。というか、そんなものを通り越してあの男は何をしようとしたのか。
 ――ま、まま、ままま、まさか。
 そっと顎に添えられた手、近づいた麗しい笑顔。
 もしかして、もしかしなくとも。リヒトは、自分に……くく、口付けようとしていたのだろうか。
 思い出して、イグネアはさっと青ざめた。たかがキスくらいで何を……と思われるかも知れないが、彼女は膝枕同様に“口付け”も夫婦のみに許される行為だと思っているのだから仕方がない。そんなわけで、いきなり何をするのか、あやつは変態か! などと大いに慌てたわけである。
 そんな感じで驚くべき速度で廊下を駆け抜けていたのだが。
「ぎゃっ……!」
 何者かにぶつかった衝撃で悲鳴を上げそうになり、イグネアは慌てて口を塞いだ。こんな所で変な声を出そうものならば、間違いなくリーフがやって来て問い詰められるに違いない。ついでによろめいて倒れそうになったが、咄嗟に腕を掴まれて支えられた。驚いて見上げると、ひょろっと背の高い怪しい青年がのそっと立っていて、無表情と共に色眼鏡がじっと見下ろしていた。モルである。
「どどど、どうも」
 冷静を装って礼を述べるが明らかに挙動不審である。そのせいか、モルはすぐに立ち去らず、わずかに首をかしげてじっと見下ろしていた。
「……慌てている」
 いつもは無関心で去っていくはずのモルが、こういう時に限って珍しく言葉をかけてきた。あんまり慌てていたから、間違いなく不審がられたのだろう。これはまずい。
「べべ、別に何事もありませんよ、ご心配なく!」
 イグネアは手と首を大袈裟に振った。彼に限って何か余計なことを言うとは思えないが、とりあえず誤魔化しておいた方が得策だ。というか、特にリーフに言われると面倒なことになるから遠慮願いたい。
 その気持ちが通じたのか、はたまたただの偶然か、モルはそれ以上興味を示すことなく行ってしまった。その怪しすぎる後姿を見送りつつ、イグネアは盛大な溜め息を吐いた。

 そういえば片付けの途中だった……と思い出したイグネアは再び厨房へと戻ったが、ヒュドールはおらず、すでに無人であった。しかもきっちり片付けは終わらせてくれたらしい。何ともありがたい。
 イグネアはその足で居間へと移動し、よろよろとソファに腰掛けてがっくりと項垂れた。なんだか今日は猛烈に疲れた。カディールには追われるし、美形共は現れるし、様々な事が一気に起きて頭がついていかない。
 あの二人が現れただけでもびっくり仰天なのに、そのうえ一緒に住む羽目になるなんて、それこそこれっぽっちも思っちゃいなかった。ヒュドールはともかくとしても、リヒトは事情を知らないのだし、自分だって色々と面倒な思いをするだろうに、リーフは一体何を考えて二人を留めようとしたのだろうか……と悩んだところで奴の腹の内など、イグネアにわかるはずもない。
 と、そんな感じで名前を思い浮かべたついでに先程の一件を思い出してしまい、イグネアはまたしても青ざめた。
 それにしても、リヒトが言っていたことは本当なのだろうか。
 ――(わし)のことが好きだなんて……あやつは何かおかしいのではないか?
 というか、完全におかしいとしか言い様がない。リヒトのように麗しければどんな美女でも寄って来るだろうし、そもそもこんな面倒な娘ではなく、普通の娘を相手にすれば良いのではないか。だいたい、いとしいってなんだ。そして初っ端からとんでもない行動に出るくらいだ、明日からは一体どのような攻撃が待っているのだろうか。
 すこぶる渋い顔でうーんと唸りつつイグネアはしばらく考えていたが、一日の疲れがたたって急激な睡魔に襲われてしまい、ぱたりとソファに横たわってそのまま眠ってしまった。




 話途中で気分が悪いからさっさと終わらせてしまおうと考え、イグネアを探して屋敷内をうろついていたヒュドールだったが、居間にてようやく本人を見つけたものの、眉間にしわを寄せて渋い顔をしていた。仕事も途中で何処へ行ったかと思ったら、ソファにぐったりと横たわって呑気に寝ているではないか。
「おい、こんな所で寝るな。風邪引くぞ」
 とりあえず軽く揺さぶって声をかけてみたが全く起きそうにない。疲れているのかいつもの習性なのか、見事な爆睡ぶりである。
 だいたい今は呪いのせいで病気だってするのだし、いくら年頃の娘的要素が皆無だといっても、ここには野郎しか住んでいないのだから、こんな所で無用心に寝るなと言ってやりたい。というか、なんで俺がここまで気にかけてやらなきゃならんのだ。第一発見者が俺であったことを感謝しろ……などと内心で何だかんだと激しく愚痴りつつも、ヒュドールは上着を脱いでかけてやった。全く、何処へ行っても世話の焼ける小娘である。
 しかしここに放置するのも何だし、仕方がないので部屋まで運んでやるか……と思い、手を伸ばしたのだが。
「相変わらず、甲斐甲斐しく世話を焼くのう」
 声が聞こえ、ヒュドールはぴたりと動きを止めて振り返った。どうやら風呂上りらしいリーフが居間へと踏み入っており、がしがしと頭を拭きつつ物言いたげな顔でこちらを見ていた。
「このような場所まで追ってくるとは、余程執心しているようだな。その執念深さには敬意を払うが、本気でそやつの呪いを解いてやりたいと思うならば良く考えて行動することだ。(わし)は他人の女には一切興味がないからな」
 思い切り挑発的な笑みを向けられ、ヒュドールはあからさかにムッとした。
「どういう意味だ」
「言葉の通りだ。他人の女を世話してやるほど儂は優しくない。そやつが儂のものにならぬのなら、呪いは解いてやらん。ああ、しかしお主は呪いが解けてしまうと都合が悪いのか。何せこやつにとっての特別な存在ではなくなるからな。その立場に固執するならば、好きなだけ手を出すと良い」
 呪いさえ解ければ、イグネアの秘密は“秘密”にする必要がなくなるため、ヒュドールが彼女の命を掌握しているという事情も、全く無意味なものになる。要するに、係わり合う必要がなくなると言いたいのだろう。
 ヒュドールはますます苛立ちを募らせた。それは本人の意思を完璧無視しているではないか。だいたい、考えが小賢しいうえに超絶自己中心的すぎだ。しかし、ここで大人しく引き下がるほど彼は軟弱ではなかった。半年間外界でもまれ、その容赦なさは磨きがかかっているのだ。
「どうとでもほざいていろ。それに、呪いを解くのはお前ではなくてオンブルだろう。いざとなればアイツを脅してでもコイツの呪いは解いてやる。その時に“助けて下さい”と頭を下げるはめになるのはお前の方だ。そうだな、何なら今のうちに土下座でもしておくか?」
 苛立った表情をふっと崩し、ヒュドールは口端を吊り上げて挑戦的に笑んだ。が、鋭い眼光を放つ青碧の瞳はちっとも笑っちゃいない。
 しかし、一方のリーフもそうと言われて黙っているわけがない。そのうえ、ちょっと久々にムカッとしたらしい。
「お主等を大目に見てやるのはカディールの血を手に入れるまでだ。それまでは己の言動には十分に気を付けろ」
 深緑の瞳がギロリと見上げる。
「貴様こそ覚えておけ。俺達が協力してやるのは血を手に入れるまでだ。それまでせいぜい猫でもかぶって媚へつらうことだな」
 青碧の瞳が冷徹に見下ろす。
 そして。
「傲慢」
「腹黒」
 何とも子供じみた台詞を互いに吐き捨て、不愉快気にふいっと顔をそむけた。結局双方大人気ないのだけは確かである。
「……まあ良い。とにかく、本物のカディールを見つけるまでは精根尽くして儂に仕えろよ。それこそ崇め敬うようにな」
「貴様こそ、飢え死にたくなかったら大人しくしていることだな。俺の意思ひとつで貴様等は揃って地獄逝きだ」
 またしても余計な台詞を吐いたがために、互いにイラッとしたらしい。もう一度にらみ合ったかと思ったら、リーフは不機嫌そうに居間を出て行ってしまった。
 全く相変わらず小賢しいガキだ、とヒュドールは盛大な溜め息を吐いた。そして、青碧の瞳は騒ぎを聞いてもぴくりとも動かないイグネアを苛立たしげに見下ろす。見ていなくとも奴の言いっぷりでこれまでの経緯が大体うかがえたが、コイツが迂闊な性格をしているからあのガキがますます付け上がるのだろう。そのうえ今はリヒトもいるのだ、己の意思をしっかり持って行動しろと言っておかねば。というか、なんで俺がここまで気にしてやらねばならんのだ。なんだか父親にでもなった気分だ。
 などと思うことは多々あるが、さすがに疲れたし、そろそろ休みたい。諸々のことは明日にして、とりあえずコイツを運んでしまおうと、ヒュドールは再度手を伸ばしたのだが。
「コイツの部屋はどこなんだ?」
 当然の事ながらヒュドールが知るわけない。
 すると。
「……廊下を真っ直ぐ、突き当たり右手の部屋」
 背後からぼそりと声が聞こえ、ヒュドールは血相を変えて振り返った。通り過ぎざまに、例の怪しい色眼鏡男が教えてくれたのだ。
 さすがのヒュドールも、モルの神出鬼没ぶりには返す言葉が見つからなかったらしい。
「ど、どうも……」
 この屋敷は変人ばかりだ……と疲れ切った溜め息と吐きつつ、去って行く後姿を唖然として見送ったのだった。




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