× 第4章 【炎と烙印】 13 ×





「おやっ?」
 お茶を淹れて戻ってきたイグネアは、オンブルの姿がないと気付いて首を傾げた。彼の皿は綺麗になっているため、しっかり食事は終えたようだが。
「オンブルさんはもう戻ったのですか?」
「ああ」
 問いかけると、ヒュドールは不機嫌そうだが冷静な返事をした。興奮していないところを見ると、どうやら舌戦は回避したようである。
 とりあえず淹れてきたお茶をヒュドールに差し出し、イグネアは隣の席について再び食事を開始した。
 さすがシェフ並と豪語するだけあって料理の味は一流、まるで王宮で出されていたものを彷彿とさせ、あのオンブルが認めるのも頷ける。こんな贅沢が許されていいのだろうかと思いつつも、毎日これが続くなんてちょっと幸せだなどと考えながら、イグネアはもぐもぐと口を動かしていた。ちなみに、これまで食事の習慣がなかったため、彼女は食べる速度がすこぶる遅い。
 その様子を、青碧の瞳がじっと見ていた。全く呑気で何よりだが、もしかしたら呪いが解けないかも知れない事実を、コイツは知っているのだろうか。
「もし、呪いが解けなかったら……アンタはどうするつもりなんだ」
 “本物”のカディールが見つからなければ、オンブルが解呪の効果を持つ【万能薬】を作れなければ、イグネア(とリーフ)の呪いは解けず、このまま永遠に生き続ける事になる。
 静かな声で語りかけられ、イグネアは食事をする手を止めて顔を上げた。じっくりと考えたことはなかったが、どうなるのだろう。
 ふと、そういえばリーフがそんなことを話していたなと思い出す。呪いが解けなかったら共にこの町を出よう、儂が護ってやるとか言っていたな……と、そこまで考えて最も重要なことを思い出し、イグネアはすぐさま青ざめた。すっかり忘れてしまっていたが、あやつは私を嫁にする気でいたではないか。それこそ、呪い云々よりもどうしようか。
「おい」
 質問にも答えずにひとり考えにふけり始めたイグネアに苛立ったらしく、ヒュドールは眉間にしわを寄せた。
「うっ、そ、そうですね、あのその、私たちは歳を取りませんし、呪いが解けないとなると、この町にも長く留まることはできないわけであって……」
 すると、なんでかヒュドールがさらに不機嫌になった。
「そうして、また俺達の前から消えるつもりか」
「へっ?」
 間の抜けた返事をしつつ視線を上げると、青碧の瞳が少し厳しい視線を向けてきた。
「俺はアンタの秘密を知っている。無関係ではない。それなのに、なぜ何も言わずに出て行った?」
「う、それはその……」
 なんでいきなりそんな事を聞かれているのかよくわからないが、どう答えればいいのだろうか。イグネアはわずかに俯いて視線を泳がせ、明らかに動揺した。
「アンタにとって俺は……別れも惜しくないような、どうでもいい存在か」
 はっと顔を上げると、ほんのり切なげな眼差しがこちらを見ていた。深窓の美男子のこういう表情はすこぶる儚げに見え、一般的な乙女の心臓なら一撃で堕ちることだろうが、イグネアには通用せず、むしろ追い詰められてあたふたするばかりであった。
「そ、それは違いますよっ」
 ずれ落ちた眼鏡を正しつつ、真紅の瞳がおろおろと見上げた。
「どうでもよかったとは思っていません。散々迷惑をかけましたし、面倒なことに巻き込んだし、せめて一言言って出るべきだと思いました。けれど、引きとめられた時に笑顔で別れられるかと問われて、私は答えられませんでした。それに、これ以上深く関わってもっと別れが惜しくなる前に……というリーフの言い分も理解できたのです」
 今だってそうだ。もしも呪いが解けなければ、リトスの皆とも同じような別れがやって来る。呪いを抱えている限り、誰とも同じ時を過ごすことはできないのだ。
 それから言葉が続かず、イグネアは俯いて口ごもっていた。これでヒュドールの怒りが収まったとも思えないが、いかんせん相手も無言なのでどうにも判断できない。
 どうしようか、そろそろ顔を上げた方がいいか……と考えていると、テーブルに置いていた手にひんやりとした手が重ねられた。じっくり見てみると指は細く長く、見た目は繊細でも意外と大きいんだなあ、などとイグネアは緊張感のないことを考えていたが。
 ヒュドールはものすごく真剣な表情だった。こいつはやはり、あのガキに言いくるめられただけなのだ。そこで振り切って留まる道を選ばなかったことには若干イラッとするが、とりあえずそれはいい。迷いが生じていたということはつまり、全く脈がないということではないわけで。
「……アンタの呪いは、この俺が解いてやる」
 重ねられていた手にふっと力が込められた。
 イグネアは激しく瞬いた。なんでヒュドールがそんなことを言うのだろうか? と疑問を抱き、考えること数秒。
「あ、そうでしたね。あなたも、変な呪いに巻き込まれたままでは迷惑ですよね」
 へらっと笑って返した途端、ヒュドールはあからさまにイラッとした。
「そこは違うだろうが!」
「ええっ? 違うんですか?」
 空いた手で眼鏡を押し上げつつ呑気に答えたイグネアに、ヒュドールは盛大な溜め息を吐いた。そりゃ永遠に秘密厳守の使命を負って生きるのは面倒だが、この状況下でなぜそっちが理由だと思うのだろうかこの小娘は。だいたい、そんな事を問題にするような器の小さい男に見えるのか俺は(実際見えると思われる)。
「そうじゃなくて、アンタの呪いを解いてやりたいからだろう!」
「へっ、なぜですか?」
 不思議そうに首を傾げられ、ヒュドールはまたしてもイラッとした。こいつは本気で聞き返しているのだろうか。というか、また俺はいちいち説明してやらねばならないのか。ああ、もう本気で心底面倒な女に関わったものだ!
「俺は、呪いに巻き込まれたことは面倒だと思っても、アンタに関わることは迷惑だと思っていない! だいたい、なぜ他所の大陸のこんな辺ぴな町まで探しに来たと思ってるんだ!」
 一気に吐き出された言葉に、イグネアはきょとんとしていた。
「え、それはその、チョビ……ではなく、陛下の命令だからですよね?」
「違う! たかがその程度でわざわざ半年もかけてこんな所に来るか!」
「ひいっ!」
 青碧の瞳にギロリと睨まれ、イグネアは腰が引けた。いかんせん手は掴まれたままなので微妙な体勢になっており、なんとも無様である。なんかもう、ヒュドールの怒りは最高潮だった。というか、国王陛下の命令を“その程度”って、おまえはどれだけ偉いんだと突っ込んでみたい。
 イグネアはひたすらおろおろしていた。そうしていっそう強く手を掴まれ、鋭い視線と共に止めの一言が突きつけられる。
「アンタのことが好きだからに決まってるだろ!」
 どう見ても怒られているとしか思えない状況下、ヒュドールの言葉がうまく理解できず、イグネアは必死に思考をめぐらせた。そうして、なにか同じようなことを結構前に言われたような……と思い出し、「ああ、そういう事か」と口を開きかけたが。
「言っておくが、“好きか嫌いかの真っ二つに分けたら”という意味じゃない。というか、その程度の感情で俺は他人の世話は焼かない。それくらい、いかに鈍感でもわかるだろう」
 違うのか! とイグネアは嘘くさいほどに仰天した。というか、そう言ったのはヒュドール本人のはずだが? と心中で大いに突っ込みを入れたが、言った途端に魔術でも食らわせられそうな勢いだから決して口には出せない。
 なぜこんな状況になっているのか、イグネアは理解に苦しんだ。昨夜リヒトから同じようなことを言われ、今日はヒュドールか。さらには、リーフには嫁にされそうになっているわけで……
「あ、あの……」
「なんだ」
「なにか、おかしくありませんか?」
 どう考えても、みんな何かおかしいとしか思えない。
 遠慮がちに視線を上げると、何か癇に障ったらしく、ヒュドールが冷ややかに見下ろしていた。
「そうか、おかしいか。ならば、何がどういう風におかしいと思うのか、はっきり言ってみろ」
 ヒュドールの額には明らかな怒りの証が浮かんでいて、言った途端に怒鳴られそうだと怯みつつも、イグネアは口を開いた。
「い、いやその……あなたの言う“好き”というのは、そ、その、ゆくゆくは嫁にしようとか、そういう意味です……よね?」
 一瞬、ヒュドールは言葉に詰った。
「う……ま、まあだいぶ話が飛躍したが、大雑把に言えばそんな感じだ」
 素直に「そうだ」と言えばよいものを。全く素直ではない。
「あ、あのその……わ、私のどこがいいのでしょうか。どう見ても、私なんかよりも美しい人や可愛らしい人はたくさんいますし、何もできませんし、ええとその、あなたでしたら、もっと器量の良い方を(それこそ好きなように)選べるのではないでしょうか……」
 これは本心からの言葉だ。奇妙な呪いを六つも抱え、千年前から生きているおかしな女より、普通の娘を選んだ方が幸せになれると思うし、楽だと思う。というか、自分が男だったら間違いなくそうするだろう。本気で。
 だがヒュドールがそれで納得するはずもない。
「……アンタは、俺を馬鹿にしているのか」
「いえいえいえいえ、とんでもない! そうではなくて、その……よ、よくわからないので、う……なんと言っていいものやら」
 しどろもどろになりながら俯いたイグネアを見て、何だかいじめているみたいな気分になり、ヒュドールは嘆息した。要するに、答えに困っているという事なのかこれは。
 まあいきなりどうこうなるとも思っていないし、相手はそれこそ普通の娘ではないし、嘘くさいほど鈍いし、こういう反応はおおよそで予測していたため、仕方がないと割り切るしかない。
「別に、アンタに深く何かを要求しているわけじゃない。今はただ、呪いを解いて普通の娘にしてやりたいと思っているだけだ」
「普通の娘……になると、何か利点が生じるのでしょうか」
 眼鏡を押し上げつつ大真面目に聞き返され、ヒュドールは顔を引きつらせた。
「そんなことは自分で考えろ!」
 この小娘はそんなことまで俺に説明させる気か。もう付き合っていられない。ヒュドールは派手にテーブルを叩き付けて立ち上がり、止めにキツイひと睨みを飛ばし、全身で怒りをあらわにして行ってしまった。
 一方イグネアはというと、ヒュドールに睨まれた理由がわからず、またしても大いに怯んでいた。あれで好かれているとは到底思えないのだが。
 それはともかくとして、彼らは私に何を望んでいるのだろう。嫁にしたって子供は産めないし、歳は取らないし……まあこれはリーフも言っていたように、呪いさえ解ければどうにかなるだろうが。
「あ、そういうことか」
 そこでようやく“普通の娘になることの利点”を発見したイグネアは、ちょっとすっきりした気分になった。
 だからと言って、今さら普通の娘になってどうしろというのだ。そもそも、なぜ自分が呪いを解きたいと思っているのか……。
 何だか非常にややこしいことになってしまい、イグネアはがっくりと肩を落としてげんなりと溜め息を吐いた。しかし、すぐさま食事の途中だったと思い出し、その後もしっかり料理は堪能したのだった。



 どうやら著しく機嫌を損ねてしまったようで、ヒュドールはさっさと自室へ戻ってしまったらしい。そういうわけで、後片付けはイグネアがひとりで終わらせた。まあ支度をやってくれるだけで有難いし、片付けくらいやらなければ申し訳ないと思っているので構わないのだが。
 さて、午後はおやつ前にミリアムのところに行かなければならない。しかしモルはいないし、同行はヒュドールに願うしかないのだが、いかんせんご機嫌が斜めのようなので頼みにくい。まあすぐそこまでだし、ササッと行って来れば大丈夫だろう。
 そんな感じでイグネアは玄関を出て扉を施錠し、さて行くかと振り返ったのだが。
「ひいっ!」
 目の前にモルが立っており、驚いて素っ頓狂な悲鳴を上げた。一体いつの間に近づかれたのか。全く気付かなかった。
「……ひとりで出てはいけない」
 モルはじっとイグネアを見下ろし(たと思われる)、ぼそりと呟いた。
「は、はいそうでしたね」
 なんだかコソコソしている所を見つかった気分になり、イグネアは挙動不審で答えた。
「あ、あの……では一緒に行ってくださいますか?」
 驚きのあまりずれ落ちた眼鏡を正しつつ問うと、モルは無言で頷いた。

 同行者を得たイグネアは、さっそくミリアムの店へと向かった。ヒュドールを連れていると周囲が騒がしいが、何故かモルだと何事も起こらないため、そこは不思議ながらもまあ落ち着くので良しとしよう。
 ちょうど混み合う時間が過ぎたせいか、店内に客の姿はなく、静かだった。相変わらずモルは外で待っているため、イグネアはひとり真っ直ぐにカウンターへと向かう。
「こんにちは」
 声をかけると、背を向けていたミリアムが振り返り、笑顔を向けてくれた。
「あらイグネア、いらっしゃい。町長さんのおやつ?」
「はい」
「すぐ用意するから、ちょっと待っててね」
 そう言って、ミリアムはせっせとケーキを箱詰めし始めた。
 待ちながらにふと視線を店の奥、厨房の方へと向けると、そこではミリアムの旦那様であるハンスがいた。いつも奥で働いているため頻繁に会話はしないが、見た目のがっちりさに反して穏やかで優しい人だと、よくミリアムが話しているのを聞いている。
 ふとそこで考えた。二人は夫婦なのだから、当然好き合って一緒になったのだろう。彼らだけでなく、町民たちのほとんどは夫婦となり、子を持ち、家庭を築いているわけである。つまり、それこそが“普通の娘”としての一般的で理想的な生活の図となるわけだが……どうしてそうなるのか、イグネアにはイマイチよく理解できない。
 そもそも、ヒュドール式に言って“好きか嫌いかの真っ二つに分ける”以外の“好き”というのは、どういうものなのだろうか。夫婦となった二人は一生を添い遂げるということくらいわかっているし、自分にも親というものがいて、二人が夫婦であったからこそ自分が存在しているという事実くらいは知っているが、たった一人の人間をそうまで思う“好き”というのは一体何なのだろうか。はっきり言ってよくわからない。
 そんな感じで、イグネアは眉間にしわを寄せ、かなり渋い顔で考え込んでいた。
「……難しい顔してどうしたの?」
 声をかけられて我に返ると、ケーキ入りの包みを手にしたミリアムが首をかしげていた。
「い、いえいえいえ何でもありませんよ! ありがとうございます!」
 かなり焦りつつ、イグネアは包みを受け取った。
「そういえば、さっきお客さんたちが話してたんだけど……」
「なんですか?」
「イグネアが、とんでもなく綺麗な“愛人”の男の子を連れていたって。本当?」
 やはりというかなんと言うか、さっそく噂になっているらしい。全く、奥様方の井戸端会議も侮れないな……と思いつつ、イグネアは苦笑していた。
「ええと、その……愛人というのは不適切な表現でして。彼は、私と同じく単なる居候です、はい」
「そうなの? どこかの国の王子様だとか言ってたけど」
「……それは盛大な誤解です」
「なんだか眩しくて見ていられないほどだったって言ってたわ。そんなに綺麗な人なら、私も一度見てみたいわね」
「はあ……中身のキツさに耐えられる覚悟がおありでしたら、いつでも屋敷に来てください」
 俯き加減でぼそりと呟くと、ミリアムは何のことやらと不思議そうにしていたが、すぐに笑顔に戻っていた。
「人が増えて大変だと思うけど、困ったことがあったら遠慮なく相談してね」
「はい、ありがとうございます」
 やはりミリアムはよく出来た嫁だなあとか思いつつ、イグネアはしまりのない笑顔を返した。





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