× 第4章 【炎と烙印】 14 ×





 屋敷に戻って時間ぴったりにおやつを用意し、その後は洗濯物を取り込んだり掃除をしたりで忙しなく動いていると、気付けば夕刻になっていた。夜はリヒトにリーフにモル……昼とはうって変わって人数が増えるため、夕食の支度も大変だ。
 ということで、張り切って手伝おうと厨房に向かったが、ヒュドールの機嫌は最高潮に悪く、ひと睨みで追い返されたため、イグネアは渋々退散した。なぜあんなに怒っているのか不明である。
 しかしさすがというべきか、ヒュドールは料理の手際も良く、支度が早い。手伝いなど不要とばかり、さっさと準備を終わらせていた。たとえば王宮仕えがクビになったとしても、料理人として生きていけるのではないだろうか。などと考えつつ、柱の影からそっと見守っていると。
「いい匂いがするのう」
 背後から声が聞こえ、イグネアは振り返った。そこには一仕事終えて帰宅したリーフが立っており、外套やら剣やらを脱ぎつつ何やら興味深げに瞳を輝かせていた。
 ちなみにこうして出迎えもなく玄関を抜けたという事は、イグネアが鍵をかけ忘れたという証拠である。
 リーフは脱いだあれこれをイグネアに手渡すと、つかつかと食卓に歩み寄り、さっさと席に座っていた。というか、これはなんだ。私に片付けろというのか。全く、自分でやれと声を大にして言ってやりたい。と思うものの、言えば睨まれた挙句に嫌味を言われるので、ここは大人しくしておくことにした。

 さて瞳を輝かせて着席したリーフはというと。
「……肉が、ない」
 食卓を見下ろし、いきなり文句を言いやがった。
 今宵のメニューは新鮮な魚を取り入れた健康的な内容となっているが、どうやらリーフは肉が出るのを思い切り楽しみにして帰ってきたらしい。深緑の瞳が恨めし気に睨むと、ヒュドールはあからさまにムッとしていた。
「肉は昼に出した。嫌なら食わなくていい」
 大袈裟な音を立てて運んできた皿をテーブルに置き、青碧の瞳がぎろりとねめつける。二人の間で見えない火花が若干散ったが、やがて互いにふいっと顔をそむけてしまった。相変わらずの犬猿ぶりだ。
「ま、まあまあ……お魚も美味しくていいじゃないですか。ねえモルさん」
 見かねたイグネアが空気を換えようとして唐突に話を振ると、またしてもいつの間にか現れていたモルは無言で頷いていた。
「と、ところでリヒトはどうしたのですか? 一緒じゃないんですか?」
 問いかけると、不満そうに魚を突いているリーフが口を開いた。
「ああ、あやつならば自警団の面々にえらく気に入られたようでな。今宵は飲んで帰るから夕飯は要らぬと言っておった。誰かと違って愛想が良いから、好かれるのだろう」
 誰かというのは、間違いなくヒュドールのことだろう。
 ちなみにリーフも中身は成人しているため飲酒は可能だが、外では一応人目を気使って飲み歩かない。その代わり、屋敷内にある酒瓶の中身は日々徐々に減少していたりする。
 それはさて置き。
「ほう、その誰かというのは俺のことか」
「お主以外に誰が居るというのだ」
 青碧と深緑が、またしても睨み合った。
 互いに余計な事を言うからこういう険悪な空気に陥るのではないだろうか。というか、こんな嫌な雰囲気の中で毎度食事をしなければならないと思うとやるせない。何とかしようとイグネアは策を練ってみたが、大した案は浮かばなかった。
 そんな微妙な雰囲気の中、呑気な空気を運んできた人物がいた。
「おお、夜は魚か。まあたまにはいいだろう」
 などと言いつつ、昼に肉を食ったおかげでちょっとご機嫌なオンブルがリーフの隣に座ったのだが。
「鬱陶しい!」
「ぐはあっ……!」
 苛立っているリーフにスネを蹴られ、悶絶していた。
 なんだか本気で哀れである。



 そんなこんなで夕食を終え、片付けを終わらせたイグネアは、そういえば眼鏡を直してもらわねばと思い出し、モルの姿を探した。
「モルさーん」
 とりあえず居間をのぞいてみたが、姿が無い。自分の部屋だろうかと思い、振り返ろうとしたのだが。
「ひえっ!」
 またしてもいつの間にか背後にモルが立っていてイグネアは嘘くさいほどに驚いた。本気で心臓に悪い登場の仕方だからやめて欲しいと思うものの、なかなか本人には伝えられなかったりする。
「……なにか」
「うっ、あ、あのその、眼鏡の調子が悪いので直して欲しいのですが」
 すると、モルはうんともすんとも言わずに一度廊下へと消え、しばらくしてから戻って来た。そうしてずんずんと居間に踏み入って床に敷いてあるふわふわじゅうたんの上に座り、持参して来た小箱を開けて中から何やら奇妙な器具を取り出した。
「……眼鏡」
 一言と共に手を差し出され、一瞬何のことやらと思ったが。
「はっ、お、お願いします……」
 イグネアは慌てて眼鏡を手渡した。仕方ないことなのだが、もうちょっと言葉数を増やしてくれればわかりやすいのにと思ってしまう。
 作業の邪魔をするといけないと思い、イグネアは適当に距離を置いてじゅうたんの上に座った。眼鏡を外している間は危ないので瞳を閉じたままだ。なんせ裸眼をさらしていれば、その辺の物を壊しかねないから仕方がない。
 視界が暗いからか、器具を扱う音がやけに響いて聞こえる。その音を聞いているうちになんだか眠くなってしまい、イグネアは座ったまま居眠りに足を突っ込み始めていた。

 さて、そこに通りかかったのはリーフだ。
 何をしているのか気になったらしく、リーフは物音を立てずに近づいてきた。モルは眼鏡の修理に夢中で見向きもしない。まあ、気付いたとしても興味を示さないだけだが。
 すぐそばまで歩み寄ってその場で屈み、顔の前で手を振ってみるが、本気で気配に気付かないのかイグネアは全く微動だにしない。こいつはこの状態で寝ているのか、なんという無防備加減だろうか……と眉間にしわを寄せたリーフだが、何となくそのまま去るのも面白味に欠けるので、ひとつちょっかいを出してやろうと考えた。そろそろ、本格的に自覚させておくのもいいかも知れない。
 床に膝を付き、身体が触れぬようにと気を使いつつ、リーフはそっと身を寄せた。空気の動きを制しているため、瞳を開けない限り気付かれることはないだろう。
 このまま行けば間違いなく唇が触れそうだ……という美味しい状況に至った時、枯草色の髪が頬をかすめてしまい、反射的にイグネアが瞳を開けてしまった。そして当然のことながら……
「ひいいっ、な、なな、何してるんですかっ!」
 それこそ触れそうなほど間近にリーフの顔があり、イグネアは大いに慌てふためいた。なんでこんなに近いんだ。というか、なぜにリーフがここにいるのだ。距離を取ろうとして必死に後退したが、あたふたし過ぎて思い通りに身体が動かず、さらに逃がさんとばかりに手首を掴まれてしまい、すぐに行き詰まる。
「ああ、眼鏡が無いから閉じていたのか。ならば、もう少しそのままでいろ」
「は、はあ? って、ちょっと離してくださいよっ」
 失敗したからといって諦めることなく、リーフは再度顔を近づけた。
 逃げるどころか、先程と同じような状況に陥ってしまっているではないか。思い切り瞳を開けたいところだが、それはあまりにも危険なため、微妙な薄目であたふたと身もがいてみる。
「逃げることも無かろう。そのうち嫌でもする事になるのだ、いっそ腹をくくってしまえ」
「なな、何の話ですかっ」
「それとも何だ、儂では不満だとでも言うのか」
「だ、だから何の話ですかっ」
「あんな小僧共より儂の方が格段に良いぞ。生きた年数が桁違いだからな、知識も経験も豊富だ。それこそ色々な意味で」
 そりゃどんな意味だ! とイグネアは内心で憤慨した。なんでいきなりこんな状況に陥ったのか理解できない。というか、そこにいるモル! 助けないか! と必死に心の声を飛ばしてみるが、あえて無視なのか本気で気付いていないのか、背を向けたままである。
 しかしここで脱力すれば倒れてしまいそうだ。そうなったら何となく危機のような気がして、イグネアは床に付いた手に力を込めて必死に踏ん張っていた。
 ああ、もうどうしよう。こうなったら魔術でも食らわせてやろうか、と思った時だった。
「……直った」
 それまで背を向けていたモルが唐突に振り返り、至極平然と眼鏡を差し出してきた。
 一瞬、奇妙な沈黙が漂った。
「あ、ありがとうございます……」
 リーフに迫られた状態で眼鏡を受け取り、イグネアはのろのろと装着した。見事なぴったり感、相変わらずいい仕事をしてくれる。
 一方リーフはというと、せっかくの雰囲気を邪魔されたおかげでまたしてもやる気を失せたらしく、げんなりと溜め息を吐いた。どうせなら“儂の邪魔をするな”という条件も契約に含めておけば良かった、とほんのり後悔した。まあ少しからかってやるだけのつもりだったし、こう抵抗を見せられるとやりがいが無い……などと考えつつ、そのままイグネアの膝にごろりと転がった。
「ぎゃあっ!」
「……やかましい」
 踏み潰した猫のように無様な悲鳴を上げたイグネアを、深緑の瞳がぎろりとねめつける。というか、なぜ睨まれなきゃならんのだろうか。
「他は追々慣らすとしても、これくらいはいい加減慣れろ」
「な、な!」
 他ってなんのことだ。なぜに慣れなきゃならんのだ。しかし機嫌を損ねたらしいリーフに文句を言う勇気が湧いて来なかった。間違いなく壮絶な毒舌嫌味が返って来そうなので、イグネアはあえなく閉口した。そのうち飽きて行ってしまうだろうから、それまでの我慢だ。
「ところで……どうであった?」
 唐突な問いかけに、何のことやらとイグネアは首を傾げた。が、どうやら問いかけた相手は彼女ではなく、モルらしい。
「……それらしきものは見つけたが、使えるかどうかは探ってみないとわからない」
「どれくらい時間がかかりそうだ?」
「あと五日のうちには」
「まあ仕方が無かろう。今はそちらを優先にしろ」
「了解」
 短的な言葉を残し、モルは居間から出て行ってしまった。

「……何をさせているのだ?」
 モルの姿が完全に見えなくなったのを見計らい、イグネアはこっそりと問いかけた。どうもリーフと二人になるとプレシウ訛りが出てしまうが、まあ小声ならば大丈夫だろう。
「北の山への近道を探させている。戦力も揃ったことだし、現状では巣を叩くのが最も手っ取り早い方法だからな」
「近道? そのようなものがあるのか?」
「あの辺りはプレシウの中心部であったからな。裏道や地下道の名残があれば、使える可能性もある。“奴等”が入り込めぬ道も確保しておかねば危険であろう。儂とて食われて死ぬのは敵わんからな」
 まあ、あの小僧共がどうなろうが知ったことではないが、役目を終えるまで死なれては困るし……と付け加えたリーフに、イグネアは顔を引きつらせた。
「巣には、本物がいるのだろうか」
 イグネアがふいに口にすると。
「……いてもらわねば困る」
 リーフが素っ気無く答えた。
 ふっと、先程のヒュドールの問いかけが頭を過ぎった。リーフは、呪いが解けたらどうするつもりだったのだろうか。ほんのり気になり、イグネアは聞いてみようとしたのだが。
 何やら恐ろしいほど冷えた殺気が背中に突き刺さり、ぞっとして青ざめた。恐る恐る振り返ると、背後に腕組みして仁王立ちする白銀の魔神を発見した。
「このクソガキめ、何をしている……!」
 ご指名を受けたリーフはというと、のろのろと視線を向け、そこにいるのがヒュドールだと知ると口端を吊り上げて笑んだ。そうしてごろりと寝返りをうち、イグネアの腰に腕を回してがっちりと抱えた。
「ひいいい! おぬしは何をしておるのだっ」
 うっかりプレシウ訛りで悲鳴を上げてしまったが、とりあえずそれどころではない。
「儂に“だけ”許される贅沢だ。どうだ、羨ましかろう」
 などとリーフはヒュドールを挑発しつつ、膝枕独占を見せ付けやがった。
 イグネアは必死に逃げようとしたが、リーフは引っ付いて離れない。おろおろと視線を向けると、怒り沸騰中らしい青碧の瞳がぎろりと睨みつけてきた。なんで私が睨まれるのだろうかと思いつつも、この状況を何とかしなければと必死に策を練るが、イマイチ良い案が浮かばない。
 そうこうしているうちに、二人の若干下らない舌戦は幕を開けていた。
「殺されたくなければ、今すぐ離れろ」
「お主もいい加減諦めたらどうだ。こやつの事は儂に任せて置けば良いだろう」
「なぜ任せなければならない。貴様こそ、余計な手出しをするのはやめろ」
「それは無理だな。何せこやつは儂の嫁になる予定だ。自分の女に何しようと、他人に文句を言われる筋合いは無い」
 リーフが余裕気に言い放った瞬間、青碧の瞳がものすごい睨みを飛ばしてきて、イグネアは大いに怯んだ。
「どういう意味だ?」
「ひっ、し、知らんぞ!」
 すると今度は、深緑の瞳が(わざとらしく)切なげな視線を向けてくる。
「忘れたとは言わせんぞ。あの夜に誓ったではないか……」
 何をだー! とイグネアは青ざめた。しかもあの夜ってなんだ! なんかもう本気で逃げたい気分である。ちらと視線を向けてみると、案の定ヒュドールの苛立ちは最高潮に達していた。それこそまた魔術でも食らわせられそうな勢いだ。
「お、落ち着け。何も誓っていないから、本気で」
 ああ、なぜ私はこんな釈明を真剣にしなければならないのだろうか。そもそも、なんでこいつらは争っているのだろうか。なんかもうどうでもいいから、やはり逃げてしまいたい。
 イグネアは疲れ切った溜め息を吐いた。それでも二人の下らない言い争いは続いている。全く、どちらも子供ではないのだから、少し冷静になれな良いものを。
 しかし、二人の舌戦はまだまだに終わりそうになかった。
「とにかく、青二才の“愛人”は引っ込んでおれ」
 その言葉に、ヒュドールの眉がぴくりと動いた。
「なんだと?」
「町民共が噂しておったぞ。イグネアが愛人を連れて歩いていたと。見た目ばかり小奇麗なお主には全くもって適当な表現だな」
 などと面白おかしくリーフは話しているが、イグネアはひたすらに青ざめていた。全く、奥様方の情報網は侮れない。正直言って恐ろしいぞ。
 ちなみにイグネアが危惧していた通り、リヒトの方にも愛人疑惑が生じていたとリーフがご丁寧に説明していたが、さっぱり聞いちゃいなかった。
 背に突き刺さる殺気が増幅し、血相を変えて振り返ると、ヒュドールの青碧の瞳がぎらりと妖しい光を放っていた。
 まさか、いやまさか。ここで魔術を使う気ではなかろうな。
「ま、待て待て! 落ち着けっ!」
「うるさい! こうなったら、本気で痛い目に遭わせてやらなきゃ気が済まない!」
「だ、だからと言って、ここは室内だぞっ!」
 必死にヒュドールを宥めるが、もうダメそうだった。
 そしてリーフの方も俄然やる気を出したらしく、立ち上がって堂々と仁王立ちしていた。
「面白い! 儂も一度、完膚なきまでに叩きのめしてやりたいと思っていたのだ。プレシウの魔術師に立て付いた事を後悔させてやる!」
 おいおいおい、お前も挑発に乗ってどうするんだ! というか、なんでこんなに大人気ないんだお前たちは。
「床に這い蹲る覚悟は出来たか? 傲慢な小僧よ」
 深緑の瞳がぎろりと見上げる。
「そっちこそ、もう土下座しても許してやらない。腹黒のクソガキめ」
 青碧の瞳が冷徹に見下ろす。
 室内の空気が異様な動きを見せた。その身を護るように、リーフの周囲で渦を巻き。鋭利な武器を創り上げるために、ヒュドールの回りで急激に温度を下げていく。
 一触即発の空気が、居間に張り詰めていた。

 しかし。
「……い、いい加減にしろッ!」
 張り詰めた空気を裂いたのは、イグネアの怒声だった。
「おぬしらは何故にそのように仲違いするのだ! 少しは互いを認めて、大人しくしていたらいいだろう!」
 すると、青碧と深緑の瞳が、同時にイグネアを見遣った。
「認める?」
「誰が、誰を」
 二方向からぎろりと睨まれ、イグネアは大いに怯んだ。そんなにおかしな事を言ったのだろうか。
「こやつが常に儂を崇め称える精神を備えれば、全て丸く収まるのだ」
「何を言っている。貴様が地べたに額を擦り付けて許しを請えばいいだけの話だ」
 止めたはずの舌戦は再び幕を開けようとしていた。
 もうこれは互いの自尊心の問題なのだろう。なんだか下らなすぎて文句を言うのも面倒になって来た。
「……わかった。あとは好きにやるがいい」
 睨み合う二人を放置し、イグネアはのっそりと居間を出た。げんなりと溜め息を吐きつつ、がっくりと肩を落として廊下を歩く。もう勝手にすればいいのだ。
 とりあえず、事が収まるまでどこかへ避難したい。そんな平穏を求める気持ちが大いに表れてしまい、無意識のうちに屋敷の外へと足が向かっていた。





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