× 第4章 【炎と烙印】 15 ×





 のっそりぼんやりと歩いていたら、いつの間にか屋敷の外に出ていたらしい。気付けばイグネアはひとり、夜道を歩いていた。
 空を見上げてみれば、たくさんの星がきらめいている。少し冷たい夜風が潮の香りを運んできて、しばしこの雰囲気を堪能したくなった。
 カディールは夜間に襲撃してくることがほとんどない。そのうえ、喧嘩に夢中でヒュドールもリーフもこれっぽっちも気にしていないようだし、モルも出てこないし、ちょっとくらいならば平気だろうと、イグネアは近場を散歩する事にした。
 こうして夜に外に出るのは、実は初めてだったりする。人の気配がなく静寂漂う町は、昼とは違って不思議な雰囲気をかもし出している。
 それにしても、あの二人の仲の悪さはどうにかならないのか。王宮にいた頃よりも確実に犬猿ぶりが酷くなっていると思われる。
 イグネアは盛大な溜め息を吐いた。あんな空気の中でこれからも過ごさなければならないかと思うと、気分が滅入ってしまう。というか、いちいち止めるのも面倒くさい。男とは、皆あのように自尊心が無意味に高いものなのだろうか。
 がっくりと肩を落とし、背中を丸め、のそのそと歩いていると。
「イグネア?」
 名を呼ばれて振り返ると、そこにはミリアムが立っていた。
「こんな時間に珍しいね。どうしたの?」
「へっ、ああ、ええと、その……散歩というか、なんというか」
 さすがに屋敷で絶賛戦闘中(かどうか不明だが)とは言えず、イグネアは曖昧な答えを返した。
「ミリアムさんはどうされたんですか?」
「私はお届け物をしてきたのよ」
 空になった手かごを掲げて、ミリアムがにっこりと笑った。
 ミリアムの笑顔を見るととても安らぐ。イグネアはつられてへらっと笑ったが、どうにも疲労感は隠し切れなかったようで。
「何か心配事でもあるの?」
「えっ、なぜですか?」
「なんだか、とても疲れているように見えるから」
 もしやものすごく疲れた感が漂っているのだろうか。全く、あやつらのせいで何故私が苦労を強いられねばならないのか。もっと平穏に過ごしたい所なのに……などとブツブツ言っていると。
「そうだ。ちょっと家に寄って行かない? 見せたいものがあるの」
 イグネアに、その誘いを断る理由は当然なかった。

 ミリアムの自宅は製菓店と繋がっており、店の奥から入ることが出来る。リトスに来て半年が経つが、こうして自宅に招かれたのは意外な事に初めてだったりする。恐らく彼女の趣味なのだろう、店の雰囲気もそうだが、自宅の内装も可愛らしい。ミリアムやマイルはともかく、あのガタイのいいハンスがこの家で暮らしているのかと思うと、申し訳ないがちょっと笑ってしまう。
 茶が入る間、案内された客間でくつろいでいたイグネアだが、ふいに視線を感じ、そちらを向いた。そうして真紅の瞳が思い切り見開かれた。
 なんと、戸口にマイルが立っていたのだ。いつの間に一人で立てるようになったのだろうと驚いていると、ミリアムが戻って来た。
「ほらマイル。お姉ちゃんの所に行って来なさい」
 背を押されたマイルは、なんと立っているだけでなく支えもなしに歩き出したのだ。
「おお!」
 さすがのイグネアも驚きの声を上げた。しかし何だか今にも転びそうで不安になり、慌てて手を差し伸べると、マイルはよちよちと歩いて転がり込むように胸に飛び込んできた。
「昨日から一人で歩けるようになったのよ」
 ミリアムが見せたいものとは、この事だったのだろう。
 何だか驚きと共に感動してしまった。ついこの間まで、抱えられなければ動けない幼子だったのに。子供の成長とは日々目まぐるしいものだと知った。そして、その成長がとても喜ばしいという事も。
「びっくりしました」
「私もよ。何度か一人で立とうとしてたけど、まさか歩き出すなんて。ついこの間生まれたばかりだと思っていたのに、あっという間に大きくなっちゃうのね。それに、お腹のこの子ももうすぐ産まれてくる。そうしたらマイルはお兄ちゃんになるんだもの、不思議よね」
 丸く張ったお腹をさすりながら、ミリアムは微笑んでいた。きっと誰より、母親である彼女が驚いているのだろう。笑顔はとても幸せそうで、見ているこちらもつい笑顔になってしまう。
 太古の昔、己の力が滅ぼした大地に人が住み、こうして新たな命が生まれ、育まれてゆく。身近で目の当たりにしたこの感覚は、とても不思議で、そして歯痒く、上手く言葉にはできないものだった。
 もしも呪いが解けて、自分も“普通の娘”になったら。ミリアムのような幸せを望むようになるのだろうか。それを望むべきなのか、望んで良いものなのか……よくわからない。
「あの……」
「なあに?」
「ミリアムさんは、どうしてハンスさんと、その、結婚しようと思ったんですか? やはりその……すす、好きだからですよね?」
 眼鏡を押し上げつつ、イグネアは若干自信なさげに問いかけた。
 唐突な質問に、ミリアムはきょとんとしていた。が、すぐに笑顔が戻る。
「私がハンスと出会ったのはね、ちょうどあなたくらいの歳だったのよ。あの人、昔から無口でね。最初はなんて愛想のない人なのかしらって思っていたのよ」
 ミリアムとハンスはリトスの出身ではなく、他の町の同じお菓子職人の下で修行をしていた仲間だという。
 出会った頃、無口で愛想のないハンスのことを、ミリアムはあまり良く思っていなかったらしい。そのうえ、好みのタイプでもなかったそうだ。
「数年間、同じ人の下で修行していたんだけど、私はなかなか腕が上がらなくて落ち込んでいたの。何度も何度も悔しくて辛い思いをしたわ。時には泣いたりもしたけれど、そういう時、気付けばそばに彼がいたわ。決まって無言だったけど、でもずっとそばに居てくれた」
 慰めを言うでもなく、優しい言葉で励ますでもなく。ただただ、泣き止むまでそばに居てくれた。それがとても心地よかった。この静かで穏やかな雰囲気こそが、彼の優しさなのだと知った。
「その日からね、不思議なことが起こったのよ。なんとも思っていなかったハンスが、なぜか誰よりも素敵に見えるようになって、彼のことが気になって仕方がなかったの」
 それは、紛う事なき恋。
 その日から、二人の日々は何より、互いは誰よりも輝くようになったのだ。
「それからは無口も無愛想も気にならなくなった。むしろ、他の女性に愛想を振りまかれなくて良かった、くらいに思えるようになって。徐々にハンスの“良い所”が見えるようになって来たの。人を好きになるって、きっとそういうことなのよね」
 まるで今でも恋する乙女のように。
 ミリアムは穏やかな笑顔と口調で、思い出を話して聞かせてくれた。


 ミリアムの家でお茶をご馳走になり、マイルと遊んだりして少しまったりした後、イグネアは屋敷への帰路へついた。そろそろあやつらの頭も冷えた頃だろう。
 それにしても。人を好きになるとは不思議だ。ミリアムの話を聞いて、イグネアの中ではますます疑問が深まっていた。きっと、ある日突然いきなりやって来る感情なのだろうが、どうにも理解できそうにない。自分を好きだという“彼ら”もそうだったのだろうか。いやまさか。
 そんな感じで悶々と考えつつ、夜道をひとり歩いていると。
「イグネア?」
 またしても名を呼ばれ、イグネアは足を止めた。今日はやたら呼び止められる日だなあ、と考えつつ振り返ると、夜道に不釣合いな黄金色をまとう美男子が立っていた。リヒトである。
「おや、おかえりなさい」
 へらっと笑って返事をすると、リヒトは驚いた顔で近づいてきた。
「こんな所で何してるの? まさか一人じゃないよね?」
「は、はあ、まあ……」
 すると、リヒトはすぐさま表情を変えた。
「ひとりで外に出たら危ないよ。あいつらは一体何してるわけ?」
 どうやら一人歩きさせている事が気になったらしい。家に戻ったらキツく言ってやらねば、などと言っており、イグネアはほんのり焦った。
「い、いえいえいえ、あの、私が勝手に出てきただけですから。それに、えーと、その、そうそう、ミリアムさんのところに行っていたのですよ。それにカディールは夜に襲撃してくることはないので、何の危険もありませんから、はい」
 ここで「ヒュドールとリーフは屋敷で対決していました」などと言おうものならば、即刻二人を叩き切りそうな雰囲気で、それはそれで面倒な展開になりそうだ。とりあえず無事だということを存分にアピールすると、リヒトは渋々納得してくれた。
「それでも夜道は危ないから、ひとりで外を歩かないでね」
「は、はあ……」
 だから、このリトスで特に危険はないと思われるのだが。
 しかしリヒトはあくまで善意で言ってくれているのだ。ここは大人しく納得しておくべきだろう。
「で、では帰りましょうか」
 気を取り直して顔を上げたが、リヒトは人の顔をじっと見下ろして何やら考え込んでいた。
「あ、あの……」
 何か変なものでも付いているのだろうか、と首をかしげると。
「せっかくだからさ、ちょっと散歩して帰ろうよ」
「散歩、ですか?」
 さっきして来たから別に行きたいと思わなかったが。
 答えを返すより先に、さっさと断りもなくしっかりと手を握られてしまい、半強制的に付き合わされるはめになったのだった。





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