× 第4章 【炎と烙印】 16 ×





 リトスの朝は早いため、夜の町中はとても静かだ。ゆえにこうして手を繋いで歩いていても妙な噂にならないのが有難かったりする。まあ、すでにリヒトに対しても“愛人疑惑”が生じているらしいので、今さらなのだが。
 そんなこんなで。リヒトに手を引かれ、いつの間にか浜辺にやって来ていた。静かな夜と優しい月の光、そして穏やかに続く波の音が心地よく、イグネアは手を繋がれている事実をすっかり忘れてほんのり感動していた。
「ここは良い町だよね。皆親切だし、何より海が間近に臨めてちょっと嬉しいな。知ってる? ここで飲まれてる“ドラウヴン”って銘柄のワイン、スペリオルじゃかなりの高額で売買されてて、貴族以上の階級でもないと手に入れられないんだよ」
 その銘柄なら確か屋敷にも何本か置いてあって、リーフがよく飲んでいる。こんな片田舎では水みたいなものも、他国ではそんなに高級なのかとかなり驚いた。さすがは一国の騎士様、高級品にはとても詳しい。
 そんな他愛のない話を(主にリヒトが)しながら、二人はゆったりとした足取りで浜辺を歩いていた。若干酔っているらしくリヒトはかなり上機嫌で、そのせいもあるのか、握られた手はヒュドールと違って温かい。
 そういえば、以前にもこうしてリヒトに手を繋がれたな。その時はリエスタやら城下町やら、たいそう人の流れが激しい場所だった……などと考えていたイグネアは、そこでようやく我に返った。
「あ、あの……」
「なに?」
「その、手を繋がなくても、今は迷子にならないと思うのですが……」
 真紅の瞳がおろおろと見上げると、リヒトは一瞬真顔になり、そしてすぐさま顔を逸らして笑いを堪えていた。この状況下、この子は本気で言っているのだろうか。いやまさか、と考えつつも、間違いなく本気だろうと思い直す。全く、どこまでもツボを突いてくれて楽しい。
 何かおかしなことを言ったのだろうか……と困惑していると、少し落ち着いたらしいリヒトが再びこちらを向いた。
「別に迷子になりそうだから繋いでいるわけじゃないよ」
「は、はあ……そうなんですか」
「うん。だって、好きな子には触れたいと思うでしょう?」
「そうなんですか……って、はあ?」
「せっかく邪魔者もなくて二人きりだし、さっさと屋敷に帰るなんて勿体ないじゃない。あの場でめぐり合わせてくれるなんて、神様もたまには粋な計らいをしてくれるものだね」
「あ、あの……」
「ほら見てごらん。星がとても綺麗だよ」
 などと言いながら、リヒトは空を指差していた。勘違い美形騎士は、酒ではなく夜の雰囲気に酔っているらしかった。
 確かに星は綺麗だが……なんだかちょっと帰りたくなってきたなと考えつつ、イグネアは若干俯いていたが。
「それとも、もう帰りたい?」
 そう問われて、素直に答えることはできなくて。
「い、いえ……そんなことはないです」
「それなら良かった」
 返された笑顔が何だか嬉しそうだったため、もうちょっとだけなら付き合ってもいいか、とイグネアは思い直した。ちなみに、なぜリヒトが嬉しそうなのかはちっとも理解していない。

 考えてみれば、この半年で夜に出歩いた記憶もないし、ましてや浜辺まで足を運んだ試しもなかったのだ。どうせ散歩するからには楽しく考えた方が得だろう。そんな感じで突如前向きになったイグネアは、夜の浜辺を堪能することにした。
「何するの?」
 唐突に座り込んでいきなり靴を脱ぎ出したイグネアを、リヒトは不思議そうに見下ろしていた。
「ちょっと入ってみようかと」
「ええ? 水が冷たいから止めておいた方がいいよ?」
「大丈夫ですよ」
 と、リヒトが止めるのも聞かず、イグネアは服の裾が濡れないように軽く縛り、さっさと打ち寄せる波に向かっていった。水が冷たかろうがどうせ死にはしないし、今後いつこのような機会に恵まれるかもわからないのだから遊んでしまえ、と若干大袈裟に考えていたりする。
「おお」
 ゆっくりと足を踏み入れると、たしかに忠告を受けたように水温は低かった。が、死にそうなほどではないし、むしろ気持ちが良い。寄せては返す波が足元の砂を奪っていき、足裏がもぞもぞする。それが、ほんのり楽しい。
「楽しそうで何よりだけど、それ以上深い所へは入らないでね」
 浜に座り込んだリヒトが苦笑していた。いくら世間知らずとはいえ、十六にもなる娘の行動ではないので、まあ当然だろう。しかも、しっかり見ていないと何かやらかしそうで、危なっかしいらしい。
 そんなリヒトの心配(?)をよそに、イグネアはもう少し深いところまで進んでみた。水位はふくらはぎ程度である。
 魚でもいないかな……と腰を屈め、畑に苗を植える老婆さながらの微妙な体勢を取りつつ、目を凝らして水中を眺めていると、ふと水面に映った月に気が付いた。姿勢を正して顔を上げ、夜に浮かぶ丸い月を仰ぎ見る。
 真紅の瞳に、柔らかで優しい光が映る。心なしか懐かしい光景に、思わず眼鏡を外していた。

 そういえば――大罪者として【聖なる監獄(ユスティシー)】に投獄されていた九百年、太陽と月の光だけがいつも自分を照らしていた。太陽はおぼろげにしか見えなかったけれど、月だけはしっかりとこの目に映っていた。
 夜が訪れるたびに白く輝き、日々姿を変える月の姿を美しいと感じられるようになったのは、いつ頃からだっただろうか。そういう感情が宿った頃から、自分の犯した過ちの愚かさを自覚できるようになったはずだ。
 服役を終え、変わり果てた世界に投げ出されても、月だけは変わらなかった。それが少し嬉しくもあり、また“不変”という言葉の虚しさも改めて知った。
 世界や人がどんなに変わって行っても、自分だけは変化しないのだと……それがどれだけ寂しく、悲しく、虚しいことなのか。未来ある者たちを殺した自分への罰が、なぜ“不変”であったのか十分に理解できた。
 失うものなど何一つなく、死すらも恐れなかった自分に対し、周囲に置き去りにされてから初めて実感する“孤独”は最大で最悪の罰だったのだろう。

「イグネア?」
 名を呼ばれ、イグネアは我に返った。気付けば背後にはリヒトがおり、両肩に手を添えて支えてくれていた。
「お、おや……どうされました?」
 そういや裸眼をさらしたままだ! 慌てて眼鏡を装着し、今一度視線を上げてみると、リヒトはとても真剣な顔をしていた。
「顔色が悪いよ」
「え、そうですか? ではそろそろ……って、ひえええ!」
 帰りましょうか、と言いかけた所で身体が浮き上がり、イグネアは頓狂な声を上げた。いわゆる“お姫さま抱っこ”で抱えられていたのだ。
「ひいい、じ、自分で歩けますから!」
 何でこんな状況になったのだろうか。とてつもなく恥ずかしいのだが。
 しかし必死の訴えにもリヒトは耳を貸さず、そのままさっさと浜に上がり、適当な高さの石段にイグネアを座らせた。かと思ったらすぐさま上着を脱ぎ、素足を覆うように膝にかけてくれたのだ。
「あああっ! ふ、服が濡れてしまいますよっ」
「濡れたら乾かせばいいよ。それより、君が風邪を引いたら大変だ」
 思いきり勘違いされた挙句に盛大に気を使われているらしい。全然寒くもないし、風邪など引きそうにない。顔色が悪いのは、きっと夜だからだと思うが……とイグネアはおろおろしていた。というか、リヒトこそ足が濡れたままで寒くないのだろうか。
「あの、その、本当に大丈夫ですから。こう見えて私、結構丈夫なんですよ。風邪を引いたことありませんし」
「王宮に居たとき、寝込んでたじゃない」
「はうっ」
 そういえばそうだった。しかも今は【万能薬(エリキシル)】がないのだから、風邪だってなんだって引いてしまうではないか。痛いところを突かれて罰が悪くなり、イグネアは居心地悪そうに視線を逸らした。
 返す言葉が見つからずにおろおろしていると、微かな溜め息が聞こえた。
「世話を焼くのも、心配をするのも、俺がそうしたいと思っているだけ。だから、君が気にする必要はないよ」
 基本的に女性に対しては“親切”なリヒトだが、これまで女性が欲しがるものを与えてはきたものの、自ら与えようと思ったことはなかった。
 それが、イグネアに対しては違う。はっきり言って見た目は全然好みではないし、初めは全く何とも思っていなかった。けれど、不意に彼女の前では本心を出している自分に気付いた。そうしたら妙に気になり出して、気付けば誰よりもそばにいたいと思うようになって、ついには独占したくなった。いつでも見守っていたいと思うし、困っている時は力になりたい。一番に頼られたいと思うし……自分で言うのも何だが、結構重症な気がして来た。
「それでも申し訳ないと思うなら……少しだけ、俺のこと気にしてくれると嬉しい」
 イグネアはゆっくりと顔を上げた。
 同じ視線の高さに、じっと見つめる黄金の瞳があった。
「気にする?」
「うん。君は今、俺もヒュドールもリーフも(ついでにオンブルさんもモルくんも)同じ“人間”として見ているでしょう」
 もしかしたら“ちょっと親しい人”くらいには昇格しているかも知れないが。
「俺はそこから抜け出して、君の“特別”になりたいんだ」
 誰にでも与える優しさや笑顔はいらない。その燃えるように紅い瞳が、自分だけを見つめてくれたら。その心が自分の全てを欲しいと願ってくれたら。
「特別……?」
「そう。でも今ここで説明しても、君にはきっと伝わらない。教え込んで無理強いして知らしめても意味がない。だから、毎日数分でも数秒でもいい。俺のこと、気にしてくれると嬉しい。ちょっと見つめて“リヒトって足が長いのね”とか“素敵ね”と思うだけでいい」
「い、いや……それはもう言われ慣れているのではありませんか?」
 さすがは自他共に認めるナルシスト。この台詞はなかなか自分では言えないが、いかんせん事実であるため突っ込めない。
 イグネアが若干顔を引きつらせていると、リヒトは気にせずににっこりと笑んだ。
「君に言われるのとは訳が違うんだよ」
「?」
 案の定、イグネアは言葉の意味を理解していなかったが。
 心がなくても“手に入れる”ことは簡単だ。今ここでだって出来る。けれど、それでは全く意味がない。
 彼女が少しずつ好意を寄せてくれるようになればいい。それが“恋”に発展するとは限らないが、それでも、ほんの少しの可能性があるのであれば。自分がそうであったように……いつかその瞳に自分という存在が、誰より何より輝かしく映ってくれたらと、そう願う。

 イグネアはしばし無言で考えていた。リヒトの言葉の意味は八割がた理解を超えているものの、“気にする”ことは出来そうな気がする。散々迷惑をかけていることだし、(毎日数秒でいいなら)気にするくらいしなければ、むしろ罰が当たりそうだ。
「わかりました。やってみます」
「良かった」
 イグネアが頷くと、リヒトはほんのり安堵したような表情を見せた。
 かと思ったら、次にはいつものあの、ちょっと意味ありげな笑みに変わっていた。
「その代わり俺は君のためなら、それこそ何でもするよ?」
「な、何でもって何ですかっ。というか、ちょっと近いですよ!」
 いつの間にか手を握られ、息が吹きかかりそうなほど顔を近づけられ、イグネアは反射的に身を引いた。
「本当に何とも思っていなかったのに……というか、半年経って劇的に見た目が変わったわけでもなく相変わらず地味なんだけど」
 若干というか、かなり失礼な発言に、イグネアは思わずムッとしたが。
「でも今は、誰より可愛く見えるんだよ」
 間近で麗しい顔が艶やかに笑んだ。
 イグネアは口を開けたまま固まっていた。この私が可愛く見えるなんて瞳が腐っているのではなかろうか――そう考えてはっとする。
 何とも思っていなかったハンスが、ある日突然誰より輝かしく見えるようになったのだと、さっきミリアムが話していたではないか。
 これはまさに。いや疑う余地もなく。
「こ、ここ、こここ、恋ですか?」
「そう、俺は君に恋してるんだよ。だから、君の全てが欲しい」
「ひええええ!」
 イグネアは頓狂な悲鳴を上げた。
 どこからそんな言葉が生まれて来るんだと思うほどにこっ恥ずかしい台詞を吐きつつ、握った手を持ち上げ、リヒトはその指で輝く“呪われた石”に軽く唇を触れたのだ。
「呪いが解けたら、今度は“本物”を贈らせてね」
「ほ、ほほ、本物っ?!」
「そう。“本物の婚約指輪”」
「こ、こんやく?! 誰がっ?!」
「俺が」
「誰とっ!」
「君と」
「なぜっ?!」
 青ざめて問いかけた途端、リヒトは堪らずに噴出した。さっき言ったばかりなのに、もう一度最初から説明しなきゃならないのだろうか。全く、いつになったらわかってくれるのだろうか。もうこうなったら理解するまで徹底的に、付きっ切りで教授してやるのも楽しいかもしれない。
「前に言ったでしょう? “嫉妬と独占は恋の魔術の成せる業”って。俺は君を独占したいんだ。ずっとそばに置いて、思う存分気が済むまで甘やかしたい」
「あ、あま、あまやかす?!」
「何なら、少しだけ試してみる?」
 黄金の瞳が悪戯っぽく、けれどもものすごく甘ったるい眼差しを向けてきて、イグネアは一瞬にして青ざめた。ああ、何だか倒れそうだ。というか、少しだけってどんなだ。
「ごめんごめん。何もしないからさ、そんなに壮絶に青ざめないでよ」
 おろおろと視線を上げると、リヒトは苦笑していた。
「でも、さっきの話は覚えておいてね」
「さっき……ど、どの辺りですか?」
「だから、毎日ちょっとだけ俺のこと気にしてっていうやつ。それ以外は望まないからさ」
 というか、“望めない”というのが適当な表現なのだが。
「は、はい……」
「わかればよし。じゃあ足も乾いたことだし、そろそろ帰ろう。あ、屋敷まで抱えていってあげようか?」
「ひいい、結構です!」
 「はい」などと言おうものならば、本気でやりそうで恐ろしい。全くどこまで本気なのか……! などと考えつつ、イグネアは大焦りで靴を履き、逃げるようにして先走って行った。





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