× 第4章 【炎と烙印】 18 ×





 鳥のさえずりが聞こえたような気がして薄っすらと瞳を開けてみると、辺りは眩しい光に満ちていた。ごろりと寝がえりをうちながらも何か違和感を覚え、イグネアは瞼を擦った。今は早朝のはずだから、こんなに日差しが眩しいはずがない。そんな感じで、のんびりと時計に視線を向け――
「ぬあっ!」
 頓狂な声を上げて飛び起きた。いつものように早起きをしたはずが、時計の針が軽く四時間程度も進んでいるではないか!
 なんでこんなに寝過したのだろう。慌てつつ自身の恰好を見てみれば、昨日来ていた服そのままだと気付く。そこでようやく、そういえば昨日は魔術を使って、その後ヒュドールに背負われて帰って来て……記憶がないから、間違いなく深い眠りに就いたのだろう。
 しかし、こんなに寝過したなんて色々とまずいではないか。イグネアは大慌てで部屋を出た。まず始めにリーフに文句を言われるだろう。続いて時間にうるさいオンブルから小言を頂戴するに違いない……などと考えて若干青ざめつつ、居間に飛び込んでみたのだが。
「やあ、おはよう」
 予想に反して居間にはリヒトだけがおり、ソファに座ってのんびりしていた。他の住人の姿はなく、至って平穏だ。
 一番にリーフの毒舌と闘う気構えでいたのだが……イグネアは呆気に取られて立ち尽くしていた。
「そんな所でどうしたの? 具合は良くなった?」
 はて、何の話だろうかと考えること数秒。そういえば、昨夜は“気分が悪い”と言っていたのだったと思い出し、イグネアは慌てて答えた。
「は、はい、もう大丈夫です。ところで、あの、皆さんは?」
「ヒュドールは二度寝中、オンブルさんは地下室かな? リーフは、モルくんを連れて早いうちに出かけて行ったよ」
「そ、そうですか。それで、あの……」
「ああ、朝食なら、ヒュドールが起きて来て用意したよ」
「ええっ?」
「かなり機嫌は悪かったけどね。リーフと何か言い合ってたよ」
 あの機嫌の悪さにもすでに慣れているのか、リヒトは余興でも見たかのような口振りであった。一方イグネアは、そんな奇跡が……! と本気で驚いていたが。
 それはさて置き。
「あ、あの……お仕事に行かないんですか?」
「うん。誰もいないと、君が外出する時に困るでしょう? だから今日は午後からにしてもらった」
 昨日の今日だしね、と付け加えつつ穏やかに笑まれ、イグネアは瞬いた。どうやら盛大に気を遣われているようだ。
 というか、誰もいないって……二度寝中のヒュドールはともかく、屋敷の主は端から数に入っていないところがアレなのだが。
 しかし、特に外出する予定はないはず……と考えたところで、そういやおやつを買いに行かなければならないではないかと思い出した。慌てて時計を再確認してみれば、十時までは少し時間があるものの、刻一刻と容赦なく時は過ぎてゆく。
 まずい、この上オンブルの小言まで聞きたくない……再び慌て出したイグネアにリヒトは首を傾げていたが、とりあえず身支度を整えるべく大急ぎで風呂に向かった。


 入浴を済ませて身支度を整え、おやつを買うべくイグネアはミリアムの店に向かった。当然ひとりでは外出できないので、もちろんリヒトに同行を願った。まあ願わなくても着いて来ただろうが、いちいち小言や嫌味や文句等を言われないあたりが幾分気楽だ。
「お世話をかけてすみませんです」
「そんな事言わないでよ。俺は君のためなら、それこそ何でもしてあげるって(つい昨晩)言ったじゃない。それに、愛しの姫の護衛は騎士の務めだよ」
 などと若干恥ずかしい台詞を吐きつつ、リヒトが笑顔を向けてくる。というか、誰が姫なんだろうかと突っ込んでみたい。
 まあ理由はさておき、リヒトは完全なる好意で同行してくれているようなので、迷惑だとか面倒だとか、そういう単語はむしろ失礼なのかも知れない。ここはその好意に甘んじる事にしよう、とイグネアは納得した。
 暖かな日差しが照らす街道を、ゆったりとした歩調で進む。リヒトの方が断然足が長いため歩幅は明らかに違うのだが、これも彼なりの気遣いなのだろう、イグネアの歩調に合わせて隣に並んでいる。手こそ繋いでいないが、傍目に見れば“ちょっといい雰囲気”に違いない。そのせいか、そこかしこから視線を向けられているものの、イグネアはちっとも気付いちゃいない。
「ところで、何を買いに行くの?」
「ええと、オンブルさんのおやつです」
「おやつ?」
 リヒトは不思議そうに首を傾げていた。
 そういえば、彼は知らないのだったかと思い出す。
「オンブルさんは、十時と三時に必ずおやつを食べるんですよ。しかも、近所のミリアムさんが作ったケーキでないと食べないんです」
「それはまた随分なこだわりぶりだね」
 あの人ならわかるな……と、さすがのリヒトも苦笑していた。
 まあ個人の嗜好であるから仕方ないが、確かに大の大人が毎日おやつを(しかもきっちり二回)摂取しているというは、一般的にどうなのか。そもそも男とは甘い物が好きなのだろうか。リーフは割と喜んで食べるし、モルは恐らく何でも食べると思われる。ヒュドールは、見た目からしてあまり好きそうじゃないな……と考えて、そういえばリヒトはどうなのかと気になり、イグネアは聞いてみる事にした。
「リヒトは、甘い物は好きですか?」
 聞いて数秒後、驚いたような表情を向けられ、イグネアは若干怯んだ。
 何かおかしなことを聞いただろうか……首を傾げていると、リヒトはすぐに笑顔に戻っていた。それがほんのり嬉しそうな感じだったのだが、イグネアはその意味を理解していない。
「特に好んで食べるほどではないけど、苦手じゃないよ。料理でも酒でも、美味しいものなら何でも好きだな」
 そもそもリヒトは王宮の騎士様で、普段貴族の姫君やその他偉い人と接する機会が多いため、かなりの食通である。そういった環境のせいか基本的には高級志向だが、割と庶民的な食生活にも馴染みがあるのは、複数“いた”恋人達の中に一般の女性も多数含まれていたからか、それとも自身が元庶民だからなのか、そこはイグネアの知るところではない。
「そうなんですか。ではミリアムさんのケーキもぜひ食べてみてください。とても美味しいんですよ」
「へえ、それは楽しみだな。イグネアは甘い物、好き?」
「はい。オンブルさんのついででほぼ毎日食べるようになったんですけど、ミリアムさんのケーキがあまりにも美味しいので、今ではとても好きです」
 最初は食べ慣れないせいか、ケーキというか甘い物全般が苦手だったのだが、ミリアムのケーキは本当に美味しくて、しかも見た目も可愛らしくて、毎日が楽しみになったほどだ。こういう時に、普段は“やや”変人でもオンブルに感謝しなければと思う。
 若干瞳を輝かせつつイグネアは力説していたが、なぜかリヒトが楽しげに笑っていると気付き、首を傾げた。
「な、何かおかしなことを言いましたでしょうか?」
「いやいや、違うよ。半年の間に、ずいぶん女の子らしさが出て来たなあと思ってね」
「そ、そうですか?」
 そのような自覚は全くこれっぽっちも微塵もないのだが。しかも女の子とかいう単語が妙に気恥ずかしい。若干自信なさげに見上げると、リヒトはさらに笑みを深めた。
「炊事に洗濯に掃除、そのうえ甘い物が好きだなんて、まさに女の子って感じだよ」
 田舎町での穏やかな生活がそうさせているのか、以前よりは年頃の娘らしくなったようだ。
 とはいえ、それでもまだ“らしさ”が足りない事実は否めない。これでもう少し、恋愛面に関して年相応になってくれれば……と心の片隅で考えたものの、年相応に“普通の娘”になってしまったら、きっとつまらないだろうと思い直した。
 そんな感じで何やら考え込んでいるリヒトの横顔を、イグネアは若干渋い表情で見上げていた。やはり、何かおかしな事を言っただろうか……とおろおろしていると。
「あ、今“素敵だな”って見惚れちゃった?」
 違うという否定の言葉ももはや届かず、結局勘違いされるのであった。

 そんなこんなで。
 二人はミリアムの店までやって来た。
 今日は客が多いようで、扉を開けるとすぐに奥様方の雑談が聞こえて来た。賑やかだなあと思いつつ一歩踏み入ると、店を出ようとする老婦人とすれ違いになった。両手にそれぞれ大きな包みを一つずつ持っており、運ぶのもやっとという風に見えたので、手伝おうとしてイグネアは口を開いたが。
「大丈夫ですか?」
 リヒトが先に声をかけていた。
 さすがは王宮の騎士様、老若問わず女性には親切だな……と感心しているイグネアの前で、リヒトは婦人にどこまで帰るのかと聞いていた。婦人の手から荷物を預かり、どうやら家まで送っていくことにしたらしい。
「すぐそこが自宅だっていうから、ちょっと行ってくるね。俺が戻って来るまで待っててね」
 爽やかにウィンクを飛ばしつつ、リヒトは老婦人と連れ立って一旦店を出て行った。
 それはいらないと思う……などと心で突っ込みながら、イグネアは二人を見送っていたが。
 不意に腕を引かれ、何事かと振り返る。先ほどまで買い物に勤しんでいた複数の奥様方がわらわらと集っていた。
「ちょっとちょっとちょっと、イグネアちゃん!」
「あの、とんでもなく綺麗な上に親切なお兄ちゃんは誰なのっ?」
 瞳をキラキラと輝かせて押し寄せて来た奥様方に、あっという間に取り囲まれてしまっていた。ちなみに面子は、ヒュドールの時と全く同じである。
「え、ええと、彼はやはりオンブルさんの所の居候でして……」
 勢いに圧倒されつつ、なんだか前にも似たような展開があったな……とイグネアは考えていたが、案の定、奥様方はイグネアを放置して勝手に話を盛り上げていた。
「ちょっと奥さん、見た?! 背は高いし足は長いし! まさに王子様よ!」
「イグネアちゃんたら、本当に綺麗な子ばかり愛人にして侍らせて!」
「町長さんも気の毒ね。あんなに若くて素敵な子には敵わないでしょうし……取られちゃうのも時間の問題よ」
「それにしても、一人の女をめぐってお屋敷ではどんな闘いが繰り広げられているのかしら? 実に、実に興味深い!」
「とにかく、本気でうらやましいわ!」
 小娘もびっくりなほど、奥様方はきゃあきゃあとわめいていた。ヒュドールの時よりも若干興奮しているのは気のせいだろうか。
 かける言葉が見つからず、イグネアは唖然としていた。なんだか以前よりも確実に話が泥沼化している。もうどんな説明をしても聞いてもらえそうにない雰囲気だ。
 と、そこへ。
 老婦人を無事送り届けて来たらしいリヒトが戻って来た。
「意外と近くで助かったよ。何だかさ、孫の婿になってくれなんて言われちゃったけど、丁寧にお断りして来たよ。だってお孫さんまだ五歳だっていうし、さすがにそれは犯罪だよねえ」
 などと聞いてもいないのに詳細を説明しつつ、にこやかに近付いて来た。そうして、イグネアを取り巻く奥様方に気付くと。
「こんにちは、美しいマダムの皆さん」
 ここぞとばかりに女泣かせの(営業用)スマイルを振りまきやがった。
 “美しい”などと旦那にも言われたこともなく、また“マダム”などとオシャレに呼ばれた試しもない奥様方は、さきほど買って来たばかりの野菜やらが詰まった買い物かごを握りしめつつ、もう本気で止めようもなく盛り上がっていた。それこそ本当に鼻血でも噴きそうなほどに。
「まあ、まあ! お兄さん、お名前は? おいくつなの?」
「どちらからいらしたの?」
「お仕事は?」
 まるで恋する乙女のごとく瞳を輝かせ、あっという間にリヒトを取り巻いて質問攻めにしていた。一方リヒトは、嫌がる様子もなくやんわりとした雰囲気で丁寧に受け答えをしている。
「リヒト=アルマースと申します。歳は二十、現在はイグネアと共にオンブルさんの屋敷に居候させてもらっていますが、本職はスペリオル王国に仕える騎士ですよ、マダム」
 終始笑顔を絶やさずに語る様は、さすが一国の騎士様とでもいうべきか。ヒュドールと違って基本的に老若問わず、女性には非常に紳士的らしい。というか、リヒトにしてみれば、この奥様方はイグネアが普段世話になっている相手だからこそ、なのだろうが。
 そして奥様方は、本物の騎士の優雅で柔和な雰囲気に、完全にメロメロになっていた。自身が姫にでもなったような気分に陥っているに違いない。
「リトスへは、どんなご用でいらしたの?」
「彼女を追いかけて来たんですよ」
 などとふざけたことを抜かしつつ、リヒトはイグネアの肩を抱き寄せた。
 奥様方が黄色い声(または奇声ともいう)を上げたのは言うまでもない。
「ちょ、ちょっと何を言っているんですか!」
「え、別に間違ってないよね? だって俺達、陛下の命令で君達を追って来たんだから」
 言われてみればたしかにその通りだが、明らかに要らぬ誤解を招いたではないか。しかも、肩に手を置く必要が全くない。
 しかしリヒトは微塵も気にしていないばかりか、さらなる奥様方の追撃さえも軽やかに受け止めていた。
「イグネアちゃんとは、もう長いの?」
 完全に二人の関係を誤解している奥様が問いかければ。
「そうですね、もう半年以上でしょうか」
 にっこりと答える。
「あらっ! そうすると、町長さんよりも先に出会っていたわけね!」
「もう、町長さんてば、恋人がいたのに無理にお嫁さんにしちゃったのかしら?」
「まあ町長さんもイイ歳だし……そこは仕方がないわよね」
「だからこそ、愛人を住まわせることに同意しているのかも知れないわよ」
 などと激しくずれまくった話を展開させている奥様方の傍らで、リヒトは噴き出しそうになるのを必死で堪えていた。若干涙目になっているのは見間違いではない。
「……なんか、すごい話になってるね」
 泥沼化した展開と奥様方の勘違いを、リヒトは完全に楽しんでいた。それもそうだろう。恋愛事から最も遠い娘が、普通をさらに超えた渦中にいると勘違いされているのだから。
「本当のこと、説明した方がいいのかな?」
「……いえ、たぶん聞いてもらえませんよ」
 ものすごく疲れた表情で俯き、イグネアは溜め息を吐いた。あの盛り上がりっぷりはもう止められないだろう。
 とりあえず、今は奥様方の誤解を解くよりも、おやつを買って帰るのが先決だ。悪意のない噂よりも、オンブルの小言の方を出来れば避けたい。
 ということで、興奮冷めやらぬ奥様方はリヒトに任せ、イグネアはカウンターに向かった。ちょうど、店の奥にいたミリアムが、騒ぎを聞いて顔をのぞかせたところだった。
「なにごとかしら? まあっ」
 不思議そうに背後に視線を向けたミリアムは、奥様方に囲まれて話をしているリヒトを見てほんのり驚いていた。
「ずいぶん綺麗な人ね。イグネアの知り合い?」
「え、ええ……どうもお騒がせしてすみません。あの、オンブルさんのおやつを買いに来ました」
「あ、もうそんな時間だったのね。ちょっと待ってて」
 いつものにこやかな笑顔に戻り、ミリアムはケーキの箱詰めを開始した。そうして手を動かしながら、ふと思い出したようで。
「もしかして、あの人がこの前噂になっていた人?」
「い、いえ……彼は違います。それはもう一人の方です」
 もう一人、という言葉に、ミリアムはしばし考えをめぐらせた。
「あんなに綺麗な人が、もう一人いるの? それはすごいわね」
 さすがのミリアムもちょっと驚いていた。普段はあまり噂に惑わされない感じだが、そこはやはり女性であるからか、麗しい異性には気持ち程度興味を引かれるらしい。
「もう。イグネアったら、たくさん“愛人”がいて大変ね」
「はっ……?! そ、それは盛大なる誤解で……!」
 ミリアムの揶揄するような発言に、イグネアはほんのり焦った。他の奥様方はともかく、彼女にだけは誤解されるのが困る気がして、慌てて否定しようとしたのだが。
「“愛人”じゃなくて、“恋人”もしくは“旦那様”の方が嬉しいけどなあ」
 背後に現れた麗しの騎士様が、またしても余計な事を言いやがった。
 何故そういう余計な事を言うんだ! と内心で憤っていたが、ひとり焦るイグネアを余所に、リヒトはミリアムに対してにっこりと微笑みかけているではないか。
「初めまして。いつもイグネアがお世話になっています。あなたの事は、料理上手で気が利く素敵で美しい奥様だと、良く聞いていますよ」
 いや確かにそんな話をしたが、“美しい”という単語を使った覚えがない。そのうえ確かに世話になりっぱなしだが、それ以上に世話になっているのはイグネアではなく、先ほどからリヒトの中でオンブルが対象外になりっぱなしなのは気のせいだろうか。
「あら、お上手ね」
 ほんのり恥じらいつつ、ミリアムが言えば。
「本当の事を言っただけですよ」
 人妻でなかったらイチコロであろう、女泣かせの美麗な笑みをリヒトが返す。
 そんな中、じっとこちらを見つめる(というかむしろ凝視)する視線に気付き、イグネアはぎくりとした。店の奥の厨房から、作業をしつつハンスが見ているではないか。
 これは何となくまずい……そんな気がして、イグネアはさっさとこの勘違い騎士を連れ帰ることにした。その考えを後押しするように、丁度よくおやつの用意も出来たようだ。
「ありがとうございます。お忙しいようなので、さっさと帰りますね!」
「あら、ごめんなさい、慌てさせちゃって」
「いえいえいえ、とんでもない。こちらこそ、その、色々な意味ですみません」
 隣で突っ立っているリヒトの腕をがしっと掴み、では! と引き上げようとしたが。
「あ、そうだ」
 思い出したようにミリアムが声を上げ、イグネアは振り返った。
「悪いんだけど、今日はお昼すぎにマイルを預かってもらえるかな?」
「かまいませんよ」
「午後になったらお屋敷まで連れて行くね。おやつも一緒に届けるから、よろしくね」
 申し訳なさそうなミリアムに笑顔を返し、イグネアは今度こそ店を出ようとしたが。
「イグネアちゃん、頑張ってね!」
「応援してるからね!」
 一体何を応援されているのかイマイチよくわからないが。
 奥様方の熱烈な声援に、イグネアは引きつった笑顔を返したのだった。





←BACK / ↑TOP / NEXT→


Copyright(C)2007− Coo Minaduki All Rights Reserved.