× 第4章 【炎と烙印】 19 ×





 奥様方の猛攻(?)を受けていたせいか、屋敷に帰った頃にはうっかりおやつの時間を過ぎてしまっていた。若干急ぎ足で玄関に踏み入った途端、どこからか視線を感じて辺りを見回すと、案の定というか当然というか、柱の陰からオンブルがじっとりと恨めしげに睨んでおり、イグネアは思わずうめいた。
「……すでに二分十三秒の遅れだ」
「はいはい、今すぐ用意しますから!」
 隣にいたリヒトを放置して素早く厨房まで走り、手早くお茶の準備にとりかかる。なんだか手慣れてしまったなあ、などと考えつつさっさとおやつを用意し、未だに柱の陰からのぞき見ているオンブルに手渡すと、琥珀の瞳ががっかりしたように見下ろしてた。
「もう元気になってしまったのか……」
 溜め息混じりにおかしな事を言われ、何のことやらとイグネアは首をかしげた。見上げてみれば、オンブルはひどく落胆した表情をしているではないか。
「これからは、朝から豪華な食事にありつけると思ったのに……」
 などと、ブツブツ文句を言っている。要するに、イグネアの回復が残念でならないらしい。今朝はヒュドールが食事の用意をしたため、満足だったのだろう。
 そんなことを言われても……と顔を引きつらせていると、そういえばと思い出したようにオンブルが呟いた。
「実験の助手が必要なのだが……ヒュドール君を連れて来てくれないか」
「ええっ?!」
 すぐさま声を上げると、オンブルが神経質そうに眼鏡を押し上げつつ、至極不愉快げな顔をした。
「何だね、その嫌そうな反応は」
「い、いえ……」
 嫌そうではなくて、嫌なのだ。
 というのも、恐らくヒュドールはまだ寝ているのだろう。連れてくるにはつまり、静かに眠っている鬼神をわざわざ起こさなければならないわけで。以前リヒトも言っていたが、余計な事をすれば殺されるかも知れないではないか。
「あ、あの、私ではだめですか?」
 殺されるよりはマシだと思い、一応提案してみたのだが。
「君では邪魔になるだけだ」
 冷ややかに一瞥され、あっさりばっさり切り捨てられた。何でも新しい魔術の実験らしく、魔力の高い者でなければ意味がないらしい。普段ならばリーフに協力を願う所だがいかんせん朝から不在なので、代わりにヒュドールをと考えたようだ。
 ちなみに、イグネアは眼鏡で魔力を抑えているため、オンブルには“小物”と思われているようである。
「早く連れて来てくれ」
 とだけ言い残し、オンブルはさっさと地下へ帰って行った。
 ものすごく嫌だ……と思いつつも、屋敷の主であるオンブルの言葉は、イグネアにとっては第一となるため、仕方なく渋々ヒュドールの部屋へと向かった。

 扉の前に立ち、イグネアはこれから一戦交えるような面持ちで息を呑んだ。一応挨拶程度のノックをしてみるが、当然というか無反応だ。
 ゆっくり音を立てぬように注意しながら扉を開け、こっそり中をのぞいてみると、室内は嘘かというほどに静まり返っていた。そっと足を踏み入れてベッドに近づき、気付かれぬよう慎重に、呼吸を止めつつ確かめてみれば、やっぱりヒュドールは爆睡していた。うつ伏せの状態でぐっすり眠っており、全く起きる気配がない。それどころか呼吸しているのかと疑いたくなるほどのぐったり感で、死んでいないか思わず確認してしまった。
 それにしても、さすがは(リヒトいわく)ビジュ一を誇る美形コンビの片割れ。眠っている顔も隙がないほど麗しく、一般的乙女心を持つ娘ならば心臓を破裂させそうなほど心躍る状況ではないだろうか。
 しかしイグネアにとってはそんな事はどうでもよく、いかにして危険を回避するかが問題だったりする。
 ものすごく嫌だが仕方ない。とりあえず声をかけてみることにした。
「あ、あの……朝ですよー」
 蚊の鳴くような小声で言ってみたが、当然ながら聞こえるはずない。
「あ、あの、起きてくださいませんか」
 今度は思い切って身体を揺さぶり、しばらく待った。
 しかしそれでも無反応なので、こうなったらオンブルの方に諦めてもらうしかないと、イグネアは引き返そうとしたが。
「ひいっ」
 予期せず手首を掴まれて頓狂な声を上げた。振り返ってみれば、毛布の間から伸びている手にしっかり掴まれているではないか。
「……………………何の用だ」
 氷点下の声色と共に青碧の瞳にぎろりと睨んできて、イグネアはさっと青ざめた。不機嫌なのは一目瞭然である。
「あ、あのその、オンブルさんが、実験の助手をして欲しいと言っていまして……」
 あたふたしながら説明するも、さらに睨まれてイグネアはうっと怯んだ。恐らく“そんな下らない用件でよくも起こしやがったな”とでも言いたいのだろう。しかしせっかく起こしたのだから、ここで引くなんて魔術師が廃る。何とかして引きずり出さねば。
「わ、私では役に立てないようで、あのその、“魔力の高い魔術師”でなければ駄目なんだそうです」
 すると、今度はヒュドールの耳がぴくりと動いた(気がした)。そうして、イグネアの腕を掴んだまま固まること数秒。ぐったりとしつつも何やら考え込んでいたヒュドールは、盛大な溜め息を吐いてからのっそりと身を起こした。
「………………そこまで言うなら…………行ってやる」
 どうやら“魔力の高い魔術師”という褒め言葉に、自尊心がくすぐられたらしい。それでもかなり態度は傲慢だが、まあ行ってくれるというなら一安心だ。
 とはいえ、いつ機嫌が悪くなるかもわからないので長居は無用である。
「で、ではお願いしますねっ」
 イグネアは小動物さながらの素早さで、ヒュドールの部屋を後にした。

 一仕事終えてぐったりしつつ、イグネアは廊下を歩いていた。何だか疲れたし、茶でも飲んで一休みするかーなどと考えつつ厨房に向かっていると、ふいに甘い香が漂ってきた。おや? と思っていると、ちょうど厨房からリヒトが出てくるところだった。
「あ、いたいた。お茶淹れたから居間で一休みしようよ」
 と言いながら、麗しの騎士様が爽やかな笑顔を向けてくる。その手には、お茶入りカップとケーキの乗ったトレーが。
「もしかして、淹れてくれたんですか?」
「そうだよ」
 にっこりと笑まれ、イグネアは瞬いた。
 なんてナイスなタイミングだろうか。というか何て気が利くのだろうか。とりあえず非常にありがたい、などと考えつつ居間へ踏み入り、早速床に座った。
「はいどうぞ、お嬢様」
 などと若干恥ずかしい台詞はこの際無視し、イグネアは差し出されたカップを受け取って立ち昇る香を堪能していた。
「このお茶、こんなにいい香がするものだったんですね」
「“ティエン”っていう茶葉でね、蒸らすほど香が強く出る種類なんだよ。時間を置いても渋みはほとんどないし、いい香だから特に若い女の子に好まれるみたいだね」
「へえ、それは知りませんでした」
 イグネアは心底感心したように頷いていた。これはオンブルが好んで買っている茶葉なのだが、いつもおやつの時間に遅れて急いでいるため、ちょっと蒸らして出してしまっていたのだ。
 ちなみに。オンブルはおやつだけでなく、茶葉や酒にもこだわりがあり、かなりイイ物を仕入れている。常備されているワイン“ドラウヴン”が他国で高級品扱いされている、というのはリヒトが言っていた通りだが、毎日飲んでいるこの茶葉――ティエンというらしい――も、週に一度ニアからやって来る行商人から仕入れているもので、結構な値だったりする。当人は“やや変人”だが、こういう茶や家財道具の趣味などは意外に好ましいので、そのおかげか屋敷での生活に、まあ苦はないのが有難い。
「それにしても詳しいんですねえ」
 さすが王宮の騎士様は高級品に詳しいのだな、とイグネアがほんのり尊敬の眼差しを向けると。
「まあ、ね」
 リヒトは曖昧な笑みを返した。まさか過去に付き合いがあった女性の好物だったから、などとは言えるわけがない。
 そんなリヒトの心情には当然気付くはずもなく、イグネアはミリアム特製のケーキを黙々と食べていた。
「それより、さっきはどこに行ってたの?」
「へ? ああ、オンブルさんが用があるというので、ヒュドールを起こしに行って来ました」
「えっ、大丈夫だった? 殺されなかった?」
 真顔で聞いてくるリヒトに、ここにいる時点で無事だったとわかるだろうが……と心の中で突っ込んだ。
「まあ、かなり機嫌は悪かったですけど、特に何もありませんでしたよ」
「ふーん、珍しいこともあるんだね」
 などとリヒトは茶をすすりながら何やら考えに耽り始めた。
 過去に二三度、寝ているヒュドールを起こしたことがあるが、その都度散々な毒舌攻撃を受けたのを覚えている。そのヒュドールが何の問題もなく起きたというのは、やはり彼女が特別だからだろうか。
 そして町民達の“噂”も、リヒトにとっては気になる要素であった。あんな噂がされるのは、やはり候補が複数いるからであって、相手をはっきりさせてしまえば全て丸く収まるはずだが、いかんせんイグネア自身にその判断力がないため難しい。
 所詮は噂だからいずれは収まるだろうし、“愛人”という響きは個人的には嫌いじゃないものの、やはり旦那様とか恋人と言われた方が気分がいい。それより何より、自分以外の男がそう思われているのは、ちょっと……いやかなり面白くない。
「ねえ、イグネア」
「うぐっ……は、はいっ?」
 勝手に考えに耽り出したリヒトは放置してケーキと格闘していたイグネアだが、いきなり話を振られて驚き、思わず喉を詰らせそうになった。軽く咳き込みつつ見上げてみれば、黄金の瞳がじっと見ているではないか。
「あ、あの……」
 あまりにもじっと見られて居心地が悪くなり、おろおろしていたが。
「ひえっ!」
 ぬっと手が伸びてきたかと思ったら、頬というか口の端あたりを指で拭われ、イグネアは頓狂な声を上げた。
「な、なな、なんですかっ?」
 何事かと青ざめつつ若干逃げ腰になっていると、リヒトがくすりと笑った。先程触れた指先を見てみれば、ケーキのクリームがちまっと付いていた。
「付いてたよ?」
「うっ……ど、どうも」
 どうやら、先程咳き込んだ際に付着したらしい。何だか子供扱いをされたようで若干気恥ずかしくなり、どうしようかとイグネアは俯いていた。というか、それならそうと一言断ってから行動すればいいものを。
 たとえば、ヒュドール相手だと怒られるような気がし、リーフ相手だと嫌味を言われるような気がし、リヒトだとやたら接近されるような気がしているのだが、まあ毎度そうとは限らない。無意味に警戒して損した、などと内心で考えていたが。
「……やっぱり甘やかしたいなあ」
 ぼそりと呟かれた言葉に顔を上げたと同時、がしっと腕を掴まれて引き上げられ、あれよという間にソファに座らされていた。そうして気付けば、麗しい顔が間近に迫っているではないか。
「な、なぜ近づくんですかっ!」
「いやあ、あんまり可愛いから、甘やかしたい衝動に駆られて」
「そ、そういうことは私相手にやっても、面白くないと思いますけどっ」
「十分楽しいけどなあ」
「うっ、ほ、ほら、あなたでしたら、町中の若い娘さんたちが放っておかないんじゃないですか?」
「今は君に夢中だから、興味ないな」
「む、むむ、むちゅう?!」
「うん」
 ちなみに余談だが、リヒトの本気は本物らしく、彼は半年前にスペリオルを発つ際、それまで付き合いのあった全ての女性とすっぱり手を切ってきたのだ。
「ねえ、キスしてもいい?」
「は、はあっ?!」
 リヒトは人の話もろくに聞いておらず、しかも問いかけておきながらしっかりと顎に手を添え、断りもなくしようとしているではないか。
「ひいっ! だ、だめに決まってるじゃないですか!」
「……どうして?」
 などと言いつつ、黄金の瞳が甘ったるい眼差しを向けて来る。一般的乙女心を持つ娘相手ならば一撃必殺だろうが、むしろイグネアは青ざめるばかりで、どうしてもこうしてもないだろうが! と内心で憤慨していた。
「ふ、夫婦でもないのに、な、なな、何を破廉恥なっ!」
 と、声高に言った途端。
 リヒトはぴたりと動きを止め、なおかつ驚いたように瞳を見開き、そして数秒後には口を押さえて顔を逸らし、遠慮もなく噴出していた。
 今どきそんな発言をする人間がいたなんて……これはもう珍しいを通り越して有り得ない。一体どれだけ箱入りなんだろうか。というか、彼女の頑なさの原因はここにあったのか。
「そっか、そうなんだ。いや、なるほどね」
 そこまで古風な恋愛観を持っていたら、どんなに迫っても落ちるわけがない。笑い混じりに呟きながら、リヒトは激しく肩を揺らしていた。
 そんなにおかしい事を言ったのだろうか……笑い転げそうになっているリヒトを横目で眺めつつ、イグネアは若干不愉快な気分に陥っていた。

 そんなこんなで数分後。
 ひとしきり笑って気が晴れたらしいリヒトはようやく落ち着きを取り戻し、涙目を拭いながら姿勢を正した。
「いやごめんね。君があんまり可愛い事を言うから、ちょっと……いやかなり衝撃を受けたというか。全く、本当に不思議な子で飽きないよ」
「はあ、そうですか……」
 というか、何がそんなにおかしかったのか、さっぱりわからない。もう何だっていいや、とイグネアは半ば投げやりに返事をした。
「うん。ますます欲しくなったかな」
 黄金の瞳が、とても興味深げにイグネアを見つめた。この鉄壁が崩れた時、この子は一体どんな反応をするのか……この目で見てみたい。というか、ぜひともこの手で落としてみたい。
 そんな事を考えながらもリヒトは油断しているイグネアの手を取り、なんと今度はミールスではなく、しっかり肌に口付けたのだ。
「ひいいっ! な、なな、何するんですかっ!」
「ちょっと物足りないけど、今はここで我慢しておくね」
 などと爽やかなウィンクを飛ばしてくるが、イグネアは大いに青ざめて必死に逃れようとしていた。こいつは先程の話を聞いていなかったのか!
「俺は一切手を抜く気はないから、そのつもりでね」
「は、は?」
 何のことやらとイグネアは困惑していたが。その言葉は、どうやら彼女に向けて言ったものではないらしく、その証拠にリヒトの視線はずっと背後に向けられていた。
 ゆっくりと首を捻ってみれば、そこにはヒュドールが立っていた。様々な出来事が原因で不機嫌最高潮と思わしき白銀の魔術師様は、堂々と宣戦布告を受けて不愉快気に睨みを飛ばしている。
「上等だ。だが、そう思い通りに行くと思うなよ」
「ふふ、そう来なくちゃ。どちらが“愛人”を脱却するか、楽しみだな」
 などと、もはやイグネアの存在はそっちのけで、美形共は異様な闘志を燃やし合っていた。





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