× 第4章 【炎と烙印】 20 ×





 何やら闘志を燃やし合った美形共の心中は、イグネアの理解を超えるところであり、むしろ何だか面倒なことになりそうな雰囲気だけをひしひしと感じていた。リヒトは事あるごとに近寄ってくるし、かと思えばヒュドールはそれを警戒しているようである。その証拠に、普段ならば邪魔だとか言うくせ、昼食の準備の際も(珍しく)文句一つ言わずに厨房入りを許可してくれた。まあ文句を言われないだけマシなのだが……結局不機嫌そうなので、どちらにしても疲れるのである。

 そんなこんなで昼を過ぎて午後となった時候、イグネアはせっせと屋敷内の掃除に励んでいた。最近は色々もやもや考える事が多かったが、こんな時こそ思い切り体を動かしたほうがいい。
 ということで、窓を拭き、床を掃き、そして競い合う相手もいないのにやたらムキになって廊下の雑巾がけをし、とりあえず一通り終わらせた。一日分の倍くらいの面積を掃除したのだから、我ながらよくやったと褒めてやりたい。
 掃除を終えた頃には全てが遠く彼方へ吹っ飛んでおり、イグネアは清々しい表情で一息ついた。そうして雑巾やら何やらを片づけていると。
「お掃除お疲れ様」
 背後から声をかけられ、イグネアは手を止めた。
 こういう労わりの台詞を躊躇なく、自然と口に出来るのはこの屋敷では一人しかいない。振り返ってみると、予想通り屋内でも眩しい笑顔がこちらを向いていた。
 単に仕事をこなしているだけだから感謝して欲しいと思ったことはないが、言われてみるとほんのり嬉しくなるものだと気付く。
「本当は一日中そばにいたいけど……そろそろ出かけるね。外に出る時は(仕方がないから)ヒュドールに言うんだよ。この前みたいに追いかけられたら危ないからね」
 と言いつつ、リヒトは上着を着込んでいる。
 そういえば今日は午後から自警団に行くと言っていたな……と思い出し、イグネアは玄関に向かっているリヒトの後を追いかけ、今まさに出ようとしている背中に向けて言った。
「行ってらっしゃい」
 ちなみにこうして見送りをしているのは、リーフに教育(?)されて半年続けている習慣であって、リヒトが特別というわけではない。
 しかしまたしても都合よく勘違いをしたらしいリヒトは、踏み出していた足をぴたりと止め、開きかけていた扉をしっかりと閉め、驚くべき素早さでイグネアの元に戻って来て許可なく勝手にがっちりと手を握った。
「ち、ちょっと近いですよっ」
 そして案の定、顔が近い。
 イグネアは何とか距離を取ろうと逃げ腰になったが、そんな彼女の様子など全く微塵も気にせず、リヒトは若干うっとりした顔で見つめていた。
「見送りしてくれるなんて嬉しいよ。これって、まさに夫を見送る新妻って感じだよね」
「は、はあ?!」
「何だか新婚みたいで……うん、悪くない。というか、むしろ新鮮で心地よい」
「あ、あの……」
「さっき言った手前、さっそく覆すような事をしたくはないんだけど……こんな風に可愛いことをされると、自制の心が激しく揺れてしまう」
 などとこっ恥ずかしい台詞を吐きつつ、リヒトはそれこそ今にも押し倒してやろうかと言わんばかりに確実に身を寄せて来る。黄金の瞳が放つ視線は情熱的で、限りなく甘い。一般的乙女心所持者相手ならば一撃必殺、心臓打ち抜かれて即死かも知れない。
 そうしてさらに顔が近づき、ささやくように一言。
「やっぱり、行ってきますのキスくらいならいいよね?」
「ひいいいい!」
 だからダメだと言っているだろうが! というか、くらいって何だ! 心中で激しく突っ込みつつ、イグネアは迫る危機に青ざめていた。
 と、その時。
「ひえっ!」
 ぐいと腕を引かれ、イグネアは嘘くさいほどによろめいた。あたふたと足をもつれさせて危うく横転しそうになったが、誰かががっちりと支えてくれた。恐る恐る顔を上げてみれば、そこにはかなり不機嫌そうなヒュドールの顔があるではないか。
「さっさと仕事に行け……!」
 リヒトから遠ざけようとさりげなくイグネアを背後に押しやりつつ、青碧の瞳が厄介者を払うように睨み付ける。
 残念そうに溜め息を吐いて、リヒトはやれやれと肩を上げた。
「あと少しだったのに……ホント、お前はいつもイイ所で邪魔してくれるよね」
 宣言した通り、そう易々と許してはくれないらしい。まあ自分がヒュドールの立場だったら……と考えれば、その気持ちもわからなくはない。イグネアが他の男に迫られていたら、それこそどんな手を使ってでも阻止する(または邪魔するとも言う)だろう。
「いいから早く行け! そして、その余計な力を町の治安に役立てろ!」
「はいはい、わかりましたよ」
 などと諦めた風を装いつつも、リヒトがそう簡単に身を引くわけがない。仕事もあるし、とりあえずこの場は去るとして、帰ってきたらどういう手で攻めようかなあ、などと心中では思い切り帰宅後の作戦を練っていた。こう邪魔が入ると余計に燃えてしまうものだ。というか、邪魔がないところでやればいい。こちらも宣言した手前、手を抜くつもりは一切ないのだから。
「じゃあ行ってくるよ。仕事が終わったらすぐに帰って来るからね」
 爽やかなウインクと共に投げられたキスは、青碧の瞳が飛ばす睨みという名の鉄壁の防御に弾き飛ばされたため、イグネアに届いたかどうかは不明である。

 ようやくリヒトが出掛けたことでほっと溜め息を吐いたイグネアだが、相変わらずヒュドールは不機嫌そうで、何とも落ち着かない。おろおろと顔を上げるや否や、案の定というか青碧の瞳がぎろりと睨んで来て大いに怯んだ。
「この間俺が言った事を理解できていないようだな……!」
「こ、ここ、この間?」
 はて何だったろうかと脳をフル回転させて必死に思い出していると、イラッとしたらしいヒュドールが頬を引きつらせていた。
「気を引き締めて強い意志を持って闘えと言っただろう! 全く、本気で油断も隙もないな。だいたい、ああいう時は殴ってでも逃げればいいだろうが」
「ええっ! な、殴るなんてそんなことはできませんよっ」
「だったら蹴り飛ばせばいい。膝を狙えば敵は必ず倒れる。地面に崩れたところで急所を狙って動きを封じるか、心臓一撃で止めを刺せばいい。ああ、首を飛ばしてしまえばてっとり早いな」
「い、いやそういう意味ではなくて……」
 こんなところで闘い方を教えられても……しかも、なぜそんな恐ろしい事を口走っているのだろうかこの人は。というか、その隙に逃げればいいだけの話ではないのだろうか。
「とにかく、メイドの仕事とこういう事は別の話なんだから、しっかり割り切れ。嫌なら嫌だと、そういう意思表示をしないから奴らが付け上がるんだろうが」
 こっちだって年中見張っているわけにもいかないのだから、せめてその程度の自覚は持ってもらわなければ困る。というか、いい加減持ってくれと言いたい。
 闘い方云々はともかくとして、ヒュドールの言う事はもっともだ。嫌なら何としても逃げればいいだけの話である。
 なんだ簡単な事ではないか! と理解したイグネアは内心でひとり喜んでいたが、すぐにふと考えた。
 ――嫌、なのだろうか。
 というか、そういう感情を抱いた事がないような気がする。過去リヒトおよびリーフの猛攻(?)を受けた際、困るというかどうしようという感じで戸惑いはしたものの、はっきりと嫌だという感情を抱いた覚えがない。それこそ昔だったら殴るどころか一瞬にして燃えカスにしてやっただろうが、果たして殴る蹴るなどの暴行を加えてまで逃れたいことなのだろうか。
「あ、あの……」
「なんだ」
「その……い、嫌でない場合はどうすればいいのでしょうか?」
 思いもよらぬ言葉にヒュドールは瞳を見開き、若干動揺した。が、表情に出る事はない。
 いかに鈍感とはいえ、この小娘は【紅蓮の魔女】。それなりのしたたかさはあるだろうし、嫌かそうでないか、最低限の人間的感情くらいは持っているはず。先ほど言った事は全て彼女が“嫌と思っている”前提の話であって、そうでない場合はどうしようもない。というか、嫌でないという事はつまり……
「それは……一体どういう意味だ」
「は? え、ええと、その……嫌ではないという事ではないのですが、あなたの言うように、殴る等の暴行を働いてまで逃れるべき事なのかどうか迷いまして。命が危うければ、私もそうしますが」
 そこまで説明して視線を上げると、ヒュドールは納得いかない様な、やっぱり不機嫌そうに見下ろしていた。
「た、たた、確かにですね、ああいった事はええと、その……よ、よくないとは思うのですよ!」
 夫婦じゃないですし……と超小声で付け加えたが、当然ヒュドールには聞こえていない。
「た、たとえばリーフなんかは何度も殴ってやろうと思いましたが、やはりその、人を傷つける事には抵抗があるというか……」
 膝枕と口付けは夫婦間のみの行為だと思っているイグネアにとって、度重なる危機は回避しなければならない重要な問題だが、だからと言って死ぬわけではないし、それで相手を傷つけるのはどうかと思う。しかも膝枕に至っては半ば諦めもあったりするのだ。
 イグネアの言葉は恋愛感情によるものではない。過去にたくさんの命を奪ったからこそ今は強く思う。親しくなった相手だからこそ、傷付けたくないと思うのだろう。
 そう気付いたヒュドールは軽く息を吐いた(決して安心したとかいう事ではない)。ここに至るまで、自分も含めてリヒトもリーフも(ついでにオンブルもモルも)、油断され、ある程度のことは許容される範囲の人間に昇格しているのだろう。それはある意味、年頃の娘的要素皆無だったイグネアにとっては望ましい進歩であり、まあそれなり有難くもある。が、だからこそその隙が危ないのだ。リヒトは相手の感情は関係なく自分のものになるだろう思い込んでいるし、リーフはその隙を狙って追い詰めるのが得意である。逆らわないのをいいことに好き放題をするから、強い意志を、と言っているのに。
 ヒュドールはだんだん苛立ちを募らせた。これではまさに堂々めぐり。結局コイツが何一つ自覚していないのが原因ではないか。今すぐ誰か一人に決めろとは言えないが、はっきりしないのも問題なのだ。
 だいたい、あそこまではっきり想いを告げて理解されないのもどうなのか。いくらなんでも、もう少し意識されてもいいのではないだろうか。全く、あちこちフラフラされて不愉快になるこちらの身になってみろ……と、そこまで考えてヒュドールははっと我に返った。これではまるで、独占したいみたいではないか。何だこの女々しい感情は。
「あの、どうかされました?」
 口を押さえて青ざめているヒュドールに、イグネアは首をかしげたが。
「何でもない!」
 逆切れされ、大いに怯んだ。
「あ、あの、それで、先程の答えなんですが……」
 それでも答えを求めるイグネアに、人の気も知らずに呑気なものだ……! と、ヒュドールは若干イラッとしたらしく、半ば自棄を起こしたようで。
「もう何でもいいから危なくなったら俺を呼べ!」
 とにかくそれが一番手っ取り早いとばかりに言い放ち、ヒュドールはさっさと居間を出て行ってしまった。
 たしかにそれが一番手っ取り早そうだが……ヒュドールだったら間違いなくリヒトやリーフに(それこそ容赦なく)攻撃を仕掛けるに違いないと思い、なるべく自分の力で回避しようとイグネアは一応心に決めた。それにやはりああいう事はよくないよな……と考え、今度危機が訪れたらとりあえず逃げてみようと思ったのだった。





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