× 第4章 【炎と烙印】 21 ×





 リヒトが出掛けると、屋敷内は突然に静かになった。今日はリーフもモルもいないし、ヒュドールはとりあえず怒らせなければ静かだし、一人減るだけでこんなに空気が変わるものなのか、とイグネアは妙に納得していた(ちなみにオンブルは数に入れてもらえない)。まあ色々な意味で危険はあるものの、あれでリヒトは空気を明るくするタイプなので、一家に一台という気もする。
 そんな風に考えつつ何気なく時計に視線を向ければ、もうすぐおやつの時間(午後の部)が近づいていると気づく。そういえば、マイルを預かって欲しいと頼まれていたはず。連れて行くついでにおやつも届けてくれると言っていたが、ミリアムはまだ来ない。もしかして忙しいのだろうか。ならばこちらから迎えに行った方が良い。
 すぐそこまでだし、一人でこっそり行っちゃおうかなあ……と思ったものの、マイルを連れて来なければならないし、その間にカディールの襲撃に遭ってしまったらそれこそ笑い事では済まされない。ということで、仕方なくヒュドールに同行を願う事にした。
 とりあえず不満を言われることをあらかじめ覚悟しつつ、呼びに行こうとして廊下に出ると、当の本人が運良く歩いて来るではないか。
「何か用か」
 先ほどまでの不機嫌ぶりは、ずいぶん落ち着いたらしい。
「あの、おやつを買いに行きたいのですが、一緒に行ってもらえますか?」
 面倒くさいとか言われるだろうと思っていたが、意外な事にヒュドールはあっさり素直に了解してくれた。珍しい事もあるのだな……と心の中で言ったつもりがうっかり口から出ていたらしく、ほんのり不愉快そうに睨まれ、イグネアは慌てた。
「あのな、俺だって年中青筋立てて怒っているわけじゃないんだ。頼み事をされれば、普通に応じてやるに決まってるだろうが」
 大体にしてなぜ不機嫌になるのか、この小娘は一体いつになったら理解するのだろうか……などと、ヒュドールはブツブツ文句を言っているが、“普通に”頼み事に応じてやるのはイグネア限定だという事実に、本人は全く微塵も気付いていないらしい。
 言っているそばから不機嫌になっているではないか……とイグネアは若干げんなりしたが、怒らせて一緒に来てもらえなくなるのは困るので、とりあえず大人しくしている事にした。

 ミリアムの店までは歩いてほんの少しの距離であるため、二人並んで歩いていても先日のような注目は浴びないだろう。おかげで奥様方の猛攻にも遭わずに済みそうだ。
 それにしても、なぜヒュドールやリヒトだと騒がれて、モルだと一切関心を向けられないのかが謎だ……と考えているうちにイグネアはふと思い出した。
「そういえば、リーフはどこへ行ったのでしょうか。モルさんを連れて朝早く出かけたと、リヒトに聞きましたが」
「ああ、アイツならカディールの巣を探りに行くと言っていた。北の山にあるらしいな」
「ええっ! だ、大丈夫でしょうか」
「あのクソガキは殺しても死なないだろうから、別に平気だろう」
 いやリーフは普通に怪我等もするので、殺したら確実に死ぬと思われる。
 まあカディール云々も心配なのだが……
「お昼はどうしてるんですかね」
 何せあの二人は自分と違い、普通に寝食を取らねばならないのだ。昼食抜きはきついだろうなとか考えつつ見上げると。
「……作れと煩いから、弁当を作ってやった」
 リヒトが言っていた“言い争い”の原因は、どうやらそれらしい。何やら思い出したヒュドールは、かなり不愉快そうな顔をしていた。
 ヒュドールは朝食の支度だけしてさっさと二度寝したかったのだが、あまりにも煩いので渋々作ってやったそうだ。しかも作っている最中も脇から好き嫌い等の文句を言っていたため、朝っぱらから機嫌は最悪、苛立ちは最高潮となり、結果割と壮絶な口論に発展したようだ。ちなみにそんな事があったにも関わらず、リーフは弁当をしっかり抱えて持っていったらしい。
 朝のやり取りを思い出したせいでヒュドールはまたしても苛々していたが、イグネアは呑気なもので。
「それって“あいさい弁当”というやつですよね。お弁当もたまに外で食べると、気持ち良さそうですよね」
 イグネアののほほんとした笑顔を見て、ヒュドールは唖然とし、さらには額に手を当てて盛大な溜め息を吐いた。どこでそんな言葉を知ったのか知らないが、思い切り使い方を間違っているではないか。そもそも、誰が愛妻なんだ。というか、俺が女でもあんな腹黒い旦那はお断りだ。
「あのな、“愛妻”がどういう意味なのか、わかって使っているのか?」
「え、愛のこもった野菜という意味ですよね?」
 こいつはもう、普通の娘云々よりも、一般常識を教え込んだ方がいいのではないかとさえ思えてくる。
「……“愛妻”は愛する妻、要するに、嫁が旦那に作る弁当のことだ」
 ヒュドールの言葉の意味を考える事数秒。
 何となくとんでもない事を言った気がして、イグネアはさっと青ざめた。
「うっ……そ、それはどうも、すみませんでした……」
 と謝りつつも、ヒュドールならいいお嫁さんになれそうだけどなあ、とイグネアはこっそり思ったが、決して口にはしない。真紅の瞳がおろおろと見上げると、案の定ヒュドールは不愉快気であった。これは非常に気まずい。何とかしなければ。
「あ、あの……」
「なんだ」
「その、いつか私にも作ってくださいね、お弁当」
 すると、青碧の瞳がちらとイグネアを見遣り、かと思ったらすぐに視線を逸らしてしまった。これは完全に怒らせたかも知れない、とイグネアは若干怯んだが。
「……気が向いたらな」
 意外な答えにほんのり気が抜けた。やはり自分で言ったいたように、年中青筋立てて怒っているわけではないらしい。
「あ、別に愛妻仕様でなくてもいいですから」
 だから、それは使い方が違うだろうが! というか、その一言は余計だ! とヒュドールは内心で毒づいていたが、当然の事ながら気付かれるはずもない。

 さて、そんなこんなであっという間にミリアムの店にやって来たのだが。
 いつもならば夕刻まで営業しているはずなのに、今日はすでに店じまいをした後のようだった。
「どうしたのでしょうか」
 午前中に来た時は、そんな話はしていなかったが。
 不思議に思いつつ何度か扉を叩いていると、しばらくして向こう側に人の気配を感じた。鍵を外して扉を開け、顔をのぞかせたのはハンスである。
「どうも、こんにちは」
 挨拶をすると、ハンスは無言ながらも軽く首を垂れて応えてくれた。
 とりあえず中に入るよう促され、イグネアとヒュドールは店内に踏み入る。その際、ハンスの視線はヒュドールに向けられており、しかも若干眉をひそめられたため、ヒュドールは内心でほんのりムッとしていた。
「あの、お店どうかされたんですか?」
 ハンスの視線がイグネアに戻って来る。
「……ミリアムの具合が悪いから、早くに店じまいをした」
「ええっ? だ、だだ、大丈夫なんですかっ? ミリアムさんはどうされているんですか?」
「今は休んでいるから、心配はいらない」
 イグネアはほっと胸を撫で下ろした。いつも元気なミリアムだからこそ、具合が悪いなんて聞くとひどく心配してしまう。しかも彼女は今妊娠中だから尚更だ。様子を見たいと願うと、ハンスは(無愛想ながらも)快く許してくれた。
 店の奥から繋がる自宅の一室でミリアムは休んでおり、傍らではマイルが静かに眠っていた。ミリアムはイグネアの顔を見ると少し驚いたようだったが、すぐにいつもの笑顔を向けてくれた。
「あらイグネア、来てくれたの?」
「ミリアムさん、だだ、だだ、大丈夫なんですかっ!」
「ええ、ちょっと気分が悪くなっただけなのよ。さっきお医者様にも見ていただいて、少し疲れているだけだろうって言われたのに……ハンスったら心配して、お店まで閉めちゃったのよ」
 もう、とちょっと呆れたような口調で、ミリアムはハンスを見上げていた。まあハンスにしてみれば、ミリアムだけでなくお腹の子も心配だったのだろうから仕方がない。
「おやつ届けるって言ったのに、ごめんなさいね」
「いえいえいえいえ、とんでもない!」
 というかむしろそんな気を使わせて申し訳ない……大袈裟に首と手を振ると、ミリアムはくすくすと笑っていた。が、ふとイグネアの背後に視線を向け、首を傾げていた。
「あら、あの人はどなた?」
「はあ……お屋敷の居候です」
「ああ、もう一人の方ね!」
 その“もう一人”という単語に、ヒュドールは若干頬を引きつらせた。全く、一体どんな風に噂されているのか。というか、なぜに俺が“もう一人の方”扱いなんだ、気に入らない。などと内心で文句を言っていたが、ミリアムの視線が向けられていると気づき、気持ち程度表情を和らげた。
「はじめまして、私はミリアムよ」
「……ヒュドールです」
 ヒュドールが若干素っ気無く名乗るも、ミリアムは気にせずににっこりと笑った。そうして近くにいるイグネアにこっそり耳打ちする。
「さっきの彼も素敵だったけど、こっちもすごく綺麗な男の子ね。ちょっと怖そうだけど」
 ちょっとどころか、かなり怖いですけど……と言いたくなったが、ヒュドールの名誉(?)のために黙っていることにした。

 店じまいをしてしまったためにマイルを預ける必要もなくなったようで、結局おやつだけを買って帰る事になった。ミリアムの代わりにハンスが用意してくれるというので、イグネアは店の方まで戻っていく。
 その後を着いて行こうとヒュドールは歩き出したが、不意に呼び止められ、振り返る。
「イグネアのこと、大切にしてあげてね」
 彼等とイグネアが実際はどういう関係なのか、ミリアムは知らない。それでもきっと、いわゆる“女の勘”というやつで何かしら感じ取ったに違いない。
 半年前にこの町に来た時は本当に何も知らなくて、ちょっと危なっかしい子だなと思っていた。誰もが知っていることさえも知らないようで、それを不思議に思った事もあった。
 それでも毎日顔を合わせれば自然と情が湧いてくる。少し年の離れた妹のようなそんな存在になっていった。だから、幸せを願うのは至極当然のことだろう。先程ハンスがヒュドールを見て眉をひそめたのも、もしかしたら同じ気持ちだったからかも知れない。というか、むしろこちらは“父親の心境”という可能性もあるが。
「意外とあなたみたいなタイプが、一途に護ってあげたりするのよね」
 うちの旦那様がそうだから、とミリアムは片目をつぶってみせた。
 “意外と”は余計だ……と、ヒュドールは内心でほんのりムッとしていたが。
「……心配には及びません」
「うふふ、それなら安心だわ」
 ヒュドールの答えに満足したミリアムは、穏やかに笑っていた。





←BACK / ↑TOP / NEXT→


Copyright(C)2007− Coo Minaduki All Rights Reserved.