× 第4章 【炎と烙印】 22 ×





 その頃、北の山にいるリーフはというと……。

「くそっ、しつこい奴め!」
 思い切りカディールに追いかけられている真っ最中であった。
 今回北の山へと足を運んだのは、モルより使えそうな近道を見つけたと報告を受けたからだった。最初はその確認のみが目的であったが、偶然にカディールの巣らしきものを発見し、探りを入れているところで案の定見つかり、追いかけられる結果に至ったわけだ。
 追いかけて来るのはたったの一羽。一羽、しかも偽物ごとき難なく余裕で倒せるが、ここはカディールの巣である。見つけた巣だけでなく、恐らくいくつかの場所に分布しているはず。今後のことも考えると、無意味に魔術を使用して事を荒立てるのも避けたいし、傷けて仲間を呼ばれてしまえば厄介な事になる。本気を出せば、こんな害鳥ごとき何羽現れようが敵ではないが、それだけ周囲に与える被害も大きいと考えなければならない。ちょっと……いやかなりプライドに障るものの、ここは大人しく身を引く方が賢いと判断した。
 複雑に絡み合った木々の間をすり抜け、飛び越え、全力でもって逃走する。その様はまるで身軽な猿のようである。しかし、さすがカディールもこの雑然とした山を飛び慣れているのか、余裕の飛行を見せつけている。それがさらにリーフの苛立ちを募らせていた。
「生意気な……!」
 背後を睨みつけながら、リーフは愛らしい顔に似つかわしくない舌打ちをした。この儂を追いかけるとはいい度胸だ。どうせ偽物だし、やはりここは息の根を止めてやろうかと考えていたが。
 前方にひょろっと背の高い男の姿を見つけ、にやりと口端を吊り上げた。
「モル!」
 声高に名を呼ぶとモルは静かに頷き、すぐさま手近にあった木の枝に飛び乗った。かと思えば次から次へと木々を飛び移り、徐々にカディールに接近してゆく。そして懐に手を突っ込んで取り出した“護符”を木の幹に貼り付けると、即座に身を退けた。
 オンブル特製の護符は、人間が身に付けている魔除けよりも効果が高い。薄っぺらな紙から発せられる奇怪な音は、時間稼ぎには大いに効果を発した。カディールは突然に速度を落とし、嫌がるように進路を変え、鳴き声を上げて警戒していた。
「しばらくは、追って来ない」
 役目を終えたモルが木の枝から降って来て、ぼそりと呟いた。
 ちなみにモルの戦闘力をあえて段階づけるならば中堅程度で、やる気さえ出せばそこそこ腕の立つ男である。しかし案の定というか単に面倒くさいだけなのか、表立っての行動は滅多に見られない。その代わり、“裏”の仕事は何でも忠実に、そして確実にこなすのだが。
 それはさて置き。
 とりあえず危機(とはリーフは思っていない)は回避したが、再び追って来るのも時間の問題だ。声を上げて騒いでいるから、群れて出て来る可能性もある。ここはさっさと退散すべきだ。
 道は確保したし、あとは“本物”を探すためにあの小僧共を連れて来るだけ。しかし、果たして“本物”などこの世に存在するのだろうか。
 先ほど探っていた巣には本物らしきものはいなかった。本物であれば瞳を見ればわかるし、それ以前に異様な魔力を感じるはず。
 リーフの表情が険しくなる。山に踏み入った時から薄々と感じていたが……かつてプレシウで闘っていたカディールのような力を、ここでは微塵も感じ取れないのだ。
 リーフは馬鹿ではない。確率を考えれば、行動するだけ無駄だと十分理解している。それでも諦めるという気持ちが起こらないのは、何故だろうか――そんな風に考えて、天を仰いだ時。
 ぽつり、と頬に冷たい雫が落ちた。
 リーフの表情が一気に不機嫌になる。仕方が無かったとはいえカディールから逃げだ挙句、終いには雨に降られるなんて。
「最悪だ……!」
 今度来た時は容赦なく滅ぼしてやる! などと半ば八つ当たり的に吐き捨てながら、かなり苛立った様子でリーフは歩き出した。







 ミリアムのお見舞いを終えて屋敷に戻り、久々に時間通りおやつを用意したため、イグネアは上機嫌に鼻歌なんぞ歌っていた。早いうちに仕事を終わらせてしまったので、特にする事も無いため、あとはのんびりまったりしよう! と意気込んでいたのだが、何やらヒュドールが出掛けるというので、ちょっと着いて行ってみる事にした。
 ヒュドールは何やら若干大きめかつ分厚い封書を手にしており、どうやら郵便屋に向かっているようだ。しかも明確に場所を理解したうえで歩いているように見える。リトスに来て間もないのに大したものだなあ……とイグネアは感心したが、一体いつ知ったのだろうかと気になった。
「郵便屋さんの場所、よくご存じですね」
「ああ、さっき聞いた」
 さっきとはいつのことだろうかと思い返してみる。もしかして、ミリアムから聞いたのだろうか。そういえば何か会話をしているようだったが……ミリアムはともかく、ヒュドールが世間話というのも猛烈に似合わない。などと思っても口には出せないのだが。
 さて、ヒュドールが持参していた封書には立派な印で封が施されており、一見して一般的な手紙ではないとわかったらしい。郵便屋のおじいさんも興味津々で物珍しそうに眺めていた。
 ちなみにこの郵便屋は一家で運営しており、配達のみが仕事である。他所への郵便物は全て最寄りの大きな町であるニアに預け、そこからさらに大きな町へと渡り、各地へ届くのである。
「立派なもんだねえ。どこの印だい?」
「スペリオルです」
「っていうと、あれかい。南の方の大きな国。そういやお兄ちゃん、あんた王子様なんだってねえ。お国への便りかい?」
 おじいさんがにこやかな笑顔を向けると、ヒュドールは若干頬を引きつらせた。だから誰が王子なんだ。大体、王子がこんな辺ぴな町にいるわけがないだろうが。というか、何故このような老人にまでおかしな誤解が広がっているんだ。全く女の噂は恐ろしい……などと内心で文句を言っていた。
「できるだけ早く届くと有難い」
「そうかい。じゃあ息子に預けて、すぐニアまで持って行かせるよ。王子様の頼みじゃ一刻を争うだろうからね」
 かなり盛大な誤解が生じているが、それがさっさと届くならこの際文句は言わない。若干疲れた溜め息を零しつつ、ヒュドールは提示された料金を支払った。ちなみにここはオンブルとは無関係なので自前である。
 要件を済ませて店を出ようとすると、おじいさんはもう一度にこやかに笑って見送ってくれた。余談だが、おじいさんの勘違いした計らいのおかげで、この封書は普段の三倍以上の速度でスペリオルに届いたらしい(後日談)。

 店を出た頃には天気が崩れ始めていた。見上げた空は灰色の曇に覆われ、北から吹いてくる風は少し冷たい。山の方はすでに雨が降っているようで、この辺りも間もなく雨粒が落ちて来そうだった。
「チョビ……じゃなくて陛下へのお手紙ですか?」
 歩きながらイグネアはのほほんとした笑顔で問いかけたが、途端にヒュドールがものすごく不愉快そうな顔をしたため、若干怯んだ。
「なんで俺がチョビヒゲと文通みたいな事をしなきゃならん。あれは報告書だ」
「報告書?」
「ここにはもうしばらく滞在しなければならないようだから、現況や今後の行動予定など、ある程度の事は報告しておく必要がある。俺達は仕事で来ているから、義務だな」
 とはいえ、ヒュドールが全て正直に書くわけがなく、何処にいていつ頃帰還できそうなのか、といった極めて簡単な内容であったりする。それでも王命を受けているからには報告は重要な義務らしく、どうやらリトスに至るまでにも何度か報告書を送っていたという。
 そういえば忘れてしまっていたが、彼等はチョビヒゲの命を受けて“仕事”としてこの場に留まっているのだ。与えられた任務が完了すれば国へ帰らなければならない。つまりは、いずれはリトスからいなくなってしまうのだ。
 何となくそれが不自然に思えた。ヒュドールに睨まれたり怒られたり、リヒトに笑顔を振りまかれたりすることが……要するに、常に顔を合わせるのが当たり前になっていたから、そうなってしまったら寂しい気がする。
 無事呪いが解けて同行できれば、一緒にいる事も可能だろう。けれどもし、呪いが解けなかったら……二人とも別れなければならない。秘密を知っているヒュドールならば、あるいは再び会うことが出来るかも知れないが、リヒトとは二度と会えなくなるだろう。
 深く関われば、もっと別れが惜しくなる――王宮を出る際にリーフに言われた言葉の意味が、今なら理解できるような気がした。
 しばらく無言で歩いていたが、屋敷の手前に来たところで後方に軽い引力を感じ、ヒュドールは足を止めた。怪訝に思って振り返ってみれば、なぜかイグネアが袖を掴んでいるではないか。
「……なんだ、この手は」
 迷子の子供じゃあるまいし……と溜め息混じりに言うと、イグネアははっと我に返り、真紅の瞳を瞬かせた。そうしてようやく、ヒュドールの袖を掴んでいると気付き、大いに慌てた。
「はっ! な、なんでしょうか。す、すす、すみません。考え事をしていたら、うっかり掴んでしまったようです……」
 ぱっと手を離し、イグネアはひたすらおろおろしていた。何だかびっくりして挙動不審になっている小動物のようである。
 どうやら本当に無意識にやったらしいが……言ったそばから綺麗さっぱり全てを忘れてしまうこの小娘が考え事なんて、極めて珍しい。
「何を考えていたんだ」
「へ? い、いえ、その……」
「別に怒らないから言ってみろ」
 この怯みっぷりは怒られると思っているな……という読みは見事当たっており、ヒュドールは若干苛々していた。何故いつも俺に対してはこういう怯えた態度を取るのだろうか。全く気に入らない(自分が悪いという自覚はないらしい)。
 イグネアはしばらく「あー」とか「うー」とか唸っていたが、やがて恐る恐る見上げながら口を開いた。
「そ、その……お仕事ということはつまり、お二人はいつかこの町からいなくなってしまうのだな……と。それは少し、寂しい気がするというか、何というか……」
 しどろもどろになりながら、イグネアはぼそぼそと呟いた。
 青碧の瞳がわずかに見開かれる。もしやさっきのは……行くなという無意識の行動なのだろうか。
 コイツの事だ、そこに九割五分の確率で特別な感情があるとは考え難いし、リヒトに対しても同じように考えているのだろう。しかも自分はここに残る事を前提としたような言いっぷりには若干腹が立つが、とりあえずそれはいい。
 こんな単純な行動だけで自分だけが特別に想われているなどと勘違いするほど、ヒュドールは愚かではない。けれど、それでも……残り五分という、本当にわずかで微妙な確率でも。何かしら些細な感情を抱かれていたのであれば、それは大いなる進歩(または進化ともいう)ではないのだろうか。
 ほんのり驚いたような表情で人の顔を(しかも無言で)じっと見ているヒュドールに恐れを成し、イグネアはおろおろしていたが。
「ひいっ!」
 いきなり腕を掴まれ、大いに慌てた。
 真紅の瞳が見上げると、何やら言いたげな顔で麗しい顔が見下ろしていた。
「俺は……アンタを置いていなくなったりしない」
「は、は?」
 聞こえなかったですよ? とでも言わんばかりの勢いでイグネアは耳の遠い老人のごとく聞き返したが、そんな態度にも最早慣れてしまったのか、それともあえて無視したのか、すでに諦めているのかは知らないが、ヒュドールはお構いなしで言葉を繋げた。
「俺達がこの町を離れる時は……」
 掴まれた腕を引き寄せられ、イグネアはよろめいた。ヒュドールがしっかり支えてくれたものの、それで妙に距離が近づいてしまい、ほんのり困惑しつつもう一度見上げてみると。
「その時は、アンタも……」
 ぽつり、と。
 ヒュドールの言葉が耳に届く前に、雨粒がひとつ頬に落ちた。
「あっ、お洗濯物を取り込まなければ!」
 何よりそれが一番大事だ! という勢いで、イグネアはヒュドールの手から逃れ、一目散に屋敷の中へと駆け込んで行った。
 九割五分どころか、あれは完全に十割だ……! と残り五分というわずかな確率さえも綺麗さっぱり無きものにされたヒュドールは、その後しばらく最高潮に不機嫌だったらしい。





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