× 第4章 【炎と烙印】 23 ×





 夕刻に降り始めた雨は、夜の訪れと共にあっという間に強くなっていた。絶え間なく雨音が響き、地面に広がる水溜りには忙しなく波紋が広がっている。ひとり食後の片付けをしていたイグネアは、洗い物もそこそこで窓に近づき、じっと外を眺めていた。
 ちなみにヒュドールはというと、夕刻の段階から何故か相当不機嫌で、食事中も異様な緊張感を漂わせていた。その後は何やらオンブルに呼び出されており、一言二言(実際はそれ以上)激しく文句を言いながら地下室へ向かって行ったが。
 さて、午後から自警団に出かけたリヒトも、そして朝っぱらから北の山へ向かったというリーフとモルも未だ帰宅する様子がない。リヒトはさほど心配することもないと思われるが、リーフとモルは大丈夫だろうか。
 雨と夜という相乗効果で、山はあっという間に危険な場所へと変化するものだ。それは二年に及ぶ山奥生活でイグネア自身体験したことである。加えて北の山にはカディールの巣があるというから、危険度は一気に上がるはず。
 とはいえ、リーフの事だから何かあるとも思えないし、たとえば危機に陥っても(それこそ意地で)這い上がって来るだろう……などとかなりお気楽に考えつつ、イグネアは再び流しに戻り、残っていた片付けを終わらせた。その後はさっさと風呂に入り、さあ寝るかと軽い足取りで自室へと向かっていたが、ふと思い出した。
 玄関の扉は、オンブルの言い付けでいつも鍵を閉めたままだ。一体いつ帰って来るのかは知らないが、全員が帰宅するまで寝られないではないか。イグネアは愕然とした。今日はやたら張り切って掃除をしてしまったし、ついでにヒュドールの不機嫌ぶりが神経をすり減らしてくれたため、疲れているから早く寝てしまおうと思っていたのに。
 しかし屋敷の雇われメイドとしては、与えられた仕事を忠実にこなさなければならない。それに鍵が開かなくては彼らも屋敷に入れないし、困るだろう。さてどうしよう……と悩むこと数秒、とりあえず居間で寝ていればいいかと考え、イグネアは一度部屋へと戻り、毛布を抱えて戻って来た。居間ならば呼び鈴が聞こえればすぐに対応できるだろう。
 我ながら良い考えが浮かんだとばかりに満足していると、ちょうど来客を告げる呼び鈴が鳴り響き、イグネアは顔を上げた。ちなみにあの呼び鈴もオンブルの特製品で、屋敷内のどこにいても音が聞こえる仕様になっている。構造としては“魔除け”と同じらしいが、詳しい事はわからない。
 こんな時間に来客などあるわけがないので、間違いなく屋敷の住人である。鍵を開けるとすぐさま扉は開き、冷たい風と共に踏み入って来たのは、すらりと高い長身の持ち主――リヒトである。
 あまりの寒さにイグネアは「うひゃあ」などという可愛らしさの欠片もない声を上げたが、とりあえずそれどころではない。
「お帰りなさい」
 ちなみに出迎え同様、言うまでもなくこの台詞もリーフに叩き込まれた習慣であるため、リヒトだけが特別ではない。が、外出時と同じく彼は都合良く勘違いをしたらしく、かなりご機嫌である。その証拠に……
「ただいま」
 寒さなど吹き飛ばしそうなほど、爽やかな笑顔が返って来たわけである。
 それはさて置き。
 リヒトは雨避けに外套を羽織っていたが、それでも防ぎ切れないのか、よく見れば髪はしっとりと濡れ、毛先から滴る雫が頬を流れていた。その、まさに“水も滴るイイ男”状態の美形騎士は、いつになく妙な色気を発しており、一般的乙女心所持者もしくは奥様方などは鼻血でも噴いて倒れそうな勢いであろう。
 しかし、そこは乙女心とは無縁のイグネアである。そんな事よりも、忙しなく滴っている雨粒が気になって仕方がない。何か拭くものは……と浴室へ走り、適当な浴布を掴んで戻って来た。
「早く拭かないと、風邪を引いてしまいますよ」
 などと言いつつ、ほんのりわたわたしつつ、掴んでいた浴布でだらだらと流れる雫を拭った。何だか前にも似たようなことがあったような、無かったような……と、かつてヒュドールにしたという思い出(?)はすでに記憶から抹消されつつあった。
 イグネアの意外な行動にリヒトは一瞬きょとんとしていたが、数秒後には笑顔が戻っていた。
「あんまり近づくと濡れちゃうよ。あとは自分でやるから大丈夫」
 そう言ってイグネアの手から浴布を取り上げると、せっせと自分で頭を拭いていた。
「それにしても、さすがは海辺の町だね。雨が降ると一気に気温が下がるんだ。おかげですっかり冷えちゃったよ」
 そういえば……と思い出す。リヒトは割と体温が高いようで、前に手を握られた時はとても温かかった。それが先ほどちょっと触れた時には驚くほど冷たかったのだから、よほど外は寒いのだろう。
「お風呂空いているみたいなんで、早く入った方がいいですよ」
「そうだね。そうするよ」
 そう言ってリヒトは歩き出したが。
 数歩進んだところで振り返り、意味ありげな笑みを向けて来た。
「一緒に入る?」
 何を言われたのかわからなかったが、数秒遅れてようやく意味を理解したイグネアはさっと青ざめた。
「はあっ?!」
 頓狂な声を上げつつ後退りする。この男は一体何を考えているのか! などと怯んでいると、ふっと影に覆われ、イグネアははっと顔を上げた、いつの間にやら壁際に追いやられており、リヒトの麗しい顔が間近に迫っているではないか。
「ね?」
 この妙な色気炸裂の表情で迫られたら、世の女性は百発百中の確率で堕ちるのだろう……というような卑怯極まりない女殺しの笑顔で、リヒトが見下ろしていた。というか、何が「ね?」なんだろうか。全くどこまで破廉恥なのかこの男は。
「は、入りませんよ! というか私はもう入りましたし!」
「そうなんだ。だからこんなに手が温かいんだね」
 とか言いつつ、リヒトは許可なく勝手に(しかも割としっかり)手を握っていた。
「このまま引きずって連れて行っちゃおうかなあ」
「ひいっ! なな、何を言ってるんですかっ」
 ああ、もうどうしよう。どうやって逃れよう。危機に陥ったら呼べとヒュドールが言っていたが、如何せん当人は地下室にいるらしいので無理だろう。ならばここは彼の教授通り、膝に一発蹴りを入れて、崩れ落ちた後に止めを刺す方向で行ってみようか……と頭をフル回転させて対応に悩んでいると。
「なんてね。ちょっと本気で寒いから、さっさと行ってくる」
 リヒトはあっさりと手を離し、ひらひらと手を振りながら行ってしまった。
 だったら最初からそうすればいいのに……と、からかわれた事に気付いたイグネアは、げんなりしつつのそのそと居間へ戻り、無駄に大きなソファに寝転んだ。全く疲れる。
 あとはリーフとモルが帰ってくれば安らかに眠れるのだが、なんかそう上手くいかないような気がするな……と考えているうちに瞼は重くなり、あっという間に眠りに落ちていた。

 さて一風呂浴びて温まり、さらにご機嫌になったリヒトはというと、邪魔者がいない間にもうちょっと触れ合っておこうかと考えていた。ある意味、ヒュドールよりもリーフの方が手強いため、彼の不在は絶好のチャンスである。
 そんな感じで意気揚々と廊下を歩いていたのだが、ちょうど地下から帰還したヒュドールとばったり出くわしてしまったのだ。リヒトにとっては運悪く……だが、イグネアにとっては運良く、だろう。
「なんだ、帰ってたのか」
 労わりの欠片もなさそうなヒュドールの台詞に若干げんなりしつつ、リヒトは言葉を返す。どうやら色々な意味でやる気を削がれたらしい。
「ついさっきね。外すごい雨でさ、ずいぶん濡れちゃったから先に風呂入ったよ」
「メシはどうする。適当に何か余っていた気がするが」
「あーいいや。それより、少し付き合えよ」
 何を、とまで言わなくとも、リヒトの仕草で理解した。要するに「一杯付き合え」という意味だ。実際は一杯どころでは済まないのだが、まあいいだろうとヒュドールは了承した。王宮にいる時は滅多になかったが、城を出てから酒の相手をする機会が多くなり、それであっさり了解したわけだ。
 ちなみにヒュドールは下戸ではない。好んで嗜む方ではないものの、そこそこいける口である。さらに余談だが、リヒトは数多の宴で鍛えられているせいか、酒には滅法強い。
 それはさて置き、二人は居間へと向かった。あそこの棚にはオンブルの(いかにもな)嗜好品を集結させてある。“ドラウヴン”を始め、他国ではかなりの高価で売買される高級酒が置いてあるため、実はリーフのみならずリヒトも勝手に頂戴していたりする。ちなみにかなり余談だが、オンブルはあれでも酒豪だったりする。
 居間へと踏み入ると、二人は同時に足を止め、ある一点に視線を注いでいた。無駄に豪華なソファには、ぐるぐると毛布に包まった謎の物体がひとつ。
「なんでここで寝てるんだろうね」
 言いながらリヒトが近づき、軽く揺さぶってみるも、謎の物体……もとい爆睡中のイグネアはぴくりともしない。
「これはさ、“ご自由にどうぞ”っていう意思表示なのかな」
「……そんなわけないだろうが」
 リヒトのふざけた発言に嘆息しつつ、ヒュドールは額に手を添えた。こんな所で無防備に寝るなと、何度言ったらわかるのだろうかこの小娘は。今だって自分が一緒にいるから良いものの、リヒトひとりだったら何をしでかすかわかったもんじゃない。
「おい、起きろ。そして自分の部屋へ行け」
 今度はヒュドールが強めに揺さぶるも、全く起きる気配がない。案の定、ヒュドールはイラッとしていた。
「せっかく寝てるのに、起こしたら可哀想だよ。しばらく眺めていよう」
「……そんな事をして何が楽しい」
「え? そりゃ愛しの姫の寝顔だもん、見ているだけで楽しいよ?」
 寝顔なんぞ、鼻先まで毛布に包まれていて見えやしないではないか。リヒトの思考はたまに馬鹿げていて付いていけない……などと考えつつ、仕方がないのでヒュドールはさっさとイグネアの傍らに座った。リヒトをそばに置くと大変危険だからである。
「なんでお前がそっちに座るんだよ。……ま、いいけど」
 若干不満そうにしつつも、棚から数本高級酒を選び出し、リヒトは向かい側に座った。差し出されたグラスを受け取ると、そういえば、とヒュドールは思い出す。
「報告書を出しておいたぞ」
「それはご苦労さま」
「……たまにはお前がやれ」
「えー、俺ああいう堅苦しい文書作成ってちょっと苦手なんだよね。女性への恋文ならいくらでも書くけど。陛下がチョビヒゲじゃなくて麗しの女王様だったら、報告書も熱烈なラブレターになるのに」
 などと呑気に語るリヒトを見て、ああコイツはいつか本気で殴ってやりたい……とヒュドールは頬を引きつらせていた。
「それはともかく、いつになったら帰れるんだろうね。この町は楽しくて好きだけど、やっぱり住み慣れた場所の方が落ち着くかな」
 派手な性格のリヒトには、たぶんこういう田舎町は退屈に思えるのだろう。ヒュドールとて同じ考えだが、如何せんカディールの本物が見つからなければイグネアの呪いは解けず、国へ帰ることが出来ない。チョビヒゲの命は、イグネア(とついでにリーフ)を連れて帰ることなのだから。
「……俺達がいなくなったら、寂しいかも知れないと言っていたぞ」
 不意にヒュドールが零した言葉に、黄金の瞳が瞬いた。
「誰が?」
「コイツが」
 隣で呑気に寝ているイグネアを指差すと、リヒトはほんのり驚いていた。
「へえ、それはすいぶんな進歩だね」
 とはいえ、それでもまだ一緒の扱いなのが気に入らない。それが「リヒトと離れたくない」になったら、これほど嬉しいことはないのだが。
「でもさ、それ俺達がこの町からいなくなったらって意味だろ? 自分はここに残るみたいな言い方だよね。もしかしてさ、イグネアって帰りたくないとか思ってるのかな」
「……なぜそう思う」
「だって、寂しいと思うなら、たとえ呪いが解けなくても着いてくればいいだけの話だろ?」
 青碧の瞳がわずかに細くなる。コイツはやはり勘がいい。隠している秘密のせいで色々曖昧になっていることも、もしかしたら薄々感付いているのかもしれない。さすがは俺の相棒を務めるだけあって、全く侮れない男だ。
「どちらにしろ、呪いは解いてやる必要があるだろう。それに、ここに置いていけば、あのクソガキの思うままだぞ」
 何よりそれが一番不愉快だ、とでも言いたげな顔をすると、「それはたしかに」とリヒトも同意していた。
 すると。
「僕がなに?」
 予期せず背後から声が聞こえ、青碧と黄金が同時に見遣る。視線を集めた先には、いつの間に帰ったのか全身ずぶ濡れ状態のリーフが立っていた。
 ちなみにこうして難無く玄関を抜けたという事は、先程リヒトが帰宅した際に鍵をかけ忘れた証拠である。つまり、イグネアの行為は全く無駄となったわけである。
「ずいぶん派手に濡れたね」
「おかげさまで」
 北の山で様々な要素が重なったせいで、リーフは相当機嫌が悪いらしく、猫被りながらも口調はかなりキツイ。つかつかと歩み寄って来たかと思えば、テーブルにあったワイン入りグラスを取り上げ、なんと一気に煽った。
「君、未成年じゃなかった?」
「……この程度の量じゃ、寒さも治まらないよ」
「言うね」
 リーフの実年齢を知らないリヒトは、可愛い顔して意外と悪い子だな、などとほんのり感心したように眺めていた。
「そんなことより、巣はどうだった。見つけたのか」
 とヒュドールが言った途端、位置関係のせいでリヒトに見えないのをいい事に、リーフは不機嫌そうに舌打ちした。当然ヒュドールにも聞こえており、こちらもあからさまにムッとしていたが。
「モルさんに探してもらった近道は使えるようだし、明日の夕刻にでも出ようと思ってる。だからそのつもりで準備しておいてね」
「なぜ夕刻なんだ」
「カディールは夜目が利く鳥じゃないから、夕刻から夜にかけては狙いめなわけ。まあそんなことも関係ないっていうほどヒュドール“さん”が自信あるなら、朝っぱらから乗り込んで食われてみるといいよ?」
 ものすごい嫌味発言にヒュドールは再度ムカッとしていたが、一方のリヒトは珍しく毒舌連発のリーフに若干驚いていた。
「とにかく詳しい話は明日でいい? 疲れたからもう寝たいんだよね」
 たしかにリーフは疲れているらしく、そのうえ雨に濡れたせいか顔色がよろしくない。これ以上引きとめるのもさすがに悪いと思い、二人は同意した。
 話が終わると、リーフはすぐさま居間を出ようとしていたが、ふと思い出したようにヒュドールを振り返った。
「あ、明日もお弁当作ってね」
 言った途端、ヒュドールの額に怒りの証がくっきりと浮かんだ。
「はあっ?!」
 ふざけるな! と文句を言いつつ腰を浮かせたが、リーフは全く人の話を聞いておらず、勝手に自分の話を進めていた。
「それからイグネアは部屋まで運んでおいて。いかがわしい真似はしないようにね」
 とだけ言い残してさっさと行ってしまった。
 その後ヒュドールはかなり機嫌を損ね、激しく文句を言っていたが、その傍らでも爆睡を貫くイグネアはある意味強者だな……と、リヒトは大変興味深く眺めていた。





←BACK / ↑TOP / NEXT→


Copyright(C)2007− Coo Minaduki All Rights Reserved.