× 第4章 【炎と烙印】 24 ×





 翌朝。
 居間で寝ていたはずが何でか部屋で目覚め、イグネアは寝惚け眼で呆然としていた。もしやまたうっかり爆睡してしまい、誰かが運んでくれたのだろうか(ちなみに運んだのは例のごとくヒュドールである)。というか、何で居間なんかで寝ていたんだろうか……と本来の目的さえもすっかり忘れたものの、とりあえず朝の仕事にとりかからねば! と慌てて起き上がり、身支度を整えて部屋を出た。
 皆が寝静まっている間に洗濯をし、浴室を掃除し、さて朝食の支度でもするか、と張り切って廊下を歩いていると、偶然にモルと行き会った。ずいぶん早起きだなあ、などとイグネアは呑気に感心していたが、ふとそこでようやく思い出す。そういえば、昨晩はリーフとモルの帰宅を待って居間で寝ていたのではないか。
「お、おはようございます」
 とりあえず挨拶をすると、モルは軽く頭を垂れて応えた。まあいつものことである。
「あの……いつお帰りになったんですか?」
「夜」
「そ、そうですか。あの、リーフも帰ってます?」
「当然」
 そうとだけ言ってモルは行ってしまったが、イグネアはかなり青ざめていた。一体いつの間に帰って来たのかは知らないが、出迎えもしなかったなんて後でどんな毒舌嫌味を頂戴することやら。とりあえずそれらと闘う予定を頭に入れ、のそのそと厨房へ向かった。
 さて朝食の支度を終える頃に一番に現れるのは、例のごとくリーフであるが、本日も洩れなくそうであった。ちなみに本人は全く自覚していないが、歳を取ると朝が早いと言われるように、リーフもまた同じように早起きが習慣づいているらしく、どんなに疲労が溜まっていてもとりあえず起きるらしい。
「お、おお、おはようございます……」
 徐々に語尾を小さくしつつ、イグネアは大いに怯みつつ、リーフに声をかけた。
 ただでさえ朝という状況は気分も下がるというのに、さらに何か不満があるようで、深緑の瞳が不機嫌そうにイグネアを睨んでくる。
「……お(ぬし)は本当に愚かな女だな」
「か、鍵のことですかっ? それは違いますよ! あのですね、帰って来るまで待っているつもりで居間にいたんですが……な、なぜかその、いつの間にやら寝てしまいまして……」
「鍵なら開いておったぞ」
「ええっ?! そんな!」
 ではなんだ。せっかくの行動も全て無駄だったということか。
 イグネアは愕然としていたが、その横顔を深緑の瞳がじっと見ていた。あんな場所で無防備に寝ていたのはそれが理由か……と、その件に関しても再教育するつもりでいたが、この場は止めておく事にした。
「まあ良い。それより、夕刻になったら(わし)は小僧共を連れて再度山へ向かう。不在の間は一人で出歩かぬように気を付けろよ」
 リーフの言葉に、真紅の瞳が瞬いた。
「夕刻って……今日のですか? 三人で行くのですか?」
「何か問題でもあるか」
「い、いえ、そうではないんですけど……」
 と言いつつも、イグネアは何かを気にしている風である。
「モルは置いていくから、外出に差し障りはあるまい。それに役立つとも思えぬが、オンブルも居るだろう」
「はあ……あ、あの」
「何だ」
「私も、行ってはだめでしょうか」
 意外な申し出に、リーフは一瞬呆気に取られた。が、すぐに表情が厳しくなる。
「連れて行くはずがなかろう。満足に魔術も扱えぬお主など、足手まといの何物でもない」
 きっぱりばっさりと切り捨てられ、イグネアはうっと怯んだ。
「それに護る側にも負担になる上、お主とて危険であろう」
 確かにリーフの言う通り、魔術も使えず、挙句魔除けも持たぬ自分は、せいぜい逃げ惑うことしか出来ず、着いて行っても護ってもらうだけになってしまう。
 けれど、こうして三人が危険を冒してまでカディールと闘うのは、自分のせいでもあるのだ。もしかしたら命さえも危ういかも知れないのに、呑気に屋敷で待つだけというのはどうにも苦痛である。
「お、お願いします……」
 ぼそり、と呟かれた言葉に、リーフは思わず瞳を見開いた。この女が儂に願うなど、珍しいを通り越してはっきり言って初めてである。それだけ本気で考えているのだろうが……だからと言って、それとこれとは話が別だ。
「駄目だ」
「な、なぜですかっ」
 あまりのしつこさと、ある意味の愚鈍ぶりにさすがのリーフもイラッとしたらしく、深緑の瞳がかなーりキツく睨みつけた。案の定、イグネアは大いに怯んでいたが。
「とにかく駄目だ」
 これ以上の問答は無用とばかり、リーフはふいっと顔を背けた。そのうちにリヒトやらモルやら、ついでにオンブル等が姿を見せてしまい、結局話は途切れてしまった。
 朝食を摂る間にリーフが事情を説明すると、モルは当然無言で了解したが、オンブルだけは何故か納得がいかないような顔をしていた。彼の訴えはずばり「ヒュドールは置いていけ」なのだが、その理由は言うまでもなく食事の心配である。が、リーフが受け入れるはずもなく、至極あっさり撃沈していた。

 そんなこんなで食事は終わり、うっかり話が流れてしまいそうだったが、それでイグネアが納得するはずもなく。
「お待ちをっ!」
 その後、廊下を歩いているリーフの腕をがしっと掴んで、見事捕獲に成功した。何だか珍獣を捕らえたような達成感と満足感が心に満ちたが、とりあえず今はそれどころではないと思い直し、再度交渉に乗り出した。
「しつこいな。だめって言ってるじゃん」
 公共の場であるため猫被りのリーフは、先程と打って変わって口調は和らいでいるが、表情だけは至極面倒くさそうである。
「そ、そこを何とかっ」
「だいたい、なんで行きたいのさ。足手まといになって、僕たちの誰かが死んでもいいって言うの?」
「うっ……そ、そこまでは思ってませんけど」
 しかしリーフの言い分も一理ある。護ってもらう分、誰かの負担は大きくなり、その隙を突かれて攻撃されれば一溜まりもない。これでも一応大戦経験者であるため、そういう事はイグネアも十分理解している。
 返す言葉を探してイグネアが黙り込んでいると、どうやら騒ぎを聞きつけたらしいリヒトが近寄ってきた。
「どうしたの?」
「イグネアがさ、一緒に行きたいって言うんだよ。危ないからだめって言っても聞き分けなくてさ。お兄さんも一言言ってやって」
 もうこのしつこさから解放されるなら誰でもいいやとばかり、リーフはリヒトに応援を求めた。
 イグネアが願うように上目遣いで見ると、その顔を眺め、リヒトはしばし「うーん」と唸っていた。
「君には悪いけど、俺もリーフと同意見だな。危険な場所に連れて行くのはとても嫌だし。それとも、俺と離れるのが寂しいのかな?」
 いやそんなこと一言も言ってない……と、イグネアとリーフは同時に心の中で突っ込んだ。
 そんなやり取りをしていると、さらにそこへヒュドールも加わってしまい。
「は? アンタは馬鹿か? 着いて来て何の役に立つっていうんだ」
 容赦無くキツイお言葉を頂戴し、イグネアの状況はますます不利になってしまった。三方向から拒否の言葉と視線を向けられ、俯いてしおれていたが。
「特にヒュドールがキツイことを言ったけどさ、俺達は皆、君のことが心配だから言っているんだよ。そこは解ってくれるよね?」
 幾分素直でないリーフと、大いに素直ではないヒュドールに代わり、リヒトがやんわりと言葉をかけた。さすがは紳士な(美形)騎士、こういう状況はお手の物なのだろう。
 一方、なんで俺だけ言われなきゃならないんだ、とヒュドールは不満げにリヒトを睨んだが、彼は微塵も気にしちゃいない(しかも事実である)。
 リヒトの言っていることは良くわかる。しかし。
「わ、私も、皆さんのことが心配なのです……」
 眼鏡を押し上げつつ、おろおろと見上げると。
「それは……」
 青碧と黄金と深緑の視線が一挙に集結する。
「俺を侮っているのか?」
「俺を侮ってるの?」
「僕を侮ってるわけ?」
 三人同時に全く同じ台詞を吐き、なおかつムッとした様子で見られ、イグネアは大いに怯んで後退りした。性格はそれぞれ三者三様ではあるが、どうやらプライドの同じ箇所に、しかも著しく障ったようで、珍しく息もピッタリ、声を揃えて言いやがった。
「はうっ、そ、そういう意味では……」
 なぜこんな展開になっているのだろうか。というか、なぜ責められなきゃならんのだろうか。いや確かにこの三人が揃えば敵なしといった感じもするが、そもそもお前らこそ人の言葉の意味を理解しろと言ってやりたい。
 とにかく何を言っても聞き入れてもらえず、結局イグネアの同行は認められなかったのである。

 そんな状況下でも、時間というものは否応がなしに進んでゆくわけで。
 何か腑に落ちない感じがして溜め息を零しながらも、しっかりとおやつの用意をし、イグネアはもそもそと地下へ運んでいた。
「おやつ持って来ましたよ」
 研究室の前で立ち止まり、声をかけるも、すぐに扉は開かなかった。何やらぼそぼそと話し声が聞こえるが……オンブルの他に誰かいるのだろうか。
「開けますよー」
 いつまで経ってもオンブルが出てくる様子がないため、一応一言断ってから扉を開けると、室内にはリーフがおり、何やら話をしている最中のようだった。
 イグネアが顔を見せると、それまで続いていたはずの会話はピタリと止まり、妙な沈黙が流れた。何かまずいことでもしでかしただろうか……とおろおろしていると。
「丁度良い」
 何やら意味ありげに、リーフが口端を吊り上げた。
「外せ」
 何のことやらとイグネアは首を傾げたが、顎をしゃくって合図したのはどうやらオンブルらしい。
「外せと言うが、ここは私の研究室だぞっ」
 案の定オンブルは大いに不満そうだったが、リーフにひと睨みされ、渋々従った。イグネアの手からおやつの乗ったトレイを受け取ると、ブツブツと文句を言いながら部屋から出て行ってしまった。何とも情けない。
 取り残されたイグネアはというと、初めて踏み入った研究室の様子よりも、異様な雰囲気を醸し出しているリーフに恐れを成し、若干挙動不審になっていた。雑然と散らかった室内で、リーフが一歩近づけばその分後退し、しかしその距離は徐々に狭まってくる。何となく掴まったら終わりのような気がしたため、あまり近付かれぬよう警戒していた。
「あ、あの……」
「お主、何故あのような事を言ったのだ」
 あのようなとは、言うまでもなく先程の「連れて行け」騒動のことだ。
「【紅蓮の魔女】とはいえ今は無力であると、己で解るはずだ。それでも同行したいと願うからには、何か特別な理由でもあるとしか思えぬ」
 傍らにあるテーブルにどっかりと腰掛け、リーフはイグネアの顔を見上げた。あそこまで頑なにしつこく願っていたのは、単なる解呪に対する執着か、それとも離れたくないと思う者がいるからか。
「さ、先ほども言ったように、(わし)とておぬしらが心配なのだ」
「儂等を侮るなと言ったであろう」
「だから、そう意味ではないっ」
「死なれると困る者でもおるのか」
「そうではなく、その……(わし)のせいで、カディールと闘わなければならないわけだし、それなのに、待っているだけというのは何というか……。それに、知らぬ間に誰かが傷を負ったり、最悪な状況に陥ったりしたら嫌なのだ」
 しどろもどろになりながら答え、イグネアは俯いた。
 誰かが特別だとかそういう事ではない。彼らが強いというのもわかるが、それでも相手は魔鳥と呼ばれる存在だ。特に本物はとても獰猛で恐ろしい。自分だってかつてそれを目の当たりにしたのだから、心配になるのも当然だろう。
「ならば……闘わなければ良いか?」
「は?」
 何のことやらと瞬くと、見上げて来る深緑の瞳と視線が合った。かと思えば、いきなり腰に腕を回され、思い切り引き寄せられた。
「ぎゃーっ! な、なな、何をするかっ!」
 がっちりと抱えられ、挙句胸に顔を埋められ、イグネアは青ざめつつ焦りに焦りまくった。「この変態め!」などと口走りつつあたふたと身もがいてみるも、意外にも強固な拘束は解けそうにない。
「……カディールの本物など見つかる保証は無い。ならばこの呪いごと運命を受け入れて、永遠に儂と共に生きるか?」
 引き離そうと躍起になっていたイグネアの手が、ふっと力失せる。
 その結末はいつでも頭にあった。確率は百分の一、万能の血を手に入れられる保証などどこにもないのだ。
 リーフはその瞳で巣を見て来て、それで疑いを強めたのだろう。ならばわざわざ危険を冒すより、その方が誰も傷付かなくて済むと、そう言いたいのだ。
「な、なにを弱気になっているのだ。おぬしらしくもない。必ず見つけると言っていたではないか」
 いつものリーフならば、どんな苦境でも(それこそ意地で)乗り越え、覆すはず。だから弱気になっている姿はどうにもやりづらい。とりあえずこの状況から逃れるべく、イグネアは適当な言葉を口にしてみたが、あまり効果はなかったらしい。 
「イグネア」
 名を呼ばれて視線を落とすと、深緑の瞳が嫌になるほどじっと見上げていた。どうしていいかわからずに顔を背けると、頬に触れられ、再び視線を合わせられた。さらに強く腰を引き寄せられ、体勢を崩して膝を折れば、否応がなしに顔が近づいてしまう。
 この状況はまさか――と青ざめたイグネアは、それ以上近づかぬようにと間近で必死に堪えていた。
「……何故そこで(りき)むのだ」
「おお、おおお、おぬしこそ、何する気だっ」
「何って、普通ならばここは慰める所だろう」
「な、なぐ?!」
「大体、お主は言い付けを守らぬばかりか、無防備過ぎなのだ」
「そ、それとこれとは関係ないではないかっ」
 すると、リーフがあからさまにムッとした。
「大ありだ。あやつ等に盗られるのは癪に障る。だからさっさと儂のものになってしまえ」
「ひいいいっ!」
 わけのわからない事を言われながらも再び迫られ、イグネアは頓狂な悲鳴を上げた。しかも、続く爆弾発言で大いに青ざめた。
「……全くうるさいのう。高がキスごときでうろたえおって」
「たかが?!  ごときっ?!」
「まさかお主、未だに夫婦間でしか許されぬとかいう、古臭い貞操観念でいるのか?」
 この頑なぶりはまさか、とは常々思っていたが……イグネアの蒼白の顔を見て確信し、リーフは頬を引きつらせた。全く一体何年前の観念でいるのかこの女は(ざっと千年前)。よくもまあこの堅い考えのまま生きて来られたものだとある意味感心してしまう。これは自分にとっても厄介だが、特にあの女好きのリヒトにはきついだろうな、と密かに同情してしまったではないか。
 一方イグネアは、蒼白になりつつ軽い眩暈を覚えていた。自分では普通だと思っていたのに……この考えは古臭いのか! と愕然としていた。
「まあ、ある意味わかり易くて良いか」
 要するに、手に入れたいならやる事やってしまえば良いのだ、と考えつつ、リーフはイグネアの顎を掴み、再度顔を近づけたが……背後にひょろっと長い姿を見つけ、思い切り眉間にしわを寄せた。
「……またお主か」
 げんなりしつつ溜め息を零すも、全く興味がないらしく、モルは研究室を眺めてきょろきょろしていた。確かに呼んだのは自分だが……本気で空気を読めと言ってやりたい。というか、一体いつの間に入室したのだろうか。
 はあ、と今一度溜め息を吐き、リーフは渋々イグネアを解放した。
「とにかく山へは連れて行かぬ。これ以上執着すると、今すぐ“続き”をしてやるぞ」
「ひええっ!」
 とんでもない脅し文句と共に深緑の瞳がぎろりと睨むと、イグネアは脱兎のごとき素早さでとりあえずモルの背後に隠れ、そしてあたふたしながら逃げて行った。
 そして交渉はまたしても失敗に終わったのである。





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